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作品名:死産の季節 作者:ぱんぷ亭

第1回   part-1

序  章      

 寂れた寺の近くだからいうわけでもないのだろうが、夜半を過ぎた通りに、ものの動く気配はまるでなかった。寺の周りに建ち並んでいる家々も、暗く澱んだ空になお一層黒々とした輪郭を、微かに浮かび上がらせているばかりだった。
 今はもうすっかり色の褪せてしまっている小さな木札に、ようやく読めるほどの文字で『重要文化財』と書かれた本堂と鐘楼、そして平屋根の庫裡らしき建物があるだけの寺には、それだけがこの寺の存在を誇示するような大公孫樹があった。
 境内の本堂脇にある大公孫樹の根元には、昼間ここを遊び場にしていた子供が忘れていったのだろう、錆があちこち浮き出た赤い三輪車が、薄情な持主を待つようにポツンと残されていた。
 寺へと続く擦り減った石段に沿って走っている通りには、眠たげな光を細々と放つ街路灯が点在しており、この時間が止まってしまったような無彩色の風景の中で、ある種の安堵感にも似た色彩を周辺に与えていた。
 車がやっと擦れ違えるだけのその道を挟んで、寺のある側には手入れの行き届いた庭木の影が染み出したように住居の間に伸びており、ゆったりとした住宅街を形成している。しかし通りの対岸に眼を転じると、そこは蚕棚を連想させるようなアパートや、店舗を兼ねた住宅が競い合って群立し、これが同じ道路の両側であるとは、俄に信じられないほどの著しい対比を見せていた。
 そしてもし、この人の絶えた通りを歩く者があり、ふと何かの気配を感じてその場に佇んだとしたら、密かに伝わってくる『シュッ、カシャ。シュッ、カシャ』という音が聞こえたに違いない。
 不気味な、まるで血に飢えた何者かが獲物を求めて、暗闇の中で鋭利な刃物を研いでいる、そんな錯覚に陥りそうなその音を…。
 恐怖に駆られ、総身の肌を泡立たせながらも、その音の根源を探ろうと必死に耳を澄ませ眼を凝らせば、群立し巨大化した影の一角に、やっと人間の営みを示す小さな光を発見出来たであろう。
 時を超越して存在し続ける、無機質の空間に引き摺り込まれようとする意識を、その小さな光は現実へと回帰させ、やはり時間は留まる事を知らず流れているのを確認して、その者はホッと安堵の溜息を漏らした事であろう…………。

