ハイは瞳を開く、見慣れた風景が広がっていた。
「さて、到着だ。先程の怪我は大丈夫か?」
腕の中のアサギを不安そうに見つめ、控え目に声をかけた。虚ろに聞きながら、アサギは目を凝らして状況を探る。一瞬意識が飛んだが、思い出してきた。 薄暗い部屋、床には何やら得体の知れない文字で陣が描かれている、それ以外は何もない。強いて言うならば蝋燭が四本壁に設置されており、影を揺らめかせていた。 様子を一通り確認すると、アサギは軽く頷いてハイを見上げた。そんな様子にハイは穏健な笑みを浮かべ、満足そうにアサギの髪を撫でる。 アサギが身動ぎしたので、丁重に地面へと下ろすと手を引いてドアへと向った。その手はとても暖かく心地良く、ハイを安堵させる。 同時にアサギもその温もりに、僅かながら緊張を解いた。 闇に包まれ、アサギの瞳では映す事が出来なかったそのドアを押して、飛び出した先は。 眩しい光が瞳を襲う、激しい痛みを感じて顔を手で覆い隠した。先程とは、別世界の場所だった。
「ど、どうした、傷が痛むのか!?」
顔面蒼白、アサギを揺さ振るとハイは心配そうに覗き込む。ハイはこの眩しさに慣れているようだ、何も感じなかったのでアサギが何故手で顔を覆い隠したのか、どうやら真剣に解らないらしい。 数分後、恐る恐る顔から手を外したアサギは、自分を覗き込んでいたハイと視線を合わせて軽く首を横に振る。瞳への刺激で涙が瞳に浮かんでおり、思わず眉をしかめたその艶っぽい表情に胸を高鳴らせたハイ、お陰様でかける言葉を一瞬忘れてしまっていた。 戸惑いがちに咳を一つ、視線を照れながら逸らして言葉を紡ぐ。
「今、アサギの部屋へと招待しよう。何か足りないものがあれば直様言うように。何でも揃えてやるからな」
足取り軽く、ハイは別のドアへとアサギの手を引き進んだ。 ようやく明るさに慣れた瞳で部屋をぐるり、と見渡したアサギ、窓から入り込んだ優しい光が部屋に飾っている観葉植物達を照らしている。 先程の闇色の部屋とは、全く持って対照的な部屋であった。窓から不意に見えた外の景色、森林が果てなく続き、河が流れ、雄大な自然の恩恵を受けている。その光景を瞳に映した瞬間、思わずアサギは空いた手でハイの衣服を思い切り握り締めていた。 振り向いたハイに、興奮気味に語りかける。
「あ、あの! ここは一体何処ですか?」 「ここ? 私の自室だ。結構気に入っているのだが……どうした、気に入らないか?」
余情溢れるその声に、ハイは思わず何事かと不安そうに語る。慌ててアサギは首を振る、そうではない、逆だ。
「いえ、部屋もとても綺麗ですし素敵だと思います、が。そうではなくて、外です。外は一体何処ですか?」 「綺麗で素敵、か! よかったー。整理整頓は大事だよな。アサギにそう言って貰えて私も嬉しいが、部屋も喜んでいる事だろう。外は魔界イヴァンのカピスという地区だよ」
流暢に語りだしたハイ、驚愕の瞳でアサギは手を振り払うと、窓へと余勢にかられて走った。
「こらこら、危ないから走るのはやめなさい。転んで怪我でもしたらどうするのかね」
後方から投げかけられる言葉を無視して、アサギは窓を開き、思い切り息を吸い込む。 神秘的で雄大な森が、眼下に広がっている。煌く紺碧の湖も、美しい。湖の上に浮かぶ城にいるようだ、呆気にとられた。
「うそっ! こんな綺麗な場所が魔界!? 本当に魔界イヴァンですか!?」
動揺と懐疑心の籠もった声、振り返るとハイを軽く睨みつける。優しく微笑みながらハイは近寄ると、難なくアサギを抱き上げて窓から外を見下ろす。硬直するアサギだが、何故こうも優しく触れられるのか理解出来ずに目を白黒させる。
「魔界だ。驚くのも無理はあるまい、私もここへ訪れた当初は面食らったものだ。大概闇に包まれた陰気臭い場所だろう? 私の星もやたら空気がよどんでいたし、リュウが居た場所も暗雲立ち込めているような場所であったし。だがここは眩い自然に囲まれた、雄大な場所だよ。とても気に入っているんだ」 「……自然が好きなんですか!?」 「え? あぁ、そうだが」
