太陽が、昇る。暑い日差しに皆が項垂れる中、馬車は進む。
「ここ一帯は森に囲まれているが、ジョアンまでの道がしっかりと舗装されている。それ程通行には不便を感じないだろうが……」
ライアンはマダーニと地図を広げていた、現在馬車はアリナとアーサーが二人で操作中だ。不慣れな二人ではあるが、馬が一定の速度を保たずに走るだけで、道は逸れる事はない。
「ジョアンまでの道程に、村が存在するみたいね」 「あぁ、だが魔物の奇襲を受け廃墟と化している事も視野に入れておこう」
食料、薬草の調達しておきたいので次の休憩ポイントを探す。重要な事だ。 二人がそんな話をしている間、他の者は数日前と同じ様に魔導書に目を通している。武器の手入れをしているのはトビィだ、アサギに魔法を教える事が出来ないので暇な様子である。時折アサギを気にして隣を見つめた。 マダーニがライアンと会話中の為、アサギは一人で真剣に魔導書に没頭している。その夢中になっている様子が、トビィの口元を綻ばせる。 街を出て約三時間が経過した、豊かな森は太陽の光すら遮断しており、ひんやりと日中なのに涼しい。先程より気温が下がったので皆居心地良さそうである。 道は青々とした苔がびっしりと生えており、まるで緑の絨毯を進んでいるかのようだ、稀に漏れる木漏れ日が小さな花を照らし出す。馬車から顔を時折出し、思い切り空気を吸い込むアサギは瞳にその風景を焼き付ける。 美味しい空気、汚れのない清らかな空気、胸いっぱい大きく深呼吸を繰り返し、そっと瞳を閉じながら、思うことは”地球”である。 地球は、空気が汚れている。空気だけではない、土壌とて、海とて、年々汚染が広がるばかりだ。科学で善処しようとしているけれど、そんなことは不可能だとアサギは常々思っていた。 発達した頭脳で生き抜いて行けるだろう、と思い上がった人間はいつか神様から天罰を喰らうだろう。そうなった時、壮健で荘厳な自然の法律に身を任せ、逆行しない命あるモノ達が、世界を護りながら修復していくのだ。 眩しそうに木漏れ日を見つめるアサギ、瞳を細めて輝く光の筋を目で追う。
……地球も、これくらい綺麗だったらいいのにね。
地球にも人の手が入らない場所もあるだろうが、ここまで澄んだ空気にはそうそうお目にかかれない。
『地球ガ、痛イッテ言ッテルノ、病ンデイル星々ガアルノ。助ケナクテハ……私ガ行カネバ。他ニ誰モ出来ナイノニ』 ――早く戻りなさい、そこまで気づいているのならば。
「地球が、痛い、って言ってるの」 「アサギちゃん?」
隣に居たユキに肩を揺さ振られ我に返るアサギ、動揺しながらも笑みを零す。 何だった、今の言葉は。自身の口から零れた言葉を、アサギは再度心で唱えてみた。「地球が、痛いって言ってるの、病んでいる星々があるの。助けなくては……私が行かねば? 他に誰も出来ないのに?」 首を傾げて自嘲気味に笑うと、アサギは再び魔導書に瞳を落として没頭した。 魔法を覚えたい、剣を使いこなしたい、強くなりたい。何故そう願うかというと、勇者だからなのだが。一概にそうとも言えない気さえしてくるのは何故だろうか、もっと別の理由がある気がして仕方ない。 薄々自分でも気づいている、知らない間に自分が”何か”を渇望していることを、その為に強くなりたいと願う事を。 アサギは不意に隣に居たトビィに視線を移した、黙々と剣を磨いている。輝きを放つ不思議な剣だ、目利きの出来ないアサギですら、その剣が他と違う光を放っている事が容易に分かる。
