頭上に『?』が浮かんだまま、しかしやはり勇者といえども少女。美しいドレスは憧れだ、嬉しそうに微笑み、頬を染める。 アサギにドレスを着用させたリュウは、ほくそ笑んだ。ここまで、完璧に自分の描いた図である。涙を流しながら、アサギを見つめているハイに失笑したリュウは、今後の計画を脳内再生した。 ハイは、目の前の美味し過ぎる光景に見とれて、何故、アサギがドレスを着ているのか考えもしなかった。何の計画も無しに、リュウは無駄なことなどしない。これは決してハイを喜ばせる為の衣装替えではないのだ、計画の一部なのである。 普段のハイならば疑うところだが、頭が現在廻らなかった。気がついたらいなくなっていたリュウを気にすることなく、浮き足立っている。そんなハイの隣で、アサギは。
「……魔王様方、よく解らない」
当然の感想を、小さく呟いた。しかし、このドレスは気に入った。くぅるり、回る。 魔王二人と勇者が戯れている頃、城内の大広間には多くの魔族達が集まってきていた。アレクの指示により、ドラゴンナイト達が魔界イヴァン全土を駆け巡り、午後からの召集を言い渡した。各地に居る連絡用の魔術師に連絡を飛ばし、そこからも情報を流したのだが、あまりにも急すぎる。多くの魔族達は不安そうに「何事か」と、ひしめき合った。 魔王交代、魔王危篤……等、全くでっち上げの噂が溢れ放題だ。勇者襲来、とは流れていない、多くの魔族達にとって勇者は興味の範囲外である。 惑星クレオの魔界イヴァンは、現在の日本と似た気候だ。 徐々に熱くなるこの季節、魔族達はのんびりと過ごしていた。海辺の近くに住居を構えている者達は、打ち寄せてくる潮の波の音を聴きながら居眠りを。森を住居にしている者達は、小鳥の囀りに耳を傾け、日中の照り返る陽射しから木の葉で身を護り転寝を。 自然に逆らわず、身を任せて過ごす。暑いなら、寒いなら工夫して楽しむ。木漏れ日を浴びながら、森を散歩し。青い草原を歩きながら、小動物と戯れ。太陽と紺碧の空、波の白飛沫と藍色の海を眺める。歌いながら、小さな自然の独り言に耳を傾け、語りかけ。 雄大な自然を受け入れて楽しむ、そんな過ごし方をしている。 そんな中緊急に告知された本日の会議に、緊張している者も少なくはない。今頃ならば皆昼寝をしている時間帯だ、魔族は休息を重んじる。 溢れそうな程混み合ってきた大広間は、順次駆けつけて来た魔族達で埋め尽くされていった。 あつ一角、一際目立つ四人がいた。 魔族騎士団を取り締まる女隊長スリザ。その一番部隊隊長サイゴン。サイゴンの幼馴染で、男だが女にしか見えない宮廷魔術師ホーチミン。サイゴンの親友にて武術師アイセル。 当然目立つ、脚光を浴びる。この四人は平素も仲が良く、常に一緒だと言っても過言ではない。 隊長であろうとも席は用意されておらず、広間の前方にて窮屈そうに四人は身を置いていた。緊急すぎて席が用意されなかったのだろう、と特に気にせず。スリザはこの待遇に不平を言わなかった。そこがまた、彼女の魅力でもある。普段ならばアレクの側近として近くで警護しているのだが、今日は非番だった。 サイゴンは、腕を絡ませてくるホーチミンに露骨に嫌そうな顔で対応している。振り払おうと懸命に腕をしならせながら、上司のスリザを見た。
「何事だと思われますか、スリザ殿。この前の給料値上がりの件が、上手くいかなかったのでしょうか」
話しかけられ、口を開きかけたスリザだが、その整った凛々しい表情を固まらせる。わなわなと小刻みに身体を震わしながら、僅かな隙間しかないのに、赤面しつつ強引に左足で強烈で俊敏な回し蹴りを放った。
「馬鹿者! 誰の許可を得て貴様は人に尻を触っておる!?」
怒鳴られたのは、アイセルだ。 華麗に避け、颯爽とポーズを決めたアイセルだが、スリザの放った蹴りの犠牲者は無論無関係の魔族達。 骨が折れる鈍い音が響いた、絶叫し倒れ込む魔族に、面倒そうにホーチミンが回復の魔法を直様施す。慣れているので、気にしない。毎度の光景だ、巻き添えを食らう者はたまったものではない。 「やだなぁ、スリザちゃん。触られて減るものでもないし、むしろ喜びなよ。うん、形の良い俺好みの尻だった今日も」
何処から出したのか、アイセルは右手に薔薇を一輪、手にしている。花弁を一つ咥えて、スリザに流し目を送ると、アイセルはその薔薇を自分の胸元へと導いた。得意げに微笑むが、周囲は冷ややかな視線を送った。 面倒くさそうに、魔族達は四人から離れ始める。窮屈な大広間で、本当に傍迷惑な四人である。しかし、巻き添えを食らわない為には離れるしかない。目の前で薔薇を小道具に、何やら気障ったらしい態度をとっているアイセルに、スリザは身を逆立て般若のごとき形相で睨みつける。
「誰が”スリザちゃん”だ! 仮にも私はお前の上司だろう、態度を弁えよ! そもそも、人の尻を揉みしだいておいてその態度は何事かっ! この年中発情男がっ」
ほぼ垂直にスリザの右足が華麗に天を向く、鉄製のブーツのヒールが灯りに照らされ不気味に光った。スリザの踵落としだ、基本両刀剣士のスリザだが足技にも定評がある。 それでもアイセルは余裕だった、難なく避けられると思ったのだ。瞬発力ならば魔族でも一、二を争う実力者であり、如何にスリザであろうとも交わすことが出来ると高を括っていた。 しかし、その余裕の笑みを浮かべていた顔が凍りつく。背後から何者かに羽交い絞めされたのだ、全く身動きが取れないという状況に陥っていた。
