王子達が滞在して、数日が経過した。
「お姉様、私、トレベレス様とベルガー様と遊んでくるからお勉強、やっておいて欲しいの」
すっかり懐いて王子達から片時も離れないマローは、アイラの目の前に大量の書物を差し出して微笑んだ。 可愛い美しい素晴らしい愛らしい、と持て囃され、我侭言えどもすぐに希望通りのものが出てくる。国にはなかった珍しい物も、毎日のように届けられて遊びに飽きが来ない。日頃の習い事や勉強は疎かに、字体は似ているので可能なものはアイラに押し付ることにした。 王子達との遊びは其れほどまでにマローを虜にした、何よりトレベレスと会話するのが特に楽しみだった。朝早く会いに行って、一日何度もドレスを着替え。夜遅くまで一緒なのは、アイラも知っていた。 元々、美しいものが大好きなマローだ、見た目麗しいトレベレスとベルガーの傍らに居られるのは、それだけで嬉しい事なのだろう。
「でも、マロー。少しはやっておかないと」 「いいの、私。可愛いから」
にっこりと嬉しそうに微笑み、ドアを開いて飛び出していく。軽い溜息一つ、アイラは一人机に向かうとマローが溜め込んだ勉強を片付け始めた。勉強は好きだが、流石に量が二人分では多い。 その頃部屋の外で待機しているミノリの前を、トライが通り過ぎる。あからさまに眉を顰めたミノリだが、気にすることなくトライはノックをして部屋に入っていった。 アイラに関しては他国の王子が近づくこうとも、誰も文句は言わない。例え姫独りきりで部屋にいたとしても、喜んで招き入れる。中で何かが起こることを願って、外から施錠してしまいそうな勢いなことを、ミノリとて重々承知していた。ただ、それは死刑になろうともミノリは妨害する気でいた。ゆえに、腰の剣を強く握り締め、挑むような目つきで室内を睨みつける。 アイラの悲鳴さえ上がれば、蹴破って突入してみせるつもりだった。 流石に騎士といえども、今ミノリは入ることが出来ない。 ミノリはドアの前で控えている他の召使達の前を、何度も往復する。声を聞き取ろうと時折壁に近づくが、聴こえない。一気に身体中から汗が吹き出した、胸の鼓動が速く、思わず唇を噛み締める。 いけ好かない王子だが、身分が違いすぎるので止める事など出来ない。
室内ではトライがアイラの近くの椅子に座り、勉強している様子を見ていた。怪訝に眉を潜める。
「妹姫は遊んでいるが、アイラ姫は?」
率直に思った事を口にしたトライに、アイラは小さく笑ってこう答える。机の上には膨大な量の勉強道具、始めは嫌がらせを受けているのかと思ったが二人分あることに、トライも気付いていた。
「マローと違って出来が悪いので、たくさん勉強をしないと国の為にならないのです」 「……へぇ? 終わったら外で散歩出来ないだろうか。見せたいものがある」
嘘だとは分かったが、追求はせずに本題に入った。
「見せたいもの、ですか?」 「あぁ。……手伝おうか?」
アイラの言い訳など、トライはお見通しである。妹を庇っている健気な姿にも好感を覚えたトライだが、これを終わらせないとアイラは動かないだろう。立ち上がってアイラの隣に、目線を同じに机に目を落とせば。 トライは瞳を細めた、量が多すぎるのだ、だから幾らアイラが優秀でも終わらない。言葉を詰まらせる。
「これは、アイラ姫のすべき事なのか?」 「えぇ、私の勉強です」 「マロー姫は何故遊んでいる?」 「あの子は、勉強など手早く終わらせて。遊んでいるのですよ」
苦笑するが、マローへの言及はしないほうが得策だと判断する。ふと、窓から顔を覗かせれば、外でマロー姫はダンスの練習をしている。 黙々と一人で勉強するアイラと交互に見て、おぼろげに二人の関係がわかってきたトライ。 部屋に届けられた紅茶を飲みながら、久し振りに身体を動かさず休養出来ている時間が取れたトライは、知らずアイラを見つめながらソファで居眠りをしていた。 人を待たせているので、必死にアイラは勉強を片付けていく。 が、マローが相当溜め込んでいたらしく、終わらない。アイラ自身に与えられたものもあったが、そこまで手をつけていてはトライに申し訳がなかったので、アイラは途中で諦めた。 辛うじてマローの分は終わらせた、転寝していたトライを揺すって起こすと照れたように笑みを浮かべる。
