花の香を含む風が窓から入り込み、男の頬を優しく撫でた。鼻先を擽る甘い香りに、長身の男が深く溜息を吐く。
「はぁぁぁぁぁぁぁ……」
深すぎる、大袈裟な溜息。 ここは惑星クレオ魔界の地・イヴァンである。その中心に位置する魔王アレクの居城、とある一室。迎賓室であったその場所に、一人の男が滞在している。 彼の名はハイ・ラゥ・シュリップ、惑星ハンニバルの魔王である。 ハイは先日から、遠い昔に忘れ去ったはずの”苦悩”と対面していた。勝手気ままに暮らしてきたので、思い通りに出来ないことに苛立ちを覚え、不安を募らせる。 そしてそれは厄介なことに、味わった事がなかった種類の苦悩である。万策尽きた、そこから抜け出す方法を見出すことなど雲を掴むようなものだと痛感する。 恐らく、生きている者でこの苦悩に直面しない人物の方が少ないだろうが、それすらもハイには分からなかった。 見事な黒髪を風に靡かせて、瞳に憂愁の色が浮かぶ。切ない恋に悩む青年、そう表現せざるを得ない。 現在切ない恋心を体験中の、魔王である。二十六歳にして初恋中、初の苦悩。虚ろな瞳で、鏡の中でにっこりと微笑んでいる少女に手を伸ばした。 冷たい鏡の彼女の唇に、そっと指を這わせて戸惑いがちに声をかけた。
「名は、名はなんというのだ、美しい娘。私の心を掴んだまま離さない誘惑の悪魔のような……天使よ。そなたの笑みは天上の光、仕草は愛らしき小鳥のよう、その鈴の音のように心地好い声は女神の歌声」
多少芝居がかり過ぎな台詞を吐いている魔王、冗談でもなんでもなく、ハイは真剣だった。 遅すぎた初恋は、極度の胸の痛みを伴う。 恋愛の存在自体は知っていたが、生憎ハイの周囲に対象となるべく相手が今まで存在しなかったのが事実であり、まして自分も他人も嫌いなハイには誰かを好くという行為は無に等しかった。 そんな魔王ハイが恋をした相手が、勇者アサギだった。一目見て、恋に落ちてしまった。一目惚れである、ふぉーりんらぶだ。 歳の差など関係ない、この世界では二十六歳と十二歳でも、犯罪ではない。 ハイにとって、運命のあの日。 王子と王女を追っていた使い魔の視線が捕らえた映像により、勇者の姿を確認できたところまではよかったのだが。 想像していた勇者とは違い、実に可愛らしい小柄な少女だった。そこがまず問題だ、可愛らしいと思ってしまったのだ、勇者を。百歩譲ってそれも良しとしよう、問題はそこから数日後である。 恋に堕ちたとは思っていなかったのだ、ただ、とにかく可愛らしくて愛おしくて、一目会いたいと思っていただけだと。 本人の意思とは裏腹に、確実にアサギはハイの心を射抜いていた。ようやく「これが噂の恋か」と自覚し、そこからは甘く苦く切なく重苦しくも、見ていられれば笑みが溢れてしまうという事態になった。 重症である。 ハイが人間を見て『可愛い』やら『気に入った』と言った時点で、同じ魔王のリュウはこの展開を予測していたのだが。ご丁寧に勇者の姿を魔王仲間に見せびらかしてまで、自慢していたあの日。 異常である、魔王が勇者に恋をした。絶望的な恋だ、成就される確率など無きに等しい。 勇者はまだ、魔王を知らない。ハイを見つけ次第、挑んでくるだろう。それが使命だ、その為に異世界から召喚された筈だ。 そうなった場合、果たしてハイが勇者に対して攻撃できるかどうかが問題になってくる。いや、確実にこの状態では出来まい。このままでは、自ら攻撃される事を喜んで受け入れそうな勢いである。満面の笑みで。 想像すると気色悪いが、真実になりそうだった。 ハイとて解っていた、もし、対峙する事があったらあの勇者に胸を一突きにしてもらおうと。
……心に秘めたこの想いを、彼女に打ち明ける気はない。それで良い、勇者は魔王を打ち砕くだろう、喜ばしい事だ。寧ろ、本望。