「え、ちょ……うそぉっ」
スリザの高く掲げられた右足が、ギロチンのごとく光り輝く。無表情のスリザがまた、恐怖である。 罪人に、死を。 逃れられないその目の前の処刑人は、青褪めた。先程の余裕は何処へやら、ガタガタと歯が鳴る。 スリザの瞳は全く笑っていない、慈悲の”じ”の字すら、ない。
「ちょ、スリザちゃん、待って待って! スリザちゃーん! スリザさまぁああああああああああっ」
アイセルの懇願など、誰が聞き耳を持つものか。容赦なくスリザの右足は急降下、情けない声と引き攣った表情のアイセルの……気の毒にも股間に炸裂する。
「ぎいいぃいいいやああああああああああああ!」
赤から黄へ、最終的に青くなったアイセルの顔、口から泡が吹き出し、その場に卒倒する。絶叫というよりも断末魔に近いものが、大広間に響き渡った。「天罰覿面」そう呟くと、スリザは忌々しそうに舌打ちした。脚を踏み鳴らしながら腕を組み、再度アイセルの腹を踏みつける。ヒールで腹部の肉を抉るように、グリグリと深く沈みこませる。 唖然とアイセルを見たホーチミンと、身震いし合掌するサイゴン。
「大丈夫ですかぁ、スリザ様ぁ。私達がぁ、ちゃんと貴女様を御守りいたしますぅ」
アイセルを踏みつけ、数人の少女達がやってきた。スリザファンクラブ会員ナンバー上位の、少女達だ。先程、アイセルを羽交い絞めにしていたのは、彼女達である。 水色のツインテールに大きな薄桃のリボン、フリルとレース満載の純白衣服に身を包んでいる会長。見事な金髪の縦巻きに、漆黒のフリルと深紅の薔薇を身に纏った副会長。他、数名。 華奢な腕だが、あの体格の良いアイセルを押さえ込んでいたのだから、力量は見た目では解らない。周囲の男達は、皆震え上がった。
「助かった、お前達」
凛々しい表情で、爽やかに微笑するスリザ。途端に周囲から黄色い歓声や、歓喜の溜息が上がる。噂では、その中の誰かとスリザがデキているとか、いないとか。彼女達に快心の笑みを送り、麗しく頬に触れる様子は、確かに甘い恋人同士のようだ。 とても先程のアイセルとは比べ物にならない態度を、スリザは彼女達に送っている。魔族の中で、最も女性に好意を寄せられているのは、紛れもなくこのスリザであった。 引き締まった筋肉は無駄がなく美しい、男のように逞しく凛々しく、しかし女のように繊細で色気のあるスリザ。中性的で、誰をも惹き付ける。少女達には憧れの的である。男と違い、香りも良いし立ち振る舞いが美しいので、綺麗なものを好む少女達には抜群の人気だった。
「スリザってば、産まれる性別を間違えてるわよね。女の子といたほうが、よっぽど楽しそう。だからまだ処女なのよ。あの歳で処女ってのも、どうかと思うけどねー。ね、サイゴン?」
ポニーテールにしている金髪を揺らしながら、小首傾げて濃藍色の瞳を光らせホーチミンは呟く。相変わらずしつこくサイゴンの腕に絡み付いている、呆れ返って少女達に囲まれているスリザに、軽く哀れみの念を込めて溜息を吐いた。 怪訝にそれを追い払っていた筈のサイゴンであるが、もう諦めてそのまま大人しく腕を組むと神妙に頷く。
「お前が言うな、それを。この男女」 「ひ、ひっどーい! どぉして恋人にそんなこと言うの? ただ、女の子と違ってあそこに玉がついてるだけよ? 寧ろ、料理だって完璧にこなせるし、掃除洗濯なんでもお任せ。スリザとかよりも、ずーっと女らしいと思うのだけど、私っ」
しなりん、と腰をくねらせ上目遣いのホーチミン。確かに、可愛らしいし、美人だ。だが、男だ。正真正銘、男だ。朝、隣で起きると髭が見えるから間違いなく立派な男なのだ。剃っている姿も見たことがある。 今もこうして腕を組んでいるが、当然胸がないので柔らかさもなにもあったものではない。
「四十八手も、なんでもござれよ」 「はぁ」
ぱっちん、可愛らしく極上のウィンクを飛ばすホーチミン、半泣きでサイゴンはしゃがみ込む。
「女らしかろうがなんだろうが、お前は男だ! お前と姉さんのおかげで未だに彼女が出来ない俺。青春を返せっ! 可愛い彼女を俺に寄越せえええええぇ!」 「早くしないとぉ、あそこにいる年増の処女みたいになっちゃうよ? 大丈夫、男同士でも。最近人間界でも流行っているみたいだし、私が教えてア・ゲ・ル。あはん」
ホーチミンを突き飛ばし、いい加減にしろっ、と満身の力を籠めて叫んだサイゴン。流石に今の台詞にはイラ、っときたようだ。唇を尖らせ、よろめいたホーチミンだが、男なので誰も助けようとはしなかった。
「うっさい! 俺だって……俺だって、可愛い彼女と! トビィにだって馬鹿にされたし、散々だ俺の人生。あーもー!」 「トビィちゃんは度胸が有るし、そもそも彼の天性の閨事、あれは全ての女性を虜にしてしまうわ……。極上の美形だしね、うふん」
身体をしならせて、うっとりと恍惚の笑みを浮かべるホーチミンに、サイゴンは鼻で笑う。
「知らない癖に、何を偉そうに」
揚げ足をとられたので舌打ちすると、ホーチミンはそっぽを向く。
