あるバーのカウンター席で、30代前半の女性、渡辺香織が、 マスターと談笑していると、吉野達彦があわてて現れる。
「あらっ、達彦。もう7時すぎちゃたわよ」 「えっ〜? そんなバカな、あと1分あるんじゃ…」
達彦は、店の中央の柱にかかる、大きな時計をみる。
「うっ、うそ! 1分過ぎてる」
香織はニコッと笑い、 青ざめる達彦にプレッシャーをかける。
「ねえ、達彦。先週の約束、覚えてる?」 「あ、ああ…」
「今度待ち合わせに遅れたら、私にプロポーズするって」 「でも、あれは酒の席で交わした罰ゲームじゃん」
「罰ゲームなら、破ってもいいの? や・く・そ・く」 「ウソだろう、罰ゲームでプロポーズって」 「私はかまわないわよ、やって! 一世一代の愛の告白を」
マスターは、お皿を拭きながら、 その光景をほほえましくみつめている。
達彦は覚悟を決めて、香織の座る席の前にひざまづき 今まさに、プロポーズする態勢に入る。
「渡辺香織さん、ぼ、僕と結婚してください」 「達彦、私のこと、そんなに愛してたの?」 「は…、はい。心からあなたを愛してます」 「そう、あなたがそんなに言うなら、結婚してあげてもいいかな」 「あ、ありがとうございます」
達彦は、罰ゲームが終わったと思い、マスターにお冷をもらう と一気に飲み干し、受け取ったタオルでハンカチで汗をぬぐう とトイレに向かった。マスターは、ニコッと笑い、香織に話し かける。
「達彦さん、相当焦って、走ってきたんですね」 「いい気味よ。それよりマスター、ちゃんと撮れてるかしら? ビデオ」
「もちろんです。でも、本当にいいんですか? さっきのを動 画サイトにアップして、達彦さんのご親族や、会社の人たちに、 プロポーズの瞬間を見せちゃったりして…」
「かまわないわ。私たち8年もつき合ってるのに、結婚の『け』 の字さえ、クチにしなかったのよ、あの男。彼の元カノにも、 匿名で、動画のURLを送ってやるわ」
マスターは、肩をすくめて、「女の執念は怖いね」という仕草 を、近くにいた黒人の従業員サムにアピールする。
サムは、ちょっとほほえむと、ゆったりしたリズム&ブルース の曲を流し、店の時計の針を、正確な時刻に直した。
「ねえ、マスター、この曲、いいわね」 「ええ、この図体のデカイ男、サムが大好きなんですよ」 「この曲のサビの部分がいいわね」
“My watch / may be / one or two minutes / fast.” 私の時計 / 〜かもしれない /1分か2分 / 進んで
「マスター、ありがとう。時計もビデオも」 「いえいえ、香織さんこそ、ご結婚おめでとうございます。 どうです、シャンパンでもいかがですか?」
「ありがとう。いただくわ。うふふ、結婚式でも、あのビデオ を流すわね。あっ、最初の罰ゲームの話とかはカットしておい てね」
「はいはい、わかってますよ。今、奥の部屋での編集も終っ たようです。あっ、これが動画サイトのQRコードですね」
マスターは香織に、メモを渡すと、 静かにほほえむサムに話しかける。
“Does / your watch / keep good time?” 〜ですか? / 君の時計 / 正確な時間
“No, / it loses / ten minutes / a day.” いいえ / 遅れる / 10分 / 一日
「今どき、一日に10分も遅れる時計って、そうそう ない代物よ。でも、それで、よく遅刻しないわね」
香織の言葉に、マスターは苦笑するばかりだった。
了
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