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作品名:DESTINY 作者:把 多摩子

第18回   忘却の花冠〜アサギ〜
 トビィの威圧感に怯えているクーバー、小物の敵にトビィは戦闘意欲すら沸かず。

「人の愉しみを邪魔するほど、性根は腐ってない。まぁ勝手にやってくれ、急ぎの用なんで、じゃ」
 威圧感に怯えているクーバーに、小物の敵だとトビィは戦闘意欲すら沸かなかった。放っておいても害はないだろうと判断する、正直関わるのが面倒だったのだ。

「人の愉しみを邪魔するほど、性根は腐ってない。まぁ勝手にやってくれ、急ぎの用なんで。じゃ」

 暫く部屋を特に興味なさそうに軽く眺めていたのだが、トビィはそれだけ言うと踵を返し、ドアに手をかけた。「ならすぐに帰ってくれよ! 寧ろ入ってくるなよ!」と叫びたかったクーバーであったが、生憎この人間の男に勝てる気が全く無かったので言葉を飲み込む。
 たかが人間、しかし魔族である自分よりも遥かに超越した力を秘めていると本能が警告していた。大人しくこの場をやり過ごしたほうが、利口な気がして必死に堪える。
 確かにクーバーは吸血一族の中でも魔力が格段に低かった、それは自身でも分かっている。能力といえば、他人の記憶からその知り合いの名前と顔を読み取ることが出来、その人物に変化することが出来る……という役に立たない能力だった。他人に成り済ますだけの、不要な能力だ。
 それも、最初はただ記憶を垣間見るだけで変化は出来なかったのだ。
 しかし、ある時。一族が捕らえた娘がエルフという珍しい種族で、クーバーもお零れを授かり血を飲んだのだが……その時に突然変化能力が身に付いたのだ。不要だと嘆いた、どうせなら禁呪が使用できる魔力が欲しかった。
 エルフの血は、魔力増幅に繋がると聞いたことがあったが真実だった。しかし、クーバーにとってはどうでも良い情報である。意味のない授かり物をし、落胆するしかない。
 持て余していたこの能力だが、ある日ふと思いついた。
 他の仲間は夜な夜な堂々と人間を襲っていたが、クーバーにはその度胸もなかった。それでも血は飲みたい。飲まなくても死にはしないが、やはり飲みたい。
 故に、こうしてひっそりと自分好みな”若くて可愛い女の子”を攫っていた。これくらいならば、造作も無いことだ。攫ったあとは、抵抗されても面倒であるし、嫌がる娘を無理やり……というのもクーバーの性に合わず。娘が好意を抱く相手になりすまして、恋人気分を味わったほうが好きだ、というクーバーの良いような悪いような微妙な考え方から、過去に何度も同じ手口で娘達を喰らってきた。
 記憶を読み取り、片思い相手、もしくは恋人に化けて成り済ます。そうして身体と血液、文字通り全てを戴く。娘達は夢見心地だが、質の悪いやり方である。
 立ち去るトビィに胸を撫で下ろし安堵したクーバーは、再びアサギに向き直る。とびきりの上玉だ、早く味わいたかった。
 腕の中で小さな寝息をたてているアサギを見て、鼻の下を伸ばしほくそ笑むと傷が疼く様なもどかしい感覚に襲われた。「早くこの娘を馳走にならなくては! 身体が欲しているっ」細く白い首筋を見つめ、舌舐めずりする。
 その時、偶然にもトビィが何かしらの気配を感じて振り返り、アサギの顔を捕らえた。

 キィィ、カトン……。

 先程も耳に届いた不可解な音、アサギを瞳に入れた瞬間に脳内で鳴り響く。変態男の腕の中に居る少女を見て、唖然とするトビィ。「アサギ、だ」小さく漏らした声は、掠れていた。

「アサギ……?」

 今度は明確に声を発した、が、クーバーには届かない。凝視するが、間違いなかった、見間違えるはずもなかった。

 ……アサギだ、アサギがいる。約一月捜し続けていた、愛しの娘・アサギが目の前にいるではないか!