「……って、皆が言ってた。相当上手みたいよ、トビィちゃん。めろめろとろろんきゅー、なんだって」 「ふ、ふんっ」
肩をがっくりと下ろしたサイゴンを尻目に、けたけたと笑い出すホーチミン。最終的に、口論ではホーチミンが勝つ。
「まぁ、トビィちゃんとサイゴンを比べても仕方ないわよね。……で、トビィちゃんはまだ帰ってこないのかしら? 早く会いたいわ、益々良い男になってそうだものっ、きゃっ」
泡を吹いて未だに床に突っ伏しているアイセルと、少女達に囲まれて満足そうに会話しているスリザ。笑い続ける陽気なホーチミンと、落胆し床に両膝ついているサイゴン。 平素のことである。 ドン引きしている他の魔族達は視線を合わせないように必死だった、巻き込まれたら精神的にも深い痛手を追うことが確実である。そんな中、ひょこ、っと起き上がるアイセル。
「ふー、危うく俺とスリザちゃんの子供が出来なくなるトコだったよー。そこらへん、注意して欲しいよね」 「あらアイセル、起きたんだ」 「ふっ、こんなこともあろうかと股間に鉄製のカバーを入れておいたから」
妙なことを自信満々で言わないで欲しい、とホーチミンは苦笑い。当の本人は自慢げに股間を指差している、だからどうしたというのだろうか。 再び薔薇を手にし、アイセルはスリザを見つめていた。くるくると、茎を回しながら。 ……股間を擦りつつ。
「”ここ”は、スリザちゃんにとっても大事なものなんだけどねぇ。解ってないなぁ」 「……あんた、一度死んだら?」
同情できず、ホーチミンはしれっ、とそう告げるとスリザの代わりにわき腹に鉄槌を喰らわしておいた。男のホーチミンだが、そのか細い腕ではアイセルにダメージなど与えられない。 痛くも痒くも無く、平然としているアイセルは少女達に囲まれて、男装の麗人のように振舞うスリザを、真剣に魅入る。
「……また、無理してる」 「え?」
怪訝にアイセルを見上げたホーチミンに、返答する事もなく唇を噛むと軽く俯いた。俯きながら、何度かスリザに視線を送る。
「……周囲が作り上げた”隊長スリザ”を演じなくてもいいんだよ」
小声で呟くと、軽く溜息を吐き頭を掻く。変わらず優しそうな笑みを浮かべて周囲と戯れているスリザを、軽く唇を噛み締めて、見ていた。
数十分後、大広間に盛大なファンファーレが響き渡る。 ざわついていた魔族達が、瞬時に雑談を止めて静まり返る。一斉に中央のステージに皆、視線を送った。重々しそうな布で出来たワインレッドのカーテンが、徐々に開く。
「やっほーん! お元気かな? 集まってくれてありがとなのだぐー、恐縮なのだぐー!」
突如、あっけらかんとした声が響き渡り、嬉しそうに手を振っている魔王リュウが現れる。数十人が、絶句した。 初めて聴いた時はその場に居た全員目を大きく見開いて硬直したが、流石に数度も繰り返されると慣れた。確かに今でも調子が狂うのは間違いないのだが、それでも辛うじて耐えられる。今狼狽した魔族達は、慣れていなかったのだろう。周囲の助けを借りて、よろめく身体で踏ん張ると姿勢を正す。 カーテンが全開になる、ステージの端から端を手を振りながら挨拶するリュウの後方に皆注目した。右からアサギ、ハイ、アレク、ミラボーが席についていた。 やや緊張した面持ちで、アサギは大人しくしている。俯き気味で、ところ狭しと集まっていた魔族達を眺めていた。 その数時間前のこと。 ドレスに着替えてから、アサギとハイは暫し城内を散歩していた。城内の屋上に位置する果物栽培所を訪れたハイとアサギは、合流したリュウと共にそこで果物を戴く事にした。小腹は空いている、瑞々しい果物なら口に出来る。 甘い香りが充満するその敷地内で、色とりどりの果物が元気良く光り輝いてぶら下がっていた。亜熱帯性の果物が植えられているようだ、雰囲気が南国そのものである。アサギが見知っている果物もあるが、全く知らないものもあった。地球には存在しないと思われる果物もあり、興味深く見入る。 畑を潤している汲み上げ式の汀の傍らで、三人はその場でもぎとった果物を頬張った。アサギは馴染み深いバナナと、マンゴーを選んだ、迸るような甘味に思わず歓声を上げる。今まで食べたどのバナナよりも美味しいのは、やはり無農薬かつ、採り立てだからだろうか。 三人で他愛のない会話を楽しんでいたが、時間が来たため、先程ステージの上に出向いていた。
流石にあまりの多さの魔族にアサギも脚が強張り震えた、が、隣でハイが軽く頷き笑みを浮かべてくれていたので安堵の溜息と共に、震えを止めるべく深呼吸する。胸を張り、顔を上げて真っ直ぐ視線を持ってくる。手は行儀良く、膝の上にそっと添えた。 些か落ち着いたので、アサギは再び魔族観察を開始した。 魔族と一言で言っても、様々な容姿をしている。人間に近い魔族もいれば、明らかに羽根や角が生えた魔族もいる、肌が緑の者もいれば、頭部が馬の魔族も存在している。 ふと、黄緑の髪で額に角を施した髪飾りをしている男性と視線があったので、アサギは思わず会釈をしてしまった。男性は何故か驚愕の瞳でこちらを見ていたが、アサギに遅れて会釈した。 それは、アイセルである。 瞬きを忘れてアサギを見ていたアイセル、急に身体が冷え込む。背筋を伝う汗は、何を意味したのか。 アイセルはアサギと視線を合わせてしまい、思わず後方に倒れ込んだ。 幸いサイゴンが立っていたのでそのまま支えられたが、周囲が心配そうにアイセルを見つめる。