「お待たせいたしました、終わりました」 「ん……あぁ、悪かったな眠ってしまって。この部屋は心地良い香りがする、な。思わず身体中の力を抜いてしまうよ」 「窓辺に吊るしておいた、ラベンダーのドライフラワーのおかげかもしれませんね。ところで、見せたいものって何でしょう?」
気だるそうに起き上がったトライに、心なしか弾んで問いかけたアイラ。憶えていてくれた事が嬉しかったトライは、軽く頷くと髪を撫でて手を取ると部屋を出る。 無論、部屋を出ればミノリも険しい顔つきで後を追った。ようやく、自分の出番だとばかりに意気込んで。室内は静かだったのでアイラは何もされていないだろうが、室内に二人きりだった、というだけでミノリは腹立たしかった。仕方がないことだと思っていても、割り切れない。 トライは馬小屋へアイラを連れて行くと、馬を二頭、呼んで来た。馬を見たことがなかったアイラは、非常に物珍しそうに、しかし多少怯えて遠目に見ている。 傍らにいたミノリに、そっと耳打ちをした。
「ミノリ、あれは、馬で合ってる?」
名を覚えられていたことに驚愕し、呼ばれたことに感動したミノリは、赤面しながら噛みそうになる口を必死で動かす。
「は、はい、馬です! アイラ様は見るのは初めてですか?」
上官に背中を殴られたが、話しかけてみた。アイラは、普通に会話してくれた。
「本でなら、見たことがあるけれど実物は初めて。想像より、大きい。噛まない?」 「人間より、速く走ります。噛む事はないと思いますが、不用意に後ろに立つと蹴られる恐れがありますので、お近づきになる時は御気をつけ下さい」
話かけられ、質問されて、大なり小なり自分が頼って貰えた事に胸を躍らせ、懸命に丁寧な言葉遣いでミノリは語った。大きく頷きながら話を聞いてくれているアイラに、非常に好感を抱き、頬を赤く染めて震える声で話し続ける。声が震えていたが、アイラは気にしなかった。
「ミノリは、物知りなんだね」 「……いえ」
貴女が知らなさ過ぎるのです、と思わず言葉が出掛けたが慌てて言葉を飲み込んだ。 隙を見て、トライが前に踏み出すと馬を紹介する。
「アイラ、紹介しよう。クレシダとデズデモーナだ。二頭とも、非常に賢い馬でね、俺のお気に入りなんだ。遠乗りにでも行かないか、良い森が近辺にあることだし」
遠乗り、と聞いて思わずミノリは身構えた。しかし警戒するミノリとは裏腹に、アイラは嬉しそうに手を叩いている。アイラは、非常に意欲的だ、知らないものを憶えたがる。
「ですが、馬に乗ったことがないのです。ミノリ、貴方は乗れる?」 「え、まぁ、適度に」
一瞬、アイラを乗せて二人で野を駆け巡る風景を想像し、思わず口元が緩んでしまったミノリだが、爽やかにトライが会話を遮断した。
「デズデモーナは利巧で大人しいから、すぐに乗りこなせるだろう。やってごらん」
瞬間、トライと視線が交差したミノリは思わず唇を噛む。冷めた視線でこちらを見ていたトライには、当然ミノリの感情など手に取るように解っていた。それは自分の役だ、とでも言いたそうなトライに、手を固く握り締めるミノリ。 トライに導かれ、漆黒の馬がアイラの前に連れて来られた。一人では乗ることができなかったので、トライに乗せてもらい手綱を握り締める。バランスが難しかったが懸命にアイラは言われた通りにこなした。 初めて高い視線で外を見た、それだけで、見慣れた風景が変わる。
「よろしくね、デズデモーナ」
不安定な場所で、おそるおそる馬に話しかけてみた。頭を撫でながら、懸命に語りかけているとなんとなくだが、デズデモーナが頷いたようで。 アイラは緊張で胸を押さえつつ、静かに姿勢を正して深呼吸をする。ミノリに見守られる中、クレシダに跨ったトライについてゆっくりとデズデモーナは動き出す。 小さな悲鳴を上げたアイラだが、数分も走り回ればすっかり気に入ったらしく、無我夢中で庭を駆け巡る。なんということだろう、完璧な姿勢で乗馬を愉しんでいるではないか。 そんな様子を見て満足そうに頷いたトライは、アイラと共に森へと遠乗りに出掛けた。護衛で後方から馬に乗り、ミノリ達も追いかけたのだがアイラは常に歓声を上げながら始終笑顔でいる。何も心配することなど、なかったようだ。 日が暮れた頃、遊び尽くして風で乱れた髪をかき上げながらアイラは名残惜しそうにデズデモーナを撫でながら戻ってきた。デスデモーナもアイラが気に入ったのだろう、トライは決めたことがあった。アイラと離れたくないようで、鼻先をアイラにこすりつけているデズデモーナに苦笑した。滅多に懐かない馬だが、流石はアイラだとトライは感嘆の溜息を漏らす。