沈鬱な空気に包まれたまま窓際に立って、何度も溜息を吐いた。 ハイは人間が嫌いだった、故に人間の自分も嫌いだった。人間の滅亡を渇望し、人間を最も憎む魔王だったハイ。冷酷な態度、言葉、表情、全てが真冬の凍てつく空気を思わせ、残忍で凶悪、傍若無人な魔王ハイ。……だったはずが、この数日間で豹変した。 弱気で伏目がちな瞳、窓から何処か遠くを見つめて上の空、溜息を吐き続ける。食事も喉を通らないという、明らかに典型的恋の病である。 あの勇者の少女が原因であると、魔王達の中で周知の事だ。勇者が彼女でなければ、こんなことには。 魔王ハイの右腕の中には、可愛らしいお人形。 どうみても、勇者アサギを象ったしか思えない人形、それを愛しそうに抱き締めている。 顔だけのアップならば憂いを秘めた、少しダークな美形のお兄さんだ。が、胸辺りまで映すと人形までも映ってしまって、かなり危ない雰囲気のお兄さんに豹変してしまう。
「名前が知りたい、名は、名はなんというんだ? 私はハイ」
愛しそうに人形に語りかけるハイ、非常に変態染みた危ない構図である。微笑みながら、髪を撫で続ける。……という同僚の姿を数日前から目撃している魔王リュウは、救いの手を差し出す事にした。 部屋に閉じ篭り気味のハイだが、より一層外出から遠のいている。稀に廊下でよろめきながら歩いている姿を目撃するのだが、何かを探すように目の焦点が合っていない。 ハイの心は、あの勇者のもとへと飛んでいってしまった。 部屋の中でハイが勇者人形と戯れている頃、リュウは小瓶を幾つも抱えて、上機嫌でハイの部屋に足を向ける。 鼻歌交じり、何処となく愉快そうなリュウの姿は、とても今から手助けにいくとは思えない。 けれども一応リュウ的には真剣に手助けをするつもりだった、方法はどうであれ。リュウを知っている人ならば助けを遠慮するだろう、顔を引き攣らせて。 リュウが絡むとろくな事が起こらないのだ。 全く別の問題に発展する可能性が有り過ぎた、只管迷惑な話である。本人に、悪気はない。 そんなリュウが自室に向かっているとは露知らず、ハイは届けられた食事を口にするため、テーブルへ向かう。 目の前には大人の男にしては極端に少な過ぎる、そして似つかわしくないものが置いてあった。けれどもこの量すら、今のハイにとって精一杯なのである。
「いただきます」
傍らに置かれたフォークに手を伸ばす。本日の夕食は、ミートソースのパスタ(たこさんウィンナーつき)、キャベツとキュウリのサラダに、小さなハンバーグ(目玉焼きつき)、オレンジゼリーだ。 それらが一つのお皿に乗せてある、つまり、お子様ランチ風。 懸命に口を動かし、ハイは必死に食べ物を通していく。 降り積もって硬くなる柔らかな雪のように、心に降り積もる愛しさと切なさの想いは、ハイの胸を支えきれず。 重苦しい溜息を吐きながら、膝に乗せている人形を見た。 ハイがこの部屋から出たがらないのは、ここに居ればアサギの姿をいつでも見ていられるからである。 部屋の中心にある鏡、それにアサギが映し出されていた。
『勇者を手に入れてみるのも、一種の余興なんじゃないかなー、なんて思ってみたりしたぐ?』
昨日の緊急魔王会議〜勇者を見つけました、可愛いです〜は、リュウの一言で思わぬ方向へと話が動いた。 勇者を、手に入れる。 その発言によって、勇者の居場所を探り出す事になったのだ。勇者は神聖城クリストヴァルに最初に訪れる、という伝承を知っていたアレクがハイにそう告げ、監視の名目で魔道眼球を取り付けた飛行タイプの魔物をそちらに数羽向かわせた。 その中の一羽が洞窟へ入る前の勇者一行を発見し、四六時中張り付いているのである。 その映像が、ハイのこの自室へと届けられていた。 洞窟内部は映像が途切れたのだが、出てきた途端ハイの瞳は釘付けになる。恋焦がれたアサギが映像として届いてきたから、感動のあまり身体を震わせ瞳を潤ませ。そこからずっと、この鏡だけを見つめていた。 プライバシーの侵害満載、ある意味盗撮だ。勇者をストーキングする魔王である。
