救いようのない悲恋話だった。 読み終えると、ホーチミンは顔を顰めて本を睨み付ける。何故、このようなものが棚にあったのだろう。 小説には魔力を駆使している人物が描かれていた。巨大な氷柱を出現させた男と、地中から火柱を上げ、浮遊しながら火炎を纏っていた男 もし、この小説と同じような魔法が存在するとしたら、棚に置いてあってもおかしくはない。それこそ禁呪レベルだが。身体を浮遊させ火炎を投げつける程度ならば、ホーチミンとて可能だ。だが同時に何本もの火柱を上げさせることは不可能だ、魔力が追いつかない。
「まさか、これをアサギちゃんに教えろだなんて言わないわよね、この本」
取得出来れば即大幅な攻撃力増加に繋がるが、そもそも火がアサギのイメージではないと思った。どちらかというと火よりも水を連想させた。 だが根本は、水を受け止める大地を彷彿とさせる。 寧ろこの小説において気になったのは”アリア”という娘だった。「アリアちゃん」名を呟く、小説に挿絵などついておらず、髪の色も瞳の色もアサギとは違うのだが、引っかかった。胸がざわめく、得体の知れない予感が這いよる。 そして問題の双子だ、その弟の容姿を、ホーチミンは何処かで見たような気がして腑に落ちない。暫し考え込み、髪の色と瞳を思い出したところで頷いた。
「あー、トビィちゃんね! 色が同じだわ。美形で長身だし、剣にも優れてる。水の魔法を操る事は出来ないけれど」
苦笑いし、ホーチミンは本を元の場所に戻した。肩を竦めて、妙に疲れた肩をまわして解す。
「アサギちゃん本人に選んで貰おうかしら、そのほうが手っ取り早いわよね、やっぱり、うん、そうしましょう」
納得すると図書館を立ち去る、自分が習得していない魔法を選ぶなど、やはり無謀だった。ただ人間がこの図書館に立ち入ることが出来るか解らなかったので、足を運んだ。ハイとアレクの力添えがあれば、アサギの図書館立ち入りも可能になるだろうと憶測し、何処へ行こうか思案する。 結局、収穫はサイゴンと口付けをしたという事実だ。けれども、それがホーチミンにとって何よりの収穫になった。今日もアサギは庭で訓練に励んでいることだろうと、ホーチミンの足先はそちらに向かう。 しかし、気にはなっていた。先程読んだ、不可解な小説が。
その頃庭ではサイゴンとアサギがトビィについて語っているところだった、まさかの展開に目を白黒させている。
「……何やってるんだ、アイツ。最近姿を見ないと思ったら」 「まさか、トビィお兄様がドラゴンナイトでサイゴン様達とお友達だったなんて。奇妙な偶然ですね」 「えぇ、全く。でも、元気そうで安心しました。人間界よりも魔界のほうが肌に合うと言う様な奴だったので、帰宅が遅いと皆で心配していたんですよ。アサギ様が居たから、帰ってこなかったわけですね。……とすると、今こちらに向かっていたりするのかな」 「あの、トビィお兄様はドラゴンを連れていなかったのですが、どこかに待機しているものなのですか?」 「……へ? いや、そんな筈は」
サイゴンは素っ頓狂な声を上げる、アサギの話が嘘としか思えなかった。
「オフィーリアは水がないと活動が出来ないので、何処かで待機していたかもしれませんが。デズデモーナとクレシダは常にトビィの上空にいると思いますよ。トビィに従順です、互いに絆で結ばれているので」 「上空に、ですか? えと、いなかったと思うんです」