「トビィお兄様、その剣はずっと一緒なのですか?」 「あぁ、ブリュンヒルデと名付けた。数年前からオレの愛剣だ」
微笑んでトビィは剣をアサギへと手渡した、見た目より重いその剣に軽く眉を顰める。重そうに抱えたアサギに吹き出し、トビィは直ぐに自分が持ち直す。 はにかんで笑い、再び新しい魔法習得を始めたアサギを、トビィが側から優しく見守り続けるそんな馬車の中。 魔物にも出食わすことなく、一気に日が暮れていく。先を急ぐので、不眠不休で進みたいところだが、生憎馬とて睡眠なしでは生きていけない。手ごろな場所で焚き火を起こし、交代で就寝する。 早朝、簡単な食事を済ませた一行は軽く身体を動かすと馬車に乗り込み、旅を再開した。 満開の花に彩られた森を進み、ブナ林へと到った。知らず歓喜の溜息を吐き、アサギは変化していく鮮やかな森の色彩に心を躍らせる。時折馬車から顔を出しては、うっとりと瞳を細めて一心不乱に景色を眺めた。 勇者達は流石に自覚が出てきたのか、本腰を入れて魔法習得に取り掛かっている。使用可能な魔法が増えた為に自信もついたのだろう、新しい魔法を覚えたいという欲求も出てくる。出来ないと苦痛だが、出来ると思えばやる気とて沸いてくるものだ。 昼食ついでに身体を動かそうと、太陽が真上に来る前に一行は道の脇に馬車を止めた。先日市場で購入した鶏肉と野菜を用意し、準備に取り掛かる。 勇者達は顔を揃えて笑顔ではしゃいだ、キャンプのようで楽しいのだろう。魔物の襲来もないので、気楽でもある。ライアンにマダーニ、アーサーやトビィは常に周囲に気を張り詰めているが。 浮き足立つ勇者達は、指示を待つ。 肉や魚など生物はムーンが氷の魔法で上手に冷凍してくれた、初めての試みであったが傷つけることなく氷で包み込んである。他にも冷凍した食材が幾つかあるのだが、溶けてしまう前に再度氷付けにした。 ムーンだけでなく、練習の為にとアサギとマダーニも参加した。多少手間取ったが成功した、これで当分食料には事欠かないだろう。 魔法とは、非常に便利である。冷蔵庫代わりになるなんて、地球で使えたら便利だろうなぁと勇者達は己の手を見つめた。
「水はオレとアーサー、それにクラフトで汲んで来よう。マダーニにミシア、ムーンは野菜や肉を切ってくれないか? 後は適当に寛ぐか薪でも拾って来てくれ」
ライアンの言葉が言い終わらないうちに、トビィはさっさとアサギの手を引いて森の奥へと消えていった。唖然、と口を開いてトビィを見つめる一行である。 一足先に薪拾いへと森へ入ったトビィとアサギは、乾燥しきった小枝を拾いながら歩いた。 時折黄色の小さな花が可憐に咲いており、アサギは思わず口元を綻ばせる。そんな様子を幸せそうに眺めるトビィ、アサギの行動一つ一つが愛らしいのだ。
「結構拾えましたよね、戻りますか?」
両手に抱えた薪を満足そうに見つめ、アサギはそう問いかける。苦笑いでトビィは仕方なしに了承したのだが、まだ帰りたくないのが本音だ。 二人きりで居る時間が、どれだけ貴重な事だろうか。例え恋人ではないにしろ、共に居られるというだけで心が温かくなる。 残念だが馬車へと二人は戻り始める、仲良く並んで他愛のない話をし始めた。薪を探しながら、結構遠くまで歩いてしまったようだ、馬車が見えてこない。 食事を心待ちにしながら歩くアサギの隣、トビィは警戒心を強め周囲の様子を窺う。