「顔色が良くないわよ、あんた。大丈夫?」
ホーチミンが簡易な回復魔法を唱える、怪訝に覗き込まれ、アイセルは思わず表情を隠した。
「ちょーっと、さっきスリザちゃんに蹴られた箇所が痛んだだけ。気にすんなー」 「あら、そっ」
痛そうに顔を顰めだらしなく頭をかいているアイセルに、ホーチミンは呆れ返って冷ややかな視線を送ると、サイゴンに軽く耳打ちする。
「ね、サイゴン。あそこに女の子座ってるけど……。あれ、誰? 誰かの従姉妹?」 「髪が黒いし、ハイ様の妹ではなかろうか? 堂々としているし」 「あー、確かに。なんか人間に見えるもんね」
魔族達も、アサギを見ていた。 当然だ、魔王に揃って見慣れない人物が紛れている。気にならないほうがおかしい状況だろう。小柄な少女だ、大して魔力がなさそうだ。おまけに人間に見える、何者か皆興味をそそられた。 気品あるその姿から、魔王ハイの妹ではないか、と魔族達は犇めき合った。はたまた隠し子ではなかろうか、とも噂は飛び交う。 魔王ハイの耳に入っていたのならば、衝撃で寝込んでしまいそうだ。まさか想い人が、自分の娘扱いされようとしていたなどと。
「はいはーい、静かにするぐー! 今日は、君達に重大なお知らせがあるのだぐー。あ、でもだぐ、その前に。質問があるのだぐ! 素直に答えて欲しいのだぐー」
ざわめく魔族達を、手を三度叩いて静まらせたリュウは再度大きく魔族達を見渡す。視線が集まったところで、急に神妙な顔つきになって一言。
「最近、人間界に勇者が現れたと噂があるけれど。その勇者についてなのだぐーよ」
途端、部屋中に衝撃が走った。 皆小声だったが全員が口々に呟いたので、大きなざわめきとなって広間を駆け巡る。忌々しそうに、憎々しそうに「勇者」と吐き捨てる者から、戸惑いながら呟く者、肩を竦めて呟く者、興味なさそうに周囲を見て行動を決めている者……。 反応は十人十色である、リュウは微かに満足そうに微笑んだ。 大きくなる騒音に、ハイが慌てて椅子から立ち上がる。アサギも息を潜めて、けれども目を逸らさずに魔族達を見ていた。 そんな様子を、静かに魔王アレクは何を語るでもなく見つめている。特に、アサギを。
「おい、リュウ! 何がやりたいんだ!?」
こんな状況で、アサギが勇者だと知られては非常に危険だ。魔王である自分が隣にいても、無事ではすまないかもしれない……ハイは表情を強張らせる。ハイの言いたいことも解ったのだが、説明が面倒なのでリュウは軽く笑うだけで説明しない。 ハイを椅子に強引に連れ戻して着席させると、魔族達に振り返ってわざとらしく咳を一つする。
「ん、このような状況では話が出来ないぐ。重大発表は後日ということで」
途端、不服な嘆きが聴こえた。 ”勇者”に纏わる何か、なのだろうが今は教えられないという魔王。おまけに、何故仕切っているのが魔王アレクではなく、魔王リュウなのだろう。 疑問を抱いたところで、今日はお開きらしい。非常に納得がいかないが、魔王に反論する者は誰もいなかった。
「はてさてしかし、今の君達の呟きを聞いていた限りでは……。困ったことに勇者を敵視していない者が中に居るようなのだぐー。当然敵視している者のほうが多いだろうが、その者達は帰宅して良いぐ。そうでない者は……正直にこの場に残るようにー! 以上っ。移動開始だぐっ、別に悪いことはしないぐ、ただちょっと説教するだけだぐー」
顔を引き攣らせた一部の魔族、狼狽していることがリュウの目からは丸解りだった。想像より、多い魔族が勇者を敵視していない。「……だろね、間近でみなければ、接しなければ勇者が何かなど解りはしない」思わず、口に出してしまうが小さすぎる声では誰も聞き取れなかった。 大移動が始まった、ぞろぞろと出て行く魔族達は「今日の招集がこれとは」と苦笑いである。全員出て行くかと思えば、馬鹿正直に残っている魔族も存在した。 集まっていた魔族の五分の一程だろうか、紛れて出て行こうかとも脳を過ぎったがリュウが『正直に』と言ったのがひっかかっていた。後で嘘がばれても仕方ないので、観念したのだ。確かに何食わぬ顔でそのまま出て行った魔族もいたのだが、こうして残った者もいる。非常に誠実な者達である。 残った魔族達は顰めき合いながら、リュウの次の言葉を待つしかない。
「だって……勇者っていったってなぁ……。こちらが侵攻しなければ、攻めてこないだろうし。多分」 「ぶっちゃけ、戦いって好きじゃないし……」 「和解して協定を結びたいくらいだよ」
