何を言われたのか解らず、マローは宝石箱から視線をアイラへと移して困惑気味に首を傾げる。気の抜けた声だったのは、何故そのような事を言われたのか全く検討がつかなかったからだ。 何か粗相をしただろうか、とマローは自分を思い返すが、特に思いつかない。勉強の件だろうか、とも思ったがそれではない気がした。 しかしアイラは真剣に、マローの瞳を見続ける。
『言わなくても、解って』
そう、訴えている気がしてマローは多少身動ぎしつつ、ふと、昼間の出来事を思い出した。 廊下で、あの騎士のトモハラが自分に何かを差し出していた。話しかけられて、動揺してしまった。常に傍にいたが、一定の距離があったし、視線も合うことなどなく。まして会話することなども、なかった。 跪いていたトモハラを見下ろせば、何かを差し出していた。それが、自分への贈り物であるということはマローにとて瞬時に理解出来た。 小さすぎてなかなか見えなかったが、それは紛れもなく宝石だった。 マローは、宝石の金額を知らない。買い物をしたことがないので、金銭感覚がない。そもそも、金銭が発生することも知らない。今までは、望めば全て出てきたからだ。 だから、トモハラが苦労して購入したものだった、ということが解らない。宝石の装飾品が、どのように完成するのか、工程も知らない。 大きい宝石のほうが華やかだから、小さい物は要らない。トモハラならば自分が煌びやかな宝石を身につけていることを十分知っている筈なのに、小さいものを差し出してきたことが非常に気に入らなかった。 だから、払い除けた。 そこまで思い出し、少しだけマローは。 チクリ。 胸が、痛んだ。 細い針が、胸に刺さったかのように、顔を顰めて胸を押さえる。トモハラの残念そうな、哀しそうな表情を思い浮かべたら、何故か。 苦しくなった。
「マロー。人はね、過ちを必ず起してしまう生き物です。でも、言葉があるから謝る事が出来ます。そして二度と起こさないように心がけることが出来るのです。もしね、後でマローが『ごめんなさい』を言うべきだったと思ったら。その人に、ちゃんと言いに行くのですよ。貴女は、素直な利巧な子です。出来ると私は思ってます」 「……うん。悪いと思ったら、謝る」
小さく俯き加減で呟いたマローに、優しくアイラは微笑むとそっとマローを抱き締めた。正面から抱き締めて、髪を、背中を撫で続ける。
「マローは、素直な良い子です、だから、とても可愛らしい」
撫でられながら、マローもぎゅ、っとアイラに抱きつく。息を軽く吸い込み、吐き、瞳を固く瞑りながら唇を噛んだ。トモハラの、思い描いた表情が、何故か頭から離れなくて。 もし、あの時。 受け取っていたらトモハラはどうしたのだろう、顔をあげて、笑ってくれたのだろうか。それを、想像したら。 何故か、マローは顔が赤くなった。無邪気に、半泣きで、笑うのだろうか。無意識の内に胸のトモハラがくれる筈だった首飾りを、服の上から触れてマローは。
……ごめんね、ありがとう。
唇だけそう動かしたが、とてもトモハラに『あれがやっぱり欲しい』と言いに行く事など出来そうもなく。ただ、似ているこの首飾りを大事にしようと思った。それが本物なのだが、マローは知らない。アイラも、告げることはなかった。 暖かなベッドの中で、アイラと手を繋ぎながら窓から見える月を見ていた。月に懸かる雲が、影を作る。月影の晩に、マローは一人溜息を吐き続けた。 気に入らないのは、何故かトモハラを思い出すと憂鬱になるという、この自分。今も外に、トモハラは控えているだろう。マローが安心して眠れるように、警護をしている筈だ。 しかし、いるだけで何故か胸の鼓動がずれてしまう。安心して、眠れない。ドキドキして気持ちが悪い、自分の思うように身体が動いてくれない。 そっと、マローはベッドから足を下ろした。強く握っていたアイラの手を静かにほどいて、一人ドアへと向かう。 月光の微かな灯りを頼りに、ドアを静かに開いて様子を窺った。
