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作品名:DESTINY 作者:把 多摩子

第153回   始まりの唄『外伝2-12 そして、嫌って、願う。』
「何か欲しい物はないのか、アリア」
「と、言われても流行のものとか知りませんし……」

 村では機織や農作業の手伝い、掃除に洗濯料理等家事全般で一日が終わっていた。化粧もお洒落もしたことがない。街へ出て、平凡な衣服は稀に購入したが、村で織っていた布のほうが丈夫で美しいと思っていた。
 何が欲しいと言われても、アリアは返答出来なかった。ここは物が溢れている、便利すぎる代物も美味しい食事も、全て揃っていた。ようやく思いついたので、口にする。

「あ、そうですね……機織りがしたいです」

 自給自足の村だったので、皆の衣服は女達がこさえていた。当然アリアも、トバエの衣服を織っていた。この場所で布など織る必要がないことは解っていたが、感覚は忘れたくない。
 宝石やドレスを欲しがる女ではないと知っていたが、意外なものにトダシリアは驚きを隠せない。それでもその返答に満足し笑みを浮かべると、直様発注をかけさせた。早くて当日、慌ただしく続々と、何台かの機織が届けられる。
 あまりに上等なそれに、アリアは絶句した。が、好きな様にこれを使えと言われたので思わず笑顔になる。広い部屋に運び込まれた機織の中から、一番使いやすそうなものを選んで、撫でた。

「衣装くらい、購入してやるのに」
「いえ、子供の頃から私の仕事はこれでしたから。いつも新しい洋服をトバエに織っていたのですよ。トバエは山でよく狩りをしていたので、丈夫なものでないと肌を傷つけます」

 トダシリアは小声で「またトバエか」と呟いたが、愛しそうにその機織に手を添えているアリアの表情は、柔らかい。トバエは腹立たしいが、その表情は愛おしい。やりきれない自分の感情に舌打ちして、視線を反らす。
 
 ……いつか、お前はオレを想ってそんな風に笑ってくれるだろうか。

 ふと過った思いに、トダシリアは自嘲気味に笑う。

「だが、お前の右腕はまだ完治していない。無理をするな」
「あ、はい」

 小さくアリアは会釈すると、使い方の説明をする為にずらりと並んでいる店主達から、話を聴くことにした。
 全く興味がないのでトダシリアは、トバエの部屋へと向かう。

「今日はアリアが作っていない、食べたくなかったら、喰うな」
「みたいだな、アリアはどうした?」

 運ばれてきた食事を覗き込んだトバエは、言われる前から解っていた。
 微かにトダシリアが瞳を開き、引きつった笑みを浮かべる。右腕が痛むので包丁が持てなかったアリアは、レシピをコックに教え、自分も付き添いながら食事を作って貰ったのだ。

「気味悪いな、アリアの作り方通りなんだぞ? どうして違うと解ったんだ」
「アリアの香りがしないし、想いがない」

 ……はったりではない、この男は解っている。

 トダシリアは震えた、自分の弟が想像以上にアリアに惚れていることに怯えたのか、敗北感を味わったことになのか、何が身体を震わせたのか理解できなかったが『怖かった』。
 二人の絆が強固なもののような気がして、足元の床が抜けた様にも思えた。

「ハッ! 随分とまぁ、余裕だな。そこまでしてアリアがお前を想い続けていると、どうして言い切れる? オレの上で腰を振り、すっかりお前の癖などなくなっている女だぞ?」
「そんなことより、アリアはどうした。食事が作れない状況なのか」

 無表情でそう問うトバエに、トダシリアは苛立ちを募らせる。この男をどうしたら叩き潰せるのだろう、何を言っても、人形の様に感情を露にしない。
 挑発にも乗ってこない、全てを見透かしている様で怖い。優位に立っているのは自分な筈なのに、それすらも掌で転がされているように思えた。

「お前に食事を作るのが面倒になったんだとよ」
「フッ、嘘だな」

 戯言だとばかりにトバエが鼻で笑ったので、トダシリアの頭に血が上る。確かに嘘だった、だが何故解るのか、それが理解出来ない。互いを信頼しているから、なのだろうか。
 忌々しく壁を蹴り上げるトダシリアを、トバエは軽く溜息を吐き見つめる。

