アレクの息抜き場だという森へと、一同は歩く。トビィに手を引かれ、ハイとも手を繋ぎ、歌いながら歩くアサギは零れるような笑みを浮かべていた。 そんなアサギを見て、一同も知らず微笑む。 地球の歌を口ずさむ、皆は知らないその歌だが、楽しそうな曲だった。何度も歌い続ければ所々、覚え出した。 日本を代表する歌姫の、その歌。こういった遠足気分にはぴったりである。 アサギはこの歌を小学校の音楽で習い、皆で合唱したのだ。あの時は、ユキがピアノを弾いてくれた。楽しかったなぁ、と思い出して破顔する。 アレクがこの森を選択したのは他でもない、この近辺に今はまだ、捕らわれの身の少女がいるからだ。 見たことは、なかった。だが、存在だけは知っていた。 アイセルの妹で、次期魔王の影武者的存在であるマビルである。 影武者、と聞いて良い思いをする者などいないだろう。その為アレクはマビルをこの森へ幽閉した。それは独断ではなかった、マビルの両親、及びアイセルとも相談の末、出した結論である。暖かな家族の中で暮らし、真っ直ぐに伸び伸びと成長した娘は心優しい純朴な娘になるだろう。 そしていつか現れる次期魔王と対面させる予定だった、影武者ではなく、共に魔界を切り開き、護り抜く存在であるように、と。 有事の際には魔王の代わりに死になさい、などと言うつもりなどなかった。助け合い、支える仲であって欲しいと思っていた。そうなると、影武者という単語は相応しくない。 常に寄り添い分かり合える姉妹のような……それこそ産まれた時から共にしている双子のような仲になって欲しいと。 予言によれば、マビルの姿は次期魔王と瓜二つだという。 アレクは、トビィと談笑しているアサギを見て、森に視線を送った。この森の何処かに、アサギに似た少女がいるのだろう。風がざわめく。 一つ気がかりなのは、兄であるアイセルがマビルの話題になると苦笑することだった。 何か、問題でもあるのだろうか。 ……大有りだ、純朴な娘には育たなかったのだ。性格に難有り、な娘になってしまった。
「おねーちゃん?」
妙な気配に導かれて、森で遊んでいたマビルは全速力で一同を見つける。 乱れた衣服を正しながら、一同の後をつけた。上気した頬は、走ってきたからではない。先程まで森へ誘導した魔族の美少年と、秘め事をしていたからだ。 森に捕らわれ、暇を持て余しているマビルは快楽に身を任せる。そうしていると、落ち着くのだ。誰かの体温で、自分が一人ではないことを実感できた。 けれど、同じ男を長く欲しない。飽きたら捨てる、それがマビルだ。 それは、恋ではない。ただの気まぐれ、一時の快楽の為。
……男なんて馬鹿げた存在に捨てられるなんて、許せないの。あたしは、自分から捨ててやる。この身体が欲しいのでしょう、だから優しいあたしは与えてあげる。可愛いから当然なんだよね、でもね、貴方達はあたしに何か与え続けられるの?