「うぉ!?」
ハイは思わず叫んで、フォークを床に落としてしまった。というのも、アサギが衣服を脱ぎだしたからである。温泉に浸かるのだ、後ろから湯気が立ち上っている。 ハイは顔を赤らめ椅子をなぎ倒し立ち上がる、腕を組んで部屋中をぐるぐると歩き回る。
「み、見てしまっては変態だ!」
いや、今でも十分変態めいているのだが、一応理性は残っていたらしく入浴を覗くという卑劣な真似はハイには出来なかった。
「わ、私は絶対に見ない! そう決めたのだっ」
鏡に背を向けて、床にどっかりと座り込むと自身に言い聞かせるように叫ぶ。 丁度その時、リュウがハイの部屋に到達しノックもせずに勝手に進入していた。ハイの姿が見えないので続く部屋のドアノブに手をかけて、勢いよくドアを開く。
「ハイーっ! ……って、あれ? 何してるぐ?」
その部屋の中には、涙を零して座り込んでいるハイの姿があった。 唖然と見つめるリュウ、膝を抱えて鼻を啜り、涙を拭わず必死に動き出そうとする身体と格闘しているハイの姿である。魔王の威厳もあったものではない、なんともまぁ、情けない姿である。 眩暈を覚えたリュウは、眉を顰めて原因を探した。 ハイの背後にある鏡を見て瞬時に納得する、そこにはハイのお気に入りの勇者が数人の女性と楽しそうに入浴している映像が映っている。
……恥ずかしくて、見られないぐ? 流石に悪いと思って、見ていないぐーか? あぁ、でも、本当は見たいぐーな?
「見たいというか、拝みたいぐーな。見ればいーのにー、ぐっ」
普通自分の入浴姿を赤の他人に見られて喜ぶ人は、いない。 けれど「自分達は魔王だから他人の嫌がることを率先して行っても、許されるぐー、魔王の特権だぐー」と意味不明な説得をする。
「嫌われてしまう」
くぐもった声で反論したハイは、ぐすっ、と鼻を啜って首を横に振った。今にも死にそうなか細い声の、みすぼらしい同僚を見つめつつリュウはおかまいなしに鏡を見る。
「やれやれ、情けない魔王だぐ。……ふ〜ん、顔が幼いわりに胸は結構膨らんで良い感じな娘さんだぐ」
しげしげ、と近寄って鏡を見つめるリュウ、その台詞を聞いてハイは思い切り顔を赤らめた。 が、その言葉の意味に気がつき血相抱えて立ち上がる。
「そ、そうなのかって納得してる場合ではないっ、何故お前が見ているんだ!? 待て、見るな!」
当然のことながらリュウに掴みかかる、例えは悪いが大事に取って置いた好物のお菓子を横取りされたかのごとく。ハイは葛藤しながら血の滲む思いで我慢していたのに、リュウは躊躇することなく、見てしまった。
「こ、この私がどれほど我慢していたか! やって良い事と、悪い事があるだろう」 「知らないのだぐー」 「殺してやるぅぅぅぅぅ!」
激怒しているハイに掴みかかられても、リュウは平然としていた。寧ろ微かに笑みを浮かべて、非常に楽しそうにしている。 ハイの両手から不穏な風が巻き起こる、互いの長い髪が揺れて宙に浮かび上がる。最大級の風の魔法だ、リュウは軽い溜息一つハイが詠唱を終えるより先に行動に出た。 髪を振り乱し、鬼神の様なハイの目の前で冷静に立っていられる人物は、リュウくらいだろう。この何事にも動じないリュウの態度は、尊敬に値する。 一歩進んで鏡がハイの真正面に来るように仕向けたリュウは、手を差し伸べた。
「素直に見ればいいのだぐー。はい、どーぞ」
ハイの目の前に鏡、入浴しているアサギの全裸。 偶然にも温泉から上がったところだったので、全裸である。暑そうに手で煽ぎ、風を作っている。差し出された布で身体をすぐに包んだのだが、ばっちりとハイは見てしまった。
「わわわわわわわわわわわ私は、そ、そんなこと」
