その晩の月は、妙に青白い。 物悲しい雰囲気を放つ月の儚い光が、トビィの髪へと降り注ぐ中。冷たい夜風が、トビィの頬を撫でて流れていった。瞳を閉じていたトビィは、微かに開いて一言呟く。
「イヴァン」
思い出す、魔界。ある意味、故郷。 再度瞳を閉じて小さく溜息を吐くと、トビィはいつかの情景を思い描き始めた。
その日、トビィは森へ一人で狩りに来ていた。当時九歳。 幼いながらに動物を捕獲することが大人顔負けで上手かったトビィは、槍を持って食料捕獲の為頻繁に森へと出向いていた。今日も小鹿に狙いを定め、先程から息を押し殺し獲物を睨みつけ機会を待っていたのだが。 不意に。 鳥達が一斉に森から飛び立って行った、小鹿も隣に付き添っていた親鹿と共に森へと姿を消していく。舌打ちし、忌々しそうにトビィは深い溜息を吐くと木の陰から姿を現し、頭をかきながら踵を返した……が。
「なっ!?」
村の方角から黒煙が上がっている。禍々しい妖気のように立ち上るそれに呆気にとられたトビィだが、手の中の槍を硬く握り締めると、そのまま村へと向かう。息を上がらせて駆けつけてみれば、村は焼け野原だった。 無心で涙が湧き上がる事もなく、トビィはそれを見つめている。まだ火は消えていない、肌にも熱さが沁みてきたが、それでもトビィは逃げようともしなかった。 文字通り、廃墟となったそのトビィの住んでいた名もなき村は、何者かによって破壊されたようだ。 状況が上手く飲み込めていないのかもしれないトビィは、鎮火していない村を人影捜して歩き回る。今日は、近くの街で祭りが開催されている日だった、村に残っていた住人は多くはない。 だから、寧ろ幸いだったのかもしれない。冷静にそんなことを思案していた。燃え盛る火は、村の家を、柵を燃やし尽くしながら天へと黒煙を吐き出している。翳り始めた空、まるでこの黒煙に作り出されたもののようだ。 不意に、ようやく人が目に入った。 当然亡骸である、その右手に一本の剣が握られている。しゃがみ込むとトビィは死後硬直で固まったその掌から、懸命に剣を取り出すとそれを思わず握り締める。急に、意識が鮮明になった。 そうだ。 村人は”何かと戦っていた”。 意識せずとも緊張感が高まる、気配を押し殺して炎を睨みつける。その炎を、ゆっくりと左右に引き裂くようにして……。
「こんにちは、可愛い子」
金の長い髪を風に靡かせて、麗しい妖艶な女性が笑みを浮かべて歩いてくる。モスグリーンの瞳は、理性を狂わせそうな程、妖しげな雰囲気を秘めていた。 幼いトビィにですら、それは感じた。雄としての、直感だ。 二十代後半の女性に見えるが、その背には人間ではない証がある、蝙蝠のような羽が生えていた。その羽が、女性の美しさを損なわせることなどない。 村人ではない、この羽を所持している美女。当てはまる人物は、一人きり。村が焼けた原因だ、火を放った張本人だ。 正体が発覚したとしても、特にトビィは恐れることもなく。捨て子のトビィは運良くこの村の夫婦に引き取られ、命を取り留めた。元より、捨てられていた命、今更死んだとしても惜しくはない。 だが。 恐怖がないのは、死を恐れないから。生き残る事ができるという確信が沸いたから、だ。確証はないのだが、そう思えて仕方がない。 自分は”死ぬことがない”のだと思った、寧ろ”死ねない”と思い始めていた。夢に出てくる、緑の髪の少女、彼女に会うまでは、会って共に寄り添うまでは決して死ぬことはない、と。 そう思えてしまって仕方がないのである。
「私と一緒に、イヴァンへ行きましょう」 「イヴァン?」 「魔界のことよ」
背後に、燃え盛る紅蓮の炎。ゆっくりと歩み寄るこの魔族の女は、絶えず笑みを浮かべていた。 トビィに向けて、美しくしなやかな手が差し伸べられる。すんなりと、受け入れるようにトビィはその手を握り締める、不意に女がクスクス、と可笑しそうに笑う。 怪訝に睨み付けたトビィを、優しく抱き締めた美女。ふわり、と色香が漂い思わずトビィは鳥肌が立つ。それは姉と弟のようで、母と息子のようで、そして恋人同士のようで。 とても、九歳の少年とは思えない程の余裕と落ち着き。凍りついた月を彷彿とさせるその鋭すぎる瞳を何度も覗き込み、女は愉快そうに静かに微笑む。 どのくらい浮遊していたのだろう、到着した場所は、言われた通り”魔界イヴァン”。 周囲を見渡したが特にこれといって、トビィが居た人間世界とはなんら変わりはなかった。何処までも続く雄大な森は、緑が風になびいて麗しく。 魔界、という人間が持つ邪悪さは、そこには微塵もなかった。 生命の雄大さを見せ付けてくる、その森。中央には大きな湖もあった、澄んだ水面、煌く優美さ。時折空を飛び去る鳥の鳴き声は、軽やかに風に乗って耳に届く。 そして魔王の城は威圧感をその場に誇示して建っていた、白亜の壁は、見事に周囲と調和している。絶対的威厳、解き放たれる存在感、武者震いを起こす……城。
「あれが現魔王・アレク様がいらっしゃるお城よ。素敵でしょう?」
小さく微笑みトビィを背後から抱き締めた女、感嘆の溜息を二人で同時に吐く。女は西の方角を指した、トビィの耳元で優しく囁く。
「あちらが、私の家がある場所。ごめんなさいね、あのお城への入国許可は難しくて。いつか、連れて行ってあげる……あぁ、そういえば。私の名はマドリード」
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