口から唾を吐き出した、白濁した男の体液も混ざっている。 口元を拭いながら、初めて自分の対であるらしい勇者アサギを観たマビルは、唖然と大口を開け、何度も瞬きする。
「あたしのほうが、どー見たって絶対可愛いじゃんっ」
思わず叫んでいた。自分の身体に触れながら、目の前を歩くアサギと比較する。 肌の艶、髪の艶、ぷっくらと膨れた魅惑的な唇はどちらの勝ちか。大きな瞳に宿る煌きは、睫毛の長さは、高い鼻は、華奢な手足に、細くくびれた腰、豊かな胸と、思わずむしゃぶりつきたくなるような尻に太腿……。 わなわなと小刻みに震えながら、マビルは忌々しそうにアサギを見つめる。どう見ても、自分のほうが勝っている。 そもそも、アサギは魔力が低すぎた。 とても次期魔王とは思えない、本当に屑の人間らしい魔力だった。魔力、と呼んで良いものなのかどうか、それすら疑わしい。 けれども、周囲を取り囲んでいる男達にマビルは喉を鳴らす。どれもこれも、極上の男だった。顔だけならば全員平均以上、身長も長身で申し分ない、肩書きも完璧だ。 何より、トビィの美しさにはマビルも溜息を吐くしかない。あんな綺麗な男は初めて見た、と思わず手を伸ばす。
「キレーな男! 傍に置いておいたらどれだけ愉しいだろう」
伸ばした手を引っ込めて、その中心にいるアサギに歯軋りする。 自分よりも劣るくせに、欲するものを持っているアサギ。 陽の光を浴びて、楽しそうにはしゃいでいるアサギ。周囲には人が溢れている。 マビルは、自分がみすぼらしくて仕方がなかった。地面を見つめる、肩を落とす。地面に映っている影は、泣きそうに見えた。 何故、ここにいるのかが解らない。 何故、あそこに居られないのかが解らない。 あそこへ行きたい、行きたい。 マビルは、静かに歩き出した。アサギ達が何をする為にここへ来たのか、見る為に。 そんなマビルの存在には気づかず、一同は手頃な場所で座り込むと、弁当を広げる。アサギが恥ずかしそうに差し出したバスケットに、皆が群がった。
「アサギは料理が上手だなー、はっはっは!」
魔王ハイが涙を流しながら食していたので、マビルも理解した。 あれは、アサギの手作りなのだ。指を咥えて、羨ましそうに眺めた。 しかし、おにぎりを食べている姿に、マビルは首を傾げる。おにぎりなど、知らない。 それでも美味しそうに見える。
「いいな……美味しそう、楽しそう。あたしも、食べたいな」
次から次へと魔法の様に出てくる料理に、喉を鳴らす。 マビルは大勢で食事をしたことがない。和気藹々と食事している様は、こちら側から見ても楽しそうで仕方がない。 どうして、自分はあそこへ行けないのだろう。 次期魔王であるアサギの影武者ならば、混ざる権利があるのではないのか……そう思ってから、首を横に振った。
……違う違う、あの場所は、あたしのものなのだ。蹴落として、あそこに居座るのだ。 『そうだよ、自ら動かなければ全て持っていかれてしまうよ。生きる権利は誰にでもある、幸せになる権利もある』 「そうよ、あたしは、混ざりたいなんて思わない! 奪い取るの!」
脳内で聴こえた声は、自身のものか。 誰なのか何か解らない声が響いた、だが否定することなく大きく頷き、同意する。 心の奥底の願望を口にだし、誰かに肯定されて再度目の前の光景を見つめる。 なんて腹立たしい光景だろうか、激憤するしかない。 中心には自分に似て、非なるアサギ。 誰からも愛されて、不幸など何も知らずに育ってきたような、文字通り温室の姫君のような。 腸が煮えくり返る、唇を痛いくらいに噛締め、マビルは両手を突き出していた。
