一夜明けた。 大きなベッドの上には、アサギを護るように抱き締めて眠っているトビィと、控え目にアサギの寝間着を掴んで眠っているリュウが。 そして結局ベッドから蹴り落とされ、床で眠って居たハイがいた。 目が醒め、アサギが何度か瞬きをする。重い瞼を持ち上げて、凝視してみれば目の前には男性の胸板があった。逞しくて、妙に色香がある。一瞬目を大きく開いたのだが、鼻をすすると安堵したように微笑し、再び眠りに入る。 知っている香りだった、随分と昔から傍にあった香りだ。腕のぬくもりも知っている、これは安全な領域だと判断した。だから、すんなりと眠りに戻った。 陽射しが、室内に入り込む。暫しその部屋は、静寂で包まれていた。 その為、魔王アレクが訪ねて来ても、誰も起きてはいなかった。寝心地の悪さと寒さで、呻きながらハイが起き上がらなければ、この計画は先延ばしになっていただろう。 来訪者に気づき、ハイが寝癖がついた髪のまま出迎える。無視しようと思ったのだが、けたたましくドアを叩かれたので渋々だ。「はいはい、どちらさまかね」大きな欠伸をしながらドアを開くと、身なりを普段通りにきちんと整えたアレクが立っている。軽く室内を覗き込んだアレクは、まだアサギが眠っていることに気がついた。多少眉を顰める。
「すまない、起こしてしまっただろうか」 「いや……気にするな。昨夜皆で結構暴れたのでな、眠くてかなわん」
大きく伸びをしながら、だらしなく欠伸をするハイ。 『昨夜暴れた』とはなんなのか気になったが、アレクはあえて突っ込まなかった。軽く瞳を細めただけである、目の前のハイは思い出したのか不愉快そうな表情で歯軋りしていた。 軽く咳をし、アレクは用事を切り出した。回りくどいことは苦手である。
「本日、ロシファを迎えに行く。その後、よければ皆で出かけないか?」 「ふむ、親睦会か!」 「昼には目的地に到着したいから、皆を早急に起こして欲しい。昼食はこちらで用意しよう」
アレクが去ってから、ハイはリュウを掴んでベッドから放り投げた。トビィも同じ様に掴んで捨てるつもりだったのだが、遅かった。気がつけば剣先を突きつけられていたのだ。不敵に微笑んでいるトビィと視線が交差し、ハイは腸が煮えくり返り、ギリギリと音が外部に聴こえる程歯軋りをした。 まさか人間の、それも年下の男に一時でも捻じ伏せられるとは。仮にも魔王である、本来ならば許してはならない。自分の威厳に関わる。 火花散らす真下で、ようやくアサギも目を醒ました。トビィに頬を撫でられ、気持ち良さそうにまどろむ。
「くっそぅ、兄っていいなぁ」 ハイが呟き、指を咥えてそれを見つめるとトビィが鼻で笑った。 無様な敗者の姿を見ていると、優越感に浸れる。非常に愉快だ。しかし「良くない時もあるけどな」とトビィは小声で付け加えて、小さく溜息を吐いた。 目の前の無邪気な小悪魔には、嬉しいことでもあるが手を焼いている。無自覚なので、性質が悪い。誘っているようで、全く誘っていない。異性として認識されていないような気がして、多少遺憾である。 冷たく硬い床に叩き付けられ、ようやく起き上がったリュウも含め、ハイはアレクが訪ねて来て、本日出かけようと誘われたことを伝えた。 はしゃぐアサギとリュウは、手を取り合って歓んでいる。 アサギは全く警戒していないが、ハイはその様子を不審に見つめる。リュウの態度は、曖昧だ。アサギに対して稀に攻撃的になる、かと思えば友好的にも。 今更だが得体が知れない。 トビィとて、目を光らせた。リュウについては”飄々としており、何を思案しているのか把握出来ない、最も厄介な人種”だと判断している。 そんなニ人を嘲笑うかのように、アサギと手を叩きながら微かにリュウは口角を上げた。 「お弁当を持って行くのですか? ……楽しそう! あ、私も作ろうかな、作れるのかな」
何気なく呟いたアサギのその一言に、気を張り詰めていた三人が一斉に反応する。アサギの手料理、など聴いただけで興奮してしまう。 ハイは手料理を食べたい一心で、アサギに縋るような視線を送る。それはもう、血走った眼で。 リュウも懇願するような視線を送った、興味がある事は間違いない。 トビィは「美味しいからな、是非食べたいもんだ」と、アサギに微笑む。
「な、何をつくろうかな。きっと勝手が違うから……」
三人の視線を受け、狼狽しながらアサギは微笑する。まさか、ここまで過剰に反応されるとは思わなかったのだ。 母を日頃から手伝っていたアサギにとって、料理は他愛もないことなのだが、何しろここは地球ではない。人様の自宅へ行って作ることも難しいというのに、調味料や食材が違うであろうこの場所で、何が出来るのかを考えた。
「卵焼きと……から揚げとかなら出来るかな。お米があればおにぎりも作れるけど……」