 ただ、髪の色がトビィの知っているアサギと違っていた。トビィが知っているアサギは、新緑を思わせる鮮やかな緑色だったのだ。だが、この目の前のアサギは漆黒の髪、けれども、人違いであるはずがない。
 見間違えるはずがなかった、どれだけ遠くに居ても、どんな人混みに紛れていても、探し出せる自信があった。
 髪の色が違うのなら、普通ならば人違いだと思うだろう。けれどもその少女から発せられる空気が”アサギ”のものであった。トビィは、確信した。

「っ!」

 髪の色の事を考えている余裕はない、今その瞬間にもアサギは変態男に何やらいかがわしいことをされようとしている。
 トビィの視線を感じ、クーバーは振り返ると鬱陶しそうに眉を顰め、蝿を追い払うごとく手を振った。
 早く出て行け、そういう意味合いだったのだが、クーバーは血相抱えてアサギを抱きかかえたまま宙に飛び上がる羽目になる。

「貴様ぁっ、アサギに汚い手で触るなっ」

 大声でトビィが叫ぶ、そのまま一直線に駆け出し、背の魔力を放ち続ける長剣を勢いよく引き抜き斬りかかる。その気迫に思わず喉の奥で悲鳴を上げて、クーバーは辛うじて紙一重で攻撃を避けた。
 宙に浮かび安堵の溜息を漏らしたのも束の間、直様地面を雄雄しく蹴り上げて、素早く斬りかかってくるトビィに再度悲鳴を上げる。

「ちぃっ!」

 紙一重で避けられ、トビィが舌打ちした。
 繰り出される剣のその速さに、激震せずにはいられないクーバー。

 ……コイツ、本当に人間なのか? 下手な魔族よりも余程慣れた動きをしているっ。

 訝しげにトビィを見つめ「ちょっと待った!」とクーバーは休戦を申し出た。勝てない相手なので、逃げる方法を思案せねばならなかったのだ。

「落ち着け、トビィ・サング・レジョン君」

 右手を突き出し、爽やかに笑ってみるクーバー、だが、トビィは顔色変えず何度も斬りかかる。必死にそれを交わしながら、なんとか話し合いの場を作ろうと懸命にクーバーは天井付近を浮遊した。

「こ、この子はつい先程恋人になったばかりの娘なんだ。これからお愉しみの時間なんだ、邪魔しないでくれないか? 人の愉しみは邪魔しないと言ったじゃないか」

 確かにトビィは数分前そう言った。「男に二言はあるまい?」クーバーは一か八かの賭けに出る。
 引きつった笑みを浮かべた、余裕があるように見せようとしたが無理な話だった。最初からこの吸血鬼には、度胸がない。

「相手による。貴様ごときがアサギと愉しむだと? ……ふざけるなぁっ!」

 火に油を注いだらしい、怒りに身体を震わせながらトビィが跳躍し、剣先でクーバーの瞳を狙った。
 全速力で天井の端へと移動し、荒い呼吸を繰り返すクーバーだったが、そのトビィの言葉に違和感を感じ、現実逃避したくて遠のく意識で懸命に”違和感”を考えた。

 ……あぁ、そうだ。トビィはこの少女・アサギを知っているらしい。けれども、アサギは?

 クーバーはアサギの額に掌を置き、きつく瞳を閉じて何かを探る。感じた違和感とは。……アサギの記憶には、”トビィ”が存在しない。片隅にも残っていない、アサギはトビィを知らない。もし、記憶があればこれだけの美形である、クーバーならば変化している。
 アサギの記憶を見続けるクーバー、呼び戻した記憶から現われる男達の顔が浮かんでは消えていく。やはり何処を見てもトビィが存在しない。
 クーバーは唇を尖らせた。

「トビィ君とやら、何故この子を知っている? 人違いじゃないか? それとも何処かですれ違ったのか? この子の記憶にトビィ君は存在しないんだ」
「ふっ、戯言を。アサギはオレの命の恩人で約一月前の一週間、看病してくれた。別れ際に再会を約束して、な。オレがアサギを見間違えるはずもなく、何より貴様がアサギに触れてよいわけもなく」