「その気に食わない事があると何かに八つ当たりをする性格……直したほうが良いんじゃないか」
「余計なお世話だ!」

 派手な音を立てて部屋を後にしたトダシリアに、大きく溜息を吐くトバエ。頭を抱える、全く成長していない双子の兄に絶句するしかない。「あいつと話すと、疲労が増す」と呟いた。
 静かになったので落ち着いてトバエは食事を口にした、アリアの食事ではなかったが完食した。

「一つ訊きたいが、ノアールは何処にいる?」

 空になった食器を片付けていた医師の助手は、驚いて顔を上げた。トバエがトダシリア以外に話しかけることは、今までなかった。最初、独り言かと思ったので無視していたが視線を感じてようやく自分に話しかけてきたのだと解った。

「え、ぁ、ノアール?」

 まだ若い助手は混乱気味に瞳を泳がせ、助けを求めて瞳を彷徨わせる。辿り着いた先の医者が、小声でトバエに囁いた。

「ノアール殿は、随分と前に城内地下の牢に幽閉されました。無茶して戦争を頻繁に起こし、領土を拡大したトダシリア様に苦言されたのが原因で。生きているかどうかは……」
「……だろうな、会いに来ないからそんなことだろうと。ノアールが居てくれれば心強いが」

 再び、溜息を吐くトバエ。
 医者達は、交代でトバエの看病をしてきた。現国王の双子の弟である、トバエを見てきた。身体つきも良く、気品ある面立ちと物静かながらも冷静に状況を見ているこの男に一種の惧れを感じた。
 それこそ、仕えるべき王の器を所持しているかのように。何故か、誠意を持って助けたくなったのでトダシリアの命令ではなく、途中から親身になって看護にあたって来た。

「国王が、貴方であったなら」

 ぼそ、と助手が零したのでトバエが苦笑する。

「思っていてもそんなこと、口にしてはいけないな。アイツの事だ、直様死刑にでもするんじゃないのか」

 トバエが普通に会話し始めたので、医者達も思わず声を漏らす。それは、国王トダシリアへの不平だった。聴きながら、トバエも頭を抱える。とても身内とは思えない程、恥ずかしい失態ばかりだった。

「私の娘など、一晩寝所に招かれたかと思えば、翌朝庭で死んで! 窓から落ちたと説明されましたが、とてもそうとは」
「昔から、緑の髪の少女を連れてくるのが好きでした。高額で買われたので貧しい者達は喜んで娘らを差し出したと聞きますが、どうなったのか」
「文句を言おうものならば、皆即斬首ですよ」
「……ここでそんな話、しても良いのか?」

 苦笑し、トバエは口を噤んだ医者達に哀れみの瞳を向ける。恐怖で支配してきたトダシリアも、皆の不満には気付いているだろう。だが、自分は誰にも平伏す事などないと自信があるのだろう。
 実際、あの悪魔のような魔力に対抗出来る人間などいない筈だ。他国から軍隊が責めてきても、一人で倒せるのではないかとトバエは思っている。
 強いて言うなれば、対抗出来るのは自分だけだとも痛感していた。
 もう、何週間もベッドの上に寝ている。傷は、完治したが今起き上がろうとも足がバランスを崩すことなど明白だった。衰えた体力を取り戻さねばならないので、食事は多めに摂る。

「そろそろ、運動でもしましょうか」

 トバエの思いを見抜いてか、医者の一人がそう呟いた。無言で他の医者も頷き、皆で目配せをする。トダシリアには、命令されていないことだった。だが、この王の弟が何かしてくれそうだったので、手助けしたくなっていた。「有難う」と微笑んだトバエに、医者達は感無量だとばかりその場に平伏した。仕えるべき国王を、見つけたとばかりに。
 その日から、トダシリアの目を盗んでトバエは室内で運動に励む。どのみちトダシリアが部屋に訪れる頻度など以前から少ない、時間には余裕があった。
 万が一に備えて昼間は眠り、深夜にトバエは活動する。食事も、更に体力をつけられるようにと医者達が極秘にコックに追加注文していた。また助手を走らせて栄養価の高い果物や肉を、秘密裏にトバエへと運んだ。
 新しき国王に期待したのだ、王家の血も正統である。何の問題もなかった、問題があるとすればトダシリアの存在だけである。
 トダシリアは部屋の一室を借りて織物に没頭するアリアを、時間があれば眺めていた。その動作は舞でもしているかのように優美で、見ていて飽きが来ない。それどころか、心の蟠りが晴れて穏やかな気分になれた。