「天より来たれ我の手中に、その裁きの雷で我の敵を貫きたまえ。眩き光と帯びる炎、互いに呼応し進化を遂げよっ! 我の前に汝は消え行く定めなり、その身を持って我が魔力の贄となれっ」 大きく振り被って、稲妻迸る魔力を放出させる。憎々しげにアサギを睨みつけ、大嫌いだと叫びながら魔法を発動した。しかし、森の結界は容易く魔法を通さない。見えない壁に跳ね返され、一瞬逃げ遅れたマビルの身体に最大級の雷の魔法が直撃する。
「ぎゃんっ!」
身体中が痺れた、肉が焦げる香りがする、衝撃で遠くへ転がったマビルは、悲鳴を上げた。自負が強いマビルの魔力は、相当なものだ。まさか自身で味わう事になるとは、思わなかった。 泣き喚きながら、必死に地面を転がり治癒の魔法を唱え始める。痛みで上手く詠唱できないが、自慢の肌に傷が残ったら大変だ。マビルは身体中を砂だらけにしながら、覚束無い詠唱を苦し紛れに唱えた。 空を見上げる。発動した回復魔法に安堵し、涙を流しながら見上げた空は晴天。
「えへ、流石あたしの魔法ー……めっちゃ痛い、痛い」
空には、優雅に竜が飛んでいる。 アイセルから聞いていたドラゴンナイトであるらしいトビィの相棒なのだろう。黒と緑の竜が、軽やかに舞っていた。ぼんやりとその光景を見ていたら、不意に滲む。 再び、涙が溢れてきた。一体、自分は何をやっているのか。 傷が癒えたので、マビルは意気消沈しながらもアサギ達を見に行った。腹は減ったままだし、魔法は完璧に唱えた筈だが、まだ身体が痛い気がした。 治癒に時間を費やした為、すでに食事を終え、一同はボールで遊んでいる。 ボールすらも初めて見たマビルは、結界に手をあててその様子を食い入る様に見つめた。 円陣を組んで、レシーブでボールをまわす。ゴムで出来ているわけではないが、城内でボールを見つけたアサギがここまで運んできた。そして遊び方を説明し、皆で実践している。 流石に運動能力の高いトビィは何をしてもソツがなく、誰かが外したボールすらも全速力で取りに行くと、地面擦れ擦れでレシーブし、見事に上げる。その様に、アサギが手を叩いて喜ぶ。 無論、運動神経抜群のアサギも上手だった。 リュウも一通りこなし、活発なロシファもエルフの姫ながら華麗にトスした。アレクも意外と上手い。 魔王ハイのみが、身体を動かすことが苦手なのか、すぐに音を上げた。大きく肩で呼吸しながら、飛んでくるボールに悲鳴を上げる。
「ハイ、へったくそだぐー。ばかーまぬけーとんまー」 「や、喧しいっ! ぐふぅ、ごふぅっ、げほんげほん……むぅ、意外と難しいなこれ」
長続きしないので、ハイの両隣をアサギとトビィが固める。すると、フォローしながら、どうにか続けることが出来た。 皆の顔に笑顔が浮かぶ、こうして皆で汗をかくのは良いものなのだな、とアレクは感心した。
「なんだろうな、共に頑張ろうというこの感情は良いものだ。今度から魔族間でも、こういった行事を取り入れてみようか」 「あ、楽しそうですね! 運動会みたいです」 「運動会? 運動会とは……?」 「えっとですね」
アレクと会話しながら、アサギは運動会について皆に聞かせた。組に分かれて対抗し合うが、一人だけでは勝てない難しさ、他人と協力して共に勝利を得る充実感を話す。
「リレーならすぐにでも出来そうですよね。借り物競争も面白いですよ」 「アサギ、そなたの居た惑星は楽しそうなことが多々あるのだな。勉強になる」
マビルも見ていた、聞いていた。 知らないことばかりが目の前で繰り広げられる。何でも知っているアサギが羨ましい、皆に可愛がられているアサギが羨ましい。
『ほらごらん、あれのせいで”また”君は一人ぼっちだ』
頭の中で、声がした。最初は抵抗し、首を横に振った。一人ぼっちだと解っていても、他人に言われたくない。劣等感を他人に言われて、心をかき乱されたくないから、抵抗する。 しかし、頷きだした。