「妙だ。ここまで離れたつもりはない」 「え?」
トビィの険しい表情にアサギも慌てて森を見回した、確かに妙だ。何時の間にやら冷えた紫色の霧が立ち込めており、露出した肌が寒い。 それは気温のせいだけではないようにも思える、鳥肌がぞわり、と立つ。 トビィはそっとアサギが腕に抱えていた薪を地面へと下ろす、静か過ぎる大地に乾燥した木がカラカラと音を立てて落下した。正面からアサギを抱き締めると、小声で囁きながら瞳は鋭く森を見つめる。
「オレから離れるな」 「はい」
静まり返る森、鳥の囀りもなければ、風に揺られる木の葉の音も聞こえない。無音が不気味だった、トビィは音もなく剣を引き抜いた。
「何者かの領域に入ったと推測する。目的は分からないが歓迎はされてないだろう、な。その者を説得、或いは倒さないと出られなさそうだ」
二人は間違いなく幻惑の森へと侵入してしまった、踏み込んでしまったならば仕方ない。 左右を見据えるトビィは、左腕でアサギを抱き抱えながら右手で剣を隙の無く構える。 突如、張り詰めた空気と流れを感じてその方向へと顔を向けたトビィ。躊躇せずに身体を翻し、剣を真横に振り払うと金属音がぶつかる音が森に響き渡った。思わず瞳を閉じたアサギ、怖々開いてみればトビィが微かに皮肉めいて笑っている。
「上等だ」
土を抉る鈍い音がし、小剣が数本地面に突き刺さる。 忌々しそうにトビィは唾を吐き捨て、一瞬瞳を閉じるとアサギの手を引き走り出した。 木と木の間隔が狭くなった場所に留まると、木を楯に再度飛んで来た小剣を余裕で地面へと叩き落す。武器を所持していなかったアサギは、その敵が投下した小剣を一本拾い上げて構えた。
「さっさと姿を現してもらおうか、お前に付き合えるほど暇じゃないんだが」
トビィを見上げたアサギは、木の葉の不自然な揺れを見、慌ててトビィを突き飛ばす。上空から降ってきた小剣が数本、深々と地面に突き刺さった。
「トビィお兄様、離れましょう。私は一人で大丈夫です」 「駄目だ、危ない」 「でも、固まっていると狙われやすいです。私勇者ですから、大丈夫ですよ」
一度言い出したら聞かないアサギである、断固として意志を変えない様子にトビィは軽く溜息を吐いた。渋々頷くとアサギに注意をしつつ神経を研ぎ澄ませる、何時までも防御に徹するわけには行かない。 トビィ一人ならば、難なく敵を発見し対処できただろうが、アサギを守護しながらの戦闘ではそう上手くは行かない。人を護りながらの戦闘が難しいと思ったのは、初めてだった。そんな戦い方には慣れていない。 ゴゥ、と不気味な風が上空で舞う、太陽の光に反射し、小剣が輝く。 舌打ちし、トビィは離れたアサギへと駆け寄った。自分の真上から降り注がれる小剣に気づくのが遅れたアサギに、地面を蹴り上げて思い切り手を伸ばすトビィ。 そのまま勢いで抱きかかえて地面を転がったが、左足を負傷した、衣服に血が滲み始める。 一本の小剣が脹脛をえぐった様だ、鮮血に染まりゆく衣服を見て愕然と言葉を失うアサギにトビィは顔色一つ変えない。 小刻みに恐怖で身体を震わせるアサギを優しく抱き締め落ち着くように、髪をゆっくりと撫でる。
「怪我はないな?」