「まったく、デズの主はオレだというのに。まぁいい、アイラに差し上げよう。懐いているし、大事に扱ってくれそうだ」 「え、本当ですか!?」 「世話の仕方を教えようか。一人で出来るか? こういうことはやはり他人に任せるより、馬が信頼している人物が行ったほうが良い」 「頑張りますっ」
姫は普通、馬の世話などしない。だが、トライはアイラならきちんとこなすだろう、と思ったので提案した。 アイラの場合、姫という立場を特に重要視していない娘なので例えば友人のように、妹のように扱ったほうが笑ってくれる事も理解したトライ。壁を作って恭しく語るよりも、気楽に平素の自分で対話したほうが、アイラも肩の力を抜いて応えてくれるのだ。 馬で今日のように遠乗りに何度も出掛けられるのなら、それ以上に楽しい事はない。そしてデズデモーナという馬に絶対の信頼をしていたトライなので、アイラの事を任せてみる気にもなった。 自分がアイラの傍に居ない時も、馬のデズデモーナならばいられる。 瞳を輝かせデズデモーナの首にしがみ付くアイラを見て、微笑するトライ。その傍らでミノリは慌てたが、自分も一緒に説明を聞けば良いのだし、またアイラに頼って貰えるかもしれないと思ったので賛同した。本音は「危ないです」なのだが、嬉しそうなアイラの表情を見ていては止める気が起こらない。 アイラは当然、乗り気だった。他の者達は、マローであるならば止めただろうが、アイラだったので誰も反対しなかった。 一国の姫が、馬の世話をする。 常識的には、起こり得ない事だ。しかしアイラは嬉しそうに、そして真剣にトライの話に聞き入った。 後方でミノリも同じく頷きながら聞いた、責任は重大だと、自分で言い聞かせて。
「数日は、共に世話をしよう。……今日はもうお休み、アイラ」 「はい、ありがとうございますっ」
アイラの髪を撫でながら、そっと耳打ちするトライにくすぐったそうに笑うアイラの表情は、以前大人しくというより暗い雰囲気だった彼女とは別物だ。 笑い声のトーンが、高くなった。ふっ、と優しそうな瞳で笑う事が多くなった。マローのように華やかに笑いながら、廊下を走ることも増えた。 全ては、室内に閉じ込められほぼ誰とも会話しなかった環境の為だったのだろう。。
「ミノリ、一緒によろしくね」 「あ、はい」
振り返り、手を握られ真っ直ぐな瞳で下から見上げられつつ微笑まれたミノリは、思わず赤面すると裏返った声で返答をする。 そして、気づき始めた。アイラの近辺に居た騎士達だけが、気づき始めた。 『呪いの、姫君』 災いを呼ぶ子を産み落とす、定められた運命の姫君。産まれた子は、その国を滅亡させてしまう。すでに視えた未来であるならば、元凶を消せば良いのだが母親を殺した時点でその国が滅亡する。 未来を知り得た土の民は、呪いの姫君を他国へ嫁がせ、そこで子を孕んでもらうしかなく。もしくは、呪いの姫君を他国の者に殺してもらうしかなく。 呪いの姫君は、災厄の子を産み落とす為ならば手段を選ばず。例えば甘美な声で、魅惑の表情で、容姿全てを武器として男を翻弄するだろう。土の国の男は、呪いの姫君に近寄ってはならない。 流れ出ていた噂を、騎士達は鼻で笑っていた。姫君が産まれ出て暫くしてから、両親から聞かされていた話である。誰がそんな恐ろしい子の父親になるものか、と。 姫君もどれ程の美人か知らないが、誰も好き好んで近づきはしない、と。
「お疲れ様でした。今日は、本当にありがとうございました。……とても、楽しかったです」
姫が、騎士達に深く頭を下げて礼を言った。上げた顔は、余程嬉しく興奮していたのか頬が上気し、瞳は潤み、夕日の光を背にアイラはそこで静かに微笑む。 皆が、息を同時に飲んだ。そして、思ったのだ。
