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作品名:死産の季節 作者:ぱんぷ亭

第2回   part-2
 この日のデモは慎一の予想を上回って大荒れに荒れた。青いヘルメットの波はアメリカ大使館前、左へ曲がれば首相官邸へ向かう地点でも機動隊と衝突した。もう隊列は学生も反戦もなかった。ただ同じ色のヘルメットを被った人間を見れば、その腕に取り付いていってスクラムを組み、機動隊に体当たりを繰り返し、その度に何十人かが持っていかれた。
 隊列がやっと図書館脇から解散地点である日比谷公園の中に入った時には、慎一の周りにはW地区反戦のメンバーは勿論、顔を見知っている者は誰もいない状態だった。
 旗竿部隊の人数も半数以下に減っており、慎一は旗持ちをしていた関口の事が気懸かりだった。そういえば先に着いているはずの寛子と友子の姿も見えない。隊列は公会堂の脇を一回りすると、たった今入ってきたばかりの入口で停止した。誰も彼もがもう一度衝突かるつもりなのである。
 スクラムを組み直すと、すぐさま隊列は続々と入ってくる他党派の間隙を縫って逆流していった。激しくホイッスルが鳴り、足並みを揃えて進む隊列の中から、感極まったように『突っ込むぞぉ!マルキを殺せ〜』と叫ぶ声がある。あれだけ多くの仲間を持っていかれたのだ。憎しみが隊列を支配し、血気にはやらない方がどうかしている。
 慎一は咽喉の乾きを覚えていた。ずっと声を出しっ放しで奥の方が焼け付きそうだ。口を覆っているタオルは、すっかり汗と唾液で濡れそぼっていて気持が悪い。湿気の多い蒸し暑さと激しいデモで、着ている衣服も汗びっしょりだ。ジャンパーの下の半袖シャツに至っては、まるで水を被ったようになっている。
 この頃になって、出発前に心配していた雨が落ちてきた。雨はすぐに本降りとなって、最後の突撃に向かう隊列の上に降り注いでくる。旗竿部隊を先頭に公園を出た隊列は、最後に衝突かった首相官邸へ通じる道を目指して進んで行った。公園に入ろうとしていた他党派の部隊が、その気迫に押されたかのように道路脇に隊列を寄せて、逆行する青ヘル部隊を見送っている。幾つかの小さなノンセクト部隊が、Uターンして青ヘル部隊に合流してくる。
 本隊は対向六車線の中央分離帯に沿って進み、旗竿部隊はその前で道路巾一杯に散開して進んでいった。雨に打たれながら進む隊列から、街路灯に照らされて白い湯気が立ち昇っている。慎一にはそれが自分たちの怒りの炎に見えた。次々に擦れ違う他党派や全共闘から『異議な〜し!』『頑張れ!』と声が飛ぶ。もちろん無視して通り過ぎていく党派の隊列もある。
 おかしなもので理論的な細かい差異についてはよく判らないが、慎一が好感を持つ党派とは不思議に党派間でも仲がよく、三里塚や王子野戦病院など諸々の闘争でも行動を共にする機会が多い。それがまた戦友というわけでもないだろうがお互いを仲よくさせる原因にもなり、どちらかが遅れて会場に入っていっても拍手をしたり手を上げて挨拶するほどになっている。    
 いつだったか日比谷野外音楽堂で集会が行なわれた時、演壇上で発言内容を巡って赤ヘルとML派の旗竿部隊が、内ゲバを始めた事があった。演壇の上には自分たちの党派の隊列に相対する形で、旗持ちが溢れている。当然大混乱になった。
 ML派に加勢しようとする青ヘル部隊を、中央本部の本村たちが必死になって抑えていた。しかし赤ヘルに加勢して、白ヘルがML派に突っかかった時にはもう我慢出来ず、慎一たち青ヘルも乱闘に参加した。青ヘルと白ヘルは大部隊であり、旗持ちの数も多い。赤ヘルとML派は比較的数が少なかったから、いつの間にか青ヘルと白ヘルの内ゲバになってしまった。
 対抗意識旺盛な両派だけに消火器まで持ち出しての大騒ぎになったが、その頃は内ゲバといっても旗竿で叩くか素手であって殺意にはほど遠く、暗黙のルールに基いたデモに出発する前の、闘争意識をチアアップする儀式みたいなものだった。(もっとも多くの集会に参加しないある党派とは、次第にルールを無視した陰惨なゲバルトになりつつあったが…)
 近付いて来る青ヘルに気が付いた機動隊が交差点の所で後続のデモ隊を止め、こちらに向けて戦闘準備の為に走り回っているのが見える。緩やかな上り坂になっている道路に、たちまちジュラルミンの大盾で幾層もの壁が出来上がった。
 交差点へあと百五十メートルに迫った時、盾の合間から一斉に催涙弾が発射され、隊列の周りで煙を噴き出しながら飛び跳ねた。火薬の燃えるようなガスの臭気が一瞬にして隊列を襲い、折悪しくほとんど風が吹いていないので、煙の為に視界が極端に悪くなってきた。眼には開けていられないほどの激痛が走り、幾ら涙を流しても痛みは去らない。
やむを得ず隊列は阻止線に衝突かる遥か手前で散開し、敷石を剥がして投石を開始した。休む事なく打ち込まれる催涙弾が呼吸すら困難にしている。公園から石を運んでくる者、敷石を砕く者がいて、慎一たちはそこに群がり石を手にしては投げた。
「現在、君たちの行なっている行為は東京都公安条例に違反しています。ただちに違法行為をやめて解散しなさい」
 発射音や喚声に混じってひときわカン高い声が指揮車のスピーカーから流れ、そのボルテージが段々と上がっていく。その高い声が妙に勘にさわり、逆に闘争意識を高揚させるのは皮肉なものだった。
 あちこちで倒れている人間の多くは、催涙弾の直撃を受けた者たちである。彼らは救対や近くの仲間によって、とりあえず安全と思われる公園内に、次々と運び込まれていった。
まるで雨の降る濃霧の中で闘っているような状態で、前方に霞む人影が敵か味方か判別するのすら容易ではない。辺りは騒然とした空気に包まれ、ひっきりなしにガシャン、ガシャンと、大盾に石の当たる音が聞こえてくる。慎一は微かに光を投げかけている赤い警告灯や、サーチライトを目がけて投石を続けていた。
突如ボリュームを上げたスピーカーから『青ヘル全員逮捕!』とヒステリックな声がかかった。と同時に『ウォー』という獣じみた喚声が湧き起こった。乱れた長靴の響きとガシャガシャと大盾の当たる音が前方から近付き、やがてサーチライトを遮る機動隊員の影が、無数の巨人となって慎一たちに襲いかかってきた。
散開していた部隊は一斉に退却し、公園に逃げ込んだ。既に中で総括集会を始めている他党派を刺激しない為か、さすがに機動隊も公園の中まで追っては来なかった。暗い公園に駆け込んだ慎一は公会堂の階段脇を一気に走り抜け、念の為に機動隊員の姿が見えないのを確認してから、口を覆っていたタオルを下げた。
 微かに風が吹いてきたせいか、あれほど凄かった催涙ガスの臭いが、公園の中にはまったく漂っていない。濡れた青葉の匂いを含んだ空気を、慎一は何度も何度も吸い込んだ。こうなると顔を打つ雨までが心地いい。 慎一は立ちつくし、暗い空を見上げて、キラキラと輝きながら落ちてくる雨を、全身で受け止めていた。
「噴水前に集まれという指示が出てるわよ」
 慎一が我に返って振り向くと、渋沢友子が傍らに立っていた。
「寛子はどうした?」
「大丈夫よ。かなり前に着いて公会堂の階段に座らせといたけど、今は皆のところへ行ってるわ。あなたも早く行きなさいよ」
 そう言い残すと友子は同じ指示を与える為に、少し離れた場所に固まっている青ヘルの方へ歩いて行った。
その後ろ姿を見送った慎一は、背負っていたナップザックを外して手に持ちかえた。伝わってくる重さで、中の着替えがすっかり濡れているのが判る。
(せっかく買ったレインコートも意味がなかったな。着替えもパーだし寛子の体調も心配だ。今日は家へ帰るとするか…)
慎一はナップザックを手に下げたまま噴水の方へと歩き始めた。背後が騒がしく催涙弾の発射音がするのをみると、青ヘルの闘いに触発されたノンセクトか他党派が、いまだに闘争を継続しているのかも知れない。
 丸い噴水の周りはちょっとした広場になっており、昼休みともなればたくさんの社員が憩いの一時を過ごし、夜は夜で恋を語らうアベックで賑わうのだろう。しかし今夜はそんな彼らの姿はなく、噴水を中心にして半円状に、学生部隊と反戦が雑然と座り込んでいた。
 噴水の縁に立った中央本部の辻が、ハンドスピーカーを手に総括を叫んでいる。慎一がゆっくり座っている集団の外周を歩いていくと、前の方で旗竿を持った男が立ち上がり、一生懸命手招きをしているのが眼に入った。関口である。
 座っている連中を縫うようにして近付いていくと、傍らに寛子の顔も見えた。彼女は身体が濡れないようレインコートを着ていた。
「海原、お前よう無事やったなぁ」
 顔一杯に笑みを浮かべて、関口は本当に嬉しそうだ。
「何を言ってんだ。そういうお前こそ旗持ちのくせに、よく逮捕されなかったな。きっと悪運が強いんだ。顔に出てるもんな」
「人が心配してやっとるのに、こいつ無茶苦茶言いよるわ」
 関口は慎一が無事だったのを心底喜んでいた。慎一もそれが嬉しかった。関口の脇にしゃがんで寛子の方を見ると、彼女は俯いて総括を聞いている。その横顔に血の気が戻っているので慎一は安心した。
「でも何で全学連のヘルメットなんか被っとるんじゃ?」
 慎一は交差点で起こった経緯を関口に説明した。寛子だけでなく周囲に座る何人かも、慎一の話を興味深そうに聞いていた。
今はもう霧雨に変ってしまった雨が、座り込んでいる者たちの間を舞っている。疲労のせいかあまり私語の聞こえない間を、ハンドマイクから流れる辻の声が流れていく。
<であるからして〜、我々の〜、総力を結集して〜、七〇年安保を〜、粉砕していかなければ〜、ならないと〜、考えま〜す。わが〜プロレタリア統一戦線は〜…>
 その時バタバタと大勢の駆けて来る足音がし、皆は顔を上げて公会堂の方へ眼をやった。暗闇の中から無数のヘルメットを被った人間が湧き出てきて、慎一たちの周りを駆け抜けていく。
 集会は中断した。どうやらしつこい投石に業を煮やした機動隊が、ついに公園内にまで侵入して来たらしい。催涙弾の発射音がじょじょに近付いてくる。辻は大声で各地区、各大学ごとに散開するよう指示した。
(確かにそうだ。こんなところでパクられるのは意味がない)
慎一たちも大急ぎで霞が関方向へ走り、走りながらヘルメットを脱ぎ、旗を捲いた。地域反戦のメンバーは一塊になって公園を出ると、すぐ脇にあった地下鉄の入口を駆け下り、切符を買って地下鉄H線のホームに出た。一目でデモ帰りと判る連中があちこちに屯して、点呼を取ったりしながら電車を待っている。
(何処の連中かな?)
何となく向こうも気にしているようだが、お互いにヘルメットを取っているので、何処の党派か見当も付かない。そのうちにけたたましい金属音と共に、ステンレス製の車体がホームに滑り込んできた。
 乗り込んだ電車が走り出すのを確認して、慎一はホッと一息吐いた。
(これで今日のところは、パクられる心配はなくなったってわけだ…)
 少し気持に余裕が出てきたので辺りを見回すと、乗客の眼が慎一たちに注がれているのに気が付いた。無理もない、全員が髪の毛から滴を垂らすほどずぶ濡れの集団なのだ。
 乗客は慎一たちと眼が会うとそのほとんどが慌てて視線を逸らせ、だらしない格好で座っている背広姿の酔客だけが、露骨に侮蔑と興味の入り混じった視線を投げ付けてくる。
(こんな連中が俺たちの待ち望む革命の本隊なんかであるものか!)
 慎一は不意にそう思った。
(そうだ。少なくとも今は味方じゃない)
「あれ?一人足りないんとちゃうか」
関口の声がしたので慎一もメンバーを数えると、確かに明治公園に集まった時よりも一人少ない。もう一度仲間を見回してみると山下がいなかった。
「山下はどうしたんだ。パクられたのか?」
 お互いに顔を見合わせている中で、寛子に手を貸していた渋沢友子が言った。
「あら、公会堂の横で海原さんに噴水前に行くように言ったすぐ後で、一人で歩いていた山下さんに会ったわよ」
「じゃ大丈夫やろ。噴水のところへ来る前に追い散らされたのかも知れへんで。まぁ、一応ワシが明日連絡を取ってみるわ」
関口の提案に誰も異存はなかった…。