訝るような視線で見上げてくるアサギに、たじろいで頬を赤らめた。真剣な眼差しに背筋がゾクゾクする、下半身が妙にざわめく。 変態だ。 そんな様子のハイは無視して、目の前に右の人差し指を一本近づける。何事かと、頭にクエスチョンマークを浮かべるハイ。
「あなた、ハイって魔王じゃないんでしょう!? 騙されませんから。あなたは誰? ここは何処ですか?」
気迫負けし、反論できずにいたハイだが、暫しの後ようやく口を開く。
「い、いや、私は魔王ハイ……と呼ばれている一応。で。ここは魔界イヴァンのカピス地区だ。間違いない」 「違うはずです! 嘘は駄目です! 私が子供だから、馬鹿にしてますか!?」 「ば、馬鹿にするだなんてそんなことは」
間入れず切り返し真剣に見つめてくるアサギに、ハイの心臓は停止寸前、もしくは破裂寸前である。 今気が付いたのだがアサギの着用しているスカートの丈が、短かった。抱き上げた拍子にスカートがめくれて、柔らかく白い太腿が露になっている、おまけに上から覗き込んでいるため胸の谷間が見えそうだった。 あまりに美味し過ぎる光景である。 忘れようと脳裏に焼きついたその光景を振り払うように、懸命にハイは頭を振った。が、免疫のないハイにとってそれは刺激的過ぎたのだ。 視線を逸らしたくとも、本能が目で追う。哀しき性分だ。
「ごふっ」
鼻血を吹き出しつつ、グラリ、と揺れながら後方に倒れ込むハイ。
「えぇ!? ちょ、ちょっと、あのっ」
何故こんな状況に陥ったのか理解が出来ないアサギは、ハイに抱きかかえられたまま同じ様に床に倒れこむ。置き上がってハイの両腕を引っ張る、が、自分の体重の約二倍の男を引き上げられる事が出来るわけもなく。 困り果てていると不意に視線を感じ、ドアへと目を向けた。
「あ、のー。助けてください、この方、鼻血を出して倒れてしまったんです」
ハイの上にちょこん、と乗ったまま話しかけてみる。ゆっくりとドアが開き、そこから黒髪の男が姿を現した。 いわずとも魔王リュウである、ハイの気配を感じ取り部屋の外で様子を窺いつつ、笑いを懸命に押し殺して一部始終を見ていたのだ。失笑を堪え、アサギの手前まで身体を大袈裟に震わせながら近寄ると、上品にお辞儀をする。 思わずアサギも礼をする、満足そうに深く頷くとリュウはアサギを軽々と持ち上げてハイの上から退かしつつ。
「ハイ、起きるぐー」
バコン! 頬に殴りかかるリュウ、その音の大きさからかなりの強打だ。隣で唖然とアサギが目を見開き、その暴行を見つめる。
「な、何しているんですか!?」
一瞬躊躇したが、慌てて止めに入るアサギ。お構いなしにリュウは、再度逆の頬に殴りかかった。く呻いてハイが瞳を擦りながら起き上がる。 アサギが小さく悲鳴を上げ、大きな瞳を更に開いて二人のやり取りを見つめていた。
「やぁ、お目覚めかい、ハイ。おはよう、お久し振りでお帰りなさい、おめでとうだぐー」 「またわけのわからんことを、お前はっ。……はっ!? そんなことよりアサギは何処だ!?」
頬を擦りながら起き上がったハイ、傍らで心配そうに見ていたアサギを視界に入れた途端、強引に引き寄せて抱き締める。
「あぁよかった、夢ではなかった!」
再び力任せに押し付けられて苦しそうにもがくアサギに、哀れみの視線を向けたリュウは、露骨に溜息を吐き、二人を引き離す。「何をするんだ」と目くじら立てて怒鳴るハイの傍らで、アサギが苦しそうに咳き込んでいる。危うく、再び窒息するところだった。原因はハイだが、全く悪びれた様子がない。
「ともかく、ハイ。鼻血を拭くのだ、鼻血を」
リュウがハンカチを差し出すと、渋々と受け取りそれで鼻血を拭き始める。鼻の下に違和感があったことには気づいていた。 そんな二人の様子を唖然と見つめていたアサギは、交互に見比べリュウへと視線を移す。リュウのほうが話が通じそうだと判断した、五十歩百歩な気がするが。