詠唱しかけの魔法が忽ち消え失せる、急に弱々しくなると赤面して俯いた。
「ごはぁっ」
ぶしゅぅ……盛大に鼻血を吹き出して、けれども何処となく満足そうに、笑顔で床に倒れるハイ。「生きていて、よかった……」幸福に満ち溢れた、輝かしい笑顔だった。 鯨の潮吹きの如く吹き出した鼻血は止まることなく、このままでは出血多量で死んでしまう。呆れ返って倒れたハイを、足先でリュウはつついた。
「情けないのだぐー」
ひっくり返ったまま微動だしないハイを見下ろして、暫し無表情でいたのだが、不意に軽く唇の端を持ち上げてゆっくりと笑ったリュウ。……その笑顔、なんと恐ろしい事か。
数分後。
「で。何の用だ」
回復したハイは、一応客のリュウに不機嫌そうに紅茶を差し出した。大好きな鏡鑑賞を邪魔されたのだ、仏頂面になっても仕方がない。おまけにこの客室には鏡がない、のでアサギの姿を観ることが出来ない。 形ばかりのもてなしを受けたリュウも、不服そうに唇を尖らせる。甘党のリュウは、砂糖が入っていないその紅茶を渋々口に含んだ。不満はまだある、砂糖と茶菓子がない、ということだけではなかった。 ハイが先程から大事そうに抱いている人形に、視線が釘付けになる。重苦しい沈黙の後、ようやくリュウは小刻みに肩を震わせながら尋ねた。
「その人形、ハイが作ったぐ?」 「当然。可愛いだろう、触らせないからな。こう見えても幼い頃から裁縫は得意で」
一瞬呆気にとられたが「得意かどうかは訊いてないのだがっ」とツッコミを入れる。嫌悪感丸出しでリュウを睨みつけたハイ、その視線で人形を大事にしている度合いが判明した。 魔王ハイに真正面から凄まれる原因が、人形である事に頭痛しつつ、
「や、触らないから安心するのだ」
苦笑いでそう告げると、ハイは安堵して人形をぎゅう、と抱き締めた。
……怖いよ、ハイ。
本物に触れることができないから人の道を誤ったようだ、人形を愛でる事にしたのだろうか。頬をすり寄せ、口づけまで始めたハイに鳥肌が立つ。中断させようと、大声を出してリュウがテーブルを叩きつける。
「今日はハイを助けようと思って来たのだぐー。イイモノをわざわざ調達してやったんだから、感謝するようにだぐ」 「イイモノ?」
助けてやる、とリュウに言われても胡散臭い。アレクに言われれば喜んで聞き入れていたのだろうが、生憎相手はリュウだった。俄かに信じられない、当然である。親身になって考えてくれそうもない相手だ、紅茶を啜りながら迷わず首を横に振った。
「惚れ薬を持ってきたのだ」 「不要だ、そんな外道な物は使わない」
予想以上の即答に多少リュウはたじろいだ。そう断言し、紅茶を啜っているハイを見つめつつ、軽く仰け反って次の手を考える。
「ふーん。じゃあこれは? 媚薬、効果抜群だぐっ」
ハイの目の前に小瓶を差し出す、中身は紫色した液体だ。毒々しい、粘着ある液体が中で蠢くように波打っている。
「びやく? なんだそれは?」 「え、知らないぐ? 口にすれば誰でも淫乱になってしまうという便利な代物なのだぐー」
先程の惚れ薬よりも性質が悪い物体である。わざわざハイ用に取り寄せた媚薬である、リュウが愛用しているわけではない。男女の色恋ごとに興味のないリュウにとって、それこそこの薬は不要だ。 低く唸って睨みつけてくるハイに、リュウは苛立ちを覚えて小瓶を宙に投げる。受け止め、また投げて、を繰り返した。
「良いんだぐ、魔王だから。奪ってしまえ、勇者をこれでモノにすればいいのだぐ」 「モノにするだなんて、そんなこと」
顔は赤らめずに、遺憾を憶えて唇を噛み締めるハイに、不服そうにリュウは頬を膨らませる。
「モノにしてしまえば、ハイが飽きるまで傍にいるぐーよ」 「そんなことして傍に居て貰っても私は嬉しくないっ! あの子の意志で私の傍にいて欲しいと思う」 「でも、魔王と勇者だぐ。無理だぐ」 「私は、力でどうこうするのではなく、私自身を知ってもらって心を通わせたい。それが”愛”というものであると思う」 「愛? いつから聖職者になったぐ、ハイ?」 「……もういい、帰ってくれ」