第 一 章

「まだ刷り上らへんのかいな」
「あともう少しだ」
 そう答えて海原慎一は背後を振り返った。
 後ろとはいっても四畳ばかりの板の間と八畳しかない部屋に、九人もの人間が折り重なるようにして寝ているので、慎一たち二人に残されている空間はごく僅かだった。
 慎一の視野一杯に入ってきたのは、チカチカと細かい点滅を繰り返す蛍光灯スタンドの明かりを頼りに、ガリ版に顔をくっ付けるようにして、文字を切っている関口亘の姿だった。  
 傍らに寝ている奴の腕時計を覗き込むと、午前二時をとうに過ぎている。
(早いとこ、このビラを刷り上げなければ…)
 慎一は手に持っていたローラーを握り直すと、再び印刷作業に没頭した。最初のうちこそは、覚束ない手付きで文字を二重に刷ってしまったり、藁半紙を斜めに置いて刷ったりと、単純な失敗ばかりして皆に笑われた慎一だが、いつの間にか仲間内でも奇麗なビラを作ると、わざわざ頼まれるようにまでなっていた。
 彼はバネ仕掛けで起き上がる謄写版の合間に、刷り終った藁半紙を素早く一枚ずつ捲っていく滑らかな動きに、自分でも感心してしまう事があった。
 やがて残っていた百枚ほどの紙を刷り終ると、慎一は謄写版からインクの匂いの漂っているビラを、まだ乾いていない文字が擦れないように注意しながら外した。
 出来上がったビラは全部で三千枚ほどあり、これは明日の夕方から明治公園で行なわれる『安保粉砕全国総決起集会』で、慎一たちの属する『W地区反戦青年委員会からのアピール』として、集会の参加者に撒く為のものだった。
 慎一は左手の親指に嵌めていたゴムサックを外し、幾分ふやけて白くなった指をよく揉んだ。通気性のないゴムサックを被せられていた指は、妙に湿気を帯びていてゾッとするほど冷たかった。
(さすがに三千枚を一気に刷ると疲れる。親指が痺れてこんなになっちゃった)
 しばらく揉んでいると冷たかった指先に血行が戻ってきたのか、ジンジンする痺れも取れて火照るように暖かくなってきた。
(そろそろ揃えて包んでおくか)
 バラバラの状態で、傍らに雑然と積み上げてあるビラの両端を持って、トントンと揃えていると横合いから関口が顔を出した。
「おい、もうワシの方のビラを刷ってもかまへんか?」
 見ると今しがた切り終わったばかりの原紙を、関口が武骨な手で大事そうに捧げ持っていた。しかも愛用の『いこい』をくわえている為に煙が滲みるのか、眼を情けなさそうに瞬かせている。
 それが日頃の彼を知っている慎一には変に可笑しかった。
「オッケー。こっちはもう刷り上がった。そうだ、お前のは半ビラだろ?ついでにお前の刷る分の紙を切ってやるよ」
「そいつは助かるわぁ。今朝も七時半からこのビラを撒かなあかんから、少しでも早よう終わらせて寝たいよってな」
「それよりお前のくわえてる煙草、何とかしろよ」
「ん?灰が落ちんように気ぃ付けとるけど…」
「違う違う。お前がそういう顔してると、鬼の目に涙みたいで笑えるんだ」
「ゴッツイ事言うわぁ、慎一は」
「あっはっはっ…悪い悪い」
 二人は周りに寝ている連中の、身体を踏まないように場所を入れ替わった。慎一はガリ版の横に、黄色い紙で包装されたまま積み上げられている、藁半紙の束の一番上の封を切った。
「何枚くらい切ればいい?」
「そやな、半ビラで四百枚もあればええんとちゃうか」
 関口は慎一の刷っていた原紙を謄写版から外すと、刷り損ないのビラに包んでごみ箱に捨て、代りに自分の切った原紙を、皺が出来ないよう注意深く貼り始めた。
 慎一は目分量で藁半紙を掴むと、十数枚ずつカッターに載せ、半分に切っていった。
「こいつで何号目になる?」
「もう三十七号や」
 原紙を貼り終った関口が、チューブからインクを押し出しながら答える。
「そうかぁ、あれからもう一ケ月以上経つのか。相変わらず毎日配ってるんだろ?」
「そうや」
「大変だな」
「そらもうシンドイがな。けど、やり続けな意味あらへんしな」
関口亘は現在W区内にある〇〇ゴム工場で、解雇撤回闘争を戦っていた。その発端はかれこれ二ケ月ほど前に行なわれた、七十年安保粉砕闘争の前哨戦ともいうべき闘争にまで遡る。
 その日、過激派と称される新左翼各党派主催による集会が、都内の幾つかの場所に別れて開催され、慎一たちも赤坂にある清水谷公園に集合した。
 安保条約自動延長の期日が迫ってきている事もあって、段々と機動隊との小競り合いも激しさを増している時期である。集会後のデモが荒れたのは当然といえば当然だった。
幾つかの小さな衝突の後、アメリカ大使館前で機動隊と衝突かった時には迫兵戦に近い状態になり、その混乱の中で多数の逮捕者を出したのだが、関口もその中に含まれていたのである。
 逮捕された以上会社に出勤出来るはずもなく、反戦青年委員会に加盟して活動している関口に手を焼いていた工場側は、はやばやと無断欠勤を理由に解雇を通告してきた。
 新宿警察署に二十三日間拘留された後、不起訴処分となって釈放された彼はその日から工場へ出勤し、門前で構内へ入れまいとする守衛と大立ち回りを演じる事になった。   
 会社側の通報によって近くの交番から警官が飛んで来たが、労働争議らしいというので逮捕こそされなかったものの、守衛と警官によって手荒く追い返されてしまった。
その翌日から不当解雇を弾劾するビラを、門前に立って出勤してくる労働者に撒く、関口の姿が見られるようになった。勿論、W地区反戦青年委員会のメンバーも、彼を護る為に何人かずつ交代で連いて行った。
 最初のうちこそは行く度に守衛と警官が待ち構えていて、追い返そうとする彼等との小競り合いがあったが、一ヶ月近く過ぎたこの頃は警官も姿を見せなくなっている。
 その代わりに門の脇に設けられた守衛小屋のガラス窓から、時折それと解る私服の男がカメラを手にして、関口たちの様子を窺っているようになった。それは彼の支援に行ったメンバーの顔写真を撮影すると同時に、ビラを受け取る者を撮影するという、労働者への陰険な洞喝をも兼ねていた。
 その為に最初の頃は、ビラを受け取る人間は極めて少数だった。彼の撒くビラは彼の性格がそうさせるのか、世間から『新左翼用語』と言われているような、難解な専門用語の並んだビラとは大きく異なっていた。
自分の毎日の出来事を日記風に綴り、生活の苦しさを語り、非はどちらにあるかをトツトツと説く彼の文章は、同じ工場で働く労働者が思わず共感するような、暖かい説得力に溢れていた。
日が経つに連れてじょじょにビラを受け取る人数も増え、中には手にしたビラをカメラを構える私服に振って見せる者まで現われ始めた。
 それでもやはり彼は孤独であった。会社のやり方に不満を持っている者はあったろう。いや、大部分が人を人とも思わない経営姿勢に、不満を持っているに違いなかった。ビラに書かれている会社の非は誰もが感じている事であり、『明日は我が身』かも知れないのである。
 であるが故に、関口は彼等の『代弁者』でもあった。ただ悲しい事に、その同じ代弁者の立場に立とうとする者がいなかった。たった一人で戦っている関口の側に公然と立つには、自分の家族と生活を賭ける覚悟がなければならないからである。
 本来は労働者の擁護団体であるはずの労働組合も、経営陣との馴れ合い団交ですべてを決めるほどに堕落しており、左翼の仮面を被っただけの組合は関口の戦いを傍観し続けている。
 関口の側に立つという事は、単に経営陣に対するという事だけでなく、腐敗した労働組合とも決別して彼等とも対決し、関口と共に孤立するという事だった。
 それにここ一週間というもの、ビラを工場へ撒きに行くのは彼一人になっていた。決して反戦青年委員会の連中が、彼の戦いに疲れたのでも忘れたのでもない。一九七〇年六月というこの時期に、不当に解雇されている者は、反戦青年委員会に何人もいたからだ。しかも闘争のある度にその人数が減る事はなく、逮捕者の増加に比例して解雇された人間も、加速度的に増え続けていたのである。
 都職、全逓、全電通等の産別反戦に組織されている連中は、処分された人間も多かったが職場内での仲間も多く、戦いは既成左翼の妨害に遭いながらも、それなりに組織的に戦われていた。
 しかし中小企業で解雇された者に支援してくれる職場の組織はなく、また反戦青年委員会で戦うには解雇された人数があまりにも多過ぎた。しかも個人個人によって職種も職場状況もまったく異なっているので、反戦青年委員会が戦いのすべてを担うのは物理的に無理な話だった。
 そんな十年に満たない歴史しかなく、膨大な既成左翼に比べて圧倒的に少人数の脆弱な組織には、よほど腹を据えなければ家庭と生活を賭けて参加出来るはずもなかった。
 逆に言えばだからこそ反戦青年委員会に参加している人間は、何者にも囚われない労働者としての根源的な問いを、経営陣にだけではなく既成左翼や労働組合にまで、問いかけ続けていけたのである。
 彼等は職場でたった一人であろうと、自分の信念の為に戦い、傷付き、逮捕され、そして次々と解雇撤回闘争に敗北していった。これがマスコミをして『過激派、暴徒、暴力学生』と総称されている、反戦派労働者たちの苛酷な現実だった……。
     ・・・・    ・・・・    ・・・・    ・・・・
 ここで話を進めていく前に、主な登場人物が活動する舞台となっている反戦青年委員会について、若干の説明を加えておきたい。それは作者と同世代以外にとっては、あまり馴染みがない組織だろうからである。
 反戦青年委員会という組織は一九六五年の日韓闘争を契機に、総評・社会党傘下の各単産青年部を中心にして結成されたわけだが、一九七〇年には既成左翼にとってまさに『鬼っ子』として急速に成長していた。
 当初オブザーバーとして末席に名を連ねていた新左翼諸党派の妥協を排した戦闘性は、ダラ官僚の腹芸に飽きていた若年労働者層に影響を与えないはずがなく、特に一九六八年の羽田に於る佐藤訪米阻止闘争前後から、反戦青年委員会は『鬼っ子』としての本領を急速に発揮し始めていた。
 その組織形態を簡略化していうと、日本社会党青年対策部を窓口とする全国反戦青年委員会連絡会議の元に各都道府県反戦青年委員会が集まっており、それはまた各地区の反戦青年委員会によって構成されていた。
 したがってこの物語の主人公たちの主な舞台は、東京都反戦青年委員会傘下のW地区反戦青年委員会という事になる。W地区反戦青年委員会は、都職、全逓、全電通、東交等の産別加盟のメンバーと、個人加盟のメンバーとで成り立っており、個人が集まった組織は便宜上W地域反戦青年委員会と名乗っていた。
 勿論ほとんどの闘争は産別反戦(地域反戦のメンバーは地区反戦の事を内部的にこう呼んでいた)と行動を共にしていたが、集会やデモでも独自にW地域反戦青年委員会の旗を掲げていた。
 ついで付記するならば、この時期あらゆる新左翼がその影響力を反戦青年委員会に持っていたわけだが、大きく分けて三つの流れがあった。(他にも加入戦術を取っている党派、撤退を始めている党派等があったが、表立って影響力の強かったのは三党派であると思う。しかもその影響力たるや学生闘争組織の全共闘に対して、労働者の闘争組織といえば反戦青年委員会と言えるまでに巨大化していた)
 この三つの異なる党派、社会主義青年同盟(社青同)解放派(革命的労働者協会)、革命的共産主義同盟(革共同)中核派、革命的共産主義同盟(革共同)革命的マルクス主義派(革マル派)によって領導される反戦青年委員会が、場所によっては同じ地区に同じ名前で三つ存在し、各々が独自の活動を行なっていた。
 この三つの党派は主に産別あるいは共同闘争課題を通じて、敵対的にしろ友好的にしろ何とか細いパイプだけは相互に繋っていた。
     ・・・・    ・・・・    ・・・・    ・・・・
 関口は黙々とビラを刷っている。慎一は紙を切り終えると傍らにある、刷り上がったばかりのビラを揃えてやった。
「先に寝てくれてもかめへんのに悪いな」
「気にするな。ここまで起きてたら、もう三十分くらい起きてても同じだ」
「ほんま助かるわ」
関口の父親というのは、大阪で選出された共産党公認の参議院議員である。その息子の彼が何で大阪を飛び出して、東京の一郊であるW区の反戦で戦っているのか、誰もその理由を知らない。
彼も多くを語ろうとはせず、そんな事に興味を持って訊く者もいなかった。反戦では全共闘と同じように、戦う意志を持つ者であれば、誰でも同志として暖かく迎えられる。
「おい、なんや雨が降っとるみたいな気ぃせえへんか?」
 そういえば軒に当たるポツポツという音が聞こえる。慎一は立ち上がって謄写版の前にあるスチール製の窓を開けた。一階がスーパーマーケットになっているアパートの窓からはすぐ下の道路が見え、街路灯に照らされたアスファルトが少しずつ濡れて黒く光り始めている。
「まいったな。これじゃ明日のデモは雨かも知れないな。お前も雨ん中でビラを撒く事になるぞ」
 慎一が窓を閉めながら言うと、関口はいつもの人懐こい笑顔を浮かべた。
「ワシの事なら心配いらんわ。この前買うといた百円のレインコートがあるさかい」
「そうだな。俺も雨がやまなかったら駅前の釣道具屋に寄って、地域反戦の人数分だけでもレインコートを買っていくとするか」
「そらええ考えや。せやけどお前、金はあるのんか?」
「多少は持ってるから何とかなるさ。向こうで地域の連中に渡す時、金のある奴から百円ずつ貰うから、あんまり立て替えないですむと思う」
「解雇されとるワシが、人の財布の心配をするのもアホな話やな」
「まったくだ。それよりお前だってビラを濡らさないように撒くのは大変だぜ」
「まかしといてぇな。ええ考えがあるのや」
関口は最後に刷り終わったビラを慎一の揃えたビラの上に置くと、流し台の所へ行って小さなポリエチレン袋を持ってきた。どうやら下のスーパーで豆腐でも買った時に入れてくれたものらしい。
「こいつや、こいつや。こいつを使えばええのんや」
 彼はポリエチレンの袋に器用にビラを押し込んだ。
「これでどうや?」
 まるで子供が自慢している時のように得意満面である。袋を小脇に抱えた彼は開いた口から手首を捻って、器用にビラを一枚取り出して見せた。
「そいつはいい!でもお前のは半ビラだからいいけど、大きい方だったら大変だな」
「そやな。大きいのんは袋からうまく出せへんし持ちにくいさかい、ええ方法といえばやなぁ」
 そう言いながら彼は真剣に思案している風であったが、急に悪戯っぽい眼をして慎一の方へ顔を寄せてきた。慎一もつられて内緒話を聞くように耳を傾けると、彼は誰も聞いていないか確かめるように辺りを見回してからそっと耳元で囁いた。
「晴れた日に撒けばええのや」
「くっだらねぇ」
 慎一は声を押し殺して笑った。関口も照れ笑いを浮かべている。
「まぁ集会も雨だったら、レインコートの中で抱えて撒く事にするか」
「それしかあらへんな」
 結局二人が何とか隙間を見付けて、シーツも毛布もない汗臭い蒲団に滑り込んだ時には、気の早い雀の鳴き声が窓の外から聞こえ始めていた。いつも枕にしている電話帳はすべて出払っていた…。