 N駅の改札口を出たのは、慎一と寛子の二人だけだった。反戦の事務所へ向う路線バスは既に終わっており、私鉄に乗り換えて帰る関口から、二人はヘルメットの入った袋と旗を預かった。
 他のメンバーも電車を乗り継いで帰って行くのだ。二人は黙々と家を目指して歩いた。酔客が徘徊する飲食街を抜け、イルミネーションの消えた薄暗い商店街を過ぎると人影は絶え、時たま車がヘッドライトに生垣やブロック塀を浮かび上がらせて、二人を追い越していくだけだった。
 家へ帰り着いた二人は急いで衣服を着替えた。特に慎一の服は濡れきって催涙ガスと汗が浸み込み、言いようのない異臭を放っている。つまむようにして脱いだ服を洗濯機に放り込んだ慎一は、寛子にすぐに風呂に入るよう促した。湯沸器に火を入れ、湯が溜った頃を見計らって寛子は浴室へ消えた。
(寛子が出るまで二階で待つか)
 慎一は二階の部屋に入るとゴロンと仰向けになり、思い切り四肢を伸ばした。身体の節々が軋むように痛い。髪の毛はベトベトで、顔も催涙ガスを浴びたせいかピリピリと痛みが走る。
(もう何日もしないうちに、俺は権力の真っ只中に突っ込むんだな。そうなったらほとんど確実にパクられるだろう。いや、状況によっては死ぬ事だってあるかも知れない)
 恐怖は確かにあった。今まで経験してきたどの闘争とも違って、どんな状況でどんな事態が起こるのか、まるで見当も付かなかった。それほど新左翼は(少なくとも慎一たちの党派は)本気で闘争を準備していた。
(誰も何が起こるのか判っちゃいない。判ってるのは俺たちはとことん闘うって事だけだ)
 何か世の中が動いているような気はする。しかし自分たちが死を賭して闘ったところで、変わるのは自分たちの運命だけであって、世の中が万に一つも変わるとは思えなかった。それでもある晩、辻が慎一の家を訪れ『突撃隊になってくれないか』と言われたのを断れなかった。
 もっともらしい理由を捜して断る事も出来ただろうが、頭の中でそんな理由をあれこれと思い巡らすのが煩わしかった。それにどんな形であれ、自分の信念に殉じればよいと単純に思ってもいた。
 だが考えてみると自分の信念と引き換えに得るものは、死ぬほどに単調な長い長い囚われの時間であるかも知れないのである。
その長い囚われの時間の中で自分の信念が揺らがず、後悔もしないという確信はまるでなかった。
(権力には時間さえも味方している)
 慎一は床の上で寝返りをうった。開け放した部屋の扉から、寛子の微かに湯を浴びる音が聞こえてくる。(寛子。俺はお前に惚れてる。お前だって日頃の俺を見てれば、そんな事はとっくに判ってるはずだ。だからといってそいつを今は口に出せない。突撃隊として闘いの中でどうなっちまうか判らない俺が、そいつを口にした途端に二人の関係が変わっちまうからだ。もし俺がそれを口にすれば、気まずくなった雰囲気に包まれながらも、お前は諾と答えるだろう。そんな否と言えない状況で、寛子に答えを求めるのは卑怯だ)
 慎一の心の中でいつも繰り返されてきた問題だった。闘争が激化し、否応なく段々と大きな波に乗ってくるにしたがって、寛子を巡る煩悶もまた大きくなってきていた。
(俺の心も身体もお前を求めてる。そいつだけは確かだ。しかし、仮にお前が俺に好意を抱いていたとしても、こういう切波詰まった状況で答えを出させたくない。もっとこう…何ていうか誰にも邪魔をされない、そう闘争にもだ。そんな時が来たら…。いやいやそんな時が来るわけがない。だから、せめて六月決戦が終ってから…)
 感情が激してきたのか慎一は息苦しくなって、思わず上半身を起こすと煙草に火を点けた…。

 しばらくして階下から『もう入れるわ』と、寛子の呼ぶ声が聞こえてきた。二階へ上がってきた寛子と入れ違いに階段を下りた慎一は、急いで衣服を脱ぐと浴室に入った。
 べとつく髪と身体を入念に洗って浴槽に浸かると、両肘に沁みるような痛みが走った。見ると衝突かった時に出来たのか、かなり大きな擦り傷がある。それだけでなく向こう脛と膝にも青い皮下出血が認められた。
「まいったな…」
 口を突いて出た独り言に、慎一は思わず苦笑いを浮かべた…。