力なくリュウを見つめると、ハイは悔しそうに唇を噛み締め項垂れる。精神的に疲労が激しい『魔王と勇者だ』など、他人に言われなくてもわかっていた。 おまけに、自分の口から”愛”などと甘ったるい単語が飛び出た事にも激震。更に”聖職者”と言われた事にも、動揺。 テーブルに突っ伏してそれ以上何も語ろうとしないハイに、深い溜息一つ置き去りに、リュウは部屋を後にした。
「これは重症なのだぐー。手に負えないかもしれないぐ」
リュウは廊下の壁に持たれて、持参した小瓶たちを忌々しそうに見つめる。
……まぁでも、ちょっと、楽しいかもしれない、かな。
ハイのあんな姿を見るのは初めてだった、余裕がなさ過ぎる。
翌日、噂を聞きつけて今度は魔王ミラボーがやってきた。「勇者を攫ってしまえばよい、直接ハイが出向いて、魔界へ連れてこれば良いのではないか」と告げた。
「勇者を魔界へ連れて来い、と? 確かに逢いたいが……」
魔王自ら勇者をご招待、というのは如何なものか。苦笑いするハイに、ミラボーは妙に親身になる。
「逢う方法はこれしかないのでは? 多少強引かもしれないが、そこはハイ、説得すれば良い。ハイ、自分次第なのだよ」 「うんうん。ミラボー良いことを言うぐ! 本当にハイがあの勇者のことを大事に思うのなら、説得すれば良いんだぐよ」
いつの間にやらリュウも参加し、ミラボーに同意している。勇者が魔界へ来るとしたら、魔王を倒しに来る時だけだろう。それ以外にどんな用事があって訪れるものか。
「拒否されたら、耐えられない」
女々しい事を言い出したハイに、頭を抱えるミラボーとリュウ。
「攫ってしまえばいい、拒否されても強引に」 「うんうん、攫ってきてから説得すればいいのだぐー」 「そんな無茶苦茶な! 自害でもされたらどうすれば!?」
混乱と焦燥感、ハイは部屋をうろつきながら、頭を捻っている。
……ええい、優柔不断な魔王め! 先日までの冷酷な態度はどこへ行ったのか。
ミラボーとリュウは、顔を見合わせ引きつった笑みを互いに浮かべた。
「ここで実行しないと、永遠に逢えない。というか、逢うとしたら決戦の場で、になる」 「良く考えるんだぐ、説得が成功するかしないかはハイ次第なのだぐー。今が大事、まずは実行だぐ!」
……必死に願ったら、勇者は快く魔界へ来てくれるだろうか? 敵意がないことを誠意を持って話せば、理解してくれるだろうか?
魔界へ連れて来たら、一緒に話が出来るし、散歩だって出来る。食事も一緒で、上手くいけば入浴も一緒、共に眠ることも出来るかもしれない。……いや、流石にそれはないが。 全ては自分次第、自分の行動で運命が決まる。 ハイは徐ろに顔を上げると、決心を固めた瞳で深く頷いた。 腹をくくったらしい。
「よし……解った、私が出向いてみよう」 「そうかそうか、よく決意した! 早速行くがいい」 「ハイ、頑張れだぐー」
ミラボーが嬉しそうに頷いて不気味な笑顔を浮かべた、これでも本人は心底喜んでいるのだが。怖い。 けれども、ハイは首を横に振った、怪訝に眉を潜めるミラボーとリュウ。「未だ何か問題が!?」 二人の魔王は顔を見合わせた。
「何故なのだぐー?」
釈然としないハイに微かな苛立ちを見せるリュウ、足を踏み鳴らす。が、ハイは今まで誰にも見せなかった爽やか過ぎる笑顔を浮かべて、頬を赤く染めるとこう言い放つ。
「あの子に部屋を一つ用意したい。衣装や、家具も揃えて。……可愛いから、たくさん洋服を買ってあげたくてだな」 「あ、そう」
リュウは項垂れるが、勢い余ってやる気満々のハイに哀れみの情を向ける。物凄い勢いで部屋を飛び出し、アレクの元へと出向くハイを力なく見送った。取り残された二人の魔王は、何も言わず静かに自室へと戻っていく。