 古びた木製の机がある。
 時の流れに取り残されたようなその机のニスの剥げた天板には、鉄筆やボールペンで様々なスローガンが書き込まれていた。古いスローガンほど小さな文字で、新しくなるほど下の文字を打ち消すように大きな文字で書かれている。
 引出しの引手はなくなってからよほど経っているらしく、金具が埋め込まれていたはずの穴は角が擦り減り、周りを爛れたように赤黒く変色させていた。この机こそある意味では左翼運動の底辺に於る歴史の証人でもあった。暗い時代から幾多の戦いを咽吟しながら苦闘する人間たちを、この机はずっと見詰め続けてきたのである。そして未だ起ち上がらぬプロレタリアートへ向けて、数え切れぬ程のビラやアピールが、この机から産まれ出ていったのだろう。
 その机の上にこれまた古めかしい目覚まし時計が置かれている。クロームメッキがほとんど剥げ落ち、錆でちょっと見には茶色い時計に見えるのだが、まるでその場所だけが彼の唯一の居場所ででもあるかのように机と見事に調和していた。
 一日に十分以上も遅れてしまうのだが、セットされた時間が来ると、初めて自分の存在を主張するように間の抜けたベルを鳴らす。この部屋で寝起きしている誰もが遅れるのをこぼす事が一度ならずあったが、不思議と新しい時計に取り換えようと言い出す者はいないのである。この時計がいつも机の上に置かれているというだけで、誰もが妙な心の安らぎを覚えているらしい。
 その時計が今、鳴っている…。

 慎一は蒲団の中で薄目を開けた。ベルの音に混じって遠くから雨の降る音が聞こえてくる。
(やっぱり今日は雨だ)
デモが終わった後の濡れた衣服の着替えが気になった。百円のレインコートを持って行ったとしても濡れないのはせいぜい上半身くらいなものだ。それも機動隊と衝突からなければの話である。
だが闘争が高揚期を迎えているのを考えると、小さくても機動隊との衝突は不可避に思えた。
(今日はいったん家へ帰ろう…)
 慎一はここ一週間というもの家へは帰っていなかった。母と二人暮しではあったがその母も肝臓を患って、半年程前からK温泉へ転地療養に行ったきりである。母が家へ帰って来るのは赤坂にある病院へ定期検診に来たついでに、ほんの数時間向こうで必要になった物を取りに寄っていくだけだ。
といって慎一の家が格別裕福だというわけではない。母は母でK温泉で地元の人間に日本舞踊を教えて独自に生計を立てており、彼にしても建築設計事務所で得る、税込み二万七千円という給料では母への送金など思いもよらず、家賃のかからない自宅というおかげで、何とか食べていける程度だった。
 もっともその彼の家には、一ヶ月ほど前から居候が一人住み着いていた。同じW地域反戦青年委員会に加盟している糟谷寛子という女性である。都立W高等学校を卒業して浪人中の十九歳で、今はアルバイトをして生活費や活動費を稼いでいる。
だが慎一を含めて反戦の誰もが、来年受験するという話を聞いた者はいない。彼女にはW大に在籍する兄が一人いるが、彼は全共闘の闘士でつい先日学館死守闘争の篭城部隊として、学校側の導入した機動隊に最後まで抵抗して逮捕されていた。
 その瞬間を慎一と寛子は夜のテレビのニュースで見た。
全共闘の篭城する学生会館へ幾筋もの放水が集中する様を、テレビ画面は地上からあるいはヘリコプターに依る俯瞰から映し出していた。放水の勢いは凄まじく、たまに屋上から投下される火炎瓶も、瞬時に消されてしまう。やがて画面は一変し、屋上へ次々と飛び出していく機動隊の姿を揺れながら追いかけ、角材を持って最後の抵抗を試みる学生たちに迫っていった。しかしすぐに彼等は我先に飛び付いていく巨大な濃紺の波に飲み込まれてしまい、次に画面が彼等を映し出した時は、力無く崩折れた肉体を催涙液の溜ったコンクリートの床に横たえていた。
 やがてずぶ濡れのまま手錠をかけられ血に染まった顔で、機動隊員に引きずられていく何人目かに寛子の兄がいた。テレビに映る彼の姿は、眼鏡の奥にある優しげな瞳と、物柔らかな話し方しか記憶にない慎一にとって、妙にちぐはぐな印象を与えた。
 寛子はその晩ほとんど口をきかず、一人で物思いに沈んでいた…。

部屋一杯に敷詰められている蒲団から、男たちの起き出す気配がしている。関口の『頼むさかいもう少し寝かせといてえな』と言っている声が聞こえてくる。
 目覚まし時計は六時半を指しているはずだった。いつものように正確な時間より何分か遅れているだろうが。慎一は誰かが声をかけてくる前に、意を決して上半身を起こした。
周りを見回すと、何人かの者は既に服を着終って、朝食の支度に取りかかっていた。この部屋に寝泊りしている人間は常に七、八人もいたが、常駐の三人を除いて泊る顔ぶれは毎日のように変わっている。
W反戦のメンバーだけに限らず、駒場にあるT大全共闘の連中も泊りに来るので、顔に見覚えがあって名前を知らない者も少なくない。もっとも名前を知っていたとしても、本名かどうか怪しいものだった。
 慎一が身繕いをすませ、関口が皆に寄ってたかって起こされる頃には、食事の支度はほぼ出来上がっていた。煮物を作るような大きな鍋で、専従の一人である山城が実家から送って貰った、売り物にならない規格外の米(この米を食べた誰もが、どうして規格外なのか解らなかった)を炊き、階下のスーパーで買った一丁二十五円也の豆腐が人数分、漬物代りの紅しょうが、そして葱の味噌汁が朝食だった。
 折り畳み式のテーブルが並べられ、それぞれが思い思いの席に着く。蕎麦屋のどんぶりや絵の描いてある子供の茶碗など食器も大小色とりどりで、座った者から勝手に飯を盛って食べるのだ。
 慎一は関口の隣に座ってテーブルの中央に置かれた鍋から飯を盛りながら、早く起きて食事の支度をしていたT大全共闘の仲川に声をかけた。               
「最近、木戸の姿を見かけないんだけど、何処かでパクられたのかい?」
 仲川は頬張っていた飯が、咽喉を通り過ぎるのを待って答えた。
「木戸ですか?あいつは一週間くらい前かなぁ。栄養失調で倒れて入院しましたよ。海原さん、知らなかったんですか?」
「えっ、栄養失調!今どきそんなんで入院する事なんてあるのかい」
 冗談めかして言ったつもりだったが誰も笑わなかった。いや笑えないのだろう。明日は我が身という危機感が皆にあるからである。闘争の合間を縫ってやるアルバイトで、少ない収入を得ている学生と違い、定期収入のある慎一からしてが、この数ケ月は一日一食という日が珍しくなく、六、七キロも体重が落ちていた。
それでもバリスト中の大学構内よりもここの方がましだった。少なくともここでは温かい飯が食べられるからだ。よりよい食料を求めて同じ党派の拠点であるこの事務所へ、入れ代り立ち代り学生が泊りに来るのも判るような気がした。
(そうか。木戸がねぇ…)
 慎一は小柄な木戸を思い浮かべた。
「今度の六月安保決戦は、絶対先頭で闘うつもりなんです」
 誰もが近付いて来る決戦を前にして、緊張とある種の期待を闘争の中で育んでいる時にも、彼は快活にそう断言していた。彼はまるで子供が指折り数えて誕生日を待つように、六月の決戦当日を待っていた。
 そんな彼が栄養失調で入院し、戦線離脱を余儀なくされてしまったのである。歴史の転換点に自分も参加する…という大目的を失った木戸の苦しみは、自らに立場を置き換えてみるだけで誰にも容易に想像する事が出来た。考えてみれば過去の闘いのすべてが、この六月決戦の為であるといっていい。
この闘いの向こうに何が待っているのか誰にも解らない。ただ、この何日間かの為に恐怖を押し殺し、自分のすべてをこの闘いに賭けようとしていた。
妙に沈んだ雰囲気の中で皆黙々と箸を運んでいる。こうした空気に耐えかねたように関口が口を開いた。
「今さら木戸の事を考えてもしょもない。同じような仲間はたくさんおるんや。その分ワシ等が頑張ればええやないか。ワシ等が居なくなっても木戸たちが残る。そう思えば気も楽になるんとちゃうか」
 当り前の事であっても関口が言うと妙に説得力がある。それがまた関口の得な性分でもあり、愛される所以でもあった。彼の言葉をきっかけに食卓はまた、元の喧騒とした雰囲気に戻った…。