期待されているようなので、アサギは必死に思案した。思いつく限りの、出来そうな料理を口にしてみる。 聴くなりハイは、部屋を飛び出しホーチミンを捜しに出掛けた。食通で、食材に詳しそうな人物だったからだ。仕事中のホーチミンを無理やり抱えて戻ると、アサギの前に引き摺り出す。 当然事情が飲み込めていなかったホーチミンは、引き攣りながらハイを睨みつけた。申し訳なさそうに恐縮したアサギが、簡潔に事情を説明する。ようやくそれで事情を理解したホーチミンは、アサギの頭を優しく撫でた。 アサギが悪いのではない、悪いのはハイだ。 まぁ、美少女の華奢な指で作られた料理を食べたいと思うのは、男の性か。解らないでもなかったので、ホーチミンはアサギに免じてハイを許すことにした。 いつもの通い慣れた食堂に連れて行き、厨房に勝手に入っていくと話をつける。唐突な申し出に、ホーチミンに断ろうとした厨房の者達だが、後方にいた人物達に目が点になった。 勇者アサギと、魔王がニ人に、人気のドラゴンナイト。 これは拒否できない。 厨房の皆は機嫌を損ねないように、早急に準備をするしかなかった。半強制である。厨房の一角が貸し出され、アサギの望んだ食材がずらりと並べられた。 ホーチミンは仕事を途中で放り出してきたので、断腸の思いで戻ることにし、早々にその場から去る。アサギの作る料理が楽しみだったのだが、仕方がない。 アサギはレースも刺繍もされていない、至ってシンプルなエプロンを貸してもらうと気合十分に料理を始めた。 何処の世界でも男はエプロンに惹かれるものなのか、ハイは至極満面の笑みでアサギを見つめている。それはもう、気持ちが悪いくらいに。 手際よく卵を割りほぐし、砂糖に牛乳、多少の塩を入れて混ぜ合わせ、フライパンでたっぷりのバターを溶かす。熱されたら卵を流し入れて、そのまま器用に広げると、片手でフライパンを上手く調整しながら焼き上げていく。 甘くてふんわりとした香りが漂い始めた。 何時の間にやら観客が増えており、その無駄無き動きに、皆感嘆の溜息を漏らしている。時折拍手まで起こった。 「スープが飲みたい、美味しいからな。野菜の味を十分に引き出すし、何より捨てるような部分も惜しみなく調理する」
トビィは微笑しながらアサギを見つめる。 以前助けられた時に、毎食飲ませてくれた野菜が溶け込んだスープが忘れられない。 だが、今回は弁当なのでスープを作ることはないだろう。トビィは残念そうに肩を上げて苦笑し、忙しなく動くアサギを見た。 目の前に、何処かの情景が広がる。
『歌声で、目を醒ました。食欲をそそる香りが鼻につき、空腹を覚える。上半身を起こし大きく伸びをすると、傍らにかけてあった衣服を羽織ってベッドから降りた。 「ごめんなさい、起こしちゃいました?」 「……、敬語だ」 「ぁ……えっと、訂正っ。”ごめんね、起こしちゃった?”」 朝食の準備をしていた彼女は、振り返ると悪戯っぽく笑った。小さく吹き出すと笑い返し、近づいて髪を撫でながら口づける』
トビィは眉を顰めた、今のはなんだったのか。知っている記憶に思えた、しかし。 以前アサギが助けてくれた時、確かに部屋に食事を運んでくれていた。だが、料理をしていた姿は観ていない。 けれども、何故かアサギが自分の為に料理をし、それを一緒に食べた記憶がある。 一瞬、目の前が真っ暗になった。吐き気を催し、トビィは焦って壁にもたれこむ。心配そうに誰かが声をかけてきたが、首を振って軽く右手を上げた。大丈夫だ、と言いたかった。
「なん……だ、今の」
荒い呼吸を繰り返す、エプロン姿で懸命に料理しているアサギを見つめると、胸が痛む。キリリ、と軋む。
「……大丈夫だ、直に夢は現実になる」
虚ろな瞳で、トビィはそう呟いた。脳裏に甦るのは、恋人のような、いや夫婦のようなニ人。遠くない未来の筈だと、そう思った。自分を見つめ、自分と歩むアサギの姿だと。 届けられた水を一気に飲み干すと、幾分か冷静になれた。身体中からドッと噴き出した汗が、べたついて気持ち悪い。 額を拭い、再び瞳を閉じる。 浮かび上がるのは、愛しいアサギの姿。護るべき、愛しい女の姿。 トビィは、何度も呟いた。「大丈夫だ」と。 顔色の悪さに水を差し出したのは、ハイだった。放っておけなかった、幾ら恋敵でも、だ。
アサギは卵焼きとおにぎり、そして鶏肉の塩焼きを作った。米が日本こめと違い、形が微妙に細長いがおそらくは米である。梅干しや昆布の佃煮を具にしたかったが生憎なかったので、焼き鮭にしておいた。海苔がないのも残念だが、仕方がない。 アサギの料理以外にも、厨房の別の一角でアレク発注による魔王達の弁当が作られていたので、合わせると豪華な品数になった。 出来上がったところでアレクとロシファが現れ、弁当を抱えて一行は城を出る。 魔王勢が揃い、皆が足を止めて平伏した。まさか親睦の為、皆で食事をする為に外出するのだとは、誰も思わない。
「ロシファ様、こんにちは!」 「アサギ、こんにちは。今日は宜しくね」
微かにロシファはリュウに視線を送ったが、今のところ不審な動きはしていないようだ。それでも今日も見張らねば、と意気込む。 次いで、アサギの傍らのトビィに視線を向けた。話に聞いていた、人間のドラゴンナイト。ようやく姿を見ることが出来たと、瞳を細めて観察する。
……不思議な取り合わせだこと。
ロシファは、唇を尖らせるとアレクの腕に抱きつき歩く。些か照れながら早足になるアレクに、苦笑した。 違う惑星の魔王が三人、人間が三人で、片方は勇者。そして魔族とエルフの混血である自分。客観的に見ても、なんだか妙な組み合わせだ。 「運命は、動き出したのね」
ロシファは、アレクの腕をきつく掴んでそう漏らした。 吉と出るのか、凶と出るのか。
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