思い返してみても、トビィの周囲に竜が居たようには思えない。もし近くに居たのならば、トビィが紹介してくれているだろう。そもそも野営の際に魔物の襲撃を受けた際も、空中からの援護はなかった。 腑に落ちないアサギだが、それはサイゴンとて同じだ。 そうこうしていると、ハイとアレクが戻ってきた。一礼してサイゴンはアサギから剣を受け取ると、すぐさま離れる。剣の稽古は終了の合図だ、アサギは多少残念そうに、軽くサイゴンに苦笑いする。
「ただいま、アサギ。何もされなかったかね?」 「おかえりなさい、ハイ様。サイゴン様とお話をしていました」
さらり、とアサギは返答した。サイゴンは知らず安堵の溜息を吐く、剣を教えたことが”何かしたこと”に値するならば、サイゴンは極刑である。アサギと秘密を共有することも、極刑ものかもしれないが。 サイゴンは深く一礼をすると、その場から抜ける。最早あの場に、自分の存在意義などない。極秘任務に戻り、スリザ襲撃の犯人を捜さねばならなかった。アサギの腕を見ていたかった心残りはあるが、またの機会を願うしかない。 先程までアサギが手にしていた自分の剣を片手で持ち上げ、軽く手首を使ってまわす。自分の慣れ親しんだ剣だった、特注品である。それを、アサギはいとも簡単に扱っていた。まるで、自分の所有物の様に。 本来ならば、この剣は意思があるのか持ち主以外の者が触れると、何らかの反抗的な態度を取る。大体は上手く振り下ろすことが出来ないのだ、思った場所へ剣を下せない。トビィはサイゴンの弟のようなものだったので、剣も知ってか短時間で気を許したようだが、アサギに到っては何故だろう。 人間の勇者、というだけでこの剣が従順になるとは思えなかった。
「なんだ、お前もアサギ様の美しさに囚われたのか?」
冗談めかしてサイゴンは剣に語りかけると、喉の奥で笑い鞘に収める。魔界の大地に眠っていた鉱石が装飾されているお気に入りの剣は、当然何も言わない。
「あ、見つけた! サイゴーン!」
前方からの声に、思わずサイゴンは尻込みした。ホーチミンだ、数時間前口付けしてしまった幼馴染である。思い出し赤面するが、咳をしながら軽く片手を上げる。 意識しているのはサイゴンだけなのか、ホーチミンは平素通りだった。少し、がっかりした。
「よ、よぅ」
挙動不審なサイゴンに先程を思い出したのか、ここへ来てホーチミンも軽く頬を染めて俯く。ニ人して恥じらい、身体を左右に揺らした。気まずい沈黙が流れる、それでいて何処か甘酸っぱい気がする。 傍から見たら、微笑ましい光景だった。互いを意識し合って、言葉が出てこない様子は初々しい。じれったいが。
「あ、あのね。あの後図書館に戻ったのだけど」 「あ、あぁそうか、あの後に戻ったのか」 「そ、そう、あの後に」
あの後とは、もちろん口付けのことである。ニ人は視線を泳がせ、爪先で地面を弄り出す。
「あ、それでね」 「そ、それで? あの後に何か?」 「う、うんあの後に」
会話が進まない、通り過ぎる魔族は首を傾げて通過していく。 サイゴンがホーチミンの顔を戸惑いがちに見ると、唇がどうしても目に入る。そして、赤面して堂々巡りである。ホーチミンとてそれは同じだった、直視できない。
「……ら、埒があかない! サイゴン、図書館へ来て!」 「お、おぅ」
ホーチミンは強引にサイゴンの腕を取ると、再び来た道を戻った。アサギの様子を見たかったが仕方がない、先程の小説が脳裏から離れない。戻れと言っている気がした、軽視するなと囁かれた気がした。 誰にかは解らないが。