人間達に聞かせたい台詞が満載だ、肩を竦めて、広くなりすぎた広間の中央に皆身体を寄せ合っている。 その中には、スリザ、サイゴン、アイセル、ホーチミンもいた。スリザはアレクが人間を好いている事を知っていた、『勇者を極秘に探し、何とか和解出来ないか相談を持ち掛けたい』と稀にぼやいていたのを聞いていた。 その為、これは勇者が見つかった知らせで、勇者を良く思っている魔族達だけにだけ知らせるつもりなのではないか、とスリザは踏んでいる。 サイゴンとて、同様に考えていた。明確にアレクから聞かされたわけではないが、自分の姉がアレク直々に命を受けて極秘に何かを調査していた。恐らく、勇者絡みだろうと踏んでいた。アレクは詳細を語ってはくれなかったが、そうとしか思えない。『見つかった勇者をどうにか連れてこられないだろうか』……そのような相談ではなかろうか、とも思った。 二人共、惜しい。大体合っている。 ホーチミンは特に人間だろうが魔族だろうが気にしていなかった、実際人間の友達も居る。種族はどうでも良いのだ、気が合えば。 そしてアイセルは、アサギが”何者か”気づいているので乾ききった口内を必死に唾液で湿らせながら、一人耐えている。 先程まで詰まっていた広間は、急に隙間が増えて違和感を覚える程。そんな空間に静寂が訪れる、ドアが閉まる音が響き渡った。 リュウは、満足そうに残った魔族達を見渡す。
「うん、ありがとうなのだぐー。今日は君達だけに特別なお知らせがあるのだぐー! これ、秘密なのだぐーよ」
パチン、指を鳴らす。広間のカーテンが閉められ、光が遮断された。暗闇で覆われた広間に、魔族達は騒然となる。 しかしそれは、一瞬の事だった。 騒々しい派手なファンファーレと共に、眩いばかりの一筋の光が一点を照らし出す。サァ……と月光の様に注がれた一本の光の先にいた人物、それは。
「……私?」
無論、アサギである。 きょとん、として隣のハイを見上げれば、わなわなと顔を憤怒で真っ赤にしリュウを睨みつけていた。 なんとなく、何がしたいかようやく目論見が解ったハイ。アサギが着せられたドレスの意味、勇者を敵視する魔族を追い出した意味。 しかし、もはや遅い。 視線が交差したハイとリュウ。やめろ、とハイが叫ぶよりも先に、意地悪く瞳を光らせたリュウが叫んだ。
「じゃじゃじゃじゃーん! この娘が、魔王ハイのお嫁さん候補で惑星クレオの勇者アサギちゃんなのだぐー! みんな仲良くしてあげるのだぐーよっ!」
うぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおっ! 大喝采。 魔王ハイに、嫁。 嫁が、勇者。 勇者は無論、人間だ。 その場に硬直したままひっくり返って、床で後頭部をぶつけても起き上がれなかったハイ。アサギは椅子から飛び降りてハイに駆け寄るが、半乱狂だった。右往左往し、困り果てている。 その様子に魔族達はざわめきたった、『おぉ、仲が宜しいことで!』と。 静かに、アレクが席を立ちアサギとハイを見下ろす。
「ちょ、すごーい! ハイ様やるぅ、嫁に勇者だって!」 「い、意外……どこにそんな出逢いが!? というか、非常に俺の理想の嫁さんだ……。物凄く可愛い子だー」
ホーチミンとサイゴンは、各々の感想を。スリザは心配そうにアレクを見つめ、唇を噛んでいる。 そして、アイセルは。 呆然と立ち尽くしたまま、微動だ出来ずにいた。ホーチミンに揺さ振られても、アサギから視線を外すことなく。アサギを食い入るように見つめて、胸を苦しそうに押さえる。額から零れ落ちる汗、背筋を流れる汗。
「あの子、が。あの子、だ。……名前は、”アサギ”」
アイセルは一際強く、胸を押さえつける。
……あの方が! あの方が次期魔王! アレク様の後継者にして魔族を統治する偉大な女王!
地球から。 何故か突如召喚された勇者アサギは、人々に忌み嫌われ、神からも見捨てられた魔族の住む地・イヴァンに降り立ちその姿を見せた。 魔王ハイの、嫁として。 魔族達は、小柄な勇者を観てどう思ったのだろうか。魔王ハイの嫁なので、人間はすんなり受け入れられた、むしろ納得出来た。 勇者、という点でも皆純粋に喜んだ。魔王と勇者で、魔族と人間の橋渡しが出来ると考えたのだ。
「平和な時代だ……」 「これからは堂々と人間界に行けるぞ!」 「あぁっ、なんて素敵な日でしょう! 魔王ハイ、万歳!」
ばんざーい! ハイ様、ばんざーい! 万歳、万歳、万歳、万歳! 大合唱は、収まらず。
ハイの脳内で再生されている合唱は、いつまでも響き渡っていた。ベッドの上で低く呻きながら、身もだえしているハイ。 その様子を、アサギが心配そうに覗き込み、リュウが不貞腐れて隣に座っている。軽い溜息、頭を掻きながらリュウは舌打ちしてハイを見る。 苛立っているのは、寝込んでしまったハイにではない、自分にだった。 まさかハイにここまでの精神的苦痛を与えられるとは思っていなかったので、やりすぎたと反省しているのである。一応。 ショックで倒れたまま、起き上がることなく自室のベッドに寝かせてから早数時間が経過。悪戯好きのリュウではあるが、流石にこの状況が悪戯ではすまない事ぐらい理解しているつもりだ。 ハイ自身、アサギをとても好いていることなど痛いくらいに理解していた。嫁、とまではいかなくとも恋人になれたらな、と仄かに期待していた。 それを勝手に公然の秘密にされてしまった。そもそもハイからはアサギに一言もプロポーズどころか告白すらしていないうえに、アサギの了解すら貰っていない状態で”嫁”扱い。 アサギ自身にそのリュウの発言を聞かれてしまったことが、何よりハイに痛手を負わせていた。 どんな顔をしてアサギと会えばよいのだろうか、そこである。