『本当に、この姫君は呪いの子を産む姫君なのか』
そう、思った。 一人の騎士が、頭を振って今の疑惑を消し去ろうとした。これが”男を翻弄し呪いの子を産むという姫君”なのだと言い聞かせるように。 一人の騎士は、呆然とその場に立ち尽くし、跪いて忠誠を誓おうとした。この、人々から蔑まれて産まれて来たけれども、人を癒してしまう姫君を護りたいと願った。 一人の騎士は、唇を噛んで眩暈から逃れようとした。呪いの子が産まれたとしても、この目の前の姫君を”抱きたい”と、思ってしまった。 ミノリは、硬直したままで、動けずにいた。金縛りにでもあったかのように、アイラから目が離せずに呼吸さえも忘れるように。 アイラが、この国の女王になれば良いのに、と思った。その傍らで自分は騎士団長として生涯を遂げたいと、そう思った。もしくは、もし本当に呪いの姫君として他国に嫁がせられるくらいならば、その途中で攫って二人で暮らそうと。ミノリは神々しいとさえ感じるアイラに、そう思った。 麗しい、呪いの姫君。運命に翻弄され、騎士達は動けなかった。
その晩、騎士達は食卓で僅かな酒を皆で呑んだ。皆、今日感じた事を口にしようとしたのだが、思い止まって言えない。 思って居る事は皆同じ、しかし、誰一人として、言わなかった。
『アイラ姫は、本当に呪いの子を産むのか。間違いではないのか』
日に日に、アイラについた騎士達の疑問は膨れ上がる。立ち振る舞い、仕草、動作、全てが尊いものに思えて。何より、下の者に対する気遣いが騎士達を喜ばせた。感謝の言葉を忘れない、気遣って語りかけてきてくれる。ふとした時に見つめたその先の表情が、微かに憂いを帯びつつも威厳に溢れている気がして。 そんな騎士達の移り変わりに反応したのは、トライだった。舌打ちし、騎士達に睨みを利かせ一人一人の名を覚えていた、無意識に。
「気づくのが、遅いんだお前等」
冷めた瞳で騎士達を見渡し、トライは微かに喉の奥で笑う。オレは、最初から見切っていたぞ、と。
数日後、姫君達の教師が耳障りな嘆きの溜息と金切り声を発した。 姫達の室内に響き渡るヒステリックな声は、廊下の騎士達にまで及び顔を引き攣らせる。
「アイラ様! マロー様はこうしてきちんとこなされているのに、どうして出来ないのですか!? ……マロー様は、トレベレス様とベルガー様がお待ちですしダンスの練習もありますから、もう良いですよ。アイラ様、聞けば馬の世話を開始されたとか。よくもまぁ、課題をほったらかして遊んでおられたものですねぇ?」
マローは、慌てて教師を止めようとした。アイラは、マローの分を終わらせたのだが馬の世話が楽しくて、自分の分を半分しか終わらせてなかったのである。 反論しようとしたマローを、アイラが右手で制した。
「行きなさい、マロー。トレベレス様とベルガー様がお待ちなのでしょう」 「で、でもっ」 「大丈夫ですから、お行きなさい」 「あぅ」
堂々と、マローの前に立ち妹を促したアイラ。マローにとて解った、罪を被る気なのだと。怒られるべきはマローだが、身代わりとなってくれるのだと。 マローは、申し訳なさそうに、胸を押さえながら逃げるように部屋を飛び出していく。自分がやっていないことを、教師に告げる勇気がなかった。マローが言えば、それだけで教師は許しただろうに。 慌てていた為、外にいたトモハラと軽くぶつかってしまったマロー。触れたことで赤面したトモハラを忌々しそうに突き飛ばし、マローは走っていく。 当然トモハラもそれを追いかけた、なんだか困っているようで、泣いているようで。何か、言いたそうだったからだ。
「全く。マロー様を見習って頂きたいですわ」 「ごめんなさい、次からは頑張ります」 「今とて、マロー様はアイラ様を擁護しようとしてらっしゃいましたね。本当に、女王となるべき優しいお方ですこと。それに比べて」 「ごめんなさい、マローのように上手く出来ませんが努力します」
凛とした声で、きちんと詫びるアイラに教師は些か腹を立てた。姫といえども、ゆくゆくは他国へ嫁がせる出来そこないの姫君なのだから多少侮蔑しても、問題はないと思っていた。 真っ直ぐに瞳を見てくるアイラに、何故か後退りをした教師は、その自分の態度が気に入らなくて更にアイラに追い討ちをかける。女の念は、非常に厄介だ。