「アサギちゃんは?」 「さっきまで剣の稽古をしていた、今はアレク様とハイ様と一緒だ。俺はそこで離脱したからな、今頃は魔法の特訓でもしてるんじゃないかなー。あ、そうそう! 聞いて驚くなよ? アサギ様、トビィと知り合いだったんだ。魔界へ来るまでトビィと行動していたらしい、すんごい偶然だよな。おかげで安否の確認が出来たけど、アイツの事だから今こっちに向かってそうだろ。もうすぐ会える気がする」 「……知り合い、なの?」
楽しげに笑って話すサイゴンに、ホーチミンの足が固まったように止まるった。顔が強張っているが、サイゴンからはその表情を見ることが出来ない。
「驚きだろ? ”トビィお兄様”って呼んでた。いいなぁ、お兄様って響き。俺もあんな可愛い子にそう呼ばれてみたいなぁ」
瞳を細めて天井を見つめ、笑みを浮かべるサイゴン。だがホーチミンは鋭い悲鳴を上げて再び、駆け出す。急に強い力で引き摺られ、サイゴンは転倒しそうになった。
「な、なんだよ」 「いいから、来て! 見せたいものがあるのよっ!」 「図書館に? 俺は魔法の事なんて解らないぞ?」 「魔法じゃないのよ、小説なのよっ!」
ホーチミンの顔に焦りが浮かぶ、先程の小説が脳裏に甦っていた。 『落ち着いて、アリア。昔の様にオレの名を呼んでごらん、大丈夫だ、オレは何処にも行かないから』 『……トバエお兄様』 偶然にしては出来すぎていないだろうか、アサギを彷彿とさせる少女は、トビィに似ている男を”お兄様”と呼んでいた。アサギがトビィと知り合いでお兄様と呼ぶなどと、そんな偶然あるのだろうか。 怒涛の勢いで図書館に入ったホーチミンは、怪訝な顔をしている管理人を突き飛ばし、先程の棚へと急ぐ。後ろで何か喚いていたが、無視して進む。
「魔法を探していたんじゃないのか? なんだよ、小説って」 「小説なんてあるわけがない棚に、題目がない小説があったのよ! そこに書かれている人物が、アサギちゃんとトビィちゃんにそっくりなの! ……そのアサギちゃんに似た女の子が”お兄様”って呼んでた、そんな馬鹿な話があると思う!? 違う箇所があるとすれば、その子の髪と瞳の色だけね。女の子は緑だったわ、アサギちゃんは漆黒だけど、それを差し引いても偶然とは」 「緑?」
思い過ごしだと苦笑していたサイゴンだが、一つの単語を聞いた瞬間に硬直する。閑却していたが、そうもいかなくなった。 突き進んだホーチミンは、先程まで佇んでいた棚に手を伸ばした。だが、唖然とその手を止め震え出す。
「な、い」
掠れた声が、周囲に響いた。自分が棚に戻したはずの、あの不気味な小説がなかった。奇妙な事に、棚には書物がきちんと並んでいる。もし誰かが一冊抜き取ったならば、そこに隙間が出来るはずだ。しかし、他が入る余裕などない。
「ない!? そんな馬鹿な、私はちゃんとここにっ」
追いかけてきた管理人の胸倉を振り向きざまに掴んだホーチミンは、有無を言わせず怒鳴り散らす。嫌な汗が全身から吹き出した、悪寒が走る。
「ちょっと、あの小説何処にやったのよ、誰が持って行ったのっ」 「落ち着いてください、貴方の後にこの棚を訪れた者は一人もおりません。本当です、貴方で最後なので本が移動している筈は」
その言葉にホーチミンの動きが止まった、薄々は気づいていたが確認してみたかっただけだ。混乱気味のサイゴンは狼狽し、ただ見守るしかない。
「じゃ、じゃあ、ここにないとなると……私が見たあの本はなんだったの、よ……」