「うん、そう。確かにそう、あたし、一人ぼっち」
ギリリ、と結界に爪を立てる。それでも破壊できない、それが疎ましい。
「あ、ごめんだぐー」 「大丈夫ですよ、今とってきます」
ふと我に返れば、ボールが転がってマビルの足元に近づいてきた。どうやらリュウがレシーブして上げたボールが失敗し、ここまで来たようだ。 アサギがこちらに向かって走ってくる。 何故か一歩、後ずさったマビルは、それでもアサギを見ていた。 結界にあたって、跳ね返ったボールを、不思議そうにアサギは見つめる。 何もないのに、ボールが戻ってきた為だ。有り得ない。 アサギは妙に思いつつも、そっと拾い上げた。ボールを軽く動かして確認するが、何の変哲もないボールだ。 首を傾げながら、正面を見つめた。 マビルと、視線が交差した。 間近でアサギを見たマビルは、皮肉めいて笑った。確かに似ている、似ているが可愛いのは自分だと、踏ん反り返る。 すると、アサギは視線を逸らさないまま、手を伸ばした。ぺたり、と結界に手をあてる。それに驚いた様子はなく、ただ、マビルを見つめる。 驚愕したのはマビルだ、結界に触れながら、視線を逸らさないアサギに、何度も瞬きを繰り返す。 背筋が、凍った。 見えているのだろうか、偶然なのだろうか。思わずマビルは手を伸ばしていた、控え目にアサギの掌に重ねてみる。冷たい結界だが、何故かそこだけ暖かく感じられた。 じんわりと広がるものに、涙が込み上げそうになる。
「待ってて、必ずソコから出すからね」 「え……?」
マビルの身体が引き攣る、間違いなくそう聴こえた。 アサギが言った。 流石に狼狽した、震えながらアサギを見つめる。大きく息を飲み込む。 何か耳元で声がしていたが、アサギの瞳を見ていると聴こえなくなっていた。
「た、すけ、て」 「待ってて、必ずソコから出すから。大丈夫」
思わず、震える声を発した。 一筋の涙を溢して訴えたマビルと、見えない壁を隔てた反対側で同じ様に涙を流すアサギ。 『助けて』などと言うつもりなどなかった。だが、口から言葉が滑り落ちた。今、言わなければならない気がした。 ニ人の間の冷たい壁は、徐々に熱を帯びる。懐かしい温もりが、マビルの身体中を包んでいた。 アサギの瞳を、マビルは知っていた。脳裏に何か映像が流れる。
『降り落ちる雷の中、それでも佇む一本の大木の様に。地上に根を張り巡らす、堂々たる大樹。生命の源、全ての万物の恩恵。 凛と背筋を伸ばし、響き渡る心地良い鈴の音のような声。大地の、豊穣の娘。森を護りし精霊のような、いや、極めて神に近いような。 「おいで。貴女の居場所はここですから」』
マビルの身体が硬直する、アサギの瞳を知っている。遠い昔に見た気がする、傍にあった気がする。
「たす、たすけ」
震える声で、必死に訴えた。助けてくれる、きっと助けてくれる。 何故ならば、愛しい双子の。
『誰も助けてくれないよ、自分で前を向いて歩かなければ、また惨めな境遇が待っているだけだよ』
耳元で叫ばれた。 身体を仰け反らせ、マビルは結界から離れる。アサギから手を離す。大きく息をしながら、吹き出た汗を拭うと忌々しそうにアサギを見つめた。 急に心が冷めた、目の前で切なそうに哀しそうに泣いているアサギに、腹が立った。小馬鹿にしたように唾を吐き捨て、マビルは口を開く。
「ならさっさと助けて見せなさいよ! 何も、出来ないくせに。……あんたの居場所はあたしのモノ。いつかきっと、奪ってみせる」 『そう、そうすれば幸せが待っているよ……。その権利がある』