全速力でアレクの部屋に飛び込んだハイは、止められるのも無視してアレクに直談判し、ハイの隣の部屋を貰い受ける。直様大掃除が始まった。 若い魔族の少女達を調査し『あなたが憧れる住みたいお部屋』を造り出す。洋服も流行のものを取り揃えた、あとはハイの趣味で何やら色々と買い足される。ハイ監修の元、豪華で可愛らしい部屋が徐々に完成していった。 数日を要したが、ハイ的には満足だったようで人形を胸に抱きつつその完成した部屋を感激して見つめる。
「気に入ってくれると良いのだが」
人形を抱き締めて、感動に打ち震え。「もうすぐ、逢える」恍惚の笑みを浮かべる。嬉しくて堪らない、説得が成功してこの部屋に連れてきて、それから。
『ごらん、ここが君の部屋だよ』 『まぁ、なんて素敵なお部屋! 感激ですっ』 『いやいや、礼には及ばないよ。気に入って貰えたのなら十分だ』 『ハイ様、ありがとうございます、大好きっ』 『いやいや、そんな、あーっはっはっはっはっは……』
あーっはっはっは……! 五月蝿いハイの笑い声が部屋中に響き渡る、未だ作業をしていた数人の魔族が、青褪めながらそっと部屋から出て行った。 鋭意妄想中のハイ、様子を見に来たリュウすら声をかける事ができず、薄ら笑いを浮かべている。 くるくると可憐に舞いながら、人形と踊るハイ。魔王の威厳、0である。
……あぁもう、この人ダメだ。 頭を抱えて流石のリュウも何もかも放り出したくなった、テンションが高すぎてついていけない。
「ハイ、ハイ。いい加減迎えに行かなくていいぐーか? 主役がいないぐーよ、この部屋に」
絶賛妄想中、大声で叫ぶリュウに、ハイはようやく我に返る。照れ笑いを浮かべて、ふふふ、と含み笑い。
「よし、では準備も整った事だし出かけようか」 「いってらっしゃーい、だぐ」
高笑いを残してハイは城を後にした「さぁ、勇者を迎えに行こうか!」 けれども。
「…………」
城から出て数歩、何処へ行けばよいのかわからない事に気がついたハイ。この城から出ることがまず初めてだった、この星の地理を全く知らない。 慌てて頼みの綱であるアレクの部屋へと出向いたのだが、生憎留守である。仕方がないので渋々リュウの元へと戻ったのだが、「自分で頑張るぐー」と笑顔で追い返された。 最後にミラボーを訪ねるハイ、リュウに対しての文句を声に出しながら歩く。ミラボーの部屋は妙に湿気が多い上に、日光が入っていないので正直苦手な場所である。 が、今は一大事だ、それどころではない。 陰湿な部屋に入ると、快く地図と宝石を数個手渡されて、簡単な説明を受けた。
「城の屋上に”港行きドラゴン乗り場”があるから、それに乗ってまずは港へ。そこから人間の街”ジェノヴァ”行きの船が出ている。勇者達もジェノヴァを目指しているようだし、そこで出逢えるはずだ」 「そうか、ありがとう。助かる」
親切にしてもらって、はにかみながら会釈するハイ。部屋を飛び出し屋上へと向かう、踝までも覆い隠す衣服を初めて邪魔だと思った。上手く走る事が出来ず、裾を引っ張り上げて真剣な面持ちで駆け抜ける。 屋上に飛び出し、港へ行きたいことを告げると魔王なだけあって直様一体のドラゴンが用意された。まだ若いドラゴンナイトが、緊張した様子で硬直気味に手を差し伸べる。 貧乏くじを引いたらしい、何が哀しくて魔王を送り届けなければいけないのか。
「このドラゴンで私を、ジェノヴァという場所まで連れて行ってくれないか?」 「む、無茶言わないでくださいよ! 僕とこのドラゴンでは長距離の飛行が出来ません。精々この魔界の一周が出来るくらいです」 「なんだ、役に立たないではないか」 「うぅ。ぼ、僕はまだ未熟なので。隊長階級のドラゴンナイトならば可能でしょうけど。そもそも、このドラゴンとて長距離の飛行は不可能です。互いが信頼しあった真のドラゴンナイトと相棒のドラゴンでないと、あんな場所へは」 「では、可能なドラゴンナイトを連れてこい」 「い、今不在なんですっ。あー」
