20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名: 作者:musa

第1回  
1

 仕事を終えパソコンの電源を切る。帰ろうとして立ち上がると、後ろから肩を叩かれ
 「棚橋君。今日は一杯どうだい?」
 年上の同僚職員は、ジョッキを持つような手を口元に傾けて見せる。その仕草を見て、俺は今日が金曜日であったことを思い出し、身に染みるような疲れと今週も終わったという安堵感とで、ふと脱力する。

 喉を伝うピリピリとした感触が心地よい。俺は飲み干したビールジョッキをテーブルの上に置き、ふと周りを見渡す。モワッとした居酒屋の店内、一週間の疲れを癒しに訪れた同志たちの声が飛び交い、俺は先輩職員たちの会話を尻目につまみの枝豆を噛みしめながら一人、温い毛布を手繰り寄せるような安堵感をゆっくりと味わう。
 「昨日もうちの嫁がなぁ。」
 酔いが回り始め顔を赤く染めた先輩職員たちは、いつも決まってこの話題を口にする。
 「帰りに嫁からメールが来たから見てみたら、途中で牛乳と卵を買って来いって言うんだよ。もう家のすぐ近くまで帰ってきているのに」
 続いて他の同僚が、
 「うちの妻なんか、土日には家でテレビ見ている僕の目の前の床を、無言で掃除機掛けするんですから。もはや家に僕の居場所はないですよ。」
 それに負けじと、もう一人が
 「いや、うちの妻は先日、俺の目を見てはっきり『嫌い』と言ったからねぇ!」
 まるで怒涛のように畳み掛ける者たちに、置いてきぼりを食った俺は手持無沙汰になり、ふと手にしたメニューをぱらぱらとめくっている。
 「棚橋ぃー!」
 隣から同僚の一人が赤く染まった太い腕を俺の首に乱暴にかけると、
 「お前もいい加減、結婚しろよ。但し、うちの嫁のような女は絶対にもらっちゃいけないがなぁ!」
 そう言うと同志たちは揃って大口を開け、下品な笑い声を上げる。俺以外の既婚者たちは、俺といくつも歳に違いはないのに、肌の色は浅黒く、シャツの前は突き出た腹ではち切れそう。この者たちに俺は一種の嫌悪感のようなものを感じていた。
 「いつまでもチャンスがあると思うなよ。結婚にもタイミングってものがあるんだから。」
 先ほどは嫁の悪口を言い合っていたかと思えば、急に真顔で賢明な教師のように語り出す先輩たちは、
 「そうさ。女が振り向いてくれるのも今の内だぞ。君はまだ若いんだから。」
 口々に説教する先輩職員たちの輪の中で、俺は肩身の狭い思いを感じながらしきりにうなずく。が、内心はそんな話に耳を傾ける気はなく、ただ、この嵐のような時間が過ぎ去るのをじっと待っているのだった。
 「なんでも、結婚しない最近の若者は、結婚して自分の時間を潰されるのが嫌だそうだ。」
 一人が言うと、後の二人はわざとらしく大声で唸り、顔をしかめる。
 「結婚もせず、自分のことだけしている内はまだまだ半人前さ。」
 その言葉を皮切りに、三人はまた俺を置き去りにして独身議論を熱く交わし始める。解放された俺は内心ほっとしながらも、あれだけ愚痴をこぼしていたにも関わらず、しきりに結婚を勧めてくるこの者たちの気持ちが不思議に思えた。
 それと、先ほど一人が述べていた種類の独身男性と俺とでは少し事情が違う、と付け加えたい気持ちがあった。彼は、独身男性が結婚を嫌うのは、自分の時間を潰されない為だと言ったが、俺はおそらく他の独身男性に比べて、そのような気持ちは比較的薄いだろうと思う。と言うのも、そのような独身男性の大半は、熱中する趣味のようなものがあって、その点からして俺は、これと言った趣味もなく、唯一好んでいることと言えば、時間がある時には欠かさず見る野球くらいなものだった。
 俺は時間があれば球場に足を運び、熱狂する観客の群れの中で一人、まるで憑かれたようにプレーの一つ一つを見つめる。打者がヒットを打った時、ピッチャーがアウトを取った時、あのプレーはどうだったとか、もっと違う作戦や配球があったのではないか等と考えては、一人でぶつぶつ念仏でも唱えるようにつぶやいている。そんな俺の趣味も、一人で居ることの寂しさからきているものだったが、だからと言って、その解決法として「結婚」の二文字が俺の頭に浮かぶことはない。
 もう一つの訳。それは両親の離婚。俺の両親は、まだ俺が小さい頃に別れ、俺は別れた母に引き取られて育ってきた。いわゆる母子家庭というやつだ。でも、世の中で離婚する夫婦は星の数ほどいるし、母子家庭の子供だって、俺だけに限ったことではない。多少は周囲に気を遣われるが、かと言って、取り立てて騒ぐほどのことではない。そう自分なりに自覚してはいる。
 しかし、このことが今日までの俺の人生に決定的な傷をつけたことは、紛れもない事実であった……。


次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 233