吼える様にそう叫び、マビルは長居は無用と森の奥へと走り去った。 あの場所に居たら、何か得体の知れない力の前に屈服しそうだった。アサギに飲まれかけた、雰囲気に飲まれ掛けていた。あれが次期魔王であるアサギの潜在能力だろうか、口元を拭うとマビルは池に飛び込み、身体を冷やす。 耳元で囁く、不思議な声がなかったら今頃……そう思うとマビルは身体を震わす。 さわさわと、森の木の葉が揺れている。哀しそうに、泣いていた。必死に必死に泣いていた。
キィィ、カトン。
「アサギ? どうした」
硬直したまま微動だしないアサギを心配したトビィが、迎えに来た。 泣いていたアサギは、慌てて涙を脱ぐとトビィに振り返った。泣き顔に驚いたトビィは、思わず抱き寄せると周囲を窺う。慌てて首を横に振るアサギは、申し訳なさそうに苦笑した。
「森が綺麗だからでしょうか、泣けてきてしまったのです」 「……そうか。なら良いが。さぁ、戻ろうか。そろそろ陽も傾くし、岐路に着こう」
名残惜しそうに微笑んだアサギは、トビィと手を繋ぐ。温もりを確かめながら、そっと振り返ると静かに瞳を閉じた。そして、開く。 森の木々たちが一斉にざわめいて、大きな風を巻き起こす中、アサギの大きな瞳は深緑色。
「どうかどうか、あの子を護って。すぐに迎えに行くのであの子をどうか」
再び瞳を閉じれば、黒い瞳のアサギは心配そうに顔を覗きこんだトビィにゆっくりと微笑んだ。 胸がざわめく、鳥肌が立つ。唇を噛締め、アサギはトビィの手を力強く握り返した。 さわさわさわ……木々が揺れる。懸命に揺れる。
ロシファを送ったアレクは、妙な胸騒ぎに思わず抱き締めた。 先程皆で楽しんだ後、夕食を中庭で摂った。その場にはアイセルもホーチミンもサイゴンも来ていて、屈強な仲間達がその場に集っていた。変革する魔界にとって、必要な人物達だ。 リュウだけが異質だが、アサギと親しく話している。目が離せないのだが、アサギがリュウを好いている事には違いないので、強引に引き離すわけにもいかない。 リュウの真意が見出せないことが不安要素である、他にも不気味な人間の女が脳裏を掠める。 楽しかったと言い合いながら戸惑うロシファに、アレクは腕を離さず。強い力で抱き締められ、ロシファは苦笑した。
「あらどうしたの、アレク? 泊まっていく? そろそろ子作りして、次期魔王候補のアサギちゃんに全てを委ねる?」
冗談交じりに告げたロシファだが、アレクは普段の様に照れて狼狽もせず、ただ抱き締めるばかりだった。流石に不審に思い、ロシファもそっと腕を身体に回すと、子に聞かせるように優しく撫でながら告げる。
「大丈夫よ、アレク。何がそんなに怖いの? 身体を震わしてとても怯えて」 「……嫌な予感がする。ロシファ、今すぐに城で暮らさないだろうか? 乳母殿も一緒に」
唐突にそんなことを言うので、唖然とアレクを見上げる。だが、冗談を言う男ではない事を、ロシファが一番良く知っていた。 アレクの顔色は、悪い。身体の震えと言い、何にそこまで恐怖心を抱いているのか。それでもロシファは、宥めた。幾ら何でも急すぎる、引っ越す準備も必要だ。 頑なに拒むアレクに、ロシファも手を焼いた。
「解ったわ、じゃあ、数日後に迎えに来て。荷物をまとめたいし、このまま無人にするわけにはいかないの。森の友達に言ってまわらないと。解るでしょう、アレク」 「……なら、明日だ。明日の昼に迎えに来る」 「早急すぎるわ、せめて明後日に」 「駄目だ、明日の昼だ」 「もぅ……じゃあ、明日の夕方ね、これは引き下がれない」