風呂を出て二階へ上ると机に立てた手鏡に向かって、寛子が髪をドライヤーで乾かしていた。ピンク地で何か動物の絵柄の可愛いパジャマを着ている。傍らに座った慎一が煙草に火を点けていると、ヘアブラシで髪を梳く手を休めずに寛子が呟いた。
「身体が弱いっていうのは一つの罪悪ね」
 言おうとしている意味は理解出来たが、あえて気付かないふりをして慎一は何故か尋ねた。
「だって自分の意志とは関係なく、身体がいう事を聞いてくれないっていうのは凄く辛い。皆と同じ事が出来ないっていうだけで、自分の意志も言葉も弱められてしまうような気がする」
 よほど今日の出来事がくやしかったのだろう、膝に落したヘアブラシを両手で握り締めている。
「六月に入ってから山場続きだからな。寛子に限らず俺だって体力の限界に近付いてるよ」
 実際にデモ、情宜活動、会議、ビラ作り、ステッカー貼りと、皆が寝る聞も惜しんで動いている。
「でも権力と戦う前に私みたいなのは、まず自分自身の身体と戦わなければいけないのよ。私ね、自分の甘えた育ちを恨む事があるの。何故もっと早く自立出来ていなかったのかと…」
 確かに昔はお手伝いさんが二人いたという寛子の家は、慎一からみればかなり裕福な家庭に見えた。Mヶ丘にある寛子の自宅もそれなりに大きい。だから寛子と兄の二人が二人とも、新左翼運動に入ったというのが驚きでもあり、またそんなものかも知れないとも思えた。実際小中学校の校長といった教育者、あるいは資産家の息子や娘で、新左翼運動に身を投じているものは意外なほど多い。
 寛子が慎一の家で暮らすようになったのは、ある日の地区反戦の会議後の雑談がきっかけだった。自宅の甘えた環境から自立したいと考えていた寛子が、ほとんど事務所に寝泊りしていて(連日の半ビラ作りを考えれば無理もないのだが)自分のアパートに帰らない関口に、私が家賃を払うからその部屋に住まわせてくれないかと言い出したのである。
「荷物さえ置いといてくれたらワシは構へんで。それに家賃の事だったら少しは蓄えもあるよって、寛子が心配せんでもええわ」
 吸い込んだいこいの煙を吐き出しながら、関口が笑顔で答える。
「ううん、それじゃ私の気がすまないわ。せめて半分でも私に払わせて」
「そやなぁ…」
 二人のやり取りを聞きながら、慎一は何度も行った事のある、関口のアパートを思い浮かべた。O駅から十五分近く歩く彼のアパートは、昼間はそうでもないが夜ともなると真っ暗で、人通りもぱったり絶えてしまう場所にあった。
(会議や闘争で夜遅く帰る事の多い寛子に、とてもあんな道を一人歩きなどさせられない)
「だったら俺の家に来いよ。ずっと病気療養に行ってて一階のお袋の部屋が空いてるから、その部屋を寛子が使えばいい。駅から関口のアパートまで、女が夜一人で歩くには危な過ぎる」
 突然二人の会話に割って入った慎一の剣幕に、寛子も関口もちょっと驚いたようだった。惚れている寛子を危ない目に合わせたくないという、切羽詰った気持ちが強い言葉となって出てしまったらしい。
「そうやな。確かに海原の言う通り、夜になって女が一人で歩くのは危ないかも知れへんな」
「俺のところだったら、幾ら遅くなっても一緒に帰れるから安全だ」
「ほならそうしぃ。寛子がどうしても家を出たいんやったら、海原のところに住んだらええがな」
「うん…」
 寛子は思いがけなく素直に頷いた。周りで話を聞いていた地域反戦の連中から、お前が一番危ないと揶揄するような言葉が出る事もなく、渋沢友子も安本博子も笑顔で頷いている。
 寛子が荷物を運び出す当日、慎一は寛子の自宅まで赴いた。何処の誰とも判らない相手に、娘を預けるのは不安だろうと思ったからである。父親は出勤していて不在だったが母親にはちゃんと挨拶し、万一の時の為に自宅の住所や電話番号を書いたメモを手渡した。
 こうして寛子は慎一と住むようになったのだった。最初は一階と二階に分かれていたのだが、下の部屋を防盾に占有されてからは、寛子も二階で暮らすようになっている。
「高校に入って初めて友子から、桃は生でも食べられるんだって教えられたの。私の家ではいつも甘く煮て食べさせてくれてたから…私は高校に入るまでそんな事も知らなかった…」
 普段の寛子は会議でも闘争でも、戦闘的な部類に入るといっていい。そんな寛子が連日の疲労が蓄積していたとはいえ、自分の意識と体力のなさのギャップに直面しているのだ。思い悩む寛子の姿は、慎一にとって初めて見る一面だった。やがて伏せていた顔を上げて、寛子が慎一を見詰めてきた。その瞳が涙で潤んでいる。無理に笑みを浮かべようとしている寛子を、慎一は痛ましくて見ている事が出来なかった。
(今の俺には何もしてやる事が出来ない)
 慎一は無力感に襲われた。中途半端な慰めの言葉は、よけい寛子を傷付けてしまう事にしかならない。すぐ隣で顔を見詰め続けている、寛子の微かな息遣いが聞える。どうしたらいいか判らなくなった慎一は、やにわに身体を捻ると寛子を抱き締めた。
「うぅっ…うっ、うっ…」
寛子は慎一の胸に顔を埋め、堰を切ったように背中を震わせて泣いている。慎一は小さな肩を抱きながら、必死に自分と戦っていた。
(今ここでお前が欲しいと言えば、寛子は黙ってその通りにするだろう。でもそれはフェアじゃない)
 何故フェアじゃないのか、何故そんな事に固執するのか、慎一にもよく判らなかった。しかしそう思い続ける事で、ようやく彼は自分を保っていた…。

第 二 章

上のベッドで寛子の安らかな寝息が聞えている。つい直前の出来事が慎一には夢のように思えた。慎一が寛子と腕を組むのはデートではなくデモの時であり、その肩に腕を回せるのは『インターナショナル』を唄う時だけだった。それが寛子の体調にアクシデントがあったとはいえ、自分の愛している女を抱きしめてしまったのが、いまだに自分でも信じられなかった。
腕の中で震えていた寛子の肩の感触が、今でも鮮やかに残っている。二人の間には何も起らなかった。しかしそれでよかったと慎一は思い込む事にした。
(今は男でも女でもなく、共に戦う同志なのだ。戦いが終り平和な安らぎの時が来たら…)
 慎一の部屋は一人っ子であるにも関わらず、二段ベッドが作り付けになっている。家を建て直す時に、母が週に何日か泊まりに来る友人の為に、わざわざ二段ベッドにしてくれたのである。それが役に立っている。
慎一は明け方ほんの少しまどろんだだけだった…。

 身体が痛かった。寝た事によって昨日の闘争の疲労が倍加されたように、身体中に痛みを与えている。慎一は寛子を起さないように、注意しながら下のベッドから抜け出すと一階に下りていった。
 四畳半に続く引き戸を開けると、微かに勤いた部屋の空気に敏感に反応するようにレースのカーテンが揺れ、隙間を縫って入り込んだ朝の光に積み上げられた盾が浮かび上がっていた。盾は数日後に自分の運命を託す戦士たちを待つかのように、静かにそこにあった。異臭だと思っていたベニヤ板の臭いが、何故か今日は頼もしく感じられた。