 聞きながらクーバーはそっと涙する、気の毒過ぎるのだ、そんな強烈な出来事があってもアサギには記憶がないのだから。
 しかし、幾らなんでもそこまでの記憶、少しくらい残っていても良い気がするのだが……クーバーは再度探るべく掌に神経を手中させた。
 が、やはり何度見ても結果は同じだ、アサギの記憶に”トビィ”は存在していない。「こんなに美形なのに、忘れられることもあるんだな」クーバーは悲恋だね、とわざとらしく鼻をすすった。
 アサギの安らかな寝顔を見つめ、勝ち誇った様にトビィに皮肉めいて笑う。意味のない優越感に一瞬浸る。「あぁ、どうせ化けるならこんなガキより、トビィ君みたいな美男子に化けたかったよ」と精一杯の悪態をつく。
 化けたくとも化けられなかった、アサギの記憶にないのだから。
 が、その瞬間。
 突如クーバーの脳裏に多大な量の記憶が、洪水の如く流れ込んできた。

「な、なんだ!?」

 それはアサギから流れてくる映像のようだ、掌に電撃が走り、痺れてくる。
 外したくとも何故か掌が動かなくて外せない、小刻みに震えていた掌から血液が宙に舞った。大きく瞳を開いて、唖然とその光景を見つめる。
 膨大な映像はようやく形を成した、見知らぬ男達が数人そこにいる。その中に、一人だけ見知った男が居た。そう、トビィだ。「居た!」叫んで瞳を凝らす、トビィ以外に男が三人居る。
 流れ込む映像を振り払う如く、クーバーは自身の頭を激しく振った。けれども意に反して映像は更に鮮明になっていく。ついに、音声まで聞こえ始めた。

「ば、ばかな!? 俺はこんな能力持っていないぞ!?」

 宙で身悶えているクーバーの様子に、トビィは剣の構えを解かず見上げている。以前戦った魔族に、姿を変貌させると格段に魔力が向上した厄介な敵がいた。その類かと警戒していた。
 冷静に相手を見定めながらも、何かから逃げようと怯えているようなクーバーに眉を顰める。
 クーバーは、恐怖心に襲われていた。何故かしらその先の映像を見るのが、怖かった。
 知らない人物だ、たかが他人の記憶のはずなのに、戦慄に身体を震わす。
 映像が激しい光を放ち、クーバーを襲った。
 ……花畑だ。色とりどりの花が咲き乱れる、美しい光景である。
 その中央に、クーバーは突っ立っていた。
 唖然と周囲を窺う、やがて手を繋いで仲睦まじそうな二人が歩いてきた。
 アサギだ。
 アサギとトビィに若干雰囲気が似ている男が、笑みを絶やさずに歩いている。特に何も不自然な箇所は無い、何処にでもいそうな羨ましい気もする恋人同士だ。

「これを」
「これは? ……綺麗な深紅の宝石!」
「こ、これさ、あげる。に、似合うと思って」
「ホント!? ありがとう! ずっと、つけててもいい?」
「うん。ずっと、持ってなよ」

 男が少女に首飾りを渡したようだ、小さいながらも品良く装飾してある紅玉が、淡く輝いている。
 愛おしそうに、隣の少女を見つめている男。時折触れることに抵抗を覚えながらも、ぎこちなくぶっきらぼうに、震えながら手を握り、髪を撫で、頬に手を触れ。
 不可侵の聖域のごとく、敬いつつ恐怖に焦がれつつ、思うように少女に触れられないようだった。
 恐怖に怯える映像ではない、けれどもクーバーは背中に嫌な汗をかいていた。後方を見てはいけない、闇に引きずり込まれ、何かで全身を骨ごと砕かれるような、そんな気がした。
 男は足元の花を一輪、恭しく摘み取るとアサギに似た少女の髪にそっと挿した。
 新緑の髪の少女、顔を赤らめて笑う。純白の花が可愛らしく少女の髪を飾り、二人は笑い合うと再び手を繋いで花畑を歩き回った。

 ……知りたくない、聞きたくない、観たくない、この先は観たくない!