『どうして嫁なんですか、私』
と、アサギにあの大きな瞳で問いかけられた場合、どうすれば良いのだろうか。なんと答えれば良いのだろうか、ハイは悪夢を見ていた。 何をどう返答しても、アサギは自分の前から去っていくのだ。そんな夢を何度も何度も観ている、ゆえに、魘されていた。 暗闇の中、光が自分から離れて行き、静寂と暗黒が支配する世界へと。遠くなっていく光を必死で追い求めたが、どれだけ走っても追いつけない。 魘されるハイを、懸命に水に浸した布で看病しているアサギはそんなこと露知らず。そもそも、アサギは先程のリュウの発言を全く気にしていなかった。ハイがそこまで考え込む必要など、どこにもなかったのだ。 それはそれで、ハイに気の毒であるが。 まず、嫁発言。歳が、違いすぎるのでアサギ的に対象外である。そして出会って間もないのに、何故結婚。 アサギはこう考えていた。勇者としてここに滞在する為に、カモフラージュで嫁、という肩書きがついたのではないかと。 それが自然だろう、非常に利巧だ。 看病するアサギの後ろで、椅子から立ち上がり困ったように何をするでもなく部屋を徘徊するリュウ。見舞いに来たものの、特に何もすることがないので立ち尽くしているアレク。 魔王が三人、揃いも揃って駄目男っぷりを発揮している。 時は既に、月が顔を出し辺りを闇に覆う刻である。部屋をぐるぐると回り、たまに椅子に腰掛けて首を捻り、意味もなく部屋の中央で踊ったりもしていたリュウだが、やがて名案が浮かんだらしく嬉しそうに掌を叩いた。 名案、というよりかは悪知恵、悪巧みが閃いたらしい。この状況を打破出来ることは間違いなかったが。 きょろきょろと周囲を見渡し、わざとらしく大声で叫ぶ。
「もうこんな時間なのだぐー、起きないハイは仕方ないから放置して三人で夕飯食べようなのだぐ。そうしようなのだぐー、腹ぺこりだぐー」
そうだ、そうだ! リュウ自身が返事をする。 無意味にアレクに微笑みかけ、アサギの隣に立ち肩にそっと手を置いたリュウ。アサギは申し訳なさそうに見上げると、ハイの看病を続ける為に丁重に断ろうとした。 その時である。
「くおらぁ、リュウ! 人が倒れている間にアサギを誘うとは、なんたる非常識な事をっ! 私を置いてとか、どういう神経をしているんだ貴様はっ」
床に臥せっていた、瀕死の状態であったハイであるが、勢い良く跳ね上がった。布団を投げ飛ばし、額にあったアサギが使っていた布をきつく握り締めながら、リュウを恐ろしい形相で睨み付ける。 元気そうだ。
「あは、おはよーなのだぐ」 「おはよー、ではない! 大体貴様はっ」
しかし、その勢いは何処へやら、脇にいたアサギを視界に入れた途端にハイは床に落ちた布団を拾い上げて再びベッドに潜りこんでいった。 まるで、つつかれて殻に戻った蝸牛のごとく。
「ハイ様! 大丈夫ですか? 何処か痛いですか?」
再び布団人間と化したハイを、アサギは揺さ振るが返事はない。 数分後「私はアサギに会わせる顔がないんだ……」と、低く、くぐもった涙声のハイの声が布団から聴こえてきた。 先程の悪夢が、甦る。不安で仕方ない、こんな気持ちは初めてだ。無理やり連れてきて、嫁……普通は激怒するだろう。拉致監禁である。 ハイの心臓は爆発寸前、イヴァン全土を巻き込むほどの凄まじい威力。 先程のハイの声は弱々しく季節外れの蚊のようだが、心臓の音だけは大きく、震えも大きいのでそちらのほうが音がよく聞こえる。 とにかくハイは不安だった、恐怖を全身で体感していた。我が物顔で生きてきたハイが感じた、生まれて初めての底なしの孤独感と絶望。 遥か遠い上空に瞬時に移動し、そこから真っ逆様に落下しつつ、世界は地震と火山の噴火、隕石の衝突で崩壊し、その様を見つめながら自分は空中分解……というような感覚。 大袈裟だが、本人はいたって真面目だ。アサギに何か口を開かれたら人生が終わる気がしていた。ハイは、布団を被ったまま断固、出ない姿勢である。非常に貧相な魔王だ。 深い溜息、リュウはアレクに肩を竦めて首を振る。 臆病だという事は理解したが、度を越えている。「軽い冗談だ」で済ませば良い。だが、ハイの性分からするとそれが出来ないのだろう。 部屋が沈黙に包まれて、気まずい空気が流れる。
「あの、ハイ様。私、何かしましたか?」 「アサギは何も悪い事などしていない、私が全ての原因の発端だ、元凶なのだ……あああああああああああああああああああああああああああああ」