困り果て嫌な汗をかいている若いドラゴンナイト、隣で気の毒そうに自分を見ていた同僚に思わず声をかける。しかし、「こっちへ振るな」と後退りする同僚は次第に離れていった。
「トビィは? 今何処にいるっけ?」 「トビィはこの間から旅に出ていて不在だよ、連絡もないらしいし」
聴いていたハイは首を傾げる、トビィという人物ならば可能なのだろうか? 淡い期待を胸に抱きつつ、二人の会話を聞いていた。 溜息一つ、ハイに結論を語ったドラゴンナイト。
「今は不在ですので、無理です。最近まで人間ですが凄腕のドラゴンナイトがいましてね、彼ならば可能でした。人間であるが故に、隊長にはなることが出来ませんでしたが、腕は確かです。僕も憧れてましたから」 「トビィとやらを呼び戻せ」 「行方不明で、居場所が掴めません。申し訳ありませんが大人しく港から船で出発してくださいっ」
悲鳴に近い声で強引にハイをドラゴンの背に乗せると、不満そうに喚き散らすハイを無視してドラゴンが浮かび上がる。 暫し文句を言い続けていたハイだったが、初めての空中散歩に唖然と下を見下ろし、大人しくなった。緑の木々が何処までも茂り、風になびいて大きく揺れる。壮大な景色、言葉を忘れてハイは圧倒されていた。流れる雲に見え隠れしている太陽、その光が眩しくて思わず瞳を閉じ。木々の合間から突然見えた大きな湖に歓声を上げて、その透き通るような美しさに見惚れ。そして海を見た、地平線の向こうにも続く広大な風景である。 初めての経験で暫し放心状態だったハイだが、我に返ると到着した港に唖然とする。 何処から湧いて出たのか魔族で溢れていた、何処を見ても、魔族だらけだ。 ハイは知らなかったのだが、魔界で最も栄えている場所はここなのだ、故に多くの魔族達が集まっている。 興味深そうに眺めるハイ、まだ昼間なのに酒の香りと陽気な歌声が聞こえてくる居酒屋。新鮮な野菜を自慢げに売る店、妖しげな道具を売っている店、洋服を並べて褒めちぎって買わせている店。 ハイは店を初めて見た。 神官だった頃も最近も、訪れる行商人から気に入ったものを買い取っているだけで、自身で店に出向いた事は今までなかった。
「はーい、船に乗るお客様はこちらに並んでくださいー! お名前とご住所の申告と、料金十マリをお支払いくださいね!」
一列に並んで船に行儀良く進んでいく魔族達に紛れ込むハイ、なるほど、こうして乗るのかと妙に納得する。
「はいはい、次の方お名前をー」
元気な少年の声、耳に心地良いトーンだった。 ハイはそう問われて首を傾げる、名前はともかく住所なんて知らない。
「私はハイ・ラウ・シュリップ。住所は知らんがアレクの城の一室にいるよ」
聞いた途端、少年の笑顔が一気に凍りつく。少年はもちろん、周囲の魔族達も硬直した。 怪訝そうに瞳を細めてハイは少年を見下ろすと、乾ききった唇をなんとか舌で湿らせて、恐る恐る声を張り上げる。
「えーっと。で、ではアナタ様はハイ・ラウ・シュリップ様ですか!? 」 「あぁ、そうだが何か?」 「惑星ハンニバルから来た、魔王ハイ・ラウ・シュリップ様ですか!?」 「あぁ、そうだが何か?」 「ひ、ひええええええええええいいいいいいいっ!!」
順に皆がひれ伏していく、ハイを中心にして広がる輪。最初は少年、それから聞いていた周りの魔族達、波紋は続く何処までも。 唖然とその光景を見つめていたハイだが、我に返る。
「頭なぞ下げなくてもいい! そんな時間はないから、一刻も早く船を出せっ」 「わかりましたぁぁぁぁぁぁ!」
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