 産まれて初めて味わう恐怖は絶望と悲哀、胸を切り裂かれる苦痛、闇に属するクーバーすら恐れる巨大な暗黒の塊が真後ろに迫っている。
 急に映像が一転した、仄暗い小屋の中、二人がひっそりと佇んでいた。
 少女が頬を桃色に染めながら、そっと手を胸の前で組み、何か呟いている。

「愛して、います」

 愛しています。少女はうっとりと目の前の男にそう告げていた。愛の告白、想いを込めて、その言葉に全ての想いを詰め込んで。

「愛しています」

 再度、少女は呟いて嬉しそうに小さく笑った。
 そんな少女とは裏腹に、男の表情は晴れない、というより冷淡な眼差しで少女を見下している。

『はっ……』

 長過ぎる沈黙の後、搾り出した声に少女は瞳を軽く見開いた。
 次の瞬間、後方のベッドまで突き飛ばされその痛みで低く呻く。あまり柔らかくはないベッドだ、衝撃に混乱を憶えながら瞳を開いた。
 目の前に男がいた、覆い被さられている。
 胸が跳ね上がった。しかし赤面したのではない、その雰囲気に身を竦ませて声を出せなかった。呼吸する事も恐れた、目の前にいる男の表情を見て、凍りつくしかなかったのだ。
 怖い、と思った。それが自分に向けられている視線であることに、酷く怯えた。
 薄ら笑いを浮かべ、けれども瞳は笑っていないその蔑む様子に息を飲む。
 途端、髪を無理やり握られ、強く引っ張られる。

『ひぁっ!?』

 叫び、激痛に瞳を閉じる。ブチリ、と髪が抜ける音がした。何本も抜ける音が聴こえる、ブチ、ブチ、と耳元で不快な音がする。

『愛している、ねぇ? お前はオレを馬鹿にしているのか!? あぁ!?』

 身体を震わせ、髪を持ったまま引っ張り上げると耳元で怒鳴る。
 変貌についていけなかった、少女は小さく身体を窄めると、髪が引き抜かれる痛みに耐えながら言葉を苦し紛れに発する。

『お、教えてもらったの。ベシュタ様に教えてもらったの。胸がとくん、って脈打って。見ているだけで心が震えて。名前を何度も呼びたくなって。触れていたくて触れてもらいたくて。声が聞きたくて、一緒に居たくて。笑っている顔が見たくて、隣にいると安心できる。
 ……その人のことを、とても大事に想い、常にその人のことを考え、その人が笑顔で、幸せであれば良いと想い願うこと。それが”アイシテイル”……愛しているっていうのだと』

 聞き終えると、腹が捩れるほどに大爆笑した。雰囲気から“馬鹿にされている”と感じ取った少女は、驚愕の眼で見つめるしかない。
 何か間違った事を言ったのだろうか、いや、そんな筈はない……言い聞かせるが、笑い続けている男の心理が解らなかった。

『あぁそうか、そうか、よかったな! 本当にお前は狡賢く生き延びていける女だよ。まぁ、そうだろうなぁ、ベシュタは貴族だ。オレなんかより余程地位が上だし、取り入って損は無い相手だよな? ……馬鹿にしやがってっ』

 胸倉を掴み、右手で容赦なく頬を殴った。叩いたのではない、拳で殴りかかった。鈍い音がして、大きく叫び声を上げる。頬骨が、折れた。その愛らしい唇を掴み爪を立てて、切り裂くように潰す。
 喉の奥で息を吸い込み、男は憎々しげに再び唇に爪を立てて握り潰す。

『裏切り者っ!』
『らんで、なんでおこ、おこって』
『うるせぇっ』

 左頬も殴られた、口内が切れて血が唇から伝った、咽ながら涙をうっすらと浮かべる。
 わけがわからず、震える手で男に触れようと手を伸ばすのだが、痛々しい音がして手は撥ね退けられた。

『触るな、気持ち悪い』

 汚らわしいものを見る目だった、その視線には嫌悪感があからさまに篭められている。
 その視線を投げかけられているのは自分なのだと理解し、少女は口を震わせながら何か言葉を探す。しかし、見つからない。言葉が出てこなかった。

『見るな、気持ち悪い』

 反射的に身体を更に縮込ませる、もう何も、言えなかった。
 脳に与えられた衝撃は、少女の思考をほぼ停止させた。『触るな、見るな、気持ち悪い』……言葉が反響している。
 どうしたらよいのか分からず、大粒の涙を幾つも流すことしか出来なかった。
 この間まで、四六時中手を繋いでいたのに、飽きることなく二人で見つめ合ったのに。
 何故、突然。顔を殴られた痛みよりも、視線が、声が痛かった。