「器用だな」
「そうですか? ありがとうございます、トバエにも良く誉めて貰っていたんですよ。ふふ、歓んでくれるかな」

 が、折角の気分が台無しになった。どんなに癒されても、最終的にアリアの口から出る”トバエ”の単語で陰鬱になる。解っててやっているとしたら、それこそ類まれなる悪女でしかない。
 頭痛に苛まれながら、トダシリアは唇を尖らせた。

「あのな、何を織っているか知らないが、それをトバエに渡す約束などしていないからな」
「……渡してくださらないのですか」

 欲しい物は何でも買い与えると言ったが、アリアは他の男への贈り物を作る為のものしか要求しない。美しい布地に丁寧に刺繍をしている様を間近で見ていると、それは自分の為の様だ。だが、違う。心癒される半面で、その布が誰のものなのかと考えると怒りが込み上げてくる。
 ならば見なければ良いのに、買い与えなければ良いのに、何故自分はそうしないのか、トダシリアは疑問に思い始めた。

「来いアリア、暇だから抱いてやる」
「私は暇ではないです」

 無視してアリアは織り続けようとした、が、足を踏み鳴らして近づいてきたトダシリアに腕を捕まれる。

「口答えするな、最近調子に乗っていないかアリア。機織を与えたからといって、四六時中動かして良いとは言っていない。オレが優先だ、オレの手が塞がっている時だけにしろ」
「暇だから抱くだなんて、トバエはそんなことしませんでした」

 小意地になっているのか、アリアは反抗する。懸命に腕を振りほどこうと、力いっぱい腕を振った。だが、そんなことぐらいでトダシリアは揺るがない。

「オレとアイツは違う、そんなこと知るか」

 抵抗しても、無駄だった。アリアはその場で何度も、貫かれた。その部屋にはベッドなどないので、いつも床か立ったままだ。行為が終われば、満足そうにトダシリアは去っていく。
 優しいかと思えば突如豹変して乱暴になるトダシリアに、アリアは戸惑う。それでも、何故か嫌いになれなかった。先程、抵抗したのは。

「暇だから、ではなくて。……そうでは、なくて」

 ぼそっ、と零す。が、そんな言葉は誰にも届かないし、届かなくて良いと思った。少しだけ期待を、する。けれど、期待を裏切って欲しいとも思っている。
 この罪の意識は成就させてはならないと、言い聞かせていた。
 周囲に気遣うアリアに惹かれて、憐れみ、世話をしてくれる者達は増えていた。行為が終わったアリアの身体を、直様女官達は洗ってくれる。「大丈夫かい、可哀想に」と声をかけてくれる。トダシリアに逆らうことは出来ないが、皆アリアの肩を持つようになっていた。なるべくトダシリアに会わないで済む様に、移動先を事前に教えてくれる女官も現れた。
 どんなに辛い状況に置かれても「有難うございます」と笑顔で応えるアリアに、下々の者達は思い始めた。トダシリアによって引き離された夫婦、双子の弟と、この女性ならば……安心して暮らす事が出来る国を創れるのではないかと。皆に慕われる見事な王と王妃になってくれるのではないかと、そんな期待を抱き始めていた。
 入浴を終えるとアリアは機織りを再開し、小さく溜息を零す。先程の事を忘れるかのように、一心不乱に作業を続けた。

 それでもトダシリアは晴れず、今夜もまた薄暗い室内に、アリアの嬌声が響く。毎晩毎晩、飽きもせずにトダシリアはアリアを抱いた。
 一度アリアはトダシリアの名前を呼んだが、それきりだった。それが聴きたくて抱いていたが、それ以後名前を呼ぶことはない。
 しかし代わりに、トバエの名も呼ばなくなった。

「あ、あの。欲しい物があるのですが」
「なんだ、寝所で強請るとはアリアも男の扱いが解ってきたな」
「……新しい糸が欲しいのです、足りなくて。その、それがないと機織が」