「あの、私はアサギといいます。ここは何処ですか?」
微笑んでアサギの肩を軽く叩くリュウ、鼻血を拭きながらハイが「触るな!」と睨みつけるがお構いなしである。
「やぁ、はじめまして、おぜうさん。私は惑星ネロの魔王リュウだぐ。ここは惑星クレオの南半球に位置する魔界イヴァンの中心地、カピスに存在する魔王アレクの居城の一室、三階ハイの部屋だぐーよ。理解して貰えたぐか?」
不安が募る口調だが、非常に解りやすい説明であった。アサギはリュウに詰め寄ると訝しみながら首を傾げた。信用しても良いのだろうか、いや、良いはずがない。
「嘘ですよね? 魔界ってもっと、こう……闇に包まれて光の届かない、自然も何も存在しない世界ですよね? 魔王ハイにしても、非常に悪い人だと聞きました、が、そうは見えませんし。ここ、何処ですか?」
怯えず、堂々と発言する怜悧そうな雰囲気のアサギに、思わず感嘆の溜息を漏らすリュウ。たった一人で魔王二人を相手に、大した度胸だと感嘆の笑みを漏らした。魔王だと信用していないせいもあるだろうが、何故か心地よい勝気っぷりだと思った。 愉快そうに笑い出したリュウに、些か眉を吊り上げるアサギ、真面目に言っているのだが、全く聞き入れてもらえない様子に憤慨している。
「ここは間違いなくイヴァンだぐ。魔界らしくない、というのなら文句はアレクに直々にいうと良いのだぐ。私達は部屋を借りているだけなのだぐーよ」
納得できずに、目の前の二人を睨みつけるアサギ、だが突如騒がしくドアが開いたかと思うと緑色の丸っぽい物体が部屋へと侵入してきた。 思わず悲鳴を上げるアサギ、入ってきたのは蛙が巨大化したような物体である。
「ミラボー! 何やってるんだ、アサギを驚かせないでくれ。おぉ、可哀想に」
子供をあやす様にアサギを抱き込むと、背中を撫でて落ち着かせるハイ。その様子が堪えたのか、望まない冷遇にミラボーは絹の袋を一つ、リュウに手渡す。
「いや、驚かせてすまんかったー。これは我からのせめてもの祝いの品だ。宝石が入っておる、よかったらその子に」
手短にそれだけ告げると、ミラボーは再度けたたましい音を立てながら、部屋から立ち去っていった。ハイとリュウはアサギを見つめる、ようやく我に返ったアサギは、恐る恐る二人に振り返ると。
「や、やっぱりここは……魔界イヴァンですか?」
どう見ても人間ではなかった、魔物にしか見えなかった。 二人は顔を見合わせると「うん」と落ち着いた声で返答してくる。頭を抱えて乾いた笑い声を出すアサギ、勇者になって数日、魔界へ到着してしまった。おまけに、目の前には人の良さそうな魔王が二人いる。 急展開についていけない、そもそも魔界へ来たら成すべきことは唯一つ、魔王討伐ではないのか? それで召喚されたのではなかったのか? しかし、この二人と戦うなどと。考えられない。 混乱する思考回路、そんなアサギを他所に、いそいそと浮き足立つハイ。アサギの手を引き、ハイは部屋を出る。ついてきたリュウを一喝し、アサギの部屋へと足を向けた。 どれだけ罵声を浴びさせられても、睨まれても、リュウは気にする様子もなく後をつける。 アサギの部屋はハイの隣だ、歩きながらハイは部屋の説明を開始した、見立てをし、似合いそうなドレスばかりを何着も集めた、装飾品にも拘った。 アサギは聞きながら首を傾げるばかりである、何故に魔王が自分の為にここまでしてくれるのか、だ。敵対している……筈だ。しかし、不気味なほどに親切過ぎるのだ、魔王達は。 二人の様子を窺いつつ、後方でリュウはにんまり、とほくそ笑んでいる。諧謔に富む図柄だよなぁ、と小声で呟きつつ。
「さぁ、ここがアサギの部屋だ。気に入って貰えると嬉しいのだが……どうだ?」
緊張した面持ちでドアを開く、アサギの鼻に良い香りが届いた。些か上ずった声のハイは気にせず、興味に駆られて小走りにアサギは部屋に飛び込むと、歓声を上げた。