小さく零した、隙間がないのならば”最初からなかった”ということになってしまう。「夢でも見たのでしょう」と管理人は囁くと、脱力し呆然と突っ立っているホーチミンの肩を叩いた。迷惑だとばかりに大袈裟に溜息を吐くと「そもそも小説がこの棚にあるわけがありません」と言い放つ。管理人は、絶対の自信を持っていた。自分達の管理が杜撰だと言われたようで、立腹している。 けれども、確かにホーチミンは先程この場所で小説を読んだ。表紙には何も描かれていなかったことも憶えている、重さも忘れていない、夢ではない。 サイゴンに引き摺られて、項垂れたままホーチミンは図書館を後にした。 白昼堂々と、幻覚を見たのか。震え、青褪めているホーチミンを見ているとサイゴンとて胸騒ぎがする。放心状態のホーチミンをとりあえず食堂に連れて行き、何か飲ませることにした。 食堂で紅茶を口にしたニ人だが、訴えるような瞳でホーチミンが見つめてきたので直様飲み干し場所を移動する。すでにホーチミンの瞳に躊躇などなく、鋭い光が戻っていた。切り替えが早かった、いや、早く戻らねば取り返しのつかないことになる気がした。 人目を避けるようにニ人は黙々と歩き、アサギの部屋の前に到着する。ノックをするが返答はない、陽は落ちているがまだ庭だろう。それとも、夕食の為食堂へ出向いているか。 ホーチミンは壁にもたれかかると、ぽつり、と話し始めた。あるわけもない場所に存在した、奇妙な小説の話を。 アサギとトビィに似たニ人が登場したこと、名前とて、似ていたこと。違った点は、アサギの髪と瞳の色であること。静かに聴いていたサイゴンは、瞳を伏せた。胸騒ぎがしていた点があるからだ、アサギに似た少女の髪と瞳の色が”緑”であったという箇所。 次に魔界を統治するという予言の娘は、”緑”となっている、今のアサギは黒髪なのだがもし緑であったならば。 一致してしまう。そもそも、魔力を有するホーチミンが見たという点で、それは何かしらの糸によって手繰り寄せられたものだと痛感していた。他の者ならば、辿り着けない気がした。
「アサギ様の髪と瞳の色が緑であったならば……全ては」
爪を噛みながら思案しているホーチミンを横目で見ると、サイゴンは口を噤んだ。スリザの件も含め、やはりホーチミンに全てを話すしかなさそうだった。 幼馴染の、女性のような容姿の男。美しく明るい大事な友人を、面倒事には巻き込みたくなかった。
「私、怖いわ。途轍もなく強大な何かに……引き摺られているみたい」 「落ち着こう、ホーチミン。大丈夫だ、皆で解き明かそう。俺達二人だけじゃない、心強い仲間がいる」
腕に爪を立て、震えを止めようとしていたホーチミンの身体を、そっとサイゴンは抱き締めた。驚愕し、瞳を丸くしてサイゴンを見上げるホーチミンだが、そこには照れも何もない真っ直ぐな瞳があった。
「大丈夫だ、大丈夫だよ」
大きな胸に安堵しつつも顔を赤らめる、嬉しいのに素直にしな垂れることが出来ない。以前こうして抱き締められたのは随分と昔だった、まだ幼い頃だ。あの頃、幼馴染の友達として育っていた二人の少年は、恋愛感情など持ち合わせることなく、親友としてこうして包容を交わしたものだ。 それが、ホーチミンが恋心を抱いた事により、消えてしまう。女になりたいと願った幼馴染に、素直に順応できるほどサイゴンは柔軟な脳をしていなかった。 久し振りに懐かしい香りと温かみを間近に触れたホーチミンは、大きく息を吸い込み瞳を閉じる。
「ミン、大事な話がある。覚悟を、決めてくれ」
魔界に忍び寄っている渦中に、ホーチミンを巻き込みたくなかったサイゴン。幼馴染の親友であったならば、直様協力を申し出ていた。頼れる存在は、優秀な魔法の使い手だ。 だがサイゴンの中で、ホーチミンは幼馴染の親友ではなかった。 その腕の中で、迷うことなくホーチミンは頷き唇を真一文字に結ぶ。
「トビィは、間違いなくこちらに向かっているだろう。あいつが戻れば心強い、何よりアサギ様とて安心するだろう」