暖かな声、聴いた瞬間思わずアサギは号泣した。今までの戦闘では目立った傷など誰も負っていない、初めて恐怖を感じたのだろう。 耳元で大丈夫だ、と繰り返し涙を指で掬い上げるトビィに、更に泣き喚くアサギ。 トビィが負傷したのは自分のせいだ。自分が上空からの攻撃に全く気がつかなかったから、庇ったトビィが負傷したのだ。 勇者だからと、一人で離れたばかりにこんな事態に。アサギは荒い呼吸でトビィの傷を見つめて、涙を零す。
「立てるね、攻撃に備える」
繰り返される敵からの攻撃、それでもトビィは横から飛んで来た小剣を華麗に叩き落す。泣き止まないアサギを安心させるように背中をゆっくりと擦る、頬に軽く口付けをし、右足に体重をかけて立ち上がったトビィだが、左足を地面につけた際に多少顔を歪めた。 それを見てしまったアサギは、急に泣くのを止めた。 泣いている場合ではない、と悔しそうに唇を噛み締めて震える手を無理やりきつく握り締める。軽く瞳を閉じ、呼吸を整えて自己暗示をかけた、唇を微かに動かしながら「しっかりしなきゃ」と震える身体を押し止める。「私、勇者だもの」と呟きつつ。 瞳を開くとそこに現れたのは、涙で濡れながらも光り輝く芯の強い決意の瞳。
「ここで休んでいてください、私が倒してきます」 「無茶だ、この程度の怪我ならば気にするな」
笑うトビィだが、不意に眩暈を感じ身体をぐらつかせる、どうやら剣に毒が塗ってあったようだ。悟られないようにとアサギの髪を撫でるトビィだが、無理やりトビィを座らせると、習いたての回復魔法を唱えるアサギ。
「魔法があります、お願いです、やらせてください」
霧の中、何処か遠くを睨み付けたアサギは、手を伸ばし止めさせようとしたトビィの手を払い除け駆け出していた。
「待てアサギ! 行くなっ」
しかし、苦悶の表情を浮かべるトビィ、左足に力が入らない。即効性のある毒だ、用意周到な敵の攻撃に苛つく。 それでも気合でトビィは立ち上がった、多少アサギのかけた魔法が効いているのだろう。左足を引き摺りアサギの後を追う。
……離れてはいけないのだ、二人は!
トビィにとって、アサギは無くてはならない存在、心の拠り所。全身全霊をかけて護るべき相手、身体も心も笑顔を護り続けなければならないのだと本能が悟っていた。
「嫌なんだ、これ以上傷つかせるのは嫌なんだ」
毒で意識が朦朧としてくる中、トビィはそう呟いた。時折見えてしまう妙な映像、幾度も幾度も過去アサギを助けるために、護る為に必死だった自分がいた。 何かから、”誰かから”アサギを護ってきた記憶がある。 故にトビィは苦痛を伴ってもアサギを追う、アサギが負傷したらそれこそ耐えられない。
暫く走り続け、アサギは広い奇妙な空間に辿り着く。森から抜けたその先は、何故か木も草も生えていないただの空間、五百メートル平方程だろうか。 中心に朽ち落ちた大木が転がっているのだ、奇妙な感覚を受けた。一歩足を踏み出し、砂の上を音を立てて歩く。大木に腰掛けているフードを被った人物を睨みつけながら、アサギは右手で剣を握り締めた。
「ここから、攻撃していたのですね」
敵は後ろを向いているので顔が全く分からない、が、突如しわがれた声で笑い転げ始める。
「あの男はちと厄介そうだったが、お前一人出向いてくれたのなら好都合。……二人目じゃて」
言うが早いかその者の左右に浮遊した小剣が四本、アサギ目掛けて正面から直進してくる。辛うじて避けたものの、右手が刃に触れ宙に深紅の血が僅かに舞った、砂の上に飛び散る。 ひゃひゃひゃと潰れた声で笑うソレが、ようやくこちらを向く。喉の奥で小さく叫び、思わずアサギは後退りをした。骨と皮しかないような、まるで生きた骸骨である。 おぞましい風貌だが、歯を食い縛り決死の覚悟でアサギは精一杯睨みつける。