「す、すごい!」
圧巻だった、何処かのスイートルームのようだ。植物が置かれている日当たりの良い部屋で、品よく可愛らしく家具が揃えられている。
「服も用意した、サイズは大丈夫だと思うが、念のため後で着用して欲しい」
照れながらハイはクローゼットを開く、ずらり、と処狭しと並んだ衣服が飛び出してきた。色取り取りの美しい布地、もうアサギは脱帽するしかない。
「え、これ。みんな私のなんですか?」
地球の自室にある衣服よりも、こちらのほうが量が多そうだ。ここまで来ると罠としか思えなかった。殺す前に一時の贅沢を与えてくれるのだろうか。嬉しくない。
「もちろん、好きに使ってくれ。アサギの為に用意したのだから」
流暢に言われ、疑心難儀の念に駆られるアサギ、そんな様子に気づいていないのかハイはそっと額に口付けた。この時ばかりはリュウもからかう事をやめて、そっと静かに部屋の外へと出て行く。
「上手くやるのだぐ、折角この私が気を遣ってあげたのだから」
自然に本音が流露された。壁に持たれて一人天井を見上げるリュウ、思わず懐旧の情に駆られる。そして悔恨の情にとらわれた、何処か遠くを見つめ続ける。 リュウは自嘲気味に鼻で笑うと、それでも、その”想い出”に浸った。もう、戻れない遠い日の風景、もう、たどり着けない彼の地。 部屋を出ていったリュウには気づくことなく、ハイは優しく正面からアサギを抱き締めた。力の加減が出来たらしく、今回はアサギも苦しくなさそうである。 アサギは困惑気味に少し距離を置くように、一歩後退した。流石に魔王だろうが誰だろうがいきなり抱き締められても、大人しくしてはいられない。しかし、何故か心地良い。胸が、微かに高鳴る。 暖かな温もり、安堵の溜息が何故か出てしまう陽の香り。 暫し、ハイは口を開かなかった。何か言おうと躊躇しているわけでもなく、ただ、アサギの温もりを確かめる為に。
「えーっと……ハイ、さ、ま?」
アサギが名前を呼んだ、戸惑いがちに名前を呼んだ。それが嬉しくて、思わず身体を跳ね上がらせる。人に名前を呼んでもらえることが、これほどまでに嬉しいことだなんて、誰が思うだろう。 こそばゆい感覚だ、ハイは目頭が熱くなり、必死で堪えつつ口を開く。声が、震える。
「無理を言ってしまって、すまないとは思う。だが、私はアサギと共に居たいのだ。絶対にアサギを傷つけないし、何からも護り抜く。一緒に居てくれるだけで良い、それ以上は望まないから、こんな私の我侭を聞いてもらえないだろうか」 「えーっと、魔王と勇者が一緒にいると、良い事ありますか?」 「魔王と勇者、ではなくて。私とアサギ、と考えてみてはくれないだろうか」 「えーっと」
明らかに困惑気味のアサギ。いきなり連れてこられた魔界で共に過ごしてくれ、と言われてもはた迷惑な話である。それはハイとて、理解出来た。 しかしまさか「一目惚れしました、好きです、付き合ってください」とは言えない。
「そのうち、順を追って話すから。今はその、なんだ。あー……ゆっくりしてくれ。旅の疲れもあるだろう」 「はぁ」
勇者アサギは、魔王ハイの腕の中で首を傾げた。見上げれば、頬を赤く染めた魔王が微笑んでいる。 こうして。 勇者として異世界に召喚されたアサギは、何故か成り行きで魔界イヴァンで過ごす事になった。 勇者の隣に居るのは魔王ハイ、どうしても受け入れがたい事実である。優しい瞳と柔らかな声、とても魔王には思えない。 勇者として、やるべきこととはなんだろう。目的は、世界を救うことで間違いないとするならば。 世界を救うということで、魔王の存在を聞いた、魔王を倒せば世界に平和が訪れる……はずだった。 魔王なら、目の前に居る。世界を破滅に導く、劣悪な者”魔王”。 本当にそうだろうか。 そもそも、城を破壊され、仲間を殺されたというサマルトとムーンとて、魔王ハイの姿すら知らなかった。本当にそれを行ったのは、ハイなのだろうか、何かの間違いではないのか。 アサギは唇を噛み締める。とても、魔王には思えない。魔王なら、勇者を抱き締めたりはしないだろう。先程まで共に居た仲間達と同じで、優しいし、暖かい。 躊躇いがちに、アサギはそっと、ハイに重心を預けた。