渋々それで了承したアレクに、ロシファは悪戯っぽく髪を引っ張り唇に口付けする。 手を振って離れた恋人達。 魔界の平和主義者である魔王と、その嫁となるべき魔族とエルフの混血の姫君。 まさか、これが最期の口付けになるとはニ人は思ってはいなかった。 アレクはどうしても妙な胸騒ぎがして、何度も振り返る。小さな島の、小屋の光が今にも、消えてしまいそうで。 そんなアレクを、いつまでもロシファは平素通りに見送っていた。柔らかに微笑み、多少困惑して。 魔界へ戻ってもアレクは眠れなかった。夜風に当たりながら、吐き気すら覚える不安に押し潰されそうだった。身を案じ、スリザとアイセルが静かに薬湯を運ぶ。 ありがたくそれを受け取り、幾分か心を落ち着かせると「どうせ寝付けないのだから」と、トビィを呼んで今後の話をすることにした。 アイセルが呼びに出向き、傍らで眠っていたアサギを断腸の思いでハイとリュウに任せると、トビィはアレクの部屋へと赴く。 アサギを連れて行きたいのは山々だったが、聞かれて良い話しでもない。 アレクは、トビィに語った。サイゴンもホーチミンも駆けつけ、全ての話を包み隠さずトビィに話した。 アサギは、次期魔王候補なのかもしれない、と。 トビィを育てた美しき魔族マドリードは、勇者を捜すために人間界に出向いており、快く思わない魔族と刺し違えたのだと。 アレクの願いは、この惑星クレオの平穏。人間も魔族もエルフも、全てが同種族の様に忌み嫌うことなく生活出来るように、強く望む。勇者であるアサギが次期魔王になれば、人間側も納得出来るのではないかと、と説いた。 トビィは聞きながら、軽く溜息を吐く。肩を竦め、迷惑そうにサイゴンを見つめる。
「大掛かりなことになってきたもんだ。オレはただアサギと居られれば良いだけなんだがな?」 「アレク様に賛同する魔族が多いが、そうは思わない輩もいる。先日は人間の女が城に紛れ込んでいた、トビィも注意して欲しい。狙ってくるならアサギ様をだろうから」 「目障りなんだろうな。……となると、オレとしてはそんな物騒な場所にアサギを置いておきたくないのが本音だが?」 「そう言うと思っていたが、堪えてくれ。アサギ様は魔界、いや、世界にとって必要なお方なのだ、きっと」 「オレだけのアサギでいればいい。……が、アサギを護ることに代わりはないから、とりあえず様子見で」
渋々だが了承したトビィを、心強く眩しそうに見つめたアレクは、そっと手を伸ばす。怪訝な顔をしながらも、トビィは握手に応えた。 それでも心は晴れず、杞憂だと言い聞かせるアレクは、再び窓から外を見つめる。ふと、不気味に輝く大きな赤みを帯びた月に言葉を失った。
「妙な月だな、気味が悪い」
気付いたトビィがそう吐き捨てる、不安そうにホーチミンが身体を震わせればサイゴンが肩を抱いた。唇を噛締めたスリザを、アイセルが抱き締める。 魔界から見える、その大きな月を、時の現魔王とその臣下達は見つめていた。
「ッ、は、ぁぁぁっ!」 「アサギ!?」
その頃、アサギが悲鳴を上げて仰け反ったので、ハイとリュウが飛び起きる。正確にはリュウは眠っていなかった、アレク達と同じ様に月を見ていた。ベッドからでも見える月は、窓を隠すように不気味な光を発してリュウを嘲笑うかのようだ。 悲鳴を上げたアサギを揺さ振るハイとリュウは、互いに顔を見合わせる。アサギが身悶え、苦しそうに暴れているが何が起こっているのか解らない。誰かを呼びに行くか、それとも、魔王がニ人、寄り添っていたほうが良いのか。 のた打ち回るアサギを半泣きで必死に解放しようとしているハイに、流石にリュウも焦る。 何が起こったのか、いや、何もしていない。 リュウは舌打ちすると窓から叫ぶ。呼び声に応えたのは、ケルトーンとリングルスだった。アレク達を呼びに行くように指示し、直様顔を引っ込めたリュウは懸命に回復魔法を唱える。 騒ぎにエレンも窓から飛び込んできた、苦しそうなアサギを見て青褪めると、応援するかのように寄り添う。 やがてアレク達が駆けつけると、トビィがハイを跳ね除けてアサギを抱き締めた。痙攣を起こしていたアサギだが、徐々に収まり、静かにトビィの腕の中で力なく倒れる。 寝息を立て始めたアサギに、皆は安堵しその場に座り込んだ。 一体何があったのか。 状況を説明するハイだが、聴いたところで全く解らない。悪夢でも見ていたのだろうか、とアイセルがアサギの額に手を当ててみる。