「ずっと、ここで待っておった。二人目のエルフに遭遇する為に、その力を手中にする為に」
歓喜の笑い声を上げるソレは、よくまぁこれだけの小剣を集めたなというくらいしつこく飛ばしてくる。幻覚ではないこと、それはトビィとアサギが身をもって実感した。 無言でアサギは右手を大きく振り被った、アサギの手前で砂に埋もれていく小剣。意外そうにソレはぎょろりと剥き出した瞳を丸くし、豪快に笑う。思ったより腕が使えると判断した、それでも未熟だと思い愉快に感じたソレ。 勝算があった、先程毒の小剣で傷を負ったのだから直様動けなくなるものだと思っていた。
「トビィお兄様が、怪我をしました。あなたが放ったこの小剣で怪我をしました」 「お前を庇って負傷したようじゃな」 「そうですね。気になっていたのですけど……何故ここだけ植物が生えていないのですか?」
しかし前進を続けるアサギ、首を傾げながらも下卑た声で笑い、枯れ枝のような腕を組んでソレは喋る。
「実験じゃ。ここらの大地に調合した毒を流した、徐々に広がり、何時しか森林全体は毒に染まる。河に流れ出し、下流へと運ばれる。人間達も生きてはおれまい。元には戻らぬ、永遠に」 「何の為に」 「わしの力の証明に。エルフを喰らって飛躍したわしを、異端児だと追放した王都の者に復讐と制裁を。全ての人間に恐怖と絶望を。見えぬ敵に怯える姿が観てみたい、ひゃひゃ!」 「……ただ、それだけですか」
ふわり、とアサギの髪が風に揺れる。静かに大地を見つめていた瞳から、ぽたり、と涙が零れ砂を濡らした。 ただ、そんな事の為にここに居た植物達は毒を撒かれたのか。自己満足の横暴なこの目の前の男か女かすら分からない人間の為に、多大な犠牲が出たのか。 そこは、死の大地だった。アサギが感じた奇妙な感覚はその為だ、自然災害ではこうならない。森林伐採したとしても、何かは残る。
『痛い、痛い、痛い。あぁ、痛い』
声が聞こえた気がしてアサギは再度、目の前のニンゲンらしい人物を睨みつける。
「誰に断って、こんな馬鹿げたことをしているのです? 赦免は出来ません、裁かせて頂きます」 「面白い事を言う娘だな」
顔を上げるアサギ、瞳が漆黒から、大地を支える大樹の豊かな葉の様な緑になったことに、ソレは気づいていなかった。
「大地と大気、ここで押さえられて眠りに就いている全てのイノチある植物から許可を貰いました」 「ほぅ?」 「先程あなた、『元には戻らぬ、永遠に』と言いましたね。それは違います、植物達の力強い生命の息吹は誰にも止められません。時間はかかりますが、息を吹き返します……人間とは違います」
自分の唇から溢れるように出てくる言葉、脳内で復唱しながらアサギはソレを睨みつけた。
「痛いそうです、苦しいそうです。あなたには声が、聴こえませんか? 有能な魔法使いか何かなのでしょう? どうして聴こえないのです?」 「はっ、植物がかね? つくづく、面白い娘だな。エルフは確かに植物や動物達と心を通わす事が出来るそうだが」 「私、エルフじゃないです。地球という異界から来た人間です」 「しかし、その身に纏わりつく空気が」