「もしかして……私達は大きな間違いをしてる?」
小さく零した言葉。心に住み着いた疑問を、消すことが出来ない。解決す るのには、時間がかかりそうな疑問である。
『勇者としての、私の目的は何なのですか?』
心で、誰かに問いかけてみた、その答えを、自分で見つけようと思った。悪行を働いているのは、もっと別の何かであって、魔王はひょっとしてただの偶像ではないかと思った。 とりあえず、今は。
「えーと、ハイ様。少しお時間を下さい、です。ちょっと混乱してます」 「だろうな。疲れただろう、休むと良い」
気まずそうにハイはそっとアサギの身体を離し、部屋のドアへと向った。離れたくはないが、若い乙女は一人になりたいときもあるだろう。
「何かあったらすぐ呼ぶんだぞ?」 「わかりました」 「夕食の時間になったら、また来る。おやすみ、アサギ」 「おやすみなさい……?」
軽く手を振って離れる二人、アサギはドアが閉じた音を聴いた後、首を傾げた。 何故、魔王と挨拶を? 混乱しつつ、更に首を傾げる。これ以上考えると知恵熱が出そうだ、アサギは一人くぐもった声を出しながらベッドに倒れ込んだ。 考えても解らない、何をすべきなのかが、解らない。ぽつり、ぽつり。声に出す。
「私は、勇者。魔王ハイと、魔王リュウが近くにいる。みんなとは、離れ離れ。ここは、魔界。すべきことは、何?」 『魔王を倒す事』
……魔王を倒す? 悪い人達には見えないけれど、倒さなきゃいけないの?
『魔王を、倒す』
……でも、私には。
『魔王は、まだ存在する。貴女が倒すべき相手は、別の魔王』
……別の、魔王?
いつしか、夢の中へと入っていたアサギは、夢で誰かと会話していた。誰かは解らないが、知っている声だった。つい最近聞いた気がする、その時も誰か解らなかった。 思い出せない。
「アサギ、アサギ? 大丈夫か? 夕食だぞ」
揺さ振られて、重たい瞼をゆっくりと開く。見慣れない男の人に、高すぎる天井、何処か把握するのに時間がかかった。 気だるい身体、寝返りするように身体を横に向ける。そのまま、何度か瞬きをして柔らかなシーツをそっと掴んだ。
「大丈夫か? 魘されていたが」 「だい、じょうぶです」
優しく抱き起こされて、額に手を当てて考える。徐々に思い出す記憶、ここは魔界で、魔王の城の一室。どうも深い眠りに入っていたらしく、上手く考えがまとまらなかった。 うつろなアサギはハイに抱きかかえられて、城を歩き回り、庭へと到着した。紫陽花が咲き乱れる庭園が、幾つものランプの淡い光に照らされて、幻想的な場所を作り上げていた。 思わずアサギは歓声を上げる。その美しい光景に目が釘付けになる、見れば蛍も舞っている様だ。目が覚めた。 ハイが果実から育てて作ったというジャムをパンのお供に。羊の臓物を煮込んだというものやら、ジャガイモやニンジンの塩茹でも、パンに良く合う。 先に来ていたリュウが既に着席していたので、慌ててアサギも行儀良く席に着いた。黙々と食事をする中、控え目にアサギが口を開く。
「魔王も普通に食事するんですね……」 「うん。お腹空くぐも」 「……ですよね」
目の前で食べ続ける二人の魔王を見つつ、アサギは軽く溜息を吐いた。 美味しいのだ、この料理。非常に場景も美しいのだ。 が。 何故、魔王と食事をしているのか疑問である。二人は全く気にする様子もなく、余程空腹だったのか、我先にと食べていた。 料理がなくなる前に、アサギも夢中で食べ始める。
「美味しいですよね、この料理」 「気に入ってもらえたか? よかった、料理人を叱咤した甲斐があったものだ」