「マロー様のように出来るわけがないでしょうに! ともかく、きちんと課題をこなすように! あぁ本当に腹立たしい姫君であることっ。何の役にも立たないだなんて」 「それは聞き捨てならない台詞だな。たかが教師の分際で」
ドアが、喧しく開かれ、飛び上がって驚いた教師が振り返り見たものは、トライの姿。 凍りつくような視線と、冷徹な声、トライの通常の声を知らない者が聞いたとしても”憤慨している”。トライはそのままアイラの正面に出ると、細い瞳を更に細めて教師を睨み付けた。
「情けなくて何も言えない。土の国の者達は、どうしてこうも無様なのが多いのか疑問だ。アイラはきちんと勉強していた、何も問題はない。俺の国だったら、お前は解雇どころか極刑だ」 肩を竦め、多少おどけたような素振りを見せているトライだが、蛇に睨まれた蛙のように、教師は顔面蒼白で立ち尽くしている。異様なまでの殺気に、身体が動かない。 なんの気苦労もしていない美形の王子だと思っていたのだが、そうではない気がしてくる。確かに、境遇は良いものではないがそれにしても、人を圧倒するこの身体を麻痺させる威圧感は何なのか。見くびっていた、と背筋に冷や汗が溢れた。
「トライ様、あの、我国の皆は無様ではありません。訂正してください」
トライの服を軽く引っ張り、アイラは控えめにそう告げると一歩前に出て教師に頭を下げた。
「デズデモーナの世話が終わったら、きちんと課題を終わらせますから。もう少し時間を下さい、お願いします」
背筋を伸ばし、凛とした声でそう告げたアイラに微笑したトライ、変わらず教師を睨み付けてはいたが、アイラにだけ見せる笑みは途轍もなく甘くて優しく。 教師は、アイラのその真っ直ぐで脅えのない態度に軽く唇を噛み締めると、そのまま勢い良く部屋を飛び出していった。捨て台詞付きで。
「呪いの姫君のくせに!」
小声で、聞こえないように言ったつもりだったようだが、それを聞き取ってしまったアイラ。ゆっくりと振り返り、教師の後ろ姿を見送りながら軽く腕を組んで首を傾げた。 沈黙、上から見ていたトライはそのアイラの表情を見つめ、姫君自身が”噂”を知らないことに気づいた。何も聞かされていないのかと、眉を潜める。 アイラは静かに溜息を吐くとトライに向き直ると、苦笑いして一礼をする。
「申し訳ありません、お見苦しいところを」 「いや、オレが勝手に入ってきたのだから気遣いは無用だ」
その件に関して訊ねられたら教えることとし、トライは軽くアイラの肩を叩くと右手を取り甲に口付けをする。とりわけ、アイラの耳にはそのような不穏な噂を入れたくない。知らないならばそれが良いのかもしれないと思った。
「デズデモーナの世話ならば今日くらい、オレが終わらせておこう。アイラはここで早急に終わらせるべきだ」 「ですが、デズデモーナと意思の疎通を図る為には、毎日自分で世話をしたいのです。頂いた、大事な馬です」
アイラの言う事も尤もだ、だが、完璧に終わらせて先程の教師を黙らせてみたいトライ。軽くアイラの頭を撫でると、無理やり抱き抱えて席に座らせる。 不服そうなアイラの頭を再度撫でると、耳元で「頑張れ」とだけ告げてトライは部屋を後にした。 仕方なく、アイラはペンを手に取る。本当は今すぐにでもデズデモーナの元へと行きたいのだが、必死に堪えてペンを動かした。認めてもらい、堂々とデズデモーナに会いに行こうと気を引き締める。 数日後、教師を黙らせる事に成功したアイラとトライは、気兼ねなく毎日遠乗りに出掛けた。無論、後方に騎士数名がお伴としてついてきていたが、二人の仲は急激に縮まった。 アイラもすっかりトライに心を許したようで、トライの持ち物に興味を持つようになる。 それが気に入らなくてミノリは唇を尖らせてトライを見ていたのだが、ある日庭にて。いい加減ミノリの視線が邪魔に思えていたトライは、名指しでミノリを皆の前で呼びつけた。