わけが解らず、アサギは俯いて布団を擦っている。 まさかハイがそんなことで悩んでいるとは知らないので、自分に会いたがらないハイに、不安になったアサギである。 リュウとアレクは互いに顔を見合わせて小さな溜息と苦笑いした、二人には、ハイとアサギの考えが手に取るように解った。客観的に見ているからだが。 無表情で、アレクはそんな二人を見つめていた。感情が全く読み取る事ができない、その表情の奥に隠されたアレクの思いを今はまだ、誰も知らず。 緊迫感のない欠伸を一つ、リュウは空腹だったので、勝手にあったクッキーを貪っている。 それでも律儀に部屋を出ていかない二人の魔王だった。 ハイは、布団の中で猫のように丸くなりながら「嫌われたらどうしよう、自殺しよう」と、そればかりを考えている。 しかし、このまま布団の中で一生を過ごすわけにもいかないのだ、当たって砕けろ、飛び出すべきだろう。 しかし、行動に移すことが出来ない。震える身体、次々に浮かんでは消える最悪な映像。繰り返し、繰り返し、同じものを観ている。眠っているような、醒めているような、不思議な感覚。深い闇に堕ちて行く、ふわっと、突如浮かび上がりながら、どこまでも底がない闇を落下していく感覚。 何度も、繰り返し。 暫くして、ハイは瞳を擦りながら暗い布団の中で目を覚ましていた。どうやら、本当に眠ってしまったようだ、考え疲れたのかもしれない。今は一体何時なのだろうか、どのくらい布団に隠れていたのだろうか。 まだ、ぼんやりとしている脳を必死で起しながら、ハイは麻痺していた腕で上半身を辛うじて起し布団から這い出る。 深い溜息一つ、部屋を見ようにも瞳が慣れず見えない室内。真っ暗だった。月の明かりがない、カーテンが締め切ってあるのだろう。 ハイは、自分の傍らで寝息を立てている人物が居ることに気がついた、恐る恐る近寄り、必死に瞳を擦って凝視すれば。 すーすーすー……。 こんな可憐な寝息を立てる人物など、ハイの周囲に一人しかいない。間違ってもリュウではない。 アサギである。 看病していたアサギ、必死に声をかけていたアサギ、いつしか周囲の暗さと共に眠気に襲われて、あのドレス姿のまま眠っていたのだ。 今宵は普段よりも温度が低く、露出した肩が寒そうである。戸惑いがちに触れてみれば、やはり冷たい。ようやく慣れて来た瞳でアサギを優しく抱き抱えると、そっとベッドに寝かせて布団をかけてやる。 アサギが微かに笑って、唇を動かしていた。聞き取ろうと近寄ったハイ、アサギの唇から聴こえたのは。
「ハイ様」
ハイの、名前だった。静かに、震える手でアサギの髪を撫でる。 不意にドアをノックする音が、ハイの耳に届いた。控え目な音、起さないように気を使っている来訪者だ。 ハイは静かに立ち上がると、寝返りをうったアサギに微笑し、軽く頭を撫でるとドアへと向かう。 アサギは疲れているのだろう、深い眠りに落ちているらしい。ドアノブに手をかけたハイは、一瞬表情を曇らせた。 手を離し、宙で停止したハイの右手。恐らく、ドア向こうに居るのは間違いなく”あの男”だろうが。 しかし、油断は出来なかった、アサギの存在が魔族の多くに知られてしまったからである。あの場にいたのは勇者を敵視していない魔族達のみだった。だが、そんなものは信用出来ない。 ”勇者の命を狙う者”ならば、躊躇せずにこの部屋に来るだろう。例えこうして、魔王が護衛についていようとも。あのリュウの傍迷惑な召集のお蔭で、アサギの命は危険な状態に曝されているのだ。 アサギは魔族ではない、人間だ。 ハイとて人間だが自分は惑星ハンニバルにて悪霊を統治し、破壊と虐殺を行い、魔物を従え破滅の象徴として君臨していた。絶対的な権力、畏怖の念を抱かせる威圧感。 だからこそ、人間でありながら魔族達と肩を並べてこうして優雅に暮らしているのである。 魔王であるから。人間でありながら、魔王なのだから。 しかし、アサギは。アサギは勇者だ、人間であり、更に勇者だ。 ここは魔界、魔族の住まう土地、勇者とは敵対関係にある場所である。命を狙われないほうが、おかしいというものだ。そもそもハイとてほんの数週間前は勇者を探し出して、抹殺するつもりだったのだから。 狼の群れの中に放たれた、生まれたての子羊のごとく。餓えたライオンの折の中に投げ込まれた、ウサギのごとく。勇者といえども、まさか全ての魔族達を相手に、一人で立ち回りが出来るとは思えない。 億劫なまま、ハイは再び叩かれたドアに怪訝に目を向ける。 現時点で何者かがアサギを狙ってきたのであるならば、自分が返り討ちに出来るのだが。ただ、アサギを起したくなかった。仮にも魔王なのだから、どんな相手が来ようとも、退けられる自信は当然ある。 深い溜息を一つ、ハイはようやくドアを多少開いた。ドアから、強烈なランプの光が差し込んできた、瞳が痛い。思わず瞳を瞑りかけたが、敵だとすると非常に危険だ、ハイは必死に瞼を開いて相手を見る。
「リュウか」
予定通りの顔だ。その後ろにアレクも控えていたので、ハイはドアを半分ほど開いた。ランプの明かりで、アサギが起きてしまわない様に、という配慮である。
「ハイ……落ち着いたようだな」
アレクの柔らかな声に、素直にハイは頷く。リュウも微笑んだ、何時ものような悪巧みの厭らしい笑いではなく、純粋に穏やかに。 しー、と指先を口元に当てて、アサギを見つめながら語る。
「あのね、ハイ。アサギは何も食べずに、ずっとハイの傍に居てくれたのだぐー。食事に誘ったんだけど、ここにいる、って。私たちはさ、先に少し食べさせてもらったのだぐ」 「なんと、アサギが……」
申し訳なさそうに顔を歪めて振り返ったハイ、アサギは寝息を立てて眠っている。 「ごめんなのだぐ、ちょっと調子に乗りすぎたのだぐー。謝るぐ」
と、頭を下げようとしたリュウを、ハイが制する。代わりにハイが、深々と頭を二人に下げた。そのハイの態度に、微かにアレクは眉を潜めたが、それも一瞬だ。 再びそんな素振りなど見せぬように、ハイを見つめている。