「いかがされました、マロー様」
マローのお就きの騎士が数人、直様ドアの前に集合する。顔だけ出して、トモハラを捜したが見えない。後方に控えているのだろう、声すら聴こえない。
「……眠れないの。眠れるように何か頂戴、お水は飽きたわ」
騎士達は、何か相談していたが、直ぐに走り出す音が聞こえた。 数分後、戻ってきた騎士はトモハラだ。何かを持ってきたらしく、ドアの前に導かれてマローの前へと進んでくる。思わず、胸が高鳴ったマロー。 しかし、僅かに視線が交差した程度で、トモハラはすぐに視線を下へと逸らした。
「蜂蜜がたっぷり入った、温かなミルクです。お口に合えば良いのですが」
それだけ告げて、マローに手渡すとトモハラは深く一礼をして再び後方に下がる。位の高い騎士が前に出たので、あっという間にトモハラの姿は見えなくなった。
「……おやすみ」
マローは、ホットミルクを片手にドアの奥へと消えていった。深く頭を垂れている騎士達を見つめる、トモハラの髪が見えた。 ありが、とう。 唇を動かし、茶色いトモハラの髪を眺めつつ。ドアを閉めて、窓辺でホットミルクを口にした。甘くて、温かい。トモハラが作ってくれたのだろうか、加減がマローに丁度良かった。甘さも、温度も。
「美味しい……」
肩の力が抜けて眠れそうなマローは、再び姉の隣にもぐりこむ。 その月影の晩に、マローは夢を観た。
『マロー姫様、ホットミルクですよ』 『ありがとう、トモハラ。あなたを、あたしの専属のホットミルク屋さんにしてあげる。毎晩、ちゃんとこうしてホットミルクを運ばなきゃ駄目よ。毎日、作って来なきゃ駄目なんだからね。部屋で待っているから、持ってきてね』 『はい、解りました。マロー様の為に、毎晩ホットミルクを持って会いに来ますね』
夜、皆が寝静まるとトモハラが一人、マローの為に作ったホットミルクを持って部屋に来てくれる。飲み終わるまで待って、会話もなくただそれだけなのだが。 それでも、その夢で二人は静かに微笑み合っていた。月を背に、柔らかに微笑んでいる、それだけだったが、何故か嬉しかった。 ……という、夢を観た。
朝起きたら、マローは夢を現実にしたくなった。 けれども。 いざ、トモハラにそれを告げる事が出来ずに。次の夜もマローは騎士達にまた「眠れないから、何か頂戴」と、同じ台詞しか言えなかった。トモハラは毎晩確かにホットミルクを作ってきたが、それは事務的な仕事だ。 あの夢のような、ホットミルクのように、甘くて暖かな時間を過ごす事などあるわけがなく。一礼して下がっていくトモハラが、無性に歯痒い。 この気持ちが何か解らなくて、どうして良いのか解らなくて、マローは一人、今日もホットミルクを一人で飲んだ。 というのも、少し、理解出来たことがある。 アイラについているミノリという騎士を観察してみた。彼は、トモハラと同等の立場だと思うのだが、常にアイラの傍にいて、普通に会話もしている。おまけに互いに目を見ていた、笑っている時もあった。 仲が良すぎて、時折マローはミノリに嫉妬を覚えた。姉を盗られた様だった。騎士の分際で! と腹立たしく思ったがそれよりも問題なのは。 騎士トモハラとマローには、そんな事がないという事実である。 一歩引いてマローに接しているトモハラが、どうにも憎い気がしてきたマロー。同じ姫と騎士なのに、どうしてこうも違うのか。 まさか、それが。
『あたし、お姫様なの』
マローが以前トモハラに告げた言葉で壁が出来たとは、夢にも思わず。トモハラの性格がミノリよりも生真面目過ぎて、出過ぎた真似が出来ないのも手伝っているのだが、それはマローが知らない事だ。 そして何より、アイラとマローとでは、騎士達に対する接し方が大幅に違うのである。それも、マローには見当のつかないことだった。 アイラは、誰にでも自分と同じ身分だと思って接するのだが、マローは自分が姫であるゆえに、可愛がられているゆえに、自分を最上位として、下のものに接する。 絶対的な存在として見て貰いたい欲求が強いので、つい口調も強くなる。それは、一国の姫として相応しい姿かもしれない。権力のある者は、下の者に誇示して良いのかもしれない。 けれども。 盛大に、皿が割れる音が響いた。皆、顔を青褪めそちらを見る。