「丁度良い、最近剣の相手がいなくてね。お前、騎士だろ、アイラ姫付きの。如何程のものか知りたいから……剣、抜いてみろ」 「お言葉ですが、一国の王子に剣を向けたら首が飛びますので、辞退します」 「気にするな、オレの指示だ。それに安心しろ、何かあるのはお前のほうだから」
薄く微笑したトライに、思わず頭に血が上ったミノリは無意識で剣の束に手をかけた。軽く歯軋り、トライを睨みつけていたのだが、トライが自慢の剣を抜けば、ミノリもようやく本能のまま腰の剣を引き抜く。 他の騎士がミノリに軽く耳打ちをした「相手は金持ちの道楽王子、全力で斬りかかってしまえ」と。流石に何かあってはミノリの立場が悪くなるが、皆、アイラから片時も離れないこの王子を疎ましく思っていたので好都合だったのだろう。 被害を被るのは自分ではなくミノリなので、皆言いたい放題である。
「あの。危ない事はしてはいけません」
一発触発の二人の間にアイラが割って入ってきた、思わず肩の力を抜くミノリと、苦笑いするトライ。思わぬところで、邪魔が入った。アイラに止められてはトライは、反論できない。
「危なくない。寧ろ、危険が迫ったときにどう切り抜けるかの練習だ。率先してやるべきことだよアイラ姫」 「なら、私にもそれを教えてくださいな」
笑顔で堂々とそう告げたアイラ。皆、一斉に素っ頓狂な声を出し、きょとん、としているアイラを見つめる。 額を押さえてどう説明すべきか悩んでいるトライ、ミノリは剣を収めるとアイラの前に跪いた。想定外だ、剣を習いたいなどと言い出すとは。だが、アイラの性格上確かにそれは……当然だった。
「アイラ様が危機に直面しない為に、我らが剣の腕を磨くのです。アイラ様には必要のないものですよ。それに、普通姫様は剣を持ちません」 「ミノリの言う通りです、姫様は剣ではなく、花をお持ち下さい」
騎士達も同じ様に跪いたが、アイラは眉を潜めて無言のまま。暫しの沈黙の後、跪いている騎士達と目線を合わせるべく地面にしゃがみ込む。
「では、貴方達が危機に直面した場合は、誰がそこから救うの?」 「そういう仕事です、危機に直面しても、命を貴女様に捧げる職業です」
慌ててアイラを立たせると、ミノリは再び跪いたが同じ様に直様アイラは地面にしゃがみ込んだ。ドレスが、汚れる。が、お構いなしだ。 慌てふためく騎士達に、アイラは堂々としたまま、笑みを浮かべている。
「貴方達が危機に直面しないように、私達が居るのではないの? 上は、下を護るものです。王族は自分達の為に働いてくれる家臣や騎士、そして町の人々を護る義務があります。ので、剣を教えてくださいな」 陽の光が、アイラの髪に降り注がれ、新緑の瑞々しい思わず触れて口にしたくなるような色合いを見せる。深い瞳の緑は吸いこまれてしまいそうなほど、魅惑的で。 何より、そんな台詞を一国の姫君から聞くことになるとは思わず、全員息を飲んだ。
「いえ、ですから」 「剣を、教えて、くださいな、ミノリ。トライ様」
頬杖ついて、にっこりと明るく笑ったアイラに、もはや誰も反論出来ず。慌てて騎士達は刃物ではなく、軽い木刀を取りに城へと戻った。くすくす笑いながら、アイラはトライの剣を眺めている。
「……面白すぎる。全く予測不能な行動をとるな、アイラ」 「そうですか? だって、剣は人を傷つける為ではなくて護る為にあるのだと本で読みました。ならば、私は習わなければいけません。それに、行く行くはマローがこの国を治めますが、あの子を護るのは私の役目ですし」
愉快そうに微笑みながら、アイラは庭で裸足になるとドレスを摘んで、くるくる廻る。庭に出ることなど、以前はなかった。草を大地を、裸足で踏みしめて無邪気にはしゃぐ、豊穣の姫君。戻ってきた騎士達に、トライは視線はアイラのまま、こう呟いた。
「あれが。あそこまで下の者の事を考えている娘を、お前達は呪いの姫君だと言っているのだな」
騎士達の返答はない、トライは黙って続ける。
「お前達は、違うようだが。悪いな、オレはどうしてもあの姫を持ち帰りたい。こんな城に閉じ込めておくより、我が国で自由気ままに過ごしたほうが彼女の為だ。希望者は、彼女の護衛として我が国への来訪を許す。考えておいてくれ、オレは近いうちに彼女を必ず連れ帰るから」 「……本当に、アイラ姫が宿したお子が災いの子であるならば?」