大事な人は、巻き込みたくない。何も知らずに、笑っていて欲しい。サイゴンは自分の願いを諦めた。 勿論、サイゴンの言う通りトビィは魔界へと向かっていた。相棒である三体の竜と共に、全速力で。トビィは、これまでの経緯を相棒達に話した。忘れてしまいたい敗北と、その後の出来事を。
「まさか、主があのような下卑た輩にやられるとは」 「言うな、オレもまだ未熟だということだ。マドリードの髪で一気に頭に血が上った、冷静な判断が出来なかった。あれではダメだ、精進する」
不貞腐れたようなトビィの声に、微かにデズデモーナは苦笑する。
「それにしても、そこで救出してくれた”アサギ”という少女。不思議なものだと」
そのアサギを魔界に救出に行くとトビィが言い出したときは、竜達も呆気に取られた。攫われた勇者アサギを救出するということは、魔王と一戦を交えるという事である。 恐怖に駆られたわけではないのだが、そこまでその娘に惚れ込んでいるトビィに驚いた。確かに命を救ってもらった恩がある、恩は返す主を律儀だと感心した。しかしそれだけではない、どちらかというと別の感情のほうが大きい事を、竜達はまだ知らなかった。トビィ自身も”正確には”解っていない。 アサギを語るトビィの声色が、優しく丸く穏やかで、竜達はそれに動揺した。初めて見たが、初めて見たわけではない気がして、奇妙な思考になった。
……どんな、少女なのだろうか。
竜達は、人間の少女というものを知らない。見た事すらなかったが、興味を持った。
「オフィは仲間達に会いに行くと良い、まだあの近海にいるだろうか。アサギを救出したら、合流しよう」 「そうだね、僕は陸地に上がって一緒に戦えないしね。久し振りにみんなに会いたい、ちょっと心配だけど」 「魔王程度どうにでもなるから、オフィは気にするな」
自信たっぷりなトビィの発言にデズデモーナは少し胃が痛んだが、何か策があるのだと思った。 水竜であるオフィーリアは、多少残念そうにヒレをばたつかせて過剰に水飛沫を上げた。しかしそれは嬉しさを隠す為でもある、幼いので仲間達が恋しい事をトビィは察していた。
「デズとクレシダはオレと強行突破だ、相手は腐っても魔王。油断するな」 「御意に。しかしまさか、魔王と一戦を交える破目になるとは思いも寄りませんでしたゆえ」
クレシダが淡々と呟いた、感情が全く読み取れない声色だ。デズデモーナは苦笑し、何も言わなかった。魔王が怖いわけではない、竜達には関係のない輩に過ぎなかった。 昼と夜を何度も迎え、たまの休憩を繰り返し進むトビィ達。魔界イヴァンまであと少しになった時だった。 前方から異質な存在がやって来ていることを、察知する。無論、クレシダもデズデモーナも顔を上げて瞳を細める。オフィーリアだけが、若干その存在を掴み取ることに遅れを取った。
「何か、来ますね」 「無視だ、時間が惜しい」 「無視出来る相手であれば良いですが、御意に」
水中に潜っていたオフィーリアが浮上してきた、ようやく気配を察知したのだ。顔を覗かせているが、戦闘態勢に入っていないトビィ達を見ると、微かに潜って再び全力で泳ぎ出す。 トビィの正面から来ていたのは、魔族のテンザだった。テンザもまさかの竜ニ体を珍しそうに見つめていたが、そこに跨っている男に気付き目の色を変える。 テンザの嫌悪する人間が目の前にいた。 テンザとて無視しようと思った、人間は目障りだが、今はあの勇者の仲間達を血祭りにあげた方が鬱憤が晴れそうだったからだ。無駄な時間は惜しいと思った、しかし。 テンザとトビィ、ニ人が空中で擦れ違う。互いに目を合わせることはなかった、興味の対象外だった。 しかし十メートル程離れたところでテンザが突如反転し、漆黒の炎を口から吐き出した。