出勤する者、バリケードへ戻る者、アルバイトに出かける者、事務所にいる人数は少しずつ減っていった。七時をしばらく過ぎた頃、慎一も朝ビラを配りに行く関口と一緒に部屋を出た。最後に一本残っていた何ヶ所か骨の折れた傘をさして、二人は雨の中をバスの停留所まで歩いて行った。交番の真向かいにある停留所では、既に数人の学生とサラリーマンがバスを待っていた。
顔見知りの若い警官が二人の姿を認めると、わざわざ交番の入口まで出て来て、着ている制服を誇示するようにこちらを向いて立った。挑むような視線で二人を睨み付けている。
「なぁにを偉ぶっとるんじゃ、あいつは」
 肩が濡れないよう注意しながら歩いていた慎一が、また例の軽口を叩いたのだろうと関口を見ると、彼の眼には敵意が剥き出しになっていた。慎一は関口の権力をひけらかす輩に対する憎悪が、人並み外れているのを思い出した。警官との小競り合いは闘争以外にも日常的にあったし、警官に限らず不正な力(と彼が思う)には容赦する事がなかった。
 ある日の晩、関口が血だらけで帰って来たので、事務所にいた者は騒然となった事がある。敵対する協会派の襲撃と早合点して、戸棚からヘルメットを取り出す者までいた。彼を取り囲んで誰にやられたのか問い質すと、何の事はない新宿でヤクザらしき男たちに高校生が袋叩きにされていたのを、見物人を押し除けて助けに入り、喧嘩をしてきたんだと関口は答えた。
 誰かがその格好で電車で帰ってきたのかと訊くと、『そうや。何か顔に付いとるか?公園で顔だけは洗うてきたんやが』とケロリとしているので拍子抜けした皆は、眼の周りを青くしている関口の顔を見ながら大笑いした。そんなエピソードには事欠かない男である。
やがて霧の煙るような雨の中をバスがゆっくりと近付いてきた。よく見るとフロントガラスの右肩に赤い文字でワンマンと書いてあるのが読めた。最近大幅に増え始めているワンマンバスである。
合理化が進み、近頃乗るバスはワンマンである事が多い。たまに数少ないツーマンに乗ると、車掌は大抵顔馴染みの、配転を拒否して戦っている東交反戦の女性だった。
 通勤時のバスの中は湿気と人熱れで、むせ返るような匂いが充満していた。乗客の誰もが呼吸を最小限に留めようと努力しながら乗っている。
 バスは焦れるような速度で進み、停留所へ着く度に新たに乗り込んでくる客と、中ほどの扉から降りる客とで、二人は段々と奥の方へ押し込まれていった。慎一は顔を流れる汗を拭く事も出来ず、じっと耐えていた。一番奥に座っていた会社員が、降ろしてくれと大声を上げているが、彼の声が運転手には聞こえなかったらしい。バスは扉を閉めるとノロノロと走り始めた。男はひとしきり恨みがましい言葉を吐いてから、次の停留所で降りようと、慎一たちの背後を強引に摺り抜けて、強引に降車口の方へ進んでいった。
 慎一は組合も闘争を放棄した東交内で、合理化粉砕を叫んで未だに闘いを継続している、東交反戦の事を考えていた。
「無茶苦茶な合理化の成果がこれだ」
 慎一の呟きが不自然ではないほど、バスの中は無言の呪租の声に満ちていた…。

N駅前でバスを降りると二人は別れた。レインコートのフードを被った関口は、雨の中をポリエチレンの袋に入れたビラを抱えて、ホームへ急ぐ人波に消えていった。
慎一が自宅に戻って玄関の扉を開けると、途端に強烈な酢酸の臭いが鼻を突いてきた。奥の四畳半には先週裏庭でこしらえた、催涙弾に対抗するベニヤ製の防盾が、天井近くまで積み上げられているのである。
慎一は靴を脱ぐとカーテンを閉めてから、大急ぎで部屋中の窓を全部開け放った。盾を作る時には裏庭にかなりの人数が集まり、電気ドリルまで持ち出して大騒ぎで作ったので、何を作っているのかは判らないにしろ、近所の人間には確実に見られたと慎一は思っていた。だが隣近所とは祖父の代からの古い付き合いで、ずっとお裾分けのやり取りをしてきたような親しい間柄である。そんな関係にある近所の人間が、裏庭で何を作っていたところで、わざわざ警察に通報するはずもない。カーテンを閉めたのは、見知らぬ人間に部屋の中を、覗き込まれない為の用心だった。
 洋服タンスを開けて慎一が着替えを出していると、その物音に気付いたのか寛子が二階から下りてきた。既にブラウスを着てジーンズを穿いている。
「何だ。もう起きてたの?」
「うん、今日は九時半からアルバイトがあるから」
 慎一は小柄な寛子がパンをトースターに入れて焼くのを見ていた。
「それにしても凄い臭いだな」
「もう下の部屋になんかいられないよ。私だってずっと二階にいて、用がない限り下りて来ないもん」
「ベニヤ板ってたくさん集まると、こんな凄い臭いになるとは思わなかったな」
「これは新しい発見で〜す」
冷蔵庫から出した牛乳を飲みながら、寛子が茶目っ気たっぷりに言う。慎一は余分な着替えをナップザックに詰め込むと、朝食を食べ始めた寛子に、午後六時までに明治公園に来るよう言い残して家を出た…。

 N駅前にはいつ頃出来たものか釣り道具屋があった。近くに釣り場がないにも関わらず、幾種類もの生き餌まで売っている。慎一が物心付いた時には、既に釣り道具屋はそこで商いをしていた。
駅を横切るように流れているW川は、魚が住まなくなって久しい。小学校に入学するずっと以前、昔は使っていたという舟着き場で、慎一は一度だけ金魚が溜りにいるのを見た事があった。人が放していったのか野生のものなのか判らなかったが、確かにW川の水の中で金魚は生きていた。
この川には母に連れられて近所の子供たちと一緒に、七夕の笹飾りや灯篭を流しに行った記憶もあった。だが今は洗剤の泡のみが流れ、メタンガスの噴き上がる死んだ川になってしまっている。それでもこの老夫婦が店番をしている釣り道具屋は、休日ともなると朝早くから店を開いて訪れる客を待っていた。
 ナップザックに入るよう、家で取り替えてきた折り畳み傘を閉じると、慎一は店の入口に立った。
「すみませ〜ん」
 声をかけるとしばらくして、人のよさそうな老婆が奥から現われた。少し耳が遠いらしい老婆に大きな声でビニール製のレインコートが欲しいと告げると、彼女は傍らのボードに張り付けられているレインコート入りの袋を、力一杯引き千切ってくれた。老婆が取ってくれたのは一つだけだ。
 慎一はもう一度十三個欲しいと繰り返してから、自分で彼女に見えるようゆっくりと残りの十二個を取って、小さな卓の上に並べて置いた。
 紙袋に一つ一つ確かめるように入れるのを、慎一は根気よく待って千三百円を支払い、何度も礼を言う老婆の声を背中で聞きながら店を出た。 
 朝のN駅のホームは通勤客で溢れていた。Y方面から乗ってきた客が都心へ続く地下鉄に乗り換える為、電車が着く度に続々と乗降口から吐き出され、そして飼い慣らされた羊のように整然と並び、始発の地下鉄に吸い込まれていく。
 慎一は客の波に揉まれながらホームを歩いていた。
(あと何日かすればこれに乗って渋谷に突撃するのだ…)

新宿三光町の交差点近くの雑居ビルの四階に、勤めている建築設計事務所はあった。慎一はいつものようにエレベーター脇の細い階段を昇った。年代物のエレベーターはイライラするほど遅いからである。
始業は午前九時と決められていたが、定時に出てくる所員は半分にも満たない。ようやく全員が顔を揃えるのが九時半頃であり、朝のコーヒーを飲んで仕事に取りかかる頃には十時を廻っているのが常だった。
 慎一がスチール製のドアを開けて中に入っていくと、事務員の中島久美子だけがいて、室内の掃除をしていた。ドアの軋む音に手を休めて顔を上げた彼女は慎一だと判ると、他の社員がいる時とは違って打ち溶けた話し方をした。
「おはよう海原さん。今日は早いのね。また反戦の事務所に泊まって来たんでしょ?」
 昨日とは違う服を着て来たのに言い当てられた事に驚きながらも、慎一はその通りだと答えた。
「家へ寄って着替えてきたんだけど、どうして解った?」
「だって反戦の事務所に泊まった時は、いつも早く出社して来るじゃない。だからすぐ判るのよ。最近ずっとそうだったでしょ?」
 そう言われてみると、確かに彼が早く出社する時は反戦の事務所から来る時が多い。なるほどと感心している慎一を見て久美子は笑った。
「駄目よ、この程度で感心してちゃ。警察なんかもっと凄いんだから、すぐに捕まっちゃうぞ」
 この事務所に於る唯一の理解者である久美子の言葉に、慎一は思わずニガ笑いを浮かべた…。

 慎一がこの建築設計事務所に入社して半年も経った頃、前から勤めていた女性事務員が突然辞めると言い出した。さっそく設計室と資料棚で区切られているだけの応接室で、彼女に慰留を促す所長との話し合いが持たれたが、辞めると決めた彼女の意志は固く、所長の引き留め工作は実を結ばなかった。
 慌てて新聞に求人広告を出し、何日かすると数人の女性が面接へとやってきた。そんなある日、慎一は資料を取りに行った時に棚の間から、所長の背中越しに面接を受けている女性を見た事があった。
慎一の見た面接の女性は一人だけだったが、所員たちは面接者全員の顔を見ているらしく、昼休みや所長が出かけた時など『あの日の子が可愛いかった』とか『いや、俺はあの子が好みだ』などと、しばらくは女性談議ばかりが続いた。半月ほど経ってそうした話題も下火になった頃、一人の女性が入社してきた。
それが慎一が見た唯一の女性、中島久美子だったのである…。 