一人の騎士が、皆を代表してなのか個人的になのか、問いを投げかけた。トライは喉の奥で笑うと、マントを翻し、ようやく騎士達に視線を向ける。
「有り得ない。そんな未来は、こない。我が国は栄華を誇るだろう。何より、オレは彼女を愛しているだけから、正直そんなことはどうでも良い」
それは、自信過剰で嫌味な発言だったかもしれない。しかし、呪いの姫君と噂を知りながらも、アイラの傍らに居続けそう言い切ったこの他国の王子に騎士達は。 思わず、敬礼した。 この王子、容姿が同姓から観ても完璧過ぎて好きになれないのは確かだ、見た目も肩書きも勝るものが何もなく、劣等感を味わう。だがアイラのことを見る目は、間違いなかった。そして皆決意した、この王子について行き、アイラ姫を護りぬく事を。そのほうが、今の騎士という職業にやり甲斐が持てそうだった。何より、アイラ姫の傍に堂々と居られると思った。 ただ、ミノリだけはどうしても。素直に言葉を受け入れられずに、唇を噛締めて俯いたままだった。 好条件だった、それは間違いない。現状、アイラは自分達守護騎士以外からは迫害されているような待遇である。王子達が訪れてようやく部屋から出られたものの、今までは押し込められて自由に行動出来なかった。 それが放たれるのだ、小鳥は籠から飛び出し、大空を自由に舞うだろう。 けれども、どうしても。 トライとアイラが似合いの二人だとしても、ミノリには、素直に祝福出来ない。トライに、剣の稽古をつけてもらい始めたアイラを見つめながら、複雑な心境でミノリは二人を見つめていた。 美男美少女、王子と姫、水と土を加護にもつ二人ならば、潤いの国を治められそうだ。 しかし、やはり。 二人を見ていると、笑うアイラを見ていると、胸が痛い。アイラの瞳に映るのは、トライばかりだ。 身分が、邪魔をする。ここまで、違うとはミノリは思っていなかった。直面して、トライを羨望した。アイラが気さくに話しかけてきたので、多少誤解をした。一般市民の自分でも、どうにかなるのではないか、と。淡い期待は、打ち砕かれる。
「俺も王子だったらよかったのに」
ただのなり上がりの騎士では、王子には勝てない。ミノリは俯き加減で、そっと、アイラを見ていることしか出来なかった。トライに、なりたかった。弱小国でも、王子として産まれてみたかった。もしくは、幼い頃読んでもらった本の勇者ならば。 魔王に攫われた姫を救い出す、勇者ならば可能だったのにと思った。しかし、この世界に魔王など存在しない。いるとすれば、姫を欲望の為に連れ去る他国の王子達だ。
アイラが剣の稽古を始めたという噂は、瞬く間に城内に広まった。当然、影では「野蛮だ」「呪いの姫君は自身の快楽の為に、戦争を仕掛ける気なのだ」と、皆口々に呟いている。 忌々しそうにそれをミノリは聞き流し、今日もアイラの守護をすべく部屋の前へと出向く。 部屋の中から、マローが飛び出してきたので慌てて避ければ、その後をトモハラが追いかけていく。あちらも相変わらずだ、とミノリは苦笑いだ。
「ミノリ、少し時間ありますか?」
ひょい、っと部屋から顔を出したアイラに思わず悲鳴を上げそうになったミノリは、無我夢中で無言で頷いた。アイラは安堵し、手招きして部屋へと呼び込む。 流石に呼ばれたとはいえ部屋に入るのは初めてなので、大きく息を吸い込みミノリは震える身体で脚を踏み入れた。まさか、一人で侵入する羽目になろうとは。姫直々の命令なので、他の騎士達は深く頷きミノリを見送る。 部屋に入ったミノリは「姫君の香りがする」とこぼし、意識が遠のきそうになる。二人きりの大きな室内には、アイラの香りが充満していた。 緊張して、脚が震える。
「あのクローゼットの上にね、手が届かないのです。取って欲しいものがありまして」
そんなこと、最初から自分でやらずに誰かに頼めば良いのに、と思ったが口にはせず。 言われるがままに、ミノリはアイラが指した箱を取ると、微かに被った埃を払ってアイラに手渡した。動きはぎこちなく緊張気味だが、まるで自分がアイラの恋人になったようで、ミノリは緩む口元を必死に堪える。 ありがとう、と嬉しそうに至近距離で言われたので思わず赤面する。暫し硬直しアイラを見ていたミノリだが、裏返った声で、思わず口から言葉が飛び出す。