 慎一は手早く顔を洗い、身支度をすませて静かに家を出た。時計の針が午前八時十五分を少し過ぎた頃である。寛子がアルバイトに行くか行かないかは、自分の体調をみて決めるだろう。
(それでいい。アルバイトの為に生きているんではなく、闘争の為にアルバイトをしてるんだから…)
 九時を少し過ぎた頃、慎一は事務所の扉を開けた。中では既に幾人かの所員が各々の机の前で作図の準備をしている。
 彼が席に着くのを待ち兼ねたように、中島久美子がコーヒーを運んできた。
「海原さん、昨日はボウリングセンターの確認申請が迫ってるので、皆かなり遅くまで仕事してたみたい。あなたが帰った後で、田中さんが相当怒ってたわよ。注意した方がいいわ」
 小声で一気に喋ると、久美子は足早やに自分の席へ戻っていった。
(いつもの事じゃないか。今更どうなるわけでもなし)
 慎一は昨日書上げたまま製図板に貼られているメイン階段の詳細図を外すと、新しいトレーシングペーパーを貼り付けた。
(階高が同じだから、段割りは昨日と同じでいけるな)
 もう一ヶ所サブとして設けられている階段の詳細図を、慎一は今日中に仕上げるつもりだった。図面を書き始めて間もなく田中が出社してきた。横を通り過ぎる時、何か言おうとする気配がしたが、慎一は無視した。図面書きに没頭している(少なくとも端からはそう見えるはずだ)彼を見て諦めたのか、田中は黙って自分の席に着いた。
 やがて半分も書き上げた頃だろうか、昼休みを告げるチャイムが所内に鳴り渡った。さっそく所員が集り、何を食べるか相談が始まった。
「おい。今日は何を食べに行く?」
「そうだな。久し振りに和食にでもするか」
 慎一は話に加わらずに図面を書いていた。やがて所員たちは固まって食事に出て行き、事務所には久美子と慎一の二人だけが残された。待ちかねたように久美子が慎一の傍へ寄って来る。
「何だい、昼食のお誘いかい?」
「違うわよ。私がいつもお弁当なのは、海原さんだって知ってるじゃない。もう少し朝の話を詳しくする為に来たのよ」
 彼女は慎一が帰った後の事務所の様子を語り始めた。それによると田中が『あいつは勝手ばかりして、チームワークというものを全然考えない』と言って、ひとしきりなじっていたそうである。そこへ所長室から田中を呼ぶ声が聞こえ、中で所長と田中が何事かひそひそと、声を忍ばせて相談を始めたと言う。
 様子を伺おうと久美子がお茶を持って所長室に入って行くと、慎一の名前が二人のロにのぼっており何か対策を練っていたらしい。
「所長か田中さんが何か言って来るかも知れないから、海原さんも用心してた方がいいわ」
 慎一は大きな闘争や集会のある時は、これまで何回も早退したり会社を休んだりしていた。特に六月に入ってからはそれが頻繁になっている。
 慎一にもそれはよく判っていた。ただ、今の彼に取っては事務所に毎日出社するよりも、闘争に加わる方が比較にならないくらい大切な事なのである。勿論事務所や所員から反感を買うのは覚悟の上だった。
(腐った世界が可能性は極めて少ないにせよ、変わるかどうかの瀬戸際なんだ。自分が歴史に始めて参加する決意をしてる時に、他人の思惑なんかに構っていられるものか)
 それが本音だった。反戦の活動に関わるようになってから、慎一は誰からもよく思われたいとは思わなくなっていた。慎一にとって意味不明な存在の人間というのは、文字通り意味をなさなくなっていた。慎一に見えるのは『敵』か『味方』か、更に言えば『味方になる可能性のある者』かだけである。
『味方』というのは自らの肉体の一部のような存在であり、『敵』とはただただ殲滅すべき存在でしかない。 したがって他の人と話をする時に慎一は、自分を指す言葉としてしばしば『我々』という言葉を使った。
お前は一人だろうと言われればその通りだが、一人であって一人ではないのである。
 慎一は何ケ月か前こんな経験をした。新宿でバッタリ中学時代、一番仲のよかった荒井に会ったのである。 二人は懐かしさのあまり小便横丁まで足を延ばし、今佐という店で酒を汲み交す事にした。回顧談にしばら
く花が咲いた後、自然と話題は大学闘争に移っていった。何故なら彼の通っているJ大でも全共闘が結成され、学費値上げ粉砕闘争の真っ最中だったからである。
何げなく運動の話をしていた慎一の言葉を荒井が突然遮った。
「さっきから不思議に思ってたんだが、何でお前、自分の事を俺たちとか我々とか複数形で話すんだ?お前はお前であって一人じゃないか。うちの大学の全共闘の連中も、二人で話をしてても我々と言うんだ。まるで数を頼んで話をされてるようで不愉快なんだよ」
 荒井がそういう疑問を持つのももっともだった。慎一も母や従兄弟と話している時に、同じような質問を何度かされた事があった。
「何で複数形を使うのかといえば、それは個人の言葉としては自信がなくて、我々と言ってるわけじゃないんだ。俺の同体として仲間が存在してるからなんだよ。いわゆる組織とか機構の歯車の一つとして、俺が存在しているんじゃない。あまり上手く言えないんだけれど、まず最初に組織ありじゃないんだ。不条理に抗して戦う人間が集まったのが便宜上、学生で言えば全共闘、労働者で言えば反戦青年委員会という組織になってるだけなんだ。だから俺にしてみれば、自分を我々と言うのにまったく抵抗がない」
 我ながらまずい説明だと思ったが酒に酔ったせいか、荒井は判ったような判らないような顔をしながらも頷いていた。
(無理もない。結局参加してみなければ誰にも実感出来はしないだろう。入って一緒に戦ってみればすぐに判るのだ。仲間の痛みが自分の痛みだというのを…)

 久美子の話を聞いてから慎一は遅い昼食を取りに出た。昼休みも半ばを過ぎていたので、近くの喫茶店に入ってコーヒー付きのサービスランチを注文する。税込み二万七千円の給料ではそう毎日、他の所員と同じ昼食を食べているわけにはいかなかった。自宅から通勤している新入所員の春日にしても、給料は慎一より低いので家に金を入れるどころか、学生時代のように助成して貰っているようだ。
それに慎一にしてみれば食費を削ってでも、闘争の為の行動費を捻出しなければならない。急いで昼食を終えて事務所に戻り、午後の作図の準備をしていると、案の上食事を終えた田中が近寄ってきた。ざわついていた所員たちも、昨日の所長と田中の密談を知っているので、一瞬好奇の視線が二人の周りに集まった。
「海原くん。仕事が終ったらちょっと話があるんで待っててくれないか」
 固い表情でそれだけ言うと、田中は返事を避けるように急ぎ足で所長室へ入ってしまった。息を呑んで成行きを見守っていた所員たちは、期待をほぐらかされたような表情を浮べながら自分の机に向かい、与えられている作図作業に取りかかった。
 慎一が田中に呼び出されるのは今度が初めてではない。決して自らの手を汚そうとはしない尊大な所長の手足となって、所員たちのゴタゴタを収めるのが田中の主要な役目なのである。就業時間以外あまり残業をしない慎一は所内での異端児的存在と言ってよく、他の所員に悪影響を与える前に何とかレールの上を走らせようとする策動が何度か試みられていたが、これまでのところ何の効果も上げてはいなかった。
 しかし慎一がこうなったのは、反戦青年委員会に加盟してからではなかった…。

 慎一が入社して間もない頃だったから、今から二年ほど前の事である。この海外の建築界にも一定の知名度を持つ高名な事務所で、所長の気紛れから箱根に出来る国際会議場の設計コンペに参加する事になった。
細かい作業分担が組まれ、まだろくに図面の書けない慎一は建築模型の製作を命じられた。所長が書いたスケッチと他の所員が書き上げた図面にしたがって、慎一は黙々とたった一人で模型製作に取り組んだ。
 それはまず畳二枚ほどもある、等高線に沿って盛り上がった巨大な石膏の塊を、カッターやノミで削り取って道路や橋を造る作業から始められた。
 応募期限が迫ってくる中、予定より遅れて書き上がってきた図面を見ながら、誰もいなくなった事務所で慎一は独りコツコツと模型を造り続けた。カッターで簡単に切れるバルサという薄い木材を使って、二百分の一に縮尺した国際会議場の建築模型を作るのは、神経をすり減らすような細かい作業の連続だった。
切り抜いた窓には内側から透明な塩ビを貼り、屋外階段も段差に合わせたバルサ材を重ねて作る。屋上にあるドーム型の明り取りに見立てて、半分に切った仁丹をピンセットで貼ったりもする。提出期限に間に合わせる為に、最後は三日三晩不眠不休で作り上げたのである。
 ちょうどその日は月末だった。毎月二十五日に出るはずの給料が、三十日になっても出る気配すらない。ずっと事務所に泊り込みで外食を続けてきた慎一には、もう手持ちの金はなくなっていた。それでなくとも三万足らずの給料である。今日の昼食代も慎一にはなかった。
 疲れた身体を運んで、出社してきた所長に給料の前借り(支払日を過ぎても前借りと言うのだろうか?)をさせて欲しいと頼んだ時、所長は面倒くさそうに自分の財布から一万円札を一枚抜き出し、無造作に慎一に渡すと所長室へ消えた。ふと見えた彼の財布には、数十枚の一万円札が無造作に突っ込まれていた。
 徹夜の連続でやっと模型を作り上げた慎一に対する、ねぎらいの言葉も彼のロから出る事はなかった。
(やってられねえな)
 それ以来、慎一は必要以上に仕事をするのをやめてしまった…。

 田中が入った所長室の扉に向けて、机の上にある物をすべて投げ付けてやりたい衝動に慎一はかられた。
(くそっ。今日は反戦の集会がある日だっていうのに。まったく久美子の予想通りだ)
 気を落着ける為に煙草に火を点けて煙を深々と吸い込んだ慎一が、やっと気を取り直して製図板に向かおうとした時、慎一を呼ぶ中島久美子の声が所内に響き渡った。
「海原さ〜ん、外線から四番に電話がかかってま〜す」
 慎一は横の小机の隅に置かれている電話から受話器を取上げ、点滅している『4』と書かれたボタンを押した。耳に飛込んできたのは関口の声だった。
「どうした?」
「他にも電話をかけなあかんから、要点だけ言わせて貰うで」
 普通の連絡と違い、切っ端詰まった様子が伝わってくる。
「いったい何があったんだ?」
「あかん。山下がどうやらパクられたらしいのや。会社に電話かけても無断欠勤してるて言うし、アパートに行っても鍵がかかったままなんや。救対の渋川が部屋の鍵を預かってると思うんやが、彼女もアルバイトに出てるらしくて捉まらへんねん。そやから今日の集会までに何とか渋川を捜して、地域反戦の連中でガサ対(ガサ入れ対策の略。警察の家宅捜索以前に、証拠になりそうな住所録や日記、メモ等を移動させる事)をせなあかんのや。お前は山下のアパートを知っとるか?」
「あぁ。一度行った事がある」
「ほなら話は早い。仕事が終り次第至急来てんか」
 周りの所員に聞かれないよう、慎一は一段声を落して答えた。
「運悪く今日は副所長に呼び出しを食ってるんだ。しかし何とか少しでも早く行けるようにしてみる」
「わかった。先に行っとるから山下の部屋で会おうで」
 そそくさと電話は切れた。受話器をゆっくりと戻しながら慎一は、昨日の集会で話しかけてきた時の、山下の心細そうな表情を思い出した。ともあれ三日経って弁護士の接見があるまで、彼が何処の警察署に拘留されているか調べる術はない。
(確かあいつがパクられるのは初めてだったな。だったら万が一にも夜のガサ対までに、山下の名前や住所が割れる事はないだろう…)
 反戦青年委員会に加盟しているすべてのメンバーは、弾圧対策用の名簿カードを救対に提出していた。住所、氏名、電話番号、勤務先、緊急の連絡先、自宅の見取図、闘争関係のメモや住所録といった重要書類は部屋の何処に置いてあるかまで、その見取図には書込まれている。
 勿論その名簿カードは最重要書類である為に、救援対策のメンバーが一括して極秘裏に管理しており、他のメンバーにもその所在は知らされていない。W地域反戦でいえば、渋川友子がその任に当たっていた。
(友子と早く連絡が取れればいいが…)
 急に時の経つのが遅くなったような錯覚に慎一は襲われた…。