「新手の呪術かしら……、あの人間の女がまた何か」
怒りに震える声でホーチミンがそう舌打ちし呟くと、アレクも同意する。 月はまだ、不気味なまま窓に浮かんでいた。 太陽はまだ姿を見せない、月はぼんやりと白くおぼろげにそこにいる。気が狂いそうな時間を待った気がしたが、朝にもならない。 どうしても不安が拭いきれず、アレクは夕方を待たずに直様ロシファを迎えに行った。もし、用意に手間取っているのなら手伝えばいい。共にいれば良い、そう思った。 辿り着いた静寂の小島は、鳥の鳴き声すらなく。風すらなく、不気味な生暖かい風が、身体に纏わりつく。 アレクの脚が、早足になる。異常だった、神聖な島にこんな不穏な空気が流れていたことなどない。どこか違う島に来てしまったようだ。 草を踏む音が妙に大きく聴こえる、息が荒くなる。 勢いよく小屋を開く、蝋燭はほとんど溶けているが、灯りはついたままだった。 名を呼ぶが返事がない。 焦ったアレクは、小屋を飛び出し走り回った。 夜更けに何処へ行ったというのか、まさか挨拶回りでも始めているのか。 寝静まっているのか動物にすら逢わないアレクだが、理解した。 立ち止まると、胃から込み上げた吐き気に耐えられず、嘔吐する。 動物達の、死骸が点々と路に転がっていた。首を切られている鹿の親子、内臓を引きずり出されている兎の家族、眼球がない梟、四肢が切断された栗鼠、翼を切り落とされた水鳥達。 夥しい血液が地面に染みていた、狂気の光景にアレクは眩暈を起こしながら懸命にロシファの名を呼ぶ。 風がない、木々が鳴かない。心なしか、豊かなはずの緑の葉が散っている気がする。 不気味な月を背にして、顔中に動物達の血痕をつけた男が一人立っていた。崖に立っていたその金髪の男は、アレクを見て下卑た笑いを繰り返す。血に塗れた腕を月に伸ばして、愉快そうに血走った瞳で高らかに笑った。 誰だか解らなかったが、アレクは瞳を細めようやく記憶と一致させる。 ハイの傍らに居た、悪魔だ。ハイと共にやってきた沈黙の男、ハイ以外に心を赦す様には見えなかった男。 何故その男がこの場にいるかよりも、大事なことがある。 ロシファがいない、ロシファは何処だ。 アレクの髪が、ゆらりと宙に舞う。地面から湧き出る熱風が、アレクの身体を押し上げる。
「ロシファは何処だ」
笑い転げている悪魔テンザはそれには答えず、軽く跳躍するとアレク目掛けて俊敏に飛び掛る。長い爪先を煌かせ、大きく開いた口から火炎の息を吐いた。
「ロシファは何処だと訊ねている!」
普段からは予想もつかないアレクの咆哮に、テンザも一瞬躊躇した。ひ弱な優男かと思っていたが、目の前から掻き消えたアレクは次の瞬間後ろから蹴りをかましてきたのだ。 倒れたテンザの首に、冷たいものが宛がわれた。冷たく銀色に輝く剣だ、所持していなかったところを見ると、異空間から取り出したものか。 笑い転げているテンザに舌打ちすると、アレクは必死にロシファの名を呼ぶ。不意に動物よりも大きな何かを地面に見つけ、無我夢中で駆け寄った。
「なんということだ!」
そこには、ロシファではなく乳母が居た。 頭を割られ、脳みそを食われたのか。瞳と鼻から血を流し、切り開かれた腹からは内臓が引きずり出されている。手首、足首は切断され、首にも切り口があった。辛うじて繋がっているが、ほぼ胴体のみになっている。周囲には、部位が散らばっているが皮膚が剥がされていたり、齧った形跡がある。
