僕は大学卒業後、就職した会社の女性と結婚しました。彼女は 4歳年上。僕が3階の経理課で、彼女は4階の総務課でした。
彼女と知り合ったきっかけは携帯電話。二人とも同じバッハの 『イタリア協奏曲』を着信音にしていたんです。
それを知ったのは、社内の休憩室。少し離れたところで『イタ リア協奏曲』の着信音が聞こえたので、僕は驚きました。自分 と同じ曲を着信音にする人など、見たことがなかったですから。
いったい、どんな女性なんだろう?
僕は彼女のふりむく姿を見たくて、その場から動けませんでし た。電話が終わり、ふりむいた彼女は僕の視線に気づいて、ニ コッと笑い、軽く会釈してくれました。
「かわいい!」
僕の心は、あの瞬間、彼女の笑みに鷲掴みにされました。同じ 経理課の先輩は、彼女をみると鬼にしか見えないといいますが、 僕にとっては、今まで出会ってきた中で最高の女性です。
僕らは意気投合し、いっしょに夕食をしたり、休日にはボーリ ングやドライブにも出かけ、そしてついに僕がプロポーズして、 今に至っています。
すべては『イタリア協奏曲』のおかげ、と思っていました。で も、真実はちょっとだけ違ってました。
今週の月曜日、専務が経理課に来て、僕に英語の通訳をするよ う命じたんです。ドイツの人との商談を前に、通訳が風邪で倒 れたため、急遽社内で英語のできる人を探したのです。
「すみません、専務。僕、英語の資格とかないんですが」
「わかってるわ。履歴書みたから。でも、あなた、2年くらい 英語でブログとか毎日書いてたでしょう。大丈夫、君ならやれ るわ!」
「なぜ専務が、僕のブログのこと知ってるんですか?」
「そんなこといいから、上の第一会議室にいそいでね。 もうすぐ来られると思うから」
「は、はい…。わかりました」
僕が経理課の人たちをみると、みんな、なぜかニッコリした顔 で見送ってくれまて、通訳の仕事が終わったら、直帰していい ぞと課長にいわれました。
僕は大学3年から4年まで、ほぼ毎日英語でブログを書いてま した。最初は海外の人と知り合いができればとので思でした。 途中、すごくキレイなドイツの女性が、僕のブログにコメント を書き込んでくれて、それが嬉しくなって続けたんです。
ところで、通訳の仕事は、なにとか乗り切れました。僕が心が けたのは、ゆっくり大きな声で、はっきり発音することです。 でも、それがドイツの人たちにも好評で、午後も引き続き僕が 担当しました。
夜7時に帰宅しての夕食で、誰にも話したことのないはずの僕 のブログを、なぜか会社の人が知っていたと、妻に話しました。 すると、彼女は、
「ごめんね、実は、わたしも知ってたの」
「えっ! そうなの?」
「たしか3年前かな、会社の休み時間に偶然あなたのブログ見 つけちゃったの。最初は英語ばかりで、やめようかなと思った んだけど、やさしい単語を使ってたし、英語の勉強になるかな と思って読んでたのよ」
「でも、なぜ僕って分かったの?」
「あなたがブログに張りつけた写真よ。これから面接に行きま すという記事に、会社の写真が写ってて、私も社内の人たちも、 みんなビックリしてたわ。それに経理課に配属されたって、自 分でブログに書き込んだじゃない」
「そりゃあ…、バレるよね」
僕は照れ笑いすると共に、穴があったら入りたいくらい恥ずか しかった。あの頃、例のドイツ人の女性に、熱烈に思いを寄せ ていたのが丸わかりじゃないかと…。
「実は、私もみんなも、あなたとドイツの女性の恋愛がうまく いくのを期待してたの。でも、お互いの音楽の趣味がちがうこ とが分かってから、あなた方のコメントはスレ違うようになっ たわ」
「君、ぜんぶ読んだの?」
「ええっ、ヘビイ・メタルはクラシックの基本構造の上に構築 された音楽って彼女書いていたでしょ。それであなたは彼女の ために一生懸命ヘビイ・メタルを好きになろうとしたわ」
「うん、でも結局、好きになれなかった」
「知ってるわ。実は私、あなたが好きだとブログに書いた曲、 ぜんぶ聴いてみたの。それまで私、全然クラシックに興味がな かったのに、すごく感動したの」
「ほんとに?」
「ええっ、南房総の実家にバッハの古いレコードがあるって、 あなた書いたでしょう? それ、私、聴いてみたいなあって思 ったの。それで経理課の知美のアイデアで、あなたの着メロを 真似して近づいたの」
「……」
「どうしたの? 怒った?」
「いいや、こんな幸運に出会わせてくれたバッハに感謝してた んだよ。そうだ、彼のように子だくさんの家庭にしようか?」
「それは、いいアイデアだわ。 でも、その前に、ご飯にしま しょう」
了
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