「無視しようにも、出来ませんでしたな」 「面倒だ」
背後からの攻撃に心底迷惑そうにトビィは呟くと、背の剣を抜き放つ。 その漆黒の火炎からトビィを護る為、オフィーリアが海から水柱を高く上げた。デズデモーナは急旋回し、吼えて威嚇する。トビィを乗せているクレシダは、指示を待っていた。
「時間が惜しい、潰す」 「御意に」
直様クレシダが宙返りをし、テンザに突進した。漆黒の炎は、すでに消えている。だが次いで魔法の詠唱に入り、印を結び衝撃波を放ってきた。 空気が揺れ、耳の鼓膜が震える。が、寸でのところでクレシダは下降すると紙一重で避けた。クレシダは速度に非常に優れている、デズデモーナであったならば危なかったかもしれない。 オフィーリアが幾つも水柱を上げ、デズデモーナがそれを掻い潜りつつ噛み付こうとテンザへ突進する。連携のとれたこの不思議な一向に、テンザは顔を顰めた。 無視すればよかったのだが、人間と擦れ違った瞬間に身の毛がよだった。早く人間の血を見ないことには、気が治まらなかった。虫唾が走り、気づいたら身体が勝手に動いた。 しかし、喧嘩を売る相手を間違えた。 テンザとて、非力な悪魔ではない。惑星ハンニバルにいた頃は、人間などものの数分で消し去ってきた。だが、有能な竜三体を同時に相手した経験などない。 トビィの手にしている剣は長剣ではあるが、やはり空中戦であるとリーチが無謀だ。一応クレシダとデズデモーナの右胴体には、空中戦用の槍が装備されている。唯一無二の剣ブリュンヒルデには当然劣る、魔界で市販されている槍である。一般の魔族ではおいそれと手に出来ない、高価な代物ではあるが。 右手首に手綱を巻き付け、剣を右で握り、左で槍を構える。トビィは囁いた、小さく吼えたクレシダはそれに応じる。 デズデモーナとオフィーリアからの攻撃を避けながらトビィを狙っていたテンザだが、上昇してきたクレシダの速度に身体が追いつかなかった。舌打ちし風圧で一瞬瞳を閉じた、衝撃波を再び打つべく瞳を開いた瞬間、目に入ったものはクレシダの巨体が急降下し、直様水平に飛行する姿だ。追いかけるようにして衝撃波を放ったテンザだが、トビィがその背に乗っていない。 トビィを乗せていないクレシダは、テンザから見ても優雅で、軽々と衝撃波から逃れる。 焦燥感に駆られて周囲を見渡すと、消えたトビィは頭上から直滑降で落下しつつ槍を突き出していた。トビィは、テンザの頭上でクレシダから飛び降りていた。 間一髪それを避けるテンザに、勝機が見えた。人間は空中に浮遊できない、落下するのみだと知っている。
「たわけめっ」
高笑いしたテンザの身体が、一気に落下した。小さく悲鳴を上げ無様にもがく、右脚から引き摺られるように海面に近づいていく。見れば、足首に絡みつく鎖があった。 トビィの所持する高価な槍には、胴体に鎖が仕込まれていた。テンザの脚に鎖を絡ませることが目的だったので、避けられても問題はなかった。口元に薄く笑みを浮かべてぶら下がっているその姿に、テンザは歯軋りする。 振り落そうと脚を揺らすが、意識をそちらに集中させると浮遊に支障をきたした。トビィ一人分を片足で支えている状態で高度を保とうとすれば、魔法の発動に遅れが出る。更に旋回してきたクレシダとデズデモーナが、容赦なくテンザを襲った。 当然トビィへの攻撃など出来ない、想定外の事態にテンザは冷静さを失う。 