 眼の前に田中の顔がある。事務所を引っ張り出された慎一が連れて行かれたのほ、歌舞伎町にある『六花』という喫茶店だった。いかにもキャバレー好きの田中らしく、入口に立つドアガールも店内で働くウエイトレスも、全員がテニスルック風の極端に短いミニスカートを身に纏っている。
 椅子に腰を下ろした瞬間から、田中の熱弁が飽く事なく続いていた。
「…だから建築設計というのは共同作業なんだよ。一人でもその足並みが乱れたら、どんな立派な作品も産み出せなくなってしまう。海原君だってそのくらいは判るだろ?」
 慎一は黙って聞き流していた。反論するのは簡単だったが、話がこじれて長引くのだけは避けなければならない。ともかく田中の話を少しでも早く終らせて、山下のアパートヘ駆け付ける事しか考えていなかった。
「海原君。君も建築家になるつもりなら、皆が仕事をやっている時には、その先頭に立ってやるくらいの気構えを持って欲しいんだ。僕の若い頃は作品を仕上げる為には、残業や徹夜が何日続いても苦にならなかったもんだ。むしろ仕事をやっているのが楽しくて仕方がなかったよ。それに…」
 店内にはドアーズの曲が流れている。手付かずのまま冷めてしまったコーヒーを前に、慎一はその曲を聞いていた。もっとも話でなく曲を聞いていると判れば、田中は烈火のごとく怒ったに違いない。
 しばらく経っていつものように反論して来ない事に気分をよくしたのか、田中は話に一区切り付けると慎一の肩をボンと叩き、軽く飲みに行こうと言って立ち上がった。
 喫茶店を出てコマ劇場の裏を歩いている途中で、慎一は急に用を思い出したふりをして田中と別れた。せっかくのいい気分に水を差されて渋い顔をしている田中を残し、慎一は西武新宿駅の近くでタクシーに乗った。車が走り出した時には既に田中の事は、慎一の頭から綺麗に消え去っていた…。

G駅の近くでタクシーを降りた慎一は、山下のアパートに向かって急ぎ足で歩いた。まだ七時を回ったばかりだというのに、駅からほんの少し離れただけの住宅街で、すれ違う人はほとんどいない。
 やがて山下のアパートに至る細い路地の近くまで来ると、曲がり角に人影が一つ見え隠れしていた。近付くにつれてはっきりしてきた人影の主は、最近あまり闘争に出て来なくなっている三咲圭路だった。今までの例からいって、警察のガサ入れは早朝行われるのが常だが、万が一の為に三咲が見張りとして立っているのだろう。
「久し振りじゃないか。皆はもう来てるのか?」
「あぁ。もうそろそろ運び出す手筈が整う頃だ」
 慎一は路地の奥に入った。山下の部屋はモルタルニ階建ての長屋風建物が、数軒建ち並んでいる中の一番奥の建物だった。アパートの玄関口に立つと、天井から下る裸電球に照らされて、様々な形をしたサンダル
や靴が雑然と転がっていた。右手には暗褐色に塗られた下足箱が並び、その扉の一つに『山下』とようやく読めるほどに色褪せた紙が貼り付いている。
 靴を脱いだ慎一はギシギシと軋む音のする階段を上がり、廊下に出されている洗濯機や子供の玩具を縫うようにして奥へ進んだ。突き当たりが山下の部屋である。中から複数の人間が動き回る気配がしている。
 慎一が声をかけると勢いよく扉が開かれた。覗き込むと六畳一間で扉の横に小さな流し台があるだけの部屋に、関口を始めとして五、六人の男女が動き廻っていた。扉を開けてくれたのは寛子である。
「どうだ。名簿通りのところにヤバイ物はあったか?」
「うん。だいたい名簿に書いてあった場所に置いてあったから、持って来たダンボール箱に詰めたところなんだけど、念の為に他にもないか調べてるの。手帳とか住所録なんかが、机の引出しの中に入ってたから」
 その時、本棚を調べていた関口が振り返った。
「おい海原。押入れの天井裏を調べてくれへんか」
 言われた慎一が押入れの中に入って天井坂をめくってみたが、薄く埃がつもっているだけで物が置かれていたような形跡はなかった。
(まるで俺たちがガサ入れに来てるみたいだな)
 押入れの中段に腰を下ろして見ていると、動いている人間の服装が異なるだけで、やっている事は警察と同じである。しかしそんな冗談を言ったところで誰も笑いはしないだろう。明日は自分がガサ対策をして貰う立場になるかも知れないのだ。
 結局、本文中に線の引いてある理論本までひっくるめて、ダンボール箱に三つほどの荷物を運び出す事になった。箱を担いだ人間を取囲むようにして山下の部屋を出た慎一たちは、見張りをしていた三咲を含め三台のタクシーに分乗した。一台のタクシーに一つのダンボール箱と数人が乗り、次のタクシーに乗る時間を五分以上ずらして(通るタクシーが少ない事もあるが)、慎一たちは細心の注意を払って行勤した。
 行き先はとりあえず夕方から行われている、W地区反戦の集会場である。最後の三台目に慎一と寛子、そして三咲の三人が乗った。
「K通り沿いにあるT神社までお願いします」
T神社の集会室は、W地区反戦青年委員会の会議や集会によく利用されていた。鳥居を潜ると正面に本殿があり、左手には神楽殿があった。その奥にある社務所の二階で、今日の集会は行われている。
 三人が二階の集会室に入ると、先発した関口たちは無事に到着しており、部屋の隅に段ボール箱は置かれていた。段ボール箱は全部で七つあり、産別反戦の誰かも昨日の闘争で逮捕された事を物語っていた。
 六月の第一週にここで集会を開いた時には六十余名いた同志が、既に十数名が逮捕されたり負傷したりで、出席しているのは五十名に満たなかった。
 会議はコの字形に並べられた座卓の、中央に座っているW地区反戦専従の山城が、司会を務めているようだった。しかし今は六月決戦の真っ只中であり、今更反戦として方針討論や決意表明をしている様子もない。
ここに集っているのは、もう戦い抜く決意をしてしまった者たちばかりだからである。
「えぇ〜、やっと全員が揃ったので、めでたく洒にあり付けるわけであります」
 おどけた山城の言葉にドッと笑い声が起こった。座っている全員が、自分を束縛してきたものを断ち切ったように、穏やかで爽やかな表情をしている。確かに見慣れた仲間が歯が欠けたようにいないのは寂しいが、彼らとは物理的に離れているだけでいつも隣にいるようなものだった。
 社務所で貸してくれた湯呑茶碗が配られ、用意してあった一升瓶が出され、ピーナッツや柿の種がテーブルの上に置かれた。洒が注ぎ終るのを見計らって、山城が湯呑を持ってロを開いた。
「六月安保決戦を全国各地区に於る労学共闘の戦いを基盤とし、中央決戦をもその最先頭に立って戦い抜いている我々は、諸党派がカンパニア闘争へと雪崩れ込んでいく中で、最後まで断固として安保粉砕政府打倒の戦いを貫き通して行きたいと考えます」
 歓声と『異議なし』の声が室内に響き渡る。
「現在まで多くの同志が逮捕され、獄中に於て拷問に近い取調べにも、完全黙秘で戦い抜いています。特に明後日から獄中の同志は我々の戦いに呼応して、四十八時間のハンストに入る決意をしております。我々はこうした獄中の同志たちの意志をも自らの意志として担い、断固戦い抜いていこうではありませんか。それでは六月訣戦の勝利の為に、乾杯!」
 乾杯が終り、ひとしきり洒が行き渡ったところで、山城が言葉を続けた。
「同志諸君も薄々知ってる人がいると思いますが、明後日の我が党派としての一大決戦に、反戦本隊とは別に突撃隊が編成されています」
ある程度は秘密にされていたのか、知らなかった者が傍らの仲間に聞いている。
「この突撃隊には各地区反戦から数名ずつが参加していますが、我がW地区反戦から突撃隊となる仲間を改めて紹介させて貰います」
 山城から名前を呼ばれた一人一人が、簡単な決意表明を始めた。W地区反戦からは産別が三名、地域からは関口と海原の計五名が、突撃隊として本隊とは別行動を取る事になっていた。
 産別三名の挨拶が終わって、次に関口が紹介された。
「今までワシらはお互いの二十四時間を問題にしてきたと思うとる。そうした中で諸個人の持っとる問題意識を六月決戦に向け、更には将来に向けて共有化してきたんやと思う。そやからワシは突撃隊として、敵権力の真っ只中に突撃していけるんや。ワシの戦いはワシの二十四時間を共有しとる、ここに結集した同志全員の戦いであり、同志たちの戦いはワシの戦いでもあると思う。W地区反戦からはワシら五名がまさに突撃隊となって、全員逮捕を覚悟して敵権力と渡り合うつもりや。その後はどうなるか判らへんが、とにかく最後まで前に進んで行きたいと思うとります」
 関口の言葉が切れると盛大な拍手が起こった。最後に残ったのは慎一である。慎一は手を叩きながら、ふと『散る桜、残る桜も散る桜』という句が脳裏に浮かんできた。
(確か何かで読んだ特攻隊の遺した言葉だったな)
 何の抵抗もなくこの言葉を思い出した事に、慎一自身が驚いた。
(やはり俺の中には、まだまだ浪花節的感情が残っているらしい。そういえば東大祭に『泣いてくれるなおっ母さん、背中のいちょうが泣いている。男東大何処へ行く』というのがあった…)
 いわゆる新左翼には思想的には正反対でも、任侠の世界にある悲壮美に憧がれる傾向があり、そうした自己犠牲的な感覚が慎一の中にもあるのを否めなかった。司会をしている山城にしても、よくオールナイトの高倉健や、藤純子のヤクザ映画を観に行っており、雑談でヤクザ映画が話題に上がったのも一度や二度ではない。思想的な面はどうあれ結果として自らを省みる事なく、自己を犠牲にしても『義』を貫こうとする映画の中のヤクザたちは、革命を目指す活動家たちの琴線を剌激してやまなかった。
「そして最後にもう一人、地域反戦から海原君が突撃隊として参加します」
 拍手をしながら関口が頷き、寛子は敬意と不安の入り混じった眼で慎一を見詰め、向いに座っている三咲は拍手もせず、撫然とした表情で酒をあおっている。
 慎一は手に持っている湯呑に視線を落した。中の酒に天井の電球が映り、ゆらゆらと揺れている。
(すべては陽炎なのかも知れない。現実もまたいつか消えゆく幻なのだ)
 慎一は顔を上げた。何かを言わなければならない。
「今の状況が何処まで革命に近付いているのか僕にはよく判りません。扉にまさに手をかけつつあるのか、まだその端所に立ったところなのか、またこれからどれだけ戦いが続いて行くのか、どれだけの血が流されていくのかも。いや、僕たちは永続革命を言い、永遠の彼岸にその理想像を想定している以上、権力を倒した後も革命は続いて行くんだと考えます。そういう意味で言えば、僕たちは永続革命の前段階として、権力を倒す為の正念場にさしかかっていると思います。僕は今回の一連の闘争を含めて敵よりもまず、一日だけ長生きする為に戦い抜いていきたいと考えます」
(本当にそうか?)
 慎一は自分の決意表明とは裏腹に、心の中に隙間が広がっていくのを押える事が出来なかった。むしろその隙間を隠蔽する為に、もっともらしい言葉を撒き散らしているだけなのかも知れない。
(俺たちが幾ら革命の先兵としての自覚を持ち、それこそ命を賭けて戦ったところで、いったい『革命の本隊』というのは何処にいるんだ?)