『あぁ、本当にお前は立派だよ、どうすれば相手に気に入られるのか解っているよな? 身体を使って取り入るなんて』

 何を言っているのか理解が出来なかった、意識が朦朧とする中で涙が溢れぼやける瞳はそれでも男の唇を追う。動きを追う。

『この阿婆擦れが。何が期待の土の精霊だ、笑わせてくれるよな? ただの色欲に溺れた愚者だろう!? 誰にでも取り入れると思うなよ……! お前ごときの女なんざ、主星には大勢いるからな!?』

 罵声を浴びせられながら、懸命に言葉の意味を考えていた。
 愛しています、そう言ってはいけなかったのか? 教えて貰った素敵な言葉を、一番大好きな、大切な人に伝えたかっただけなのに、これは一体どういうことだろう。
 手を、繋いで。一緒に、笑って。ずっと、居て。触らせて、観させて。

「あ、あの、わたし、わた、し。あい、あいして」
「うるせぇ! 意味も解らずにお前ごときがそんなこと言うなっ」

 馬乗りになったまま、何度も何度も可愛らしい顔を殴りつけた。容赦なく強打され、幾度も悲鳴を上げるのだが、徐々に声すら発せられなくなっていく。
 血が男の拳に滲んだ、鈍い音が小屋に響き渡る。シーツにも血が付着した、少女の顔は、真っ赤に染まった。鼻は折れていた、歯も何本かかけてしまった。目の周りは青く腫れ、引きちぎられた緑の髪がそこらに散らばっている。
 一見、誰だか解らないほどに顔が変形してしまった。

『可哀想なオレ達、とんだ茶番に付き合わされていい迷惑だ。時間返せよ、オレ達の時間を返せよ! お前に出会ったせいで、無茶苦茶にされたじゃないか! くそったれ』

 ぐったりとして動かない少女に、それでも手を緩めない。気が治まらない、暴行は止まる気配がなかった。
 抵抗する気力もない、逃げたくとも身体が動かないので少女はそれを受け入れた。暫くすると、男の声が聞き取り辛くなってきた。
 右耳の鼓膜が破れたのだ、穴から、血が流れ落ちる。

『で、抱かれた感想は? 快楽に溺れて後はどうでもいいって? ……そんなに好きならオレも教えてやろうか、お前が言っている”愛”っての』

 返事すら出来ない少女に、引き攣った笑みと、狂喜に燃える瞳を投げかけそう言うと、荒い呼吸で無造作にうつ伏せにする。訊いてはみたが、返事を待つことはなかった。どのみち、今は喋ることすら出来ないだろう。顎の骨も砕かれている。
 逃げられないように、シーツを破り裂いて、両手をベッドに縛り付けた。切れて血まみれになった口にも、無理やりシーツを詰め込む。
 拘束された手首と、麻痺しつつある口内の違和感に、ようやくうっすらと瞳を開いた少女。それに気づいて、唾を吐きかけると憎悪の瞳で耳たぶを握りつぶすように捻り上げた男は。ご丁寧に穴を広げ鼓膜を突き破るように、下卑た大声で笑った。

『死ねよ、消えろよ。お前が居なくても誰も困りゃしない、居た方が迷惑だ、鬱陶しい』

 口を塞がれている為、悲鳴は部屋に響かない。どのみち、呻く事しか出来ない。
 少女は、泣いていた。
 泣いていたが、うつ伏せにされていたのでその涙を男が見ることはなかった。
 その細い腰を持ち上げる、質素な衣服を捲り上げ下着を引きちぎると、憎しみを籠めて自分を強引に突き入れた。身体中に電撃が走る、一瞬硬直したが口角をゆっくりと上げると、無我夢中で腰を振る。
 少女は……少女が痛かったのは。
 何度も殴られた顔でもなく、無理やり開かれた身体でもない。
 ただ。
 言われた言葉で胸が痛くて。『愛している』と想いを伝えたかった。
 自分の抱いていた想いを伝えられる言葉を教えてもらったので、言いたかっただけだった。素晴らしい言葉の筈だった、受け入れられるかはともかくとして、解って貰いたかった。