その頃の慎一は地区の反戦青年委員会で、政治闘争を闘っているだけでは駄目だと思い始めていた。解雇撤回を掲げた闘いは幾つもあったが、その多くは政治闘争の結果であり、特に地域反戦のように個人参加の場合には、職場の運動に結び付けるのが困難だったからである。
仲間うちでたまに職場の話が出る事はあっても『そうかぁ、お前んところも大変だな』という答えが返ってくるのが精々で、具体的な事柄に就いては職種が違う以上、お互い幾ら理解しようとしても無理があった。
 こうした職場に於る受身の情況から、逆に『組織』として闘いを挑んでいけるようになる為には、どうしても『職種』としてまとまっていかなければならない。そこで慎一は集会やデモで知り合った、建築業界で働く他地区の反戦メンバー数人と語らって、産別準備会を作ろうと画策していたのである。
もちろん仲間は一人でも多い方がいい。慎一は仕事が終わるとなるべく理由を作っては、中島久美子を引っ張り出した。付き合っている男がN大芸術学部出身の広告代理店に勤めるカメラマンで、密かに党派の機関紙用の写真も撮っていると聞いたからである。残念ながら慎一の属する党派ではなかったが、内ゲバを繰り返すほど険悪な関係にある党派でもない。新左翼とまんざら無縁でない久美子は、慎一の話す言葉をすんなり吸収していった。そして現在では産別会議準備会の一員に名を連ねるまでになっていた。
「やっぱり産別会議の正式結成は、順調にいっても六月以降になるな」
「今月は無事にすみそうもないものね。でも準備会のメンバーがほとんど逮捕されたら、結成されるのは救援会だったりして…」
「本当にそうなりかねないぞ。久保も脇坂も地区反戦では戦闘的な方だし、M美大建築科の有賀なんか隊列の先頭に立つのを生きがいにしてる」
そんな話をしていると入口のドアが開いて、今年四月に入社したばかりの春日が入ってきた。彼は二人の姿を眼の端に認めながら、自分の席へ歩いていった。そして椅子に腰を降ろすとドラフターの付いている製図台に肘を突き、無関心を装うように手元にあった建築雑誌を読み始めた。
 H大建築科卒の春日は、H大全共闘に所属していた。その話を昼食後の雑談で聞き出した慎一は、一度中島久美子と一緒に、準備会に参加するよう説得した事があったが無駄だった。
『僕は卒業した時、建築家として生きていく為に、過去の運動とは縁を切ったんです。この事務所に入れるならどんな条件でも構わないって、所長に直談判して強引に入れて貰ったんです。自分が建築家になる為なら、どんな無理な事でもやり抜いていく決意をしたんです』
 そう断言した彼は、事実どんな過酷な残業命令にも、黙々としたがっている。今やっている仕事は慎一と同じチームだが、仕事に必要な最小限の言葉以外、幾ら水を向けても話そうとはしない。
 慎一にしても春日が悩み抜いて出したであろう結論だけに、むやみに彼を責める事が出来なかった。
(こいつもやっぱり『建築家幻想』に毒されている)
 建築設計を志す人間は誰でも国内だけでなく、海外にまで名前を知られるような一流の建築家を目指している。ところがそれには冒険的なデザインを許容してくれる、寛大で巨大なスポンサーの存在など、諸々の条件がすべて整わなければならない。幾ら非凡な才能を持っていても、それだけでは決して一流の建築家にはなれないのだ。 それでも一流建築家になるのを夢見て、月百時間を越える苛酷な残業、信じられないほどの低賃金という悪条件に耐えて、ひたすら仕事に没頭している。まさに『建築家幻想』である。
 慎一は彼や他の所員を見る度に、過去に自分自身も持っていた『建築家幻想』が、音を立てて崩れていくのを感じていた。ただ慎一と久美子が過激派とそのシンパだと、所長や他の所員に告げなかったのは、彼の最後の良心だったのだろう。
 やがて何人かの所員が顔を見せ始めたので久美子は慎一の傍を離れ、箒を持つ手を動かしながら朝のコーヒーを入れる為に湯沸室の方へ行ってしまった。
 慎一は壁に沿って並んでいる製図台の脇を歩いていき、春日の席の一つ先で立ち止まった。そこが慎一の席である。製図板には昨日から書きかけの、Tボウリングセンターの階段詳細図が貼ってあった。昨日のうちに段割の計算はすんでおり、各フロアごとの平面と断面がB2版のトレーシングペーパーに、薄くレイアウトされている。
 すぐ右手の壁には黄変の始まった全体平面図がセロハンテープで止められ、一人に一台あてがわれているサイドワゴンの上には、ホルダーやら丸書き、芯研器、定規といった製図具類がところ狭しと載っていた。
 慎一の前の席は窓に面しており、そこが一番奥という事もあってか机二つ並び、副所長格の田中と鈴村の席になっていた。特に田中は慎一の直属の上司だったが、上司としてよりはむしろ監視役という意味あいの方が強かった。
 一見自由で先進的にみえる建築設計事務所も、その内実は絶対服従的な徒弟制度を基盤に成り立っている。であるにも関わらず、残業をあまりせずに私用を優先させる慎一は、事務所の異端児であると言ってよく、『要注意人物』として田中の日常的監視下に置かれていた。
 慎一は久美子の持ってきてくれたコーヒーを飲み終えると、書きかけの階段詳細図を仕上げる為に製図台に向かった。十時をいい加減過ぎた頃になってやっと所長の堀川が、自慢の外車ローバーを運転手に操らせて出社してきた。彼は鷹揚に所員たちの挨拶を受け流すと『所長室』と書かれたドアの向こうに消えた。
 慌てて田中と鈴村が今朝のご機嫌伺いに、後を追って部屋に入っていく。W大の建築科を出た堀川は、春日の例を引くまでもなく、建築界ではかなり名の知れた存在だった…。