「ちょっと! 何これ、美味しくないっ。あたし、これ嫌いなのっ。誰、こんなの作ったのっ」
口元を押さえて、マローが悲鳴に近い声を上げる。毛嫌いしている食材が入っていた、宥めている女官を張り倒し、テーブルを叩いて憤慨する。
「それにっ! あたし、この種のレタス嫌いだし、パプリカも好きじゃないし! なんか今日の食事、美味しくないわ! 誰よ、料理長はっ」
怯えて厨房から料理長と料理人が出てきたので、マローは勢い良く傍らの水を二人に向かって投げつける。姫の怒りに、皆震え上がるしかない。誰も止められない。 口を大きく開けて、何か叫ぼうとしたマローだが。
「やめなさい、マロー」
ドアが勢い良く開き、アイラが入ってきた。 先程まで乗馬を嗜んでいたアイラは、マローと共に夕食を摂っていなかった。騒ぎに気付き、先に到着してアイラが来る用意をしていた騎士の一人が、血相を変えて呼びに戻っていた。機転を利かせたのだろう、よくアイラとマローの性格を把握出来ている。 しかし、アイラの登場を良く思わない者のほうが多いのは、周知の事実である。止めに入ったアイラを、逆に止め始める者達が多かった。
「アイラ様、お言葉ですがマロー様に何を告げるおつもりですか。マロー様のご機嫌を損ねた料理人たちは、それ相応の処遇を受けるべきでしょう」
横から、声が降りかかる。が、アイラは怯まずに真っ直ぐにマローへと進む。止めようとした者達を、アイラの騎士達が塞ぐように邪魔をする。
「この方達が、精神込めて作ってくださった料理です。口に合わなくても、床に捨ててはいけません。マローは知らないかもしれませんが、野菜は勝手に生えてはきません。誰かが一生懸命育てた、大事な食べ物です。食事にありつけない人々もいるのですから、ありがたく食事をしないと」
ヒステリックに叫び続けるマローに、ピシャリ、と真正面から多少怒気を含んだ声でアイラは告げた。その声は、平素共に居るアイラの騎士達でさえ聴いた事のない、トーンだった。物腰柔らかで、明るい声のアイラではなく、思わず背筋を正し、聞いてしまいたくなるような威圧感のある声だった。 しかし、マローとて負けてはいない。味方のはずの姉に、大勢の前で怒られた多少の混乱も手伝って、テーブルの上の食器を振り払いながら反抗する。
「だって、不味いもの! あたし、お姫様よ!? こんなの食べられないわ!」 「でも、マロー。いつか、そのマローの苦手なものを食べなければいけないときがくるかもしれません。少しずつ、慣れていけば良いのですよ。パプリカ、口にしましたか? 見た目も華やかで、栄養もあります」 「食べなくても、美味しくないって解るのっ。あたしは、好きなものだけ食べて生きていくのっ」
二人の口論は続く、アイラは冷静だが、マローは頭に血が上っている。
「アイラ様、出過ぎた真似はおよし下さいませ。この国は、マロー様が統治されます。頂点に立つマロー様の言い分が最も正しいのですよ」
周囲から飛んだ誰かの、一言。一瞬、室内が静寂に包まれた。 あからさまなその言葉に皆が口を噤み、気まずい空気に俯いたのだが、アイラは臆しなかった。真正面を見据えたまま、その声の持ち主を特定したのか、無意識なのか、偶然なのか。 アイラはゆっくりと首を動かし一定の方向で、静かに、しかし凛とした声で告げた。その人物に問い聞かせているのか、その場にいる全員を対象にしているのか。少なくとも、その場に居た者達は戦慄した。