 十時を少し過ぎた頃、集会とういう名の飲み会は終わった。山城が集められた段ボール箱を車に積み込んで、何処へともなく運び去った。運ばれた先を知る必要はなかった。慎一たちに限らず搬送先を知る者が増えれば増えるほど、権力に見付かる確率も高くなるからである。
 産別反戦のメンバーは、各単産ごとにまとまって帰って行った。帰りがけに関口がもう少し飲もうと言い出し、慎一を含む地域反戦の主立った者がそれに同意した。
 懇意にしている店が近くにはなかった事もあって、皆はG駅に向ってブラブラ歩きながら、安そうな店を探し求めた。やがてG駅横のガード下に店を開いている、小さな焼鳥屋が見付かった。 
入口の引き違いになっているガラス戸の木枠は手垢で黒ずみ、ヒビの入った摺りガラスには桜型に切った
半紙が貼り付られている。
 あまりの汚さに慎一たちは一瞬たじろいだ。寛子と友子の二人などは、後ろの方で肩を寄せ合っている。
「大丈夫や。案外こういう店の方が美味いもんがあるんやで」
「おい、ここは大阪じゃないんだぜ。でもまぁ規格外の米を食ってる俺たちには、規格外の店が合ってるな」
 関口と慎一の会話が、何となくこの店に入るきっかけになったようである。
「ほなら開けるで」
 関口ががたつく戸を苦労して開けると、六坪くらいの店内が霞んで見えるほど、煙草と肉を焼く煙が充満していた。右手の剥げたニス塗りのカウンターには丸イスが並べられ、四人の汚れた作業服を着た男たちが座って声高に言葉を交していた。左手に幾つかのテーブル席があり、奥の一段高くなった場所に三枚畳が敷かれ、一応靴を脱いで上がれる座敷になっていた。
 壁にベタベタ貼られている品書きを見るとかなり値段が安い。慎一たちは安心して店内に入った。
「いらっしゃぁ〜い」
 カウンターで初老の男が、焼いている肉から眼を離さずに間の抜けた声を上げた。その声に追い立てられるように、カウンターに置かれたテレビを見ていた白い勝烹着の中年女が、ノロノロと立ち上がった。
 慎一たちは一番奥の座敷で飲む事にして靴を脱いだ。改めて席を見回すと、ここに来ているのは慎一を始めとして関口と三咲、新聞配達をしている栗田光と小学校教師の安本博子、そして友子と寛子の七名だった。
 安本博子は電柱に貼られたW反戦のポスターを見て、集会の行われている区民センターの集会室に、たった一人でやってきて地域反戦に加盟したのである。栗田も同じような経緯で地域反戦に入ってきていた。
「何を飲む?」
 傍に勝烹着の女が注文を急かせるように立っている。
「そうやなあ。生ビールもいいしサワーもええなあ…」
 その時、壁に貼られた『カクテル』と書かれた紙を見付けた寛子が、何のカクテルなのか女に訊いた。
「何が入ってるカクテルなのか秘密なんよ」
 そう言って意味ありげに笑う女の口元から数本の金歯が覗く。
「ねえちゃん。そいつはやたら強いから気を付けた方がいいぞ。後で腰が抜けて立てなくなっても知らんよ。おじさんを見てみろ、腰が立たないからずっと座って飲んでる」
 カウンターに座っていた男の一人が、寛子にもつれた舌を苦労して操りながら言った。寛子は友子や安本博子と一緒になって笑い転げている。顔を真っ赤に上気させた男は、更に何か面白い事を言って笑わそうとしていたが言葉にならず、そのうち連れの仲間に何か言われて渋々カウンターに向き直った。
 慎一たちはともかく生ビールと、焼鳥を人数分注文する事にした…。