 トバエの名は出なくなったが、欲しがる物はやはりトバエに関するものばかりだ。機嫌良く話を聴こうとしていたトダシリアだが、傍らにあった上等なワインを殴り倒し身体を硬直させたアリアの首に手を伸ばす。
 力を篭めると思い、ぎゅっと瞳を閉じたアリアだが、首は苦しくない。うっすらと瞳を開ければトダシリアが俯いたまま、微かに身体を震わせていた。

「欲しい物は、買ってやる約束だったな。いいだろう、買ってやる」

 首から、手が離れる。ほっと一息ついたアリアだが、俯いたままのトダシリアが気にかかった。が、どうしてよいのか解らず、そのまま無言でニ人はベッドの上にいた。
 翌日、直様アリアに商人達がこぞった。どれもこれも普段は売れないような高級品だ、大量に買ってもらおうと、色取り取りの糸をアリアに見せ、我先にと商品紹介を開始する。
 トダシリアは目を細めてその状況を見つめていたが、面白くなさそうに立ち去った。胸やけがした、つまらなかった、
 その後も何度か、アリアは糸を強請った。その度に多数の商人が押しかけ、通常単価の五倍以上で糸を売った。どれだけ値を上げても、購入してもらえると知ったからだ。アリアには、価値が解らない。ただ、糸が欲しかった。

「あ、あの。また糸が欲しいのですが」
「またか。一体何を作っているんだ」

 と、言いつつも約束をしてしまったので、呆れながら翌日もトダシリアは商人を招き入れる。その日は手が空いていたので、近くのバルコニーで過ごすことにした。アリアが糸を選び始めると、ワインを飲む為に立ち去ったが、直ぐに戻ってきた。『糸を選び終えたらお前もこちらに来い、付き合え』とアリアに伝える為に。

「いやー。相変わらずアリア様はお目が高い! それに、この美しい指先で糸も触ってもらえるのならば、本望でしょう」
「えぇ、本当にアリア様はお美しくいらっしゃる。噂では歌声も素晴らしいとか、よければ一度お聞かせいただけませんか。今度皆で宴会でも開いて」

 戻ってみれば、唖然とその光景を見つめる。
 商人たちが、アリアに集っていた。まるで、甘い菓子に群がる蟻の如く。見れば、アリアの腰に手を回している商人もいる。困惑気味に微笑んでいるアリアだが、その表情からは嫌悪感が微塵も感じられなかった。
 何かが、音を立てた。
 アリアは、トダシリアの妃ではない。ただの一般女性である、確かにお気に入りの女だが側室でもない。トダシリアがいないこともあって、美しいアリアを商人たちは口説いていた。気に入ってもらって、自分の商品だけを購入してもらおうという下心もあった。
 部屋に入ってきたトダシリアの姿に、ある者が悲鳴を上げた。何事かと振り向いたアリアの瞳に飛び込んできたのは、剣を引き抜き、宙に火炎を漂わせたトダシリアの姿である。

「……人の不在時に、何をしているっ!」

 ぽーん、と、何かが数個宙に浮かびゴトン、と床に落ちる。
 床に転がったものと、視線が合った。遅れて、誰のものとも解らぬ悲鳴が一斉に上がる。
 商人数人の首が撥ねられたのだ、見れば首のない身体が数体遅れて床に倒れこんでいる。身の危険を感じ逃げ惑う商人達に、容赦なく火炎が襲い掛かる。
 アリアは慌ててトダシリアに必死にしがみ付いたが、逆上しているので全く効果がなかった。

「お、おやめください! な、何故、何故こんなっ」

 聴く耳持たず、トダシリアは扉から逃亡しようとしていた商人の背に剣を投げつけた。見事に心臓に突き刺さり、商人は絶命する。夥しい量の血痕に塗れた室内が燃え始め、外が騒がしくなる。
 消火活動は始まるのだろうが、買ったばかりの糸はほぼ焼けて無くなり、運んできた商人達は皆殺しにされた。
 足が震えていたアリアの顎を掴むと、トダシリアは吼える。恐怖で涙を流すアリアの頬を、何度か平手打ちした。

「糸が欲しいのではなく、この商人の誰かに色目を使っていたのか!? 逢瀬でも楽しんでいたのか!? 数人若い奴がいただろう、新しい男なのか!?」
「ち、ちが、ちがいま」
「オレには微笑まない癖に、こんな下卑た男共に囲まれて……」