言葉が途切れた。目の前のアサギの容貌が変化していることに、ようやく気付いたのだ。声にならない叫び声を上げ、間を置いてから恐怖のあまりソレは魔法詠唱に入る。 ふわり、と軽く宙に浮く娘。新緑を思わせる綺麗な緑の髪に、濃い緑の全てを見透かす不思議な光の瞳。アサギである、先程までは漆黒だった髪と瞳が、今は。 その姿を視界に入れた瞬間、寒気がした。背筋に伝う汗は本能で恐怖を感じ、身体が拒否反応を起こす。 それでも魅入った、魅入ってしまった、この目の前の娘に。 そして勝てないと悟った、次元が違いすぎると”人一倍魔力が高い”ソレは直感してしまったのだ。
「き、きき貴様、何者だっ!」 「アサギ、といいます。植物達はあなたよりも、とても強かなモノ。あなたが他人から奪い手に入れた力が無意味なものだったと……見せてあげます」
右手を空高く掲げるアサギ、沸々と怒りが込み上げて来るのか、瞳の鋭さが増している。先程森へ入ってきた時は格好の獲物だったが、今は狩る側だ。 反射的にソレは魔法を放った、叫び声に近い魔法詠唱である。
「巡る鼓動、照らす紅き火、闇夜を切り裂き、灼熱の炎を絶える事無く。我の敵は目の前に、奈落の業火を呼び起こせ、全てを灰に、跡形もなく燃え尽くさん!」
詠唱を聞く以前に、すでにアサギの周りの空気が微妙に変わった。薄紫がかった靄が、アサギを包み込んでいる。 唱えられた魔法は禁呪を除き火炎系最大の呪文である、両手から放たれた巨大な火炎が一直線に眩い光を放ちつつアサギに襲い掛かる。ソレは、完璧な魔法詠唱にようやく安堵の笑みを漏らした。 が、アサギへ届く前に瞬時に掻き消えてしまった。 灼熱の炎、徐々に弱まるとかそういう類ではない、何事も無かったかのように消去された。目の前のアサギはただ、冷静にソレを真っ直ぐに見つめている。僅かに口元が上がっている気がした。
「ば、馬鹿な! わしの得意呪文が、こんな、こんな小娘にっ」
呪文を防ぐ者は過去にもいた、相殺しようと魔法を放ってくる者もいた。が、何も発動しないまま、瞬時に掻き消したのはアサギが初めてだ。
……勝てるわけがない、殺される! 見当違いだっ!
狼狽し、一歩、また一歩と退却を始めるソレ。だが、ゆっくりとアサギは距離を縮めるように近づいていった。 左手を空高く掲げ、揃った両手を軽やかにしならせると、微笑する。なんと妖艶なことか。
「ここにいるから、出ておいで。大丈夫」
その言葉。 一瞬理解し難い意味だが、ソレは絶叫した。毒を撒き散らし、生命を死に絶えさせたはずのその空間、その柔らかい声に導かれるようにアサギの足元から緑の芽が顔を出したのだ。
「ヒィィィィィィ」
次々と土から顔を出す小さな草花、踏み潰すことが出来る貧弱なその存在。しかし逞しく大地に根を張りそれは育つ、その様子に畏怖の念を抱かざるをえない。
「ば、馬鹿な!? わ、わしの、わしのっ醸成がっ」
アサギの身体から溢れる温和の光、大地に降り注がれ小さな芽達は急速に伸びていく。まるで一つの植物の成長過程を、早送りで見ているようだった。 数分と経たない内に、その虚無の空間は周囲の森と同じ風景を描いた。さわさわと出来たばかりの森を風が吹き抜ける、緩やかな新緑の香りが鼻先を擽る。 腰が抜けて、その場から逃げようにも逃げられないソレ、木漏れ日が降り注いでいるアサギをただ見つめることしか出来ない。もはや、認めたくはないが神の領域だ。
……何者だ、この娘。いや考えている暇はない、逃げなければ殺される。人間なわけがない、エルフでもない。じゃあ、何だ?