 各々の職種は違っていても、いわゆる『過激派』と言われる反戦青年委員会に、自分の意志で加入してきている者たちである。酒が進むにつれて闘争の話になっていくのは当然といえば当然だった。ましてや今は正念場の六月なのだ。
「はっきり言ってワシは、闘争に加わっとるのが楽しくて仕方がないのや。確かにしんどい情況もあるけど、根底的にはやっぱり楽しんどるんや。ワシは一生戦い続けたいと思うとる。ただ十年後、二十年後も同じ言葉を言えるかどうか判らん。将来の確信はないが今の時点でははっきり言える。一生戦い続けると…」
 関口の熱っぽい語りに三咲を除いた皆は頷いていた。それはそうだろう。戦いの中では仲間を信じなければ戦う事は出来ない。戦いの中で培った団結という信頼関係は、お互いの職場や家庭に於る苦悩までも共有しようとしていた。そんな中にあって、三咲だけが黙ってビールを傾けている。
「戦いのギリギリの緊張感の中へ自分を追い込んで、なおかつ楽しいというか楽しんでいるというか、そういう部分って確かにあると思うわ。ただ昨日のように、体力的な限界を自分自身に突き付けられると、愕然として自己嫌悪に陥っちゃうけど…」
 寛子が途中で隊列を抜けたのを、デモに参加していた地域の連中はほとんど知っていた。
「人間の体力には個人差があって当たり前や。各々の考え方かて多かれ少なかれ違うもんや。そやから自分の能力の範囲内でベストを尽くす。それだけ考えておればええんとちゃうか」
 関口がそう言って寛子を慰めている時、グラスを置いた三咲がポツリと呟いた。
「体力や考え方に差があるのを認めるのなら、最近激発し始めている陰惨な内ゲバは何で起るんだ?」
「あいつらは味方やない。敵やで」
「それじゃ僕らはほんの少し前まで、敵とスクラムを組んでたわけか。だいたい敵なら内ゲバとは言わないぜ」
「あほう!仲間があいつらの為に、再起不能の怪我をさせられとるんじゃ。黙って放っておけるかい!」
 関口が激昂して叫んだ。三咲は落着いて相変わらずビールをロに運んでいる。慎一は二人の口論を聞いていた。最初の頃の内ゲバは、あまりひどいものではなかった。ただ民青のしかけてくる内ゲバは、表に現れる『歌と踊りの民青』的側面とは裏腹にかなり陰惨なものだった。肋骨や踵に五寸釘を打たれた奴もいると慎一も聞いた事がある。同じような陰惨な内ゲバが、新左翼同士の間でも起りつつあった。何故そうなってしまうのか、この席にいる誰もが(慎一を含めて)心の中で自問している問題でもあったのだろう、自然二人の討論の成り行きを見守る形になった。
「確かに同志が何人も傷付けられてきている。でもそれは革命を志向する者の宿命ではないのか?権力と戦い続けるという事は、これからも延々と続く同志の屍を乗越えて行かねばならないという事だ。勿論自分自身がその屍となる事も覚悟の上でだ。ここで関口が僕に対してゲバルトをしかけて来ないのは、認識としてまだ味方だと思っているからだと思う。何処までの意見の違いが敵と味方を分けるのか明確にならない限り、僕は現体制以外に武器を持つ気にならない」
「そやけどなぁ…」
 三咲は関口が話そうとするのを手で制した。
「もう少し言わせてくれ。世界中の歴史を見ても、いまだかつて単一の力に因って成し遂げられた革命や変革などないのだよ。いろいろな方法や方向性を持ったベクトルの総和として、革命とか変革は成功して来たのだ。自分たちの方法や方向性と異なる、あるいは多少障害となったとしても、共に権力打倒を掲げる以上、現実的な打倒に至るまで長い眼でみていくべきだ。相手を糾弾し追い詰めるのではなく、寛容にそのいいところを抱摂していかなければならない。そうしないで内ゲバという血塗られた歴史を書き続けていけば、本来の目的である権力打倒から遠く離れたところで泥沼に陥ってしまう。きっとそうなる。人民たちが離反し始めても自分たちで書き綴った血の歴史で、自分たちが身動き取れなくなる時がきっと来る。そうならない為にも党派はすべての面に於て、人民の納得出来る活動と論理性、そして寛容さを持ち続けていかなければならないのだ」
 全員が黙って聞いていた。酒を飲む者、煙草を吸う者、指を玩ぶ者、思い思いの格好で三咲の語る言葉に集中している。
「もっと乱暴な言い方をすれば、右だ左だと言っているけれど、所詮人間の思想なんてものは『メビウスの輪』みたいなもんじゃないかと思う。輪の上にある一点を現情況とすると、そこから左へ社会主義から共産主義へと進んで行く、右へも同じように資本主義から帝国主義へとどんどん進んで行く。と、ある一点で出会う事になる。そしてそこは全体主義、ファシズム体制であるだろう。しかもその地点は現情況の反対側、つまり影の部分なのだ。特に組織論的にはその通りだと思う。これは僕なりの結論なんだけれども、この『メビウスの輪』からどうすれば抜け出していけるのか。それは人間が『個』に戻る事だ。『類的存在』の中に埋没した『個』ではなく、自覚された『個』の集合身体としての『類』、何よりも『個』が優先されなければならない。『組織』としてではなく『個』として自立すべきだ。そしてその『個』が何が出来るのかを考えていくべきだと思う」
「その『メビウスの輪』ちゅうのんがよく判らへんなぁ」
 慎一にとってもそれは同じであった。ただ、別の意味で三咲に訊いてみたい事があった。
「一個の物体も見る位置によってまったく異なった形に見える事があるように、同じ事があらゆる事象に対して言えると思うけど…。その点で反戦に対するお前の意見を訊いてみたいんだが。お前最近あまり出て来なくなったからな」
 慎一の問いにグラスに残っていたビールを、一気に飲み干してから三咲は答えた。
「僕にしても最初からこんな考えを持ってたわけではないんだ。怒らないで聞いて欲しいんだが、皆といろんな闘争に参加していても、何処かに違和感があったんだ。これで本当に革命は出来るのか?僕にとっての革命とはいったい何なのか?そういう事を考えていくうちに、自分なりに判ってきたんだよ。人には各々適応したポジションがあるっていう事が。僕には皆みたいな正規軍的な闘争が出来なくなってきたんだ。たぶん反戦はもっとも良心的な革命の中枢、前衛になる資格があるんだろうと思う。だけど僕はその中で戦うよりも、更にその先を行きたいのだ」
 この場にいる誰もが、やっと三咲の言いたい事が判りかけてきた。
「お前の考え方はあまりにも一揆主義的だ」
「そうさ。僕は僕なりの方法で戦う。それを何主義と名付けて貰っても構わない。必要とあらば爆弾を持って自爆する事も辞さないつもりだ。何処かの党派のように、権力のより大きな弾圧を引き出したから勝利だなどと、その弾圧を跳ね返す力もないのに喚いている連中とは違う。やる以上は徹底的にやる。具体的に敵権力の一角を突き崩す戦いを…」
 熱っぽく語る三咲の頬は紅潮していた。慎一は三咲の言葉の中に、自分の心を突き動かす何かがあるのを感じていた。
(もしかしたら革命の本隊なんていないのかも知れない。理論としては存在していても、現実として日本では登場しないかも知れない。それならいっその事三咲と同じように…)
「かなり利己主義と言うか、自己満足的な戦い方だな」
 それまで黙っていた栗田光一が、不快感を露にした表情で言った。しかし三咲は笑みさえ浮べて頷いた。
「まったくその通り。だけど皆も社会的不条理を解消し、満足出来る世の中にする為に革命を志向しているはずだ。その意味では多かれ少なかれ自己満足的ではあると思うが…」
「一般論にすり返るんじゃないよ!」
 栗田がテーブルを叩いて叫んだ。グラスが踊り、ビールがテーブルの上にこぼれ落ちた。店内にいた客の眼が一瞬慎一たちに集まった。三咲は表情も変えずに話し続けている。
「もっと世界的視野を持って物事を観たらどうだ。僕と君の意見の違いなど全体から見れば、左翼の中のもっと一部での些細な事だ。大局的には君と僕は一緒なのだよ。たとえば君と僕がここで殴り合いをしても、権力には何のダメージも与えはしないのだ。繰り返して言うが個人個人の置かれた闘争環境や方法が違うだけで、そういった個々の革命へ向うエネルギー、言葉を変えれば個々のベクトルの総和が革命の原動力足り得るのだ。革命に絶対的方法などない。単一な力のみで戦えば、それが敗れた時には何も残らない。権力は有史以来もっとも完成された、合法的権力機構を持ってるんだ」
 三咲の言葉は栗田の抗議など寄せ付けず、淡々と流れていく。
「だからこそ総和としての力で権力に対決すれば、個的力量の限界を他が飲み込み、それを越える方法を見付け出し、戦いを継続していく事が出来るのだ。総領域からの戦いをと言う以上、もっとも諸個人の得意とする領域から戦いを開始すればいいのだ。もっとも組織として完成された権力機構には、生半かな組織で当っても敵うわけがない。圧倒的な未組織闘争機構が一番勝つ可能性が高いと僕は思う。中途半端な動物じゃ象は倒せないけど、勝手に動き回る無数の蟻だったらどうだ?かなりの蟻は踏み潰されるかも知れないが、残った蟻がついには象を倒すかも知れない」
「…………」
 誰もが無言だった。
「確かに僕は君たちの正規軍的な闘争をやり抜こうという姿勢には心から敬意を表するし、革命には絶対不可欠なものだと思う。だけど僕はもっと過激に戦いたいのだ。その戦いが激烈であればあるほど、僕は死を恐れる事はなくなる」
 三咲の言葉が終るのを待ち兼ねたように関口がロを開いた。
「だが個人の戦いが結果として、革命そのものに敵対する事もあり得るんとちゃうか?」
「確かにそういう事態も起り得るだろう。しかし組織として戦っても試行錯誤の連続、敗北の連続の中から、一歩一歩革命への階段を上がっていくはずだ。そういう連中を単なる跳ね返り分子としてではなく、その戦いの結果をも抱摂出来なければ、革命の前衛とは言えないんじゃないか」
「要するにお前は共産主義的ではなく、無政府主義的ではあるな」
「そうなんだ。僕は今どうしようもなくアナーキズムに魅かれている。政府が必要ないほど人民によって自己管理された社会、個人の尊厳がもっとも尊重される社会。僕はそういった社会建設の捨て石になりたいと思ってる」
 三咲の言葉を最後に静寂が続いた。方法は異なるにしろ、まだ見ぬ革命に命を賭ようとしている意味では皆同じであった。三咲は空になっていたグラスにビールを往ぎ、一息に飲み干すと立ち上った。
「気分をシラケさせてしまったようで悪いんだが、今日僕が来たのは地域反戦の仲間に別れを告げたかったからなんだ。決して挫折したり、消耗したりして消えていくんじゃない。やり方は違うけれども僕は僕なりに、今後も戦い続けるという決意を表明したかったんだ。特に親しかった海原と関口、それに寛子や友子、君たちにだけは僕の考えを知っておいて貰いたかった。それじゃ僕はこれで…」
 幾何かの金をテーブルの上に置くと、三咲は店を出て行った。気が付くと寛子と友子が、下を向いて押えた声で泣いているようだった。慎一には無理もないと思えた。浪人になって『W地区浪人会議』なる組織を、反戦で活動を始めるまでの僅かの期間とはいえ共に作り、共に反戦に入った仲間がたった今、去って行ったのである。
彼女たちの間に座っていた安本博子が、顔を覗き込むようにして小声で二人を慰めている。優しくすべてを包み込むような瞳を持つ彼女は、きっと生徒たちの人気者なのだろう。しかし彼女もまた教職員組合が日共系分会の為に、トロツキストのレッテルを貼られて、職員室では孤立しているのだった。
 慎一は残っていたビールを飲んだ。討論を聞いている間、手も付けられずに放置されていたそれは生温かく、苦味だけが口の中で広がっていった。慎一にとっても三咲の言ったような事を、考えないわけではなかった。いや、むしろ何度も自分自身が引き裂かれるような思いをしながら考えてきた。そしてようやく反戦に踏みとどまって戦う決意をしたのである。
 何故なら他党派の反戦青年委員会と違って、火を噴くような論争をしながらも互いを理解していくような包摂力が、慎一たち青ヘルの反戦にはあったからである。それともうーつ、本音を言えば寛子の存在が少なからず慎一を、反戦に踏みとどまらせる要因になっている事も否定出来なかった。
 討論の余韻と酔いが神経を剌激し、出口を求めて駆け巡り始めている。
「最近新聞は俺たち『暴力学生』や『暴徒』から民主主義を守れとか言ってるけど、自民党こそ反動法案を今まで幾つ強行採決してきたと思う?彼らの歴史こそ民主主義の破壊の歴史に他ならないじゃないか。そしてそんな連中を選挙の度に選んでいる人間が腐るほどいるんだよ。そんな連中が『人民の大海』なのかと思うと、実際情ねえな」
 一番近しかった三咲に去られた悔しさからか、言うまいと思っていた言葉がつい出てしまった。
「海原。それはちょっと言い過ぎだぞ」
 最後の一本を口にくわえ、煙草の包装紙を握り潰しながら栗田が呟く。その言い方が慎一の昂った神経に油を注ぐ形になった。
「いや、俺はまだ言い足りないと思ってるくらいだ。だいたい二十歳を過ぎたか過ぎないかくらいの俺たちに、権力のカラクリが見えているのに彼らには見えないんだからな。ひたずら自分の回りの小宇宙、空間のみを思い患い、生きて、死んでいくんだ。そういう小市民に限って昔はよかったとか、今時の若い者はなどと言って自らは決して傷付こうとはしない。情けない事に俺たちはそんな連中を『革命の本隊』と呼び、常に、不断に裏切られていくんだ。俺は反戦の中で戦い続けるが、俺は不条理に対する怒りの発露として戦う。彼らの事など知らん。俺は『幻のプロレタリア軍団』など当てにはしない。敗北すれば俺は抹殺されるだけだし、彼らも俺を助けはしないだろう。そしてもし革命情況になったとしても、彼らは小ずるく計算して得な方の味方に付くだろう。そんな奴らは信用しないし、敵に廻った奴らとは遠慮なく戦えばいいんだ」
 極端化された言葉が次から次へとロから出てくる。もう一人の自分が押し止めようとし、酒の勢いを借りたもう一人の自分がロを開かせている。
「ふざけるな!お前の言ってる事はファシズムだ。ファシストたちの言う事だぞ」
 栗田が立ち上って海原の襟首を掴んだ。寛子と友子は泣くのも忘れて、心配そうに二人を見守っている。
「よさんか〜い。二人とも少しは冷静になったらどうや。今更何を言うたかて決戦に突入してしもうとるんや。結果は判らんが歴史が総括を出してくれるやろ。今のワシらはただ戦えばええのや。一緒に戦う奴は同志や。それでええのや」
 関口にズボンの裾を引っ張られて、栗田は不承不承座り込んだ。しばらく気まずい空気の中で酒を飲んだ後、束の間の宴会は終りを告げた。勘定をすませて店を出た六人は、思い思いに家の方へと散っていった…。