慎一がようやく階段詳細図を書き終わって壁際に下がっている時計を見ると、退社時刻の五時を少し廻ったところだった。
(よし。ちょうど時間だ)
 これから次の階段のレイアウトを計算していると、集会に大幅に遅れてしまう。慎一は着替えとレイコートの入ったナップザックを手にすると、誰一人帰ろうとしない所員たちに退社の挨拶をして事務所を出た。
監視役の田中に呼び止められると面倒なので、薄っぺらいPタイルの貼られた階段を駆け下りる。ビルの外に出ると心配した雨は止んでいたが、いつでもまた降り出しそうに、どんより澱んだ雲が空を支配している。慎一はナップザックを肩に背負い、急ぎ足で新宿駅に向かった。
駅ビル近くまで来ると、帰宅を急ぐ人波に抗うように、カンパ活動をしている一団がいた。胸のゼッケンを見ると『ベ平連』である。その中で慎一の一番近くにいた赤いジーンズにTシャツ姿の女が、ビラを差し出して『七十年安保粉砕の為の署名とカンパをお願いしま〜す』と寄ってきた。急ぐ慎一はビラだけ受け取ると、改札口へ続く階段を駆け下りた。
 新宿から中央線に乗って二つ目が千駄ヶ谷駅である。駅に着くと同じ電車から、かなり多勢の人間が降りてきた。申し合わせたようにジーンズかコットンパンツ、Tシャツにジャンパー、バスケットシューズといったデモスタイルの男女ばかりだ。反対方向に向かう電車からも、同じような格好の人間が吐き出されてくる。改札口周辺はいつものように、待ち合わせる人間でごった返していた。数人あるいは数十人単位でヘルメットを被り、先頭に旗をなびかせた集団があちこちに固まっている。慎一とは顔馴染みの反戦の旗も何本か翻っていた。
人を縫ってやっとの思いで駅前の交差点まで出ると、屋内プール場前に多数の機動隊車両が駐車し、その横に濃紺の乱闘服の一群が見えた。交差点から明治公園に向かう道に接する路地という路地にも、数十人単位の機動隊が詰まっている。駅から屋内プール場に沿って流れる人の波は、建物の切れるところで左に曲がっていた。曲がった先の坂を下り、正面に国立競技場のあるT字路を右に折れた左手前方が、今日の集会が行われる明治公園だった。
 慎一が坂の途中まで来ると、人の流れが急に滞った。機動隊の検問である。歩道の両側に立った彼等は、狭い隙間を通る人を止めては身体検査をし、持っている荷物の中身を調べていた。少し離れた場所で年配の乱闘服を着た男が、指揮棒を片手にそれを眺めている。荷物を見せるのをちょっとでも渋ったりその理由を訊こうものなら、たちまち取り囲まれて隊列の裏側に連れ出されてしまう。
そこで小突き回しながら中を見せろと強要されるのである。彼等は身体検査をされている者が、怒って手を出すのを心棒強く待っていた。掴んでいる手を乱暴に振り解こうものなら、即『公務執行妨害罪』で逮捕されてしまう。
 慎一は無言で着替えと折り畳んだ傘、そしてレインコートの入っているナップザックを開いた。いつもなら抗議の一つもするところだが面倒くさかった。早く地域反戦の待ち合わせ場所へ行きたかった。それに見せなかった時の彼等の反応も判っている。
『見せる必要は無い』
『何かやましい物が入ってるから見せられないんだろ?』
『そんな物は入ってない』
『だったら見せられるはずだ。堂々と見せてみろ』
 次元の異なる問題を奇妙に対置させ本質をすり替える。彼等は判で押したように同じ言葉を口にした。
(こんなところで法律論争を、ヒラの機動隊員とやっても仕方がない)
 そういった面倒くさいという思いに、彼等は根気よく付け込んできた。そしていつしか検問は日常化されてしまっている。判っていながら慎一はナップザックを開けた。待ちかねたようにまだ童顔の隊員が、ピアノ線入りの皮手袋をした手で、ナップザックの中を掻き回す。勿論凶器らしき物が出てくるはずもない。
「こんなにたくさんのビニールコートをどうするんだ?」
「あんたには関係ないだろ」
 言われた隊員は不満そうに口を尖らせながらもナップザックから手を放した。検問を抜けた慎一は足早に坂を下って行った。公園に近付きながら、色とりどりの旗が林立し揺れている中を、自分と同じ青ヘルメットを眼で捜す。いつもの癖だった。
  いつしか集会場へ行くと、必ず自分たちの党派がどのくらい来ているか、会場を見回すのが習慣になって
しまっている。そしていつもより多ければ安堵し、力が涌いてくるような感じがするのだった。
 千駄ヶ谷駅方向からの入口は公園の後方左側にある。入ると正面に日本青年館が見え、それに続く広い石段の中央付近が、いつも演壇に利用されていた。左側一杯に国立競技場のスタンドが木々の合間から覗き、右側には青山通りに続く道路を挟んで、コンクリート造りの四階建て住宅が並んでいる。
 集会は既に始まっていた。会場に設けられたスピーカーから、闘争アピールが激しい調子で流れている。既に五千人以上集まっているのではないだろうか。集会後方で早くもデモの練習をしている小さな部隊もいる。もっとも地方から来た部隊が会場で迷子になった仲間を、旗を目印に掻き集めているのかも知れない。
 明治公園で行なわれる集会の常で、正面に向かって左端は白いヘルメットの中核派部隊が座り、右端に慎一の所属している青いヘルメットを被った解放派部隊が座り込んでいる。集会参加者の約半分がこの二つの党派で占められ、間に挟まれるように緑、赤、黒、銀など色とりどりのヘルメットが、細い紐のように並んでいた。
 入口に立って辺りを見回すと、すぐに青いW地域反戦の旗が眼に入った。旗竿を持って芝生に座り込んでいるのは関口である。他党派の闘争アピールを聞いていた彼は、歩いて来る慎一に気が付くと片手を上げて立ち上がった。
「あいつらの言っとる事は支離滅裂でちっとも判らへん。奪還なんぞしても今の日本に隷属させるだけやないか。沖縄はやっぱ解放でなきゃあかん」
 演壇の方を顎でしゃくるようにしてそう言った彼は、足元に置いてあったサンドバックのような形をした袋の口を開いて、取り出したヘルメットを慎一に渡した。
「まだ他の連中は来てないのか?」
「いんや、寛子が来て全学連のところに行っとる。兄貴の事でも訊きに行ったんとちゃうか」
「そうか…」
 二人は並んで芝生の上に腰をおろした。慎一はナップザックからタオルを二枚取り出すと、一枚を畳んでヘルメットの奥に挟んで頭に被った。鉄筋入りの警棒でヘルメットを叩き割られた時に、破片で頭部を怪我しないようにである。もう一枚のタオルは、ヘルメットの耳のところでY字形になっている顎紐に通した。
顔の下半分を覆ってしまったタオルを顎の下まで引き下ろすと、ポケットを探ってロングピースを一本口にくわえた。
「煙草を買うのを忘れてきてしもうたんや。ワシにも一本くれへんか」
 慎一が渡した煙草に火を点けてやると、関口は大きく吸い込んだ。
「美味いなぁ。我慢しとったせいかな」
 入口付近ではさまざまな党派の人間が、集会参加者に自分たちの機関紙を売る為に歩き回っていた。およそ三十人近い売り子の中で、青ヘルメットは見覚えのある女の子が一人だけだ。
「他の連中、なかなか来いへんなぁ」
「まだ集会が終わってデモに移るまで、かなり時間があるじゃないか。そのうち集まってくるって。お前もゴッツイ顔に似合わず心配性だな」
「アホ言わんときいな。ワシは顔だけには自信持っとんのやでえ」
「よく言うよ。鬼も裸足で逃げ出すような顔して」
「それがほんまやったらワシャ無茶苦茶やんけ」
二人が笑いながら新しい煙草に火を点けた時、公園の入口付近で急に怒鳴り声が上がった。思わずそちらの方へ眼をやると、機関紙を売っていた女の子が、何人かの白ヘルメットに囲まれて小突き回されている。
「何をやっとるんじゃ、あいつらは」
 関口はくわえていた煙草を投げ捨てると、揉めている塊の方に近付いていった。
(まずいな…)
 慎一は関口が預けていった旗竿を抱えて座ったまま辺りを見回したが、青ヘルメットは慎一、関口、女の子の三人しかおらず、白ヘル部隊の後方という事もあって、周辺は白ヘルメットで溢れている。
 関口と女の子は、たちまち白ヘルメットの群れに取り囲まれてしまった。その真ん中で関口とひときわ背の高い男が口論をしている。激しい調子の関西弁に業を煮やしたのか、その男は急に関口に殴りかかり、負けじと殴り返す関口と乱闘が始まった。
(あんな遠くにいる青ヘルを呼びに行ってる暇はない)
 慎一は他の白ヘルが関口に手を出したら、自分も飛び込むしかないと覚悟を決めた。脳裏に血だらけになって横たわる自分と関口の姿が浮かぶ。しかし取っ組み合っている関口の背後から、他の男が組み付いた時までだった。慎一が冷静でいられたのは。
 反射的に旗竿を離して立ち上がった慎一は、白ヘルを掻き分けて輪の中心に飛び込んだ。背の高い男がはがい絞めにされた関口の顔を殴ろうとしたところに、慎一は思い切り頭突きを喰らわせた。男が二メートル近く素っ飛んで転倒する。その瞬間に白ヘルの輪が崩れ、慎一と関口は何人もの白ヘルに揉まれながら、夢中で手足を動かしていた。
 どのくらい時間が経ったのか判らなかった。長かったようでもあり、ほんの一瞬のようでもあった。気が付くと何処から集まって来たのか、青ヘルの一団が慎一たち三人を守るように取り巻いていた。
 およそ百人くらいはいただろうか。しばらく白ヘルとの睨み合いが続いたが、騒ぎを聞き付けた機動隊が公園の入口に集まり始め、加えてデモの出発前という事もあって、それ以上の衝突には発展しなかった。
 しかし遠く離れている本隊から助けに来たのかどうか(実際の話、向こうからこの騒ぎはろくに見えなかったに違いない)、突然現われた青ヘルメット部隊が慎一には不思議でならなかった。
 これ以上白ヘルのただ中で、W地域反戦のメンバーを待っていても危険だと判断した慎一は、関口と一緒に助けに来てくれた仲間と共に本隊の近くに移動した。
 女の子は機関紙を売る為に何人かの護衛が付いて、その場に残ったようだ。本来機関紙を売っている人間は中立と見なされて、お互いに手を出すのはご法度なのである。
 二人は反戦本隊のすぐ後ろに陣取り、旗竿を立てて座り込んだ。演壇では緑色のヘルメットを被った男がマイクに向かって、新左翼特有の口調で何事か叫んでいた。面白いもので話を聞かず演壇に眼をやらなくても、何処の党派が演説しているのかはすぐに判る。『異議無し!』と合唱したり、手を叩いている隊列のヘルメットの色を見ればいいのである。
 他党派で血気にはやった奴が立ち上がり、演壇を指差しながら熱っぽく反論している。勿論マイクを通すわけではないので、何を言っているのか見当も付かない。
 やがて学生部隊の中ほどから女が一人立ち、並んでいる隊列を縫うようにこちらに歩いて来た。慎一はそれが寛子だとすぐに判った。寛子は微かな笑みを浮かべると、慎一の隣に座り込んだ。
「兄貴の様子はどうだって言ってた?」
「救対の人の話ではまだ完全黙秘してるみたい。でも状況証拠からいって起訴は確実らしいの」
「そうなったら半年は東拘(東京拘置所)暮しか」
 慎一の言葉に寛子は弱々しく頷いた。
「父も母も警察がガサ入れに来たり、呼出状が来たりで凄く取り乱してるわ。救対の人が何回か説得に行ってるんだけど、まるで受け付けないんですって」
「とりあえず着替えなんか、こっちでも準備しといた方がいいかも知れないな」
 そう言っている慎一にしても、闘争に参加を決意した時から母との対決が始まった。納得させる事はおろか、黙認して貰うようになるだけでも、長い時間をかけなければならなかった。
 いや、黙認というよりも諦めさせたという方がより正確だろう。ここに集まっている党派を超えたすべての人間が、多かれ少なかれ親との対決から出発しているのは想像に難くない。
 慎一は努めて明るい方へ話を持っていこうとした。
「でも学生の場合は、労働者と違って東拘から出て来る時は、規則正しい生活と食事で太って出て来ると言うぜ。案外兄貴もそうなんじゃないか」
 笑って言うと、寛子もやっと小さな笑みを浮かべた。
「そうよね。私と違って子供の頃から気の弱い兄だったけど、闘争を始めてからは面と向って親とも話し合っていたし。今度の事は兄が自立していく為に、必要不可欠な試練なのかも知れないわね」
 ちょっと大袈裟な言い方がおかしかったが、真面目な寛子の横顔を見て慎一は笑いを噛み殺した…。