「トライ王子はお好きですか?」
不思議そうに振り返ったアイラに、しまった、と顔を顰めたミノリの予感は的中した。うっすらと頬を紅く染めて、小さく頷いたアイラを見てしまった。足元の床が崩れたかのように、絶望を味わう。 けれども。
「好きですよ。とてもお優しくて、気を遣ってくださるし。それに、周囲に気配りもしてらっしゃいますよね。ミノリも好きですよ、いつも見ていてくれて助かっています」
大きな瞳を数回瞬き、可憐な唇から零れた言葉は『好き』。ミノリは耳を疑った、一瞬何を言われたのか解らなかった。 アイラの『好き』が恋愛対象ではないとは解ったのだが、それでも嬉しいものは嬉しい。 思わずミノリは口元を押さえた、歓喜の悲鳴を上げそうだったからだ。まさか、自分に”好き”だと、言ってもらえるだなんて思いもよらなかった。 言葉が上手く出てこずに、小刻みに震えながら突っ立っているミノリ。 だが、ドアから、『わ……!』と他の騎士達が雪崩れ込んできた為に、ようやく我に返った。
「お、俺は如何ですか!?」 「わしは、その、あれです」
口々に興奮気味にアイラに詰め寄ると、喚き出す。どうやら部屋の外でアイラとミノリの会話を聴いていたらしい、我も我も、と”好き”の言葉を聞く為にアイラに懇願をしている。 唖然としているミノリを押し退けて、アイラに詰め寄る騎士達。首を傾げながら、アイラは普段と変わらぬ表情でにっこりと微笑む。
「皆さんも好きです。夜遅くまでご苦労様です、お仕事でしょうが、適度に力を抜いてくださいね? 真剣過ぎますよ、それが良いところでしょうけれど」
一瞬に静まり返った室内、騎士達は、改めてアイラの前に跪くと、誰が言うわけでもなく、一斉に。
「愛しの麗しき姫君に、絶対の忠誠を」
剣を掲げて皆、誓った。 そんな様子に狼狽しているアイラを、ようやく訪れたトライが微笑んで見ていた。
「呪いの姫君と噂されようとも、触れた者には全く効果のない程の魅力の所持者、か」
トライには、興味のないことだった。破壊だろうが繁栄だろうが、アイラに違いはないのでどちらでも構わない。だが、確信していた。 繁栄の姫君がもし、本当に存在するのならばそれは……アイラであるだろう、と。 もう一度、室内のアイラを見つめる。暖かな陽射しを背に受けて、困ったように身動ぎしている姫君は、確かに護らねばならぬ存在だ。 そういう気に”なってくる”。 だがしかし、その半面で。彼女は自分の近くに居る者を護ろうとしているのだと、肌で”実感する”。そのような者が、何故ゆえに呪いの姫君なのか。
「一度……調べてみる必要があるか? しかし」
トライは、低く呻く。気になるのは、双子の妹マローだ。 万が一、アイラが繁栄の姫君であるならば、呪いの姫君はマローとなる。それはそれで厄介だ、アイラが黙ってはいないだろう。 騎士達に囲まれて、恥ずかしそうに笑っているアイラの声が聴こえてきた。
「喜ぶ顔が、見ていたい。それだけだ。大輪に咲き誇る向日葵のような、地上の太陽のような眩しい笑顔で笑うから」
キィィィ、カトン。 トライは、不可解な音を耳元で聴いた気がして思わず腰の剣を引き抜きかけたが、周囲には鳴りそうな音源がない。 空耳ではなかった筈だが、何の音か解らなかった。ズキン、と、軽い頭痛に思わずトライは額に手を押し当てる。
……喜ぶ顔が、早く見たい、それだけ。大輪に咲き誇る向日葵の様な眩しい笑顔で笑うんだろうな。
昔。 自分が発したような台詞を、何故か思い出す。 誰に思った台詞だったか、思い出せない。
「なん……だ?」
軽い眩暈に、思わずトライは壁に手をついた。額にじんわりと浮かんだ汗を、思わず拭って荒い呼吸を鎮め様と深呼吸をする。嘔吐感に襲われた、一瞬目の前が真っ暗な闇に包まれて、突如光の中に投げ出されたような感覚だ。 映像が、見えた気がしたが。自分だった、気がしたが。 キィィィ、カトン。 また、何処かで不可解な音がした。
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