トビィは大きく振り子の様に身体を揺らしながら、左腕一本で自分の身体を支えていた。あまり長くは持たないので神経を研ぎ澄まし、機会を狙った。 勢いづけて一際大きく身体を捻り、鎖から手を離す。真正面にテンザの背中が見えた、両手で剣を持つと俊敏に剣を振り下ろす。 軽くなった自分の脚に混乱し、直後背に襲った鋭い痛みにテンザは絶叫する。トビィの剣は右肩を捕えた、そのまま重力に従って落下するトビィと共に剣は身体に沈む。 骨が砕ける音がした、引き裂かれる激痛では魔力が保てずに、トビィと共に落下する。全ての過ちは攻撃を仕掛けてしまった浅はかな行動ゆえだと認めたくはないが、まさか人間がそんな芸当をするとは思わなかったのだ。 力量を見間違えた。
「別に恨みはないが、時間が惜しい」
無感情でそう呟いたトビィの瞳と、視線が交差した。冷たい海の底を連想させるような、トビィの瞳はとても人間とは思えなかった。自分が今まで見てきた人間とは質が違うと、直感した。 だが、遅すぎる。 トビィは強引に剣を抜いた、テンザの血液が宙に舞う。 自分が今どのような状態になっているのか理解出来なかったテンザは、這いよる大きな影を虚ろに見ていた。 デズデモーナが、トビィの横に来ていた。高度を落として身体を垂直にし、手綱を浮かせる。剣を左手で持ち、右手でその手綱を掴んで強引に身体を引き寄せた。巨体に足をかけてどうにかその背に乗り込むと、背の鞘に剣を仕舞い両手で手綱を掴む。 それを確認すると、何事もなかったかのようにゆっくりと上昇していく。寄り添うようにクレシダも舞い、オフィーリアは終了した戦闘を見届け再び水中に潜っていった。 テンザはおぼろげに見ていた、痛みは麻痺してきた。未だに脚に絡み付いていたトビィの槍が忌々しく、どうにか外したかったが身体は動かない。咆哮を上げたくとも出ないまま、水面に叩きつけられる。 人間に敗北したテンザは、身体と共に自尊心を八つ裂きにされた気がした。自分の失態に怒りが込み上げ、同時に人間への憎悪も肥大する。 けれども、海に沈んだ。 金髪が、海中に漂う。血の香りに獰猛な海の魔物も集まってきた、放っておけば息絶えるだろう。 その身体が引き上げられなければ、それまでだった。 身体が海面から上がるまでには時間を要したが、テンザとて高貴な悪魔だ。生命力は、強い。その身体は海面を引きずられるように移動していた、血は流れ魔物達を引き寄せる。 しかし集まってきた魔物を魔法で追い払い、間一髪のところでテンザを救出した一隻の船があった。テンザを引き上げ、不安定に揺れていた小舟は暫し海面に漂う。やがてオールがないその船は不気味に動き出した、ガーゴイルが数匹でその小船を引いている。 死ぬか、生きるか。自分の無力に打ちひしがれて敗北し、そのまま息絶えるのか。それとも、糧として甦るのか。 悪魔は、憎悪を糧とする。 小船は、近場の無人島に辿り着いた。身体を伸ばして小舟から降りたのは、妖艶な美女エーアである。 船上で簡易な治療をしたが、改めて確認した致命傷に軽く眉を顰める。しかし柔らかな草の上に寝かせ、持ち得る魔力と技量を使い瀕死のテンザに治療を施す。 人間に助けられたと知れば、それこそ最大の屈辱だろう。なのでエーアは治療を一頻り終えると、ひと仕事してからその場を後にする。 付き添って看病はしない、あとはテンザの気力次第だ、死ねば駒にすら値しない者であると。エーアは島に寝そべっているテンザを振り返ると、口角を艶やかに上げた。 悠々と戻るエーアを水晶で見つめていたミラボーは、予定通りの展開に満足そうに身体を揺する。 