自宅まで三十分近くかかる道程を慎一と寛子は歩いていた。今日はたとえどんなに遠くから帰るとしても、きっと歩いて帰ろうとしたに違いない。あの後味の悪い飲み会の事を、歩きながら道端に振り撒いてしまいたかったからである。こんな気持を家まで持ち帰るのは、考えただけでもうんざりだった。
 幹線道路でもあるK通りは車の流れが絶える事がなかった。ヘッドライトが幾度も幾度も二人の影を、回り灯籠のように浮かび上らせては消えた。
「海原さん。お店で言ってたのは本心なの?」
「たぶんね。革命の本隊を待ち望み、俺たちはその前衛たらんとしてるけれど、今まで常に裏切られてきた。これからもきっとそうだろう。いや裏切られたと言っても、彼らにしてみれば俺たちを裏切っているなんて自覚もないと思う。俺たちの勝手な思い込みで、彼らにとっては迷惑な話かもなのかも知れないしね。でもそうであったとしても、自分たちの力量のなさに対する苛立ちと同時に、彼らに対する怒りが湧いてくるのを止める事が出来ないんだ。彼らにとっては迷惑千万な俺たちの片思いだったとしても…」
 二人はW図書館前を通り過ぎようとしていた。まだ知り合う前に慎一にしろ寛子にしろ、受験勉強の為に通っていた図書館である。
(あの頃はこんな考えを持つようになるなんて、まるで思ってもいなかった…)
「私にしてもそれは感じているわ。闘争に一生懸命になればなるほどね。でもそれは絶対ロに出して言ってはいけない事なのよ」
 寛子の口調も半分自分に言い聞かせているようだった。
「判ってる。だけどこれからどれだけ俺や仲間が傷付き、あるいは死ねば彼らは起ち上がるのか。あるいは永遠に起ち上らない可能性の方が大きいかも知れない。その間にも革命に一番良心的な部分がどんどん失われていく、俺たちがそれだけの代償を支払う価値があるのかって思うんだ」
「でも私たちだけでは本当の革命が出来ない、っていうのも事実でしょ?革命の前衛たり得ても、まだまだ本隊にはなれないわ」
「そうだ。俺たちはまだまだ少数派だよ。でもね、何処にいるかも判らん本隊を待ち望みながら、闘争をするなんてのは真っ平だ。俺は俺の為に闘争する。他ならない俺自身の為にね。その結果革命本隊が現れたとしても正にそれは結果であって、俺個人にとっては目的ではないと思うんだ。そう考えなければ俺は幻の本隊に甘え依拠し、断固として戦えなくなってしまう。もう六月なんだよ、俺たちだけで戦うしかないんだ」
「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れる事を辞さないが、力尽くさずして挫ける事を拒否する…か…」
「誰が壁に書いたのか知らんが、いい言葉だよな」
 寛子と並んで歩きながら、慎一は明日から事務所を休む決心をした。それは慎一にとって、解雇されるのと同義語だった。
(どうせ突撃の日まで幾日もない。突撃してしまったら最後、ほとんど確実に事務所に出勤する事は出来ないのだ)
 所内で心配そうな表情をしていた中島久美子の顔が浮かんできたが、慎一はこれから新しく創ろうとしている建設産別の事は、しばらく考えまいとしていた…。

第 三 章

 すぐ裏手にある小学校から可愛い嬌声が響いてくる。
 ほんの少し前に眼を覚ました慎一は、横になったままその声を聞いていた。窓から差し込んでくる光はあくまで柔らかくのどかな朝だった。
 何人、いや何万人、その人の運命を変えてしまうであろう一大闘争が、間近に迫っているとはとても思えないほど、いつもと同じ朝である。慎一はゆっくりベッドの中で伸びをしてから身体を起した。
 昨日事務所を休む決心をしてから、心の中でつかえていた物が取れたように、身体がまた少し軽くなったような気がする。上のベッドに寝ていた寛子も、蒲団の中で眼を覚ましていたらしい。身体を動かす気配とともに、『今日から私もアルバイトを休む事にしたわ』という声が降ってきた。
「それなら一応電話を入れておいた方がいいぞ」
「うん。そうする」
 梯子を伝ってベッドを下りた寛子は、電話をかける為にパジャマ姿のまま一階に下りていった。
「コーヒーを飲むから、お湯を沸かしてといてくれないか」
 部屋の扉を指で押し開けて慎一は叫んだ。下のダイニングキッチンから、微かにダイヤルを回す音とともに『解ったわ』という寛子の返事が聞えてきた。
 服を着て階下へ行くと、既に電話をすませた寛子が顔を洗っていた。慎一はコーヒーカップを二つ食器棚から取り出すと、インスタントコーヒーを入れた。何気なく四畳半に眼をやった慎一は、そこに臭いの元凶の盾があるのを思い出し、あちこちの窓を開け放ってこもっていた酢酸の臭いを解き放った。
 寛子に代って慎一が顔を洗い始めると、パジャマから着替える為に寛子は二階へ上って行った…。



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