『先にベシュタと勉強したんだろ? もっと腰を触れよ、空気読めない売女だな。ふざけやがって』

 髪を掴み、ベッドに押付ける。胸を引きちぎる勢いで鷲掴みにし、笑いながら自分の真下でなすがままにされている少女を見下ろした。

『……今後二度とオレの前に姿を見せるな』

 どのくらいの時間が経過したのだろう。気が晴れたので小屋に一人きり、傷ついた少女をそのまま残して、男は出て行った。

――行かないで、行かないで。

 もうほとんど聴こえなくなった耳だったが、乾いた音を立てて扉が閉まる音を聞いた。 
 消えていった男の背を追いかけるようにして、必死で顔を動かす。視界すら奪われて、鮮明に見ることは出来ない。しかし、脳内で変換していた。
 男が離れていく姿を、消えていく姿を少女は鮮明に脳に映し出していた。

「……えぐっ」

 口からシーツを吐き出すと、止め処なく溢れる涙と嗚咽に埋もれて絶叫する。

「うぁ、うわぁぁぁっぁあっ!」

 行かないで、行かないで。傍にいて、傍にいて。笑って、笑って。手を握って、握って。名前を呼んで、呼んで。名前を呼ばせて、呼ばせて。
 カシャン……
 首から、何かが零れ落ちた。ぎこちなく視線を移すが、見えない。必死に頬をこすり付けてそれを確かめると、以前男から貰った首飾りだった。
 髪をくしゃっ、とかき上げて不慣れな手つきで首にこれをつけてくれた。似合うよ、と笑ってくれたその愛する人は。
 その男は。

『い、か、らいれぇ』

 自由の利かない身体で懸命に腕を伸ばそうとする、消えて行ったドアの向こう側、男を求めて手を伸ばした。

「いっ、ひ、ちゃ、やら、ら」

 涙で見えないのか、眼球が潰れていて見えないのか、晴れ上がった肉のせいで見えないのか、もう、解らない。しかし、追いかけなくては二度と会えないかもしれないことは、解った。
 だから足を動かした、痺れているが動けないこともない、ずるずると這うようにベッドを移動する。

――ひ、一人に、しないで。行かないで、そばに、いて。

 手がまだつながれたままだった、これ以上動く事が出来ない。しかし、するりと繋ぎとめていたシーツが外れる。
 ベッドから転げ落ち、床で頭部を打つ。低く呻きながらも、腕に力を込めて扉を目指した。
『今後二度とオレの前に姿を見せるな』
 不意に先程言われた言葉が甦る、身体を凍りつかせて仰け反った。
 あの、視線が怖かった。本当に、憎まれているのだと思った。追いかけては、いけない気がしてしまった。姿を見せるな、と言われたからだ。……駄目だと、思った。

『きらわ、ないで』

 いい子にするから、嫌いにならいで。役に立ってみせるから、嫌いにならないで。何をしたら良いですか、もう“愛している”と言わなければ以前の様に傍にいてくれますか、話をしてくれますか、手を握ってくれますか、隣で眠ってくれますか、口付けをしてくれますか。

『ひ、ひぁっ』

 頭の中で言葉が甦る、『気持ち悪い』『見るな』『触るな』……心に幾つも幾つも言葉の破片が突き刺さる。半狂乱で床をのた打ち回った、恐怖で身体を震わせて胸の痛みから逃れようと悶える。
 巨大で鋭利な破片は突き刺さったまま抜けない、極めて凶悪な暗黒に覆われたそれは、絶望しか生み出さない。
 少女は無意識の内に、目の前の扉に向かって這って行った。ただ、求めていた。
 それでも見てはいけない、触れてはいけない、姿を見せてはいけないとは心に刻んだ為に、ただ温かく心地良い火の精霊独特の雰囲気を肌で感じられれば、と願った。
 それでもやはり、願わくば。