「頂点に立つ者の我儘を全て聞き入れていては、国は滅びます。マローが統治することに異存はありませんが、姉として人の心を解れる妹であって欲しいのですよ。あなた方が、国を愛しているのであれば、横暴な振る舞いをする者に生活を護って欲しいと願いますか? 心から信頼し、護りたいと思う主君であるからこそ、皆頑張れるのでしょう? 違いますか? 国民を魅了する器量は無論今のマローならば容易い事です、ですがそれに加えて、自制心及び自戎心……それらが国を治める者なれば、必要不可欠だと私は思います。まず、国を、そして民を思い、意見を聞いて皆を先導する妹になって欲しいと思っているのです。……あなた方は、違うのですか? そういう女王であって欲しいと願わないのでしょうか?」
沈黙する。何も間違ったことは言っていない、傍若無人な振る舞いの権力者により、潰れていく国は過去に多々あった。 呆然とアイラの声に耳を傾けていた皆だが、何処かで誰かが呟いた。
「偉そうに……マロー様に説教など」
声の主を捜すべく、アイラの騎士達が思わず剣を手にかけてしまう。辛うじて堪えた者もいたので、必死に他の騎士に押さえるように小声で注意を促したのだが、案の定だ。遅かった
『呪いの姫君は、暴力で解決しようと! 騎士達はすでに手中にあり』
騎士達の振る舞いが、アイラへの厳罰へ繋がる。主君を下卑され頭に血が上る騎士達を、皆は快く思わなかった。呪いの姫君は、正当な言い分すら聞き入れてもらえない。 小さなざわめきが、大きな罵詈雑言になり部屋中を埋め尽くす。 しかしアイラは気にすることなくマローに振り返ると、困ったように微笑む。
「マロー、少し考えてみるのです。私の言った意味、解りますよね?」
唇を噛み、マローはぎこちなく頷いた、だが、釈然としていない。自分は姫なのだ、何故、我慢せねばならないのだろう、と。 もし、噂さえなかったら。国の頂点に立つ器量の持ち主は、アイラだと皆思うだろうに。誰でも、他者を気にかける王族が良いだろうに。
「良いですからね、マロー様。お好きなものだけ食べていれば」
近寄ってきた女官は床に散らばった皿と料理を片付けながら、わざとらしくアイラを突き飛ばすように邪険に扱った。ミノリが剣を僅かに引き抜いたのだが、仲間の騎士に懸命に「堪えろ」と手を重ねられ、腸が煮え繰りながらも、歯を食いしばる。目を血走らせながら荒い呼吸を繰り返し辛うじて、堪えた。再び、自分達の行動でアイラが追及される事を恐れた。 しかし、アイラは気にする様子がない。
「アイラ様、お戻りくださいませ。今はマロー様がお食事中です」
一瞥し、アイラに頭を下げた女官。ここは食堂だ、アイラとて食事する権利があるのに何故追い出されるのか。不当な女官の言葉にいい加減騎士達は剣を抜きかけている、葛藤で無理やり唇を噛締める。このような愚弄、耐えられない。 アイラは溜息を吐き、項垂れている料理長達に謝罪の言葉を投げかけた。
「申し訳ありませんでした。処罰などありませんから、仕事場にお戻り下さい」 「アイラ様、何を勝手に。マロー様からのお言葉がまだです、料理長たちは残りなさい」
青褪め、今にも卒倒しそうな料理長は、女官の言葉に硬直し、震えながら俯いている。料理人とて、涙を流しながら床に崩れ落ち、堪えているものの嗚咽が漏れていた。 アイラは、引き下がらなかった。 料理人たちの前に立つと、大きく両手を広げる。眉を顰めて、皆アイラを見た。
「故意に、料理を出したわけではありません。何故そこまで咎めなければならないのでしょう」 「マロー様の機嫌を損ねたから、です。アイラ様、下がりなさい。貴女にそのような権限はないのですよ? 嵩高な物言いはおやめください」 「権限? 嵩高?」
アイラは言った女官を見た、哀れむように見た。
「これでも、マローの姉です。妹を正すのは、母様がいらっしゃらないのであるならば、私の役目でしょう。マローの姉ということは、この城での権限は貴女よりはあると思います」
正論である、流石に言葉に詰まる女官。 一呼吸おいて、アイラは唇を開いた。 それは。 珍しく怒気の籠もった表情と、絶対的な声の威圧感。
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