光の粒子を身に纏い、類稀なる美貌を持った、絶対的な能力を持つ荘厳な娘……としか、形容出来なかった。
「力、貸してくれますか」
地面にトン、と降り立つとアサギは両手を真横に開きつつ、優しく大地に語り掛ける。 その場に存在する全てのイノチから、何かを受け取るように恭しく胸の前で両腕を使い抱きとめるように。創製するように腕をくるくると回しながら、ソレの目の前でアサギは小さく呟いた。 まるで、舞いを披露している様である。神々しい、まさしく女神の舞いだ。
「フィリコ」
パン、と空気が弾ける、閃光が辺りを覆いつくし、目を直撃されたソレは絶叫した。地面を転げまわるソレの耳に、何やら音が届いた。目がやられてしまい見ることが出来ないのだが、奇妙な音。 アサギの右手に何時しか握られていた武器は、純白の鞭である。棘が幾つも付属されており、時折虹色に輝くその鞭を、硬く握り締め掌に馴染ませる。 潰れた瞳だが、気配を感じアサギへと向けたソレ。自分に向けられる冷淡な表情、無情の瞳、この世のものとは思えない程美麗なその姿が瞬時に脳に転送される。 アサギが鞭を軽く一振りすると、それが一本の直線へと変化する。まるで長い槍のような、細く鋭い鞭とはもはや呼べない代物だった。 躊躇することなくアサギは地面を蹴って、蹲っているソレへと突進すると、両手で突き刺す。斬る事は出来ない、だが、先端が鋭利に尖っている為一突きで敵に重症を与えられる。棘が付属されているので、抜く際にも棘が体内を傷つける。 僅かな時間だった、鞭らしきものが変貌したと思えば身体を激痛が走り、痙攣するかのように身体を大きく震わせると、ソレは何か言いたげに口を開いた。のだが、もはや声を出す力が残っていない。微量の血を口から滴らせ、そのまま息絶える。 アサギは鞭を引き寄せるが、抜くのに力が要ると解ると左手を真っ直ぐソレへと向け、詠唱なしで火炎の魔法を放ち、死体の焼却を始めた。 ミイラのような身体が、紅蓮の炎で包まれて消えていく最中。アサギは瞳を閉じると鞭を掲げる、大気へと返還したのだ。 空気に溶け込むように掻き消える鞭・フィリコ。
「ありがとう」
空を見上げて微笑むと、急に力を無くしてその場に崩れ落ちるアサギ。意識が消えた途端に髪と瞳の色が漆黒へと戻っていく。今の出来事は、森だけの秘密だ。 数分後、耳元に柔らかな物が触れているのを感じたアサギは慌てて目を覚ました。起き上がるとリスやらウサギ、小鹿などが集まって来ている。唖然と周囲を見渡す。 警戒することなく集まってくる森の住人達、嬉しそうにアサギが手を伸ばすと、上空から小鳥が飛んできてその手に留まった。おそるおそる顔の近くまで手を動かせば、頬に擦り寄るように小鳥はくっついてきた。
――アリガトウ、アサギサマ。
「もう、大丈夫だよ」
大丈夫だと確信する。若干の頭痛に眉を顰めたが、大きく深呼吸を繰り返せば痛みもとれた。しかし、どうやって今の状況になったのか記憶がなかった。ミイラのような魔法使いを見つけ、恐怖を覚えたまでは自覚があった。 が、それ以降だ。敵は何処へ行ったのだろう、逃げたようには思えない。 首を傾げながらも苔の生えた柔らかな大地に腰を下ろし、アサギは暫しそこで戯れる。
「どうしよう、記憶がない」
やがて後を追ってきたトビィが、その姿を見つけて息を飲んだ。 追いかけている最中、眩い光が目の前から迫って来た為不安で胸が押し潰されそうだったが、アサギは無事だ。安堵の溜息を零し、無事な姿に駆け寄って抱き締めたかったのだが、その姿に見惚れてしまい一歩も動けないトビィ。美しすぎたのだ。 どれ程魅入っていたのだろう。
「トビィお兄様」
気づいたアサギが小走りで駆け寄ってくる、頬を膨らませて一言。
「動いちゃ駄目です、って言ったのに」