――いっしょに、い、て。

 その渾身の願いに応えたのか、扉がゆっくりと開いた。微かに明るい光が小屋に差し込む、視界を奪われようともそれは少女にも解った。
 誰かが、来たのだと解った。
 クーバーは少女を見ながら、足を震わせていた。
 その少女が抱え込んでしまった巨大で鋭利な破片、極めて凶悪な暗黒に覆われており、絶望しか生み出さない。知らずクーバーは胸を押さえた、瞳から一筋の涙が零れる。
 少女は、何故あの男をそこまで追い求めるのだろう。
 もう、いいじゃないか、酷いことを言われたのならもう、離れたら良いじゃないか。そこまで傷ついて何故求めるのか、理解ができない。
 けれども、少女はクーバーの目の前でドアに向かって這って行く。
 ただ、少女は。その、男の傍に居たかったのだと。自分の想いを伝えたかっただけなのだと。
 少女の渾身の願いに応えたのか、ドアがゆっくりと開く。
 クーバーは開きかけたドアを見つめ、安堵の溜息を漏らした。先程の男が戻ってきたのだろうか? 助けに戻ってきたのだろうか? 足元のアサギに似た少女を励ますように見つめる。
 現われた男を見て、クーバーは瞬きを数度繰り返した、知っている顔だ。

「……トビィ?」

 思わず声を漏らしたクーバー、それもそのはず、入ってきたのはトビィだった。

『っ!? どうした、何があったアース! しっかりしろっ』
『トロイ……トロイ? たすけ、て、トロイ』

 床から、必死に顔を持ち上げて入ってきた人物を見やる。声が何重にも聴こえた、鼓膜が片耳破れていたので上手く聞き取れなかったのだ。
 アースという名の少女、その変わり果てた姿を見ると、顔面を引き攣らせてトビィに良く似た男は早急に抱き起こした。焦燥感に駆られながらも、痛みを伴わないように優しく触れる。

『あ、あぁっ! ごめんなさ、ごめんなさっ!』
『アース、どうした、しっかりしろっ』

 絶叫。
 アースはトロイにしがみ付きながら、何かから逃れたくて声を張り上げた。
 押し潰される、悲哀の想いは極限に達する。
 男はもう、笑わない。男はもう、傍にいない。
 それは。

 ……私が何かしてしまったから。機嫌を損ねてしまったから。でも、原因がわからない。

 それとも。
 最初から、嫌われていたのだろうか。
 最初から。
 偽りの関係、通じていた想いは誤り。
 身勝手な妄想、独り善がりな執着。
 あの日の花畑は、忘却の彼方。
 髪に挿してくれた一輪の花は、幻惑。
 忘却の果てで見たものは、鮮やかな大輪の花。
 一輪の花が喜びで咲き乱れ、花冠になった遠いあの日は。
 ただの夢、で幻だったのか。

 一人、漆黒の闇の中で緑の髪の少女は泣いていた。
 周囲に人も何もなく、一人で泣いている。何かを探して傷ついた足で歩き回っていたが、虚無の空間だ。
 それでも、ないとわかっていても少女は捜し求める。
 捜し求めているものは、少女が欲しかったものは。
 哀しくて。寂しくて。辛くて。焦がれて。欲して。求めて。手に入らないと解っていても。
 それでも追い求める。
 声を聞かせて。姿を見させて。笑顔が見たい。笑った声が聞きたい。元気に走り回って。無邪気に、生きて。幸せに、なって。出来れば、私を。

 ……嫌わないで。

 少女が不意に顔を上げた。
 目を見張るほどの豊潤な新緑の髪、神秘的な光を灯す深緑の瞳。桃色の頬、濡れた赤いサクランボの唇。
 けれど。
 外見が眩く美しくても。心から血を滴らせ、息が詰まるほどの重圧が少女の身体を覆い尽くしている。纏わりつく深い悲しみの中、小さく光を放つ少女。
 見る者全てを魅了するその少女には……奥深い闇が。それもまた、魅力なのだろうか。涙が頬を伝いはらはらと流れ落ちる。それすらも、綺麗で。
 少女はこの世のものとは思えないほど美しく、クーバーは瞳が逸らせなかった。

『さむいよぅ』

 いかないで、ひとりにしないで、そばにいて、さむいよ。
 徐々に、少女の身体が崩れていった。
 風に舞って宙に浮かび上がる木の葉のように、ざぁっ、と消えていく。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 クーバーは絶叫した。
 この世の終わり、生命の死。森羅万象全てのものが、消え失せる感覚。花畑は、死の荒野に。
 乾いた大地が惑星を覆い、生き物は逃げ場を失い死に絶える。大地は芽を生む力もなく、罅割れ乾き、物言わない。
 遠い未来。いや、遠い過去?
 クーバーの身体が、砂のように崩れ落ちていった。
 泣き喚いて零れる身体を必死で掬い上げるが、指の隙間からクーバーの身体はさらさらと落下する。