「き、奇行に走ったか、テンザ!」
振り返ったアレクの目の前に、奇声を発して飛びかかってきたテンザ。血走った瞳はもはや正気ではない。食い散らかしていた為か、開いた口から血生臭い香りが漂った。 思わず身を護る為に、アレクはテンザの額に剣を突き刺していた。突き刺した瞬間に、舌打ちする。 正気に戻さねば、ロシファの居場所を問い出せない。 避けることなく突っ込んできた為、剣は深く突き刺さった。骨に達した剣が、一気に砕く。眼球が飛び出した、笑みを浮かべて痙攣しているテンザから一気に剣を引き抜くと、地面に崩れ落ちたその首を掴み、揺さ振った。
「ロシファは! ロシファは何処へ行った! 何が目的だ!」
返答しないテンザは、こと切れただろう。 しかし妙な胸騒ぎが止まらず、アレクは剣を構えると数歩後ずさる。背筋が凍る、心臓が爆発しそうだ。 時の魔王は、怯えていた。 崖の上に、何か気配を感じ振り返れば。
「ロシファ!」
月に浮かぶ、美しい黒髪の女が高笑いしていた。大事そうにロシファを抱えて、アレクを優越の笑みで見下ろしている。 あれが、アイセルが目撃したスリザを奇襲した人間の女であると、直様理解したアレクは、吼えながら女目掛けて浮遊するが、身体が一向に進まない。 エーアとの距離が縮まらない。 焦燥感に駆られて脚を見れば、何か絡み付いていた。 驚愕の瞳で見下ろした先には、テンザの身体がある。テンザの身体から、不気味に塗れて糸を引くヘドロ色した触手が数本、湧いていた。意志があるのかないのか、それはうねうねと気味悪く動きながら、アレクの身体に忍び寄った。 その一本が脚に絡み付いているのだ。 寒気がしアレクは、剣を振り下ろす。が、柔軟性があるのか剣を受け止めて押し返してきた。テンザの身体が不気味に震えれば、腹がゆっくりと蠢き、大きな口がぱっくりと開いた。その腹の口からこの触手は出てきていた、舌なのだろうか。 アレクは火炎の魔法を詠唱し、口に叩き込む。ついで雷を呼び寄せ、落とした。焦げれば異臭を放つ、鼻がもげそうな香りに目が霞む。
「ふむ、足止めにはなったわね。魔王を足止めしてくれて有難う、愛しいテンザ様。これでこそ、血を与えた甲斐があったというもの」
おぞましい光景をものともせず、緩やかにエーアは微笑んだ。ミラボーの従順な手先は、満足そうにそう呟くと、腕の中に居るロシファの頬を舐める。 頬には、切り口。切り口から滲んだ血痕が、エーアの身体に入り込んだ。 恍惚の笑みで身体を震わせたエーアは、ロシファの名を呼ぶアレクに容赦なく杖を向ける。 大きく風が舞う、高い笑いするエーアの姿を、泣き叫びながらアレクは睨んだ。自分目掛けて放たれた最高位の風の魔法を、必死に避ける。 島の木々が荒れ狂い、薙ぎ倒され、動物達の亡骸が宙に舞う。
「ロシファ、ロシファー!」
魔王アレクの絶叫は、無残な島に響き渡り。 瞳に輝きを失ったアレクは魔界に戻ると、悲鳴を上げて駆け寄ってきたスリザに助けられた。「ロシファが、誘拐された」 血塗れのアレクに皆が青褪め、一言そう呟いて意識を失った後、サイゴンが怒りの形相で城を飛び出す。 トビィに抱き締められながら、震えるアサギは呟いた。「ごめんなさい、助けられなくてごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、どうしよう」トビィはそんなアサギをただ、抱きしめる。 魔王アレク、失意。 魔界が、揺れた。
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