得体の知れない生物の料理が出てきたらどうしようか、と思っていたのだが、その心配はなさそうだ。食後になると、ハイがこれまたお手製の紅茶を煎れてくれたので、星空を見上げつつまったりとした時間を過ごす。
……ここは、何処だっけ? ……魔界だよね。
考えるのも馬鹿らしくなってきたのだが、真面目なアサギはひたすら今の状況を考え続ける。 魔王と、お茶をしている。どうして丁重にもてなされているのだろう、わけがわからない。
「あの。この紅茶もさっきのジャムも、ハイ様が作られたとか?」 「うむ。趣味で」 「しゅ、趣味ですか」
魔王の趣味に、ジャム作りとか、紅茶煎れとか。首を捻って低く唸るアサギに、気にする様子もなくリュウが口を開く。
「私も苺が大好きでねー、自家栽培してるのだぐー。今度自慢の苺畑に連れて行ってあげるのだぐーよ」 「じ、自家栽培」
美味しい紅茶を飲みつつも、納得がいかない、と不貞腐れるアサギ。随分と魔王のイメージが変わってしまった、とても……倒せそうにない。 もじもじ、と脚を動かす。意を決して固唾を飲み込み口を開いた。
「あのー、訊いて良いのか分かりませんが、質問してもいいですか?」 「いいぞ、いいぞ、どんどん訊いておくれ! 私に興味をもってくれるとはなんと嬉しきことか!」
控え目に言ったアサギだが、妙に乗り気なハイに、たじろいだ。咳を一つ、唇を湿らせて緊張した面持ちで、アサギは魔王と会話を始めた。
「普段は何をされているんですか? 魔王のお仕事ってなんですか?」 「普段?」
ハイとリュウは顔を見合わせる、軽く首を傾げて日常を思い出しているようだが。
「朝起きて、畑に水をやりに行ったり、果物を収穫したり」 「木陰でお昼寝して、水遊びとかぐーか?」 「夜はこうして、まったりと星の鑑賞」
聞かなければ良かった、と項垂れるアサギ、嬉々として語る二人を、恨めしそうに見つめる。 魔王のイメージ、崩壊。 紅茶を飲み干すと、アサギは多少乱暴にカップをテーブルに置いた。その音に二人が軽く瞳を開き、アサギを見つめる。
「あのっ! 私は一応勇者です」 「うん、知ってるのだぐー。可愛い勇者だぐーよね」 「っ!? 敵対してますよね!?」 「そうだろうなぁ、魔王と勇者だからなぁ」 「では、何故寛いでこんなふうに、星空の下で紅茶を飲んでいるんですか!?」 「そうは言われても」
立ち上がって、アサギは右手に魔力を集中させる、魔法を発動させるつもりだ。が、驚いた様子でもない二人の魔王は、困惑気味にアサギを見つめるばかり。 アサギとて非常に遣り辛い、これでは自分が悪者の様に見える。
「こ、こうやって、私が攻撃したらどうするんですか!?」 「どうしようかな、でも、アサギは攻撃しないと思うのだぐーよ」
リュウのその言葉に、思わず力が抜けたアサギ。そんなこと、言われるとは思わなかった。
「敵意のない人物には、自分から攻撃出来ないぐーよね、アサギは」
微笑まれて、そう言われる。一瞬呆けたが、すぐに赤面すると両手を天に掲げた。 馬鹿にされたと思ったのだ、勇者なのに。
「出来ます、私、勇者ですからっ」 「いいよ、やってごらん。でも、アサギには、出来ないのだぐ」 「出来ますっ」 「出来ないぐ」
リュウがゆっくりと立ち上がる、ほくそ笑んで芝生を踏みながら、アサギへと歩く。気迫負けして一歩づつ後退するアサギに、更にリュウは微笑んだ。
「やってみるぐ。至近距離に入ってあげるのだ。魔法、思い切りぶつけていいのだよー?」 「っ!」
目の前まで来られて、視線を合わせるように屈まれて、リュウが一言。
「さぁ、可愛い勇者様。魔王ハイでも、魔王リュウでも、どちらでも。攻撃してみてごらん」
後方でハイが深い溜息を吐いている「からかい過ぎだ」と呟き、止めるために立ち上がった。 アサギは身体を小刻みに震わせながら、懸命に魔法を発動しようとした、けれど。
「……で、出来ません」
ゆっくりと、力なく腕を下ろす、涙目でリュウを見つめた。
「悪い人に、思えないので。攻撃出来ません……」 「でしょー。そうだと思ったのだぐー」