「グワァァァァッ!」

 手が、消えていく。ボロボロと零れながら、風化していく。存在が、なくなる。
 クーバーは錯乱状態に陥った、誰でもいいからここから出してくれ。
 これは、夢だ、幻覚だ。
 この少女の夢の映像に入ってしまっただけだと、必死に精神を保とうとした。

「ギャァァァァっ」

 眼をカッと開き、クーバーは口から唾液を吐いた。腕が痛い、左腕が痛い。見ればクーバーの左腕がなかった。
 気がつけばそこは、もとの部屋。クーバーが改造した例の洞窟の一室に、ようやく戻ってきた。
 現実に戻ることが出来たのだと、クーバーは乾いた声で笑う。
 しかし状況把握に時間を要した、左腕で支えていたアサギが消えている。
 見ればトビィが落下したアサギを華麗に受け止め、優しく抱き締めていた。
 床に転がる一本の腕は、クーバーのものだ。
 どうやらトビィに腕を斬られたらしい、その激痛で幻覚から現実へと引き戻されたようだ。深紅の血液が、盛大にシーツに、部屋に降りかかっていた。
 トビィと、視線が交差する。
 慈愛も何もない、アサギに向けていた時とは一変し、冷淡な視線がクーバーに投げかけられた。
 殺される、と直感した。腕の激痛すら麻痺している、思考回路が正常に働いていなかった。
 今、ここで。死んでしまったほうが楽だと思った。

「答えろ、アサギに何をした。何故目を覚まさない」
「っ、な、何もしていない! その香は若い娘の思考を停止させ、身体の自由を奪うんだ。べ、別に何もしていない」

 狼狽するクーバーの台詞に頼り、視線を辿ると煙を上げている香炉に気づいた。
 トビィは忌々しそうに舌打ちすると、剣を素早く振り風圧で火を消す。直に香りは消えるだろう。

「他に何をした。オレのアサギに何をした」

 凛と響く、威圧感のある声、クーバーは歯を震わせて首を横に振る。めまいがしてきた、血液を流しすぎたのだ。浮遊していることも、辛かった。

「そ、それからっ。それから、ち、血を。その子がケガをしていたから、血を、嘗めた。それだけだっ」

 アサギの左腕に、確かに出血した痕がある。トビィは害虫を見るような視線でクーバーを睨み付けた。

「そうか。じゃ、死ね」

 次の瞬間、口を開きかけたクーバーの視界に、隼の様な優雅で敏速な剣の舞が入る。アサギを丁重に床に下ろしたトビィは地面を蹴り上げ跳躍すると、クーバーの胸を一突きしたのだ。
 回避出来なかった。
 血走った瞳で身体を仰け反らせ、クーバーは絶命する。停止寸前の思考、吐き出される血と共に、言葉が投げ出される。ずっと、気になっていた事だった。

「この娘、人間じゃな」

 最期に、この言葉を。
 逆流する血に紛れて出た言葉を、トビィは聞き取ることが出来なかった。
 クーバーが現実に引き戻される瞬間、泣いていた少女を見て痛感したこと。
 それは。

 ……この娘、人間ではない、魔族でもない、もっと別の存在だ。

 魂が、そう感じてしまった。
 艶やかな花畑、楽園と呼ぶに相応しいその場所に、一人の少女が立っている。色取り取りの花冠を頭上に、寂しそうに微笑んでいる。豊かな新緑色の柔らかく艶やかな髪に、温かみのある光を帯びた大きな瞳、軽く頬を桃色に染めて、熟れたさくらんぼの様な唇。
 忘却の果てで、一人花冠を抱いたまま。
 クーバーは安堵した、何故か、安心感に包まれた。記憶なき、母の腹にいた時の様に、何からも護られている様なまどろみの中にいる。この場所は酷く安全だ、何も悩むこともない。苦しみから解放され、斬られた腕も戻っている。涙を流しながら、目の前で遠くを見つめている美しい少女に声をかけた。

 ……アナタ様ハ、誰デスカ?

 少女は、何も答えなかった。ただ、哀しそうに寂しそうに、微笑んだままだった。


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