 時の経過と共に薄暮だった空は、すっかり闇の色に染まっていた。水銀灯が暗黒の舞台に座り込む無言の出演者たちを照らすスポットのように、カラフルなヘルメットの群れを浮かび上がらせている。慎一はじょじょに集まって来たW地域反戦のメンバーに、買ってきたレインコートを一つずつ渡した。雨が降るのを見越して隊列が出発する前に着るか、解散地点の日比谷公園まで降らないと信じて着ないかは個人の判断である。まだ充分に湿気を含んだ空気は、何人かの者にレインコートを着用させた。
(よし、雨が降らない方に賭けよう)
慎一はレインコートをナップザックにしまい込んで肩に架けた。寛子もレインコートをジャンパーのポケットにしまったようだ。関口の方は見るまでもなかった。最初から着るはずがないと判っている。気軽にゴム草履をつっかけて、デモに参加しかねない男なのだ。
今日参加する予定のほぼ全員が集まったので、関口の持つ旗を先頭に本隊の中に入っていく。六列縦隊に並んでいる反戦部隊の前の方で、慎一たちは隙間を見付けて座り込んだ。
同じ党派で同じ色のヘルメットを被っていても、地区によって少しずつ反戦の性格は異なっている。W地区反戦は(慎一たちW地域反戦を含めて)C地区反戦と共に、東京反戦でも戦闘的な部隊として名が通っていた。二つの地区反戦は、常にデモに於る東京反戦の、最先頭グループを形成している。
そしてデモの時はよほどの事がない限り、隊列のすぐ前を反戦の旗部隊が進む。慎一はあまり隊列の中でデモをした経験がない。いつも地域反戦の旗を持って本隊の前にいた。
旗部隊は一番パクられる危険があり、また確かに逮捕される人間も多かった。旗竿という本隊が持っていない『物』を持っているからである。だからこそ武器とは言えないまでも、慎一は旗を持つ事にこだわった。
 しかし今日はカンパニア闘争(一般的に実力闘争を含まないデモをこう呼ぶ)だと聞いていた事もあって、慎一は寛子と一緒に本隊でスクラムを組む事にしたのだった。
 誰も他党派の闘争アピールなぞ聞いていない。それよりも皆の関心は各地区ごとに展開されている、独自の安保粉砕闘争にあった。W反戦の連中も手近に座っている他地区の人間と、あちこちでお互いの闘争経過を話し合っている。たまに演壇の方を向いて『ナンセ〜ンス』とヤジを入れるくらいだ。
「今日のデモはカンパニアだと聞いたんですが、本当ですか?」
 慎一が振り返ると、同じ地域反戦に属する山下の不安そうな顔があった。
「俺もそう聞いてるけど…」
「そうですか」
 安心したように足元に視線を落とす彼の横顔を見て、彼も職場では孤立しており、まだ逮捕されたくないと思っているのが読み取れた。
「今日は心配する必要はないと思うよ。でも念の為に隊列の内側に入れて貰った方がいい」
 慎一が言い終らないうちに、
<それでは全員立ち上がって下さい>
と、スピーカーから一段と大きくなった声が流れてきた。公園全域を占めて座っていた人間が一斉に弾かれたように立ち上がる。
<シュプレヒコ〜ル!七〇年安保粉砕!>
<ナナジュウネンアンポ、フンサ〜イ!>
<我々は七〇年安保を粉砕するぞぉ〜!>
<ワレワレハァ〜、ナナジュウネンアンポヲ〜、フンサイスルゾォ〜!>
 次々とスピーカーから流れ出る声に、公園全体が唱和していく。シュプレヒコールと共に突き上げられる拳が稲穂のようだ。シュプレヒコールが終ると、インターナショナルの合唱が始まった。肩を組んだ人間が左右に揺れ、全体が一つの畑になったように、うねりを持って動いている。
 隣にいる寛子の小さくて華奢な肩を抱いて慎一も歌う。歌いながらいつも感じる疑問がまた湧き上がる。
(何でこの歌にしろワルシャワ労働歌にしろ、物悲しいマイナーで出来てるんだろうか?明るいメジャーで出来た闘いの歌があってもいいと思うんだが…)
 やがて歌が終って、ゆっくりから段々早くなる恒例の拍手も終った。サーッと出発前の張り詰めた空気が会場に広がる。集会前にあらかじめ決められた党派順にしたがって、隊列がデモに出発する準備に入った。
 鋭いホイッスルの音と共に赤ヘルメットが移動を始め、慎一たち青ヘルメット部隊の横を摺り抜けて、四階建て住宅の側にある出入口から出て行く。公園のいたるところからホイッスルが鳴り出し、出発を待ち切れないノンセクトが、旗を先頭に公園の後方でジグザグデモをしている。いつもの光景だ。
 三分の一ほど公園から出終わった頃、反戦の横にいた学生部隊がスクラムを組み直すと、旗部隊を先頭に出入り口に向かった。反戦の旗部隊と本隊も学生部隊の後に続く。
 慎一は反戦本隊の前から八列目くらいの右端にいた。その内側に寛子がいる。旗持ちの関口を除く地域反戦のメンバーは、ほぼこの辺りに固まっている。続々と公園を出た隊列は、日本青年館の前で右に折れ、神宮球場を左手に見ながら青山通りを目指した。
 青山通りに出るまで機動隊の姿はない。隊列は道幅一杯にのたうつ長い蛇のように、ジグザグデモを繰り返しながら進んでいった。両側の歩道には、私物を預かっている荷物係、救対、レポ、見物人等が群れをなして、同じ方向へと歩いている。
 やがて青山通りに出る手前でスクラムが固くなった。それと同時に前方で小競り合いが起こった気配が伝わってきた。隊列にいた誰もが予想していた通り、大きく広がろうとする旗竿部隊と、これを規制しようと待ち構えていた機動隊との衝突が起こったのだ。
<アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ>
 スクラムを組んだ本隊が旗竿部隊を守るように、横合いから強引に機動隊に突っ込んだ。証拠写真を撮ろうとする私服のカメラ、報道のカメラからストロボが一斉に焚かれ、一瞬辺りが昼間のように明るくなる。
<アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> 
 不意を突かれた機動隊が押し捲られ、転倒した数人の隊員が、デモ隊に踏まれないよう転げ回って逃げていく。交差点の渋谷寄りに停めてあった数台の警備車の陰から、新たな部隊が大盾を持って規制に飛び出して来るのが見えた。
(さぁ来るぞっ)
 慎一は前の奴のベルトを掴み、身体を密着させて彼の背中に頭を載せた。全員が同じ姿勢を取ったので、隊列が一層固くなる。その直後、乱れた足音が近付いたかと思うと、機動隊の大盾が『ドーン』と身体の右側に激突し、一瞬息が詰まった。慎一は大盾で足の指を潰されないように注意しながら、声を限りに叫んだ。
<アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ>
 横を向いている慎一のすぐ前に寛子の顔があった。鼻から下はタオルで覆われていて、眼だけが見えていたが、その眼が今は閉じられていて眠っているようだ。
(大丈夫かな、寛子の奴…)
 不安にかられてよく耳を澄ますと、皆の声に混じって必死に叫ぶ寛子のか細い声が聞こえてきて、慎一は少し安心した。身体を押してくる大盾に抗しながら、本隊は少しずつ進んでいた。前を見るゆとりがない為、どの方向に進んでいるのか見当も付かない。
 規制が多少甘くなってきたのを見計らって、慎一は用心しながら固く組んでいたスクラムの手を緩めた。そっと辺りを見回すと、青山通りに出てまだ二百メートルも来ていない。
(最初からこの調子だとカンパニアだと言っても、今日は相当荒れるかも知れないぞ)
 同じ逮捕されるにしても、決戦当日でありたいと思う気持はあったが、そうかと言って隊列から抜けるわけにもいかず、慎一は腹を括った。
 旗竿を持ち慣れている慎一にとって、本隊というのはただただ受身であり、何とも心もとない。それにすぐ隣で腕にすがるようにしている寛子の事も気になった。
 歩道を歩いていた救対や見物人は、途中で通行止めを食らって、今は旗部隊と本隊だけが右側を機動隊に規制されながらデモをしていた。隊列は次にぶつかる為のエネルギーを充電しているかのように、ゆっくり平穏に青山通りを赤坂に向かって進んで行った。
 青山通りは豊川稲荷の手前辺りから、穏やかな下り坂になっている。警備の担当範囲が終ったのか、並進規制をしていた機動隊がデモ隊から離れていく。
 反戦の隊列はゆっくりと坂を下って行った。坂下を望むと赤坂見附の交差点から三宅坂へ続く道は、横に並べた放水車や機動隊によって幾重にも封鎖線が敷かれ、東急ホテルや道路の橋脚を照らして、警告灯の赤い光が乱舞していた。交差点ではちょうど銀ヘルの一団が封鎖線に沿って右に曲がり、慎一の視界から消えていくところだった。
 警備車に据え付けられているサーチライトが、新たな獲物を捉えたように青ヘルメットに向かって、幾筋もの光の帯を伸ばして交錯する。
<アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ>
 前を行く学生部隊の旗が一斉に倒され、本隊と共に封鎖線を突破して国会へ進撃しようと、ジュラルミンの盾を連ねて待ち構える機動隊に突っ込んだ。