あはは、と軽く笑うリュウ、ぽんぽん、とリズミカルに肩を叩いた。悪戯っぽく微笑まれるとアサギはもう何も反論できず、そのまま手を引かれて席へと戻るしかない。
「この際、勇者と魔王を忘れるのだぐ。そのほうが気も楽なのだぐーよー?」 「では、こちらが質問しよう。アサギのこと、教えてくれないだろうか」 「はぁ……」
二人の魔王が、子供のように瞳を輝かせて身を乗り出してきたので、アサギは苦笑いしつつも小さく頷いた。
「ご趣味は?」 「趣味ですかー、お菓子を作ったりとか」 「ほぅ、家庭的なのだ! 好きな男性のタイプは?」 「えーっと、笑うと可愛い人で、一緒に居ると楽しくて……」 「よし、ハイ、笑うのだ! 可愛くない笑顔なのだぐー」 「あの、すみません。この質問、何か意味が?」 「気にしなくていいのだ、アサギ。んー、恋人にするのに年齢は関係しますか?」 「えーっと、よくわかりませんが別に」
リュウの質問に、きちんと真面目に答えるアサギ、笑い転げながらリュウは横目でハイを見ている。ハイはひやひやしながら、身体を時折硬直させながらアサギの声に耳を傾けていた。
「では、最後に。今、好きな人はいますか?」 「え」
ハイが悲鳴を上げた、リュウが先程と変わらぬ笑みでアサギを見つめている。アサギが、赤面する。
「あの、その質問の意図は何でしょう」 「細かい事は気にしちゃいけないのだぐー。で、好きな人は?」
俯いて、必死に泣き出したいのを堪えているハイ。流石に聞きたいが聞きたくない質問だった、心の準備が出来ていない。心の中で爆笑しながら、リュウはアサギに詰め寄る。聞いておきたい情報だ、今後の展開が変わるだろう、と思っていた。
「す、好きな人、というか、気になっている人ならいます」 「それは、ハイだぐか?」 「いえ、ハイ様ではないですけど」
アサギの声を聞いた途端、ハイは椅子から盛大にひっくり返って泡を吹いた。当然だ。 だが、アサギにしてみても当然の返答だ。
「きゃー!? ハイ様!?」 「可哀想なハイ。まぁ、でも、気になっている程度だぐーしねー」
慌てて駆け寄って抱き起こすアサギ、リュウはそんな二人を見つめつつ、紅茶を飲み干して。「明日から面白くなりそうだなぁ」と一人呟いて、にんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべる。。 魔界の夜は、更けていく。勇者が訪れたその地で、ゆったりと、時は流れる。 全ては”運命”、定められた、運命。勇者に焦がれ、勇者になった異界の娘が、魔王に見初められ魔界へ来た。 そう、運命。 遠い昔に廻り始めた運命の歯車は、終焉を迎えつつある。
その時、魔界で。
魔王アレクがひっそりと自室からそんな三人を見ていた、微かに瞳に希望を燈し。 アサギに瓜二つな魔族の少女が、沸きあがる苛立ちを抑えることが出来ず、魔法をがむしゃらに連発していた。 その兄が、緊張した面持ちで親友を訪ねた。 魔王ミラボーと側近のエーアが、暗闇で笑い転げていた。 魔王ハイの側近であるテンザが、三人を見つめ歯軋りしていた。
夜空に浮かんだ星々が、唄を奏でる。煌いて、哀しく、啼く様に浮かんでいた。 全ては、ここへ来てしまった一人の小さな勇者の為に。勇者でありたいと願った、少女の為に。 廻る歯車、指し示す。
『じかんが、ないの――』 『あなたは、まちがえないで――』 『ねがうの、おもいえがくの、いちばんあなたがしたいこと―――』
不意にアサギは顔を上げた、リュウが背負ったハイの手を握りつつ、城内で立ち止まる。誰かに呼ばれた気がしたのだ。 魔界へ来てから、何度も聞いた気がする声である。
「誰?」
問いかけにも、答えない、その声の主。 まだ、アサギには解らない。その人物を、よぉく、知っているのに、解らない。
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