硬直気味のトビィを大木の根元に無理やり座らせ、アサギはトビィの傷口に掌を重ねて息を吸い込んだ。傷口に暖かなものが流れ込む、然程大した毒ではなかったようで今は気分も悪くないのだが、アサギの懸命な回復魔法によって傷口が塞がれていった。 即効性はあるが、持続性はなかったらしい。 トビィは周囲を見渡す、不穏な気配がない為もしや、とは思っていたが。
「敵はどうした」 「逃げてしまいました、大丈夫です」
この上ない可愛らしい笑顔でトビィに笑いかけたアサギだが、不審に思ったトビィはアサギの身体を見つめていく。右手で視線を止めたトビィは、弾かれたように起き上がった。思わずアサギの手首を掴み引き寄せると、頬に手を添えて珍しく怒気を含んだような口調で語る。
「怪我してるだろう、自分を治せ。オレはもう大丈夫だ」 「これくらい、へっきですよ? 痛くないですし、動かないで下さい」
言い出したら頑固、アサギが聞くはずも無く、トビィは苦笑いで頭を撫でる。
「わかった、だがその代わり消毒だけはさせてもらう」
返事を待たず左腕で強引に抱き寄せると、出血は止まっているのだが右腕の傷口にトビィは舌を這わせる。その時、トビィの顔が微かに歪んだ。
……なんだ、この味。
近づいて解った、甘く眩暈を覚える不思議な香りの血である。口に含み、甘美で清らかな舌触りの良いその血を喉へと唾液と共に流し込む。傷口が沁みたのかアサギは身体を跳ね上がらせると、トビィの胸の中で小刻みに震える。 時折聞こえるアサギの微かな呻き声が、妙に悩ましくトビィの脳を刺激した。小鳥達の囀りに混じって、夢中で傷口を嘗め続けるその音が、森に響き渡る。
「っ、ふ、あ、あの、もう大丈夫です。離して下さい」 「あ、ああ、すまない」
貪る様に無心だったトビィは、もがくアサギにようやく我に返ると腕の力を和らげる。アサギの頬は赤く色づき、気まずそうにトビィを見上げた。 恥ずかしかったのか、痛かったのか、瞳が微かに潤んでいたので思わず唾を飲み込むトビィ。アサギの吐く息が、薄桃色をしているようで、このまま抱き締めてしまおうかという考えが横切ったわけだが、強引に押し留めた。
「まずいな、妙な色気がありすぎる」 「ほぇ?」
トビィは苦笑いすると髪をくしゃくしゃと撫で上げ、不貞腐れてそっぽを向くアサギを立たせると、馬車へと戻るように歩き出した。「残酷なくらい挑発的で、それでいて疎い」トビィは無意識の内に言葉を紡ぎ、軽く頭を振る。
「あの、足大丈夫ですか?」 「あぁ、完治した。ありがとう」
自由の利くようになった足を微笑しながらアサギに見せると、二人は手を繋いで歩いた。 そう、完璧に完治していた。覚束無い、憶え立ての回復魔法で異常なまでに綺麗に。 二人は森を抜ける、先程の魔導師が消え幻惑の空間が消滅したので馬車までの道程は然程遠くも無い。 マダーニが目くじら立てて怒りながら駆け寄ってきた、が、事情を話すと表情を強張らせる。
「二人とも無事?」 「アサギが多少の傷を負ったが、辛うじて」 「ま、トビィちゃんが一緒なら大丈夫かしら。さ、ご飯出来てるわよ。食べましょう」
腹を刺激する鍋の良い香りが漂う、香辛料と共に野菜と鶏肉が煮込んである。二人を待っていたらしく、空腹の一行は文句を言いながらも手招きし、輪になって食べ始めた。
「いただきまーすっ」
トビィは美味しそうに鍋を食べているアサギを見つめる「相変わらず不思議な子だ」と。外見が綺麗なのは確かなのだが、それだけではない、妙に人を惹きつけてやまない空気を持っている。危険な媚薬のように、一度堕ちたら戻れないほどの、誘惑の空気を。 そして自分がそれにすでに囚われていることも、承知している。
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