 機動隊が勢いに押されて、将棋の駒のように整然と並んでいた列が乱れ、衝突地点にサーチライトが集中する。さかんにフラッシュが焚かれ、駒落としをしたフィルムを見るように、青ヘルが浮かんでは消える。
 一列目、二列目と阻止線を突き破って、学生部隊は進んでいった。東急ホテルの窓やピロティーから鈴なりの見物人が盛んに手を叩いている。彼等にとってはこの闘いも無料で、しかも間近で見られる現実離れのした、一大スペクタクルショーに過ぎないのだろう。
 風に翻っていた反戦の旗が一斉に巻かれ始め、前方に倒された。次にぶつかるのは反戦部隊である。旗竿を全員が腰溜めに持ち、ゆっくりと坂を下り、スクラムを固めた本隊が後ろに続く。機動隊のスピーカーが大声で何かがなり立てているが、もう誰の耳にも入ってこない。
 その頃には阻止線の三列目まで進んだ学生の旗竿部隊が押し戻されて崩れ始め、後に続く本隊もその煽りを受けて後退し始めていた。旗竿部隊の退いた後には三十名くらいの学生が転がされ、機動隊員から大盾や警防で袋叩きにされている。その学生たちが逮捕されて後方に連れ去られないうちに、反戦の旗竿部隊が雄叫びを上げて突進した。
 見物人からドッと歓声が湧き起こる。ガツッ、ガツッと大盾に旗竿が突き当たり、機動隊員が慌てて学生を離して後退していく。それに代わって左右に盾を並べていた機動隊が、反戦の旗竿部隊を包みこもうと前に出てきた。旗竿部隊のすぐ後ろに続いていた本隊が方向を変え、左側に出てきた機動隊と旗竿部隊の間に強引に隊列を割り込ませた。
<アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> 
 隊列が凝縮し身体を圧迫してくる。既に隣にいる寛子の顔からは血の気が失せ、気力だけが身体を動かしているようだ。慎一は寛子の腰に手を回して、身体を支えながら声の限りに叫んだ。
<アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> 
 巨大な人間の塊と化した隊列は、面白いように前へ切り込んでいく。左側の機動隊を押し除けた隊列は、旗竿部隊を包み込むようにして大きく右旋回しながら、東急ホテルの真下を通過した。
 袋叩きにされていた学生たちも、反戦の旗竿部隊が奪還したようだ。歩道橋から見下ろしている見物人が、拍手しているのが見える。その人垣から時折焚かれるフラッシュは私服のカメラだろうか。青ヘルにビルの照明が反射し、キラキラと光る波となってうねっていた反戦の隊列は、既にホテル前でUターンをして待機している学生部隊の横に並んだ。
 交差点では反戦の後ろから来ていた、赤地に白の縦線が入ったヘルメットのML派が、旗竿を倒して機動隊の大盾を連ねた阻止線と対峙している。
 反戦と学生部隊の前で、中央本部専従の本村が肩車をされ、口に両手をあてがって大声でアジ(アジテーション)り始めた。証拠写真を撮られないように、周りの旗が彼の姿を覆い隠す。
「ワレワレワァ〜、コッカイナイ〜、ジンミンシュウカイヲ〜、ダンコトシテ〜、カンテツスルタメニ〜、サイド〜、コッカイヘムケ〜、トツゲキシタイト〜、カンガエマ〜ス」
「イギナ〜シッ!」
 本村の言葉が途切れるのももどかし気に、全員が大声で答える。たぶん後ろの方は肉声なのでろくに聞えていないだろうが、その場の雰囲気から何を言っているのか肌で感じているようだ。
(冗談じゃない。もう一発やってやらなきゃ気がすまない)
 機動隊と正面きって衝突かった事で、全員が好戦的な興奮状態になっている。慎一は見物人に紛れて、心配そうにこちらを見ている渋沢友子を見付けた。彼女の役割はW地域反戦の救対担当である。手を上げて友子に合図を送ると、今はぐったりとして立っているのがやっとの寛子を、慎一は抱えるようにして隊列から連れ出した。機敏に事情を察した友子が駆け寄って来る。
 道路に座らせて、寛子の口を覆っていたタオルを下ろしヘルメットを脱がせると、友子の持っていた水筒から水を含ませた。顔色を窺うと思ったより酷い状態ではないらしい。
が、一応大事をとって友子に解散地点である日比谷公園に、デモから離れて連れて行くよう頼んだ。寛子と高校時代から一緒の彼女は二つ返事で引き受け、さりげなく近付いて来たレポ(レポーターの略。斥侯あるいは偵察員として警備状況などをデモ隊の指揮者に教え、事務所に闘争経過の連絡を入れるなどの役目を持つ)二、三人と寛子を護るようにして隊列から離れて行った。
 その後ろ姿を見送っていた慎一が、見物人から上がった歓声に振り向くと、交差点でML派の旗竿部隊が機動隊に突っ込んだところだった。
 慌てて元の隊列に戻ると、待っていたように反戦と学生の部隊がスクラムを組み、肩を並べて交差点へと進み出した。期せずして両側から闘いを挑まれた形になった機動隊は、最初のうちこそ盾を並べて耐えていたが、司令官の叱咤にも関わらず一人が逃げ出すと、プツンと緊張の糸が切れてパニック状態に陥った。
 機動隊員が我先に大盾を放り出して逃げ出し、ML派と青ヘルの間に挟まれて、逃げ遅れた何人かが隊列の下敷きになった。もっともそれは慎一のように、肉塊を踏んでから気が付いた者が何人かいただけで、大半の者は判らなかったかも知れない。
 勝ち誇ったようにジグザグデモを繰り返す隊列の傍らでは、それまで歩道で見物していた弥次馬が、散乱している大盾を蹴飛ばしたり踏み付けたりして気勢を上げている。
 ボコボコに歪んだ盾の裏には、彼らがジッとデモ隊の攻撃に耐えている時に、恐怖を押し殺す為に見続けていたであろう勇まし気な鷲や虎の絵が描かれていた。
 突如『バン!バン!』という音と共に催涙弾が発射され、隊列の先頭にいた数人が直撃を受けて転倒した。傍にいた連中がすぐに倒れた仲間を抱き起こし、駆け付けてきた救対に彼を引き渡している。
 辺りは白い煙に包まれ、なおも白い軌跡を残しながら、催涙弾が幾つも頭上を飛んでいく。煙は眼に刺激を与えるだけではなく、そのキナ臭い匂いは呼吸をも困難にした。隊列の進撃が止まり、思わずスクラムを組む腕の力も緩んでくる。
 それを見越したように『青ヘル、ML、全員逮捕!』のカン高い号令と共に、機動隊の総攻撃が始まった。
 前方から喚声と乱れた足音が津波のように近付いてくる。あっという間に隊列は崩れ、バラバラになって日比谷方向に退却し始めた。
『バン!バン!』と間断なく発射音が聞こえ、足元に催涙弾が跳ね飛んでいく。前を駆ける人間に足を取られて一人が転倒すると、すぐに十数人が一塊となって転んでしまう。慎一は見物人も逃げてしまった東急ホテルに沿って走った。途中でML派のヘルメットを被ったまま倒れている男を見付け、引き摺って逃げようとすると傍を逃げていた何人かがすぐに手を貸してくれた。
 見物人に紛れ込む為に慎一はヘルメットを投げ捨てた。手伝っている他の者もすぐそれに倣う。運んでいる男のヘルメットを剥がすと催涙弾の直撃を受けたのか、額がかなりの血で染まっていた。一人が覆面に使っていたタオルを傷口に押し当て、慎一と他の人間で抱き上げたML派の男を注意して運んでいった。
 既に慎一たちは、機動隊の波に追い越されていた。しかし、ホテルの壁際に沿って歩いているので、あまり慎一たちに注意を向ける機動隊員がいない。たまに気が付く機動隊員がいても、運んでいる男の頭に巻かれたタオルに滲む血を見て、後が面倒と思うのか近寄っては来なかった。
 ようやくの事で人のいない中立地帯を越え、デモ隊の側に入って慎一は大きな息を吐いた。一緒に運んでいた見知らぬ連中も同じ思いだったろう。辺りはヘルメットを被っている者、いない者で騒然としている。
 興奮の醒めやらない弥次馬が、逮捕者を連れて引き上げる機動隊を追って、何処から持ってきたのか石を投げている。それを制止する誰かの大声が聞こえた。
「石を投げるのはやめろ!仲間に当っちまう」
 慎一たちはML派が固まっているところへ、連れて逃げてきた男を運んでいった。すぐに数人が駆け寄ってきて、彼の様子を見て『救対、救対はいるか!急いで病院へ運ぶから車を捜せ』と叫び声を上げた。
 タオルは深紅に染まって絞れるほどで、誰が見ても重傷だというのが一目で判る。慎一は責任者らしき男に、彼の被っていたヘルメットの脇に、南部と書かれていたと教えた。
『おーい。誰か南部の奴はいるかぁ』と叫ぶ声を聞きながら慎一はその場を離れると、青ヘルメットが集まり『隊列を組め!六列縦隊で隊列を組め!』と声が聞こえる方に歩いて行った。
 途中で隊列に入る気力をなくしている男から、慎一は青ヘルメットを取り上げて被った。そのヘルメットの前には全共闘、後ろには上智大学と書かれていたが、頭を守ってくれる事に代わりはない。
 散開している旗竿部隊は、既に旗竿を前に倒して再度の突撃体制に入っていた…。




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