テンザの姿を捕らえ監視していたミラボーは、戦闘が始まった際にエーアを出向かせていた。瀕死の状態を確認すると、救出に向かうように指示を出した。 人間のエーアでは、そこまで行き着くのに時間がかかる。先にガーゴイル達に救出させ、遅れてエーアはやって来た。 近場の島は無人島だ、生活など出来ない狭い土地で、僅かな草と岩が転がっているだけである。だが、エーアはそこに手を加えた。簡易な祭壇を造った、それこそ原始的な。霊石で魔方陣を描き、拾ってきた人間と動物の頭蓋骨を置き、それに大麻に火をつけた。邪教を崇拝する際に用いる品々だ。 やがて目が覚めたテンザは、自分の置かれている”造られた”状況をこう受け止めた。『悪魔崇拝している何者かが、助けてくれたのだろう』と。 そうして、小船で華奢な女がこの島へやってくる。漆黒の衣服に鴉の羽を纏い、小動物の骨で作った装飾品を首から下げて、所持する杖の先端には幼児の頭蓋骨。
「おぉ、おぉ! 私の祷りが通じましたのね、偉大なる悪魔様!」
こうして息を吹き返したテンザとエーアは出会った。 歓喜に打ち震え、泣きながら足元に平伏す人間のエーアを見て、テンザは。彼女を殺すことはなかった、寧ろトビィよって傷つけられた自尊心を回復してもらえたのである。 自分は、まだ高貴なままだと。慕われる存在であると、特別な者だと。何よりあの絶望の淵から甦った自分に歓喜していた。 全ての破滅を望むというその女の髪がハイと同じ漆黒だったことも手伝い、テンザはエーアに気を良くした。自分を敬い、崇めてくれるこの目の前の人間に、心地良い気分を抱く。 その人間の女は、艶かしく美しい。自らの身体を捧げ、悪魔の好む快楽に貪欲な女だった。堕ちた女は大好物である、しかもテンザ好みな容姿と控えめな仕草に気を許してしまう。ニ人はそこで何度も繋がった。美しい悪魔と繋がれたと悦び歓喜し、恍惚の笑みを浮かべて溺れる女を見て、テンザは薄く微笑む。 もとは神官だったという話を聴き、更にハイと重ねたテンザは奇しくもエーアに何の疑問も抱かなかった。エーアの演技にまんまと騙されているというのに。 ミラボーによって意識や感情を操られているエーアにしたら、それは容易い事だった。テンザに心酔している振りなど朝飯前である、身体を差し出すことにもなんの抵抗はない。 それがミラボーからの指令なのだから、嬉々として実行した。
「私の、悪魔様……愛しい愛しい悪魔様」
豊満な身体を駆使する淫乱なエーアに、すっかりテンザは夢中になった。妙な動きを見せれば、直様首を刎ねるつもりだった。傷を負っていたとしてもそれくらいの力はある、しかしエーアはそんな素振りを見せなかった。それどころか甲斐甲斐しく、敬いながら傍に居てくれた。 消えたハイの面影を、エーアに重ねる。 ミラボーの策略に、悪魔テンザは屈してしまった。
「ふぇふぇふぇっ! 流石はエーア、見込んだ通りの女よ。やはり、人間も無下にはできぬの、人間なりの使い方があるというもの。拾っておいてよかったわぃ、さぁて愉しい駒が手に入ったのぉ。誰に刺客として送りつけようかのぉ! 選り取り見取りで愉しいのぉっ」
水晶球で、エーアとテンザの様子をミラボーが愉快そうに鑑賞していた。魔界の片隅、ミラボーに与えられた室内でひしゃがれた声が響き渡る。呼応するかのように水晶球に映っているエーアも、テンザの足先に幾度となく口付けていた。 口元に笑みを湛えながら、虚無の瞳で。
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