「いや……。私も悪い。アサギに恐れず、説明すべきだったんだ。嫌われてしまったのではないかと、疑心難儀に捕らわれていた。久しく”怖れる”という感覚を忘れていたよ、駄目だな」
リュウとアレクは顔を見合わせ互いに頷き、小さく笑うとハイの背を叩く。
「食事、作らせておいたぐーよ。夜更けだけど何か腹には入れたほうが良いと思ったのだぐ。アサギも起してあげるぐ、皆で庭で待ってるから後から来るんだぐ」
耳元で「しっかり、なのだぐー」そう付け加えると、リュウとアレクは静かに去っていく。残らなかったのは、ハイへの配慮だ。二人きりのほうが説明もしやすかろう、と判断した。 ハイは頷き、二人を見送ると手馴れた動作で自室のランプを燈す。息を大きく飲み込んでから、やや躊躇してアサギを揺さ振った。光で目を痛めるといけないので、ランプは遠ざけた。 熟睡しているのに起すのも可哀想な気がしたが、今ならば今日の魔族会議でのこと、そして先程の自分の態度を素直に謝罪し、説明出来そうだった。明日には、その勇気がなくなってしまいそうな気がした。 やがて、ゆっくりと重い瞼を何度か動かし、アサギは瞳を開く。
「ハイ……さ、ま?」
寝ぼけ眼で瞳を擦りながら、アサギは小さく伸びをして起き上がる。
「あぁ、そうだよ。おはよう」
軽く頭を撫でながらそう告げたハイ、声は柔らかだ。安心したようにアサギはようやく会話が出来た事に喜び、嬉しそうにハイの胸にもたれて再び目を閉じた。微かに赤面したハイだがぎこちなく頭を撫でる、静かにそれでいて晴れ渡った空の澄み切った様な明るい声で語る。
「心配を、かけてしまったな」
その言葉だけで、アサギには十分だった。 見上げて笑うと、謝罪しようとしたハイの唇をそっと指で押さえるアサギ。驚いて微かに赤面したハイに、くすくす、とアサギは明るく笑うとお腹を擦った。お腹が空いた、と言いたいのだろう。 稀に、突如として色香のある仕草をする子だ、とハイは思わず跳ね上がった胸を紛らわすように慌てて言葉を発する。
「行こうか、リュウとアレクが食事を用意してくれたそうだよ」 「私、お腹ぺこぺこです!」
くすぐったそうに笑う二人、空気の入れ替えで開いた窓から風が吹きぬけ、雲隠れしていた月が顔を出し、部屋にも光を届ける。夏の星座も夜の空に、燦然と輝いていた。ただ、地球から見える星座と形が違う。 庭への階段を下りながら、ハイは心地良い空気の中に混じっている胡蝶蘭の香りを嗅いだ。恐ろしいほど、至福の時だ。 無理やり攫い、魔界に押し込めているがアサギは全て知っていたかのように受け入れ、皆に優しく振舞っている。勇者とは、誰にでも同じように接するものなのだな、とハイは小さなアサギを見下ろし感嘆した。 それは、違う。そうでは、ない。だが、ハイには解らない。 庭にたどり着くと、簡易だが歓迎会場が設置されており、目に入った瞬間にアサギは歓声を上げてハイの手を引いて走り出していた。この辺りの無邪気さは子供だ。 庭の大きな木に、丸い虹色の光が幾つも瞬いており、純白のテーブルクロスの上には水に浮かべた蝋燭と共に食事が並べられていた。 リュウ、そしてアレクが手を振っている。手を振り返すと、他の者達が一斉に頭を下げた。
「初めまして、アサギ様」
見慣れない魔族四人がいたので、アサギは微かに戸惑ったが慌てて礼を返す。スリザ、アイセル、ホーチミン、サイゴン。この四人だ、人は多いほうがよいだろうと、リュウがアレクに選抜してもらい、この四人を叩き起こしたのである。 熟睡していた四人だが、不機嫌さはない。魔王直々の命令でもあり、断れないことは確かだが、何より興味対象の勇者アサギに会えるのだから当然か。 すらりとした女性が一歩前に出て、会釈をする。凛々しく、軽快な短髪の黒髪が良く似合う美女である。
「私はスリザと申します。女の身ではありますが、魔族の隊長として、アレク様にお仕えしております。宜しくお願い致します」
濃紺の長髪に、緑の肌、漆黒の瞳の長身の男が次にアサギの前に出る。
「俺はサイゴンと申します。スリザ隊長の部下として、アレク様にお仕えしております。剣士です、ご用命があれば、なんなりと」
見事な金髪、濃藍の瞳に細身の長身、何処かのスーパーモデルのような美女が穏やかに微笑んで会釈をする。
「私は、ホーチミンです。魔術師なの、宜しくお願いしますね」
そして、魔族会議で視線が交差した黄緑の肩までの髪に、額に角を象った飾りをつけた濃緑の瞳の青年だ。
「アイセルと申します。武術師です、サイゴンとは親友です。宜しくお願いします」
二人の視線が交差した、アサギは穏やかに微笑んでいたが、アイセルは瞬間地面に突っ伏してしまう。血液が逆流した気がした、鳥肌が止まらない。 驚いた周囲に我に返ったアイセルは、一瞬の間の後豪快に笑いながら頭を掻いて起き上がる。
「いやーすみません、丁寧な言葉は苦手でしてー。何より、あまりの美しさに身体がついつい反応を。思わず平伏してしまいました」
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