 消火活動に来た者達に混じり、アリアの世話をしてくれていた女官達も悲鳴を上げてやって来た。トダシリアに摑まり、何度も平手打ちをされている姿を見て、耐え切れず女官がトダシリアに縋りつく。

「おやめ下さい、トダシリア様! アリアさんは」
「やかましいっ」

 女官を足蹴にし、炎を放つ。悲鳴を上げて、女官は燃える身体で地面を転がった。肉が焦げる嫌な臭いが漂う、声にならない悲鳴を上げて女官達は竦み上がった。
 これが、王に歯向かう者の末路だ。
 娘がアリアと同じ年頃だと言ったその女官は、アリアにとって母のようだった。田舎の出だというので、会話も弾んでいた。言葉が出ない。
 燃える部屋を後にし、アリアを床に引き摺りながらトダシリアは歩く。

「な、なんてこと、なんてことを、トダシリア様! あ、あんなに人を殺してっ」
「それがどうした、オレくらいの身分になれば当然だろうが! それとな、今のはオレではなく、お前が悪い。お前が糸を買わなければこんな状況にならなかったろう!? オレは部屋の一室を失った、どうしてくれる。被害者はオレだ、お前は何を被害者面してるんだ!?」

 子供の言訳のようなトダシリアの言い分に、眩暈がした。恐怖に慄いてばかりではいけないと、アリアは腕に爪を立てて勇気を奮い起こす。

「部屋よりも、人の命が大事でしょう!? 貴方は強いです、でもその力を皆に誇示する前に少し考えてみてくださいっ、トバエだったらこんなことしません!」

 部屋のベッドに放り投げたアリアに、トダシリアが圧し掛かる。無理やり衣服を破り、いつものように強引にアリアを犯す。

「止めてください、トダシリア様! 人が、人が亡くなったのに、こんなことっ。火だってまだ」
「煩いっ!」

 外では女官達が右往左往していた、アリアの泣き声が聴こえるがどうにも出来ない。今入って行こうものならば、二の舞になる。
 数時間後、気を失ったアリアの隣で頭を抱えるトダシリアは、抑えきれない憎悪と嫉妬で胸が焼けそうだった。
 いつまでもアリアはトバエを見たまま、自分に気を許したかと錯覚したが、一度きりだ。おまけに他の男達から言い寄られても、悪い気がしていないように微笑むアリアの何もかも全てが憎らしい。

 ……一体何をしたらこの女は自分のモノになるのか。

 自分にのみ笑いかけ、自分にしか興味を持たず、他のモノには無表情で接し、言葉を発しない。そうするには、どうしたらいいのか。

「お前の笑顔はな、オレの為にだけあればいい。お前の全ては、オレのものだ……と、何故解らない」

 隣で涙を流し、眠りについていたアリアの首に、無造作に手をかけた。

「ト……ト」

 何か、寝言が聴こえる。どうせ”トバエ”だろうとトダシリアは思い、肩を竦めて大袈裟に笑う。

「ト……私は、貴方を、好きな」
「夢の中でもトバエか、お気楽なもんだな」

 トダシリアの顔が、歪む。馬鹿らしい、とばかりに首からそっと手を離したトダシリアは、衣服を纏い部屋を後にした。
 静まり返った室内は、蝋燭の火すら灯らず、月の灯りすらない。

「トダシリア、様」

 残されたアリアの唇から、トバエではない名前が零れた。その瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
 闇の中で、何かがゆぅらり、と揺れて消えた。

 キィィィ、カトン。

 トダシリアの業火によって燃えていた部屋は、ようやく鎮火された。部屋は当然使えなくなっていた、修復には時間を要するだろう。そこは来賓用だったので、トダシリアが頻繁に足を運ぶ事はなかった場所である「下衆な男共の血痕に塗れた絨毯など見苦しい、燃えて良かった」と、捨て台詞を吐いた。だが、焼けたおかげで外観が見苦しくなっている、都合よく絨毯だけ燃えるわけがない。壁も豪勢なシャンデリアも煤塗れた。

「忌々しい! 新しい場所にもっと巨大な館を作る。税を上げて民から金を搾り取れ、ここは棄てる」

 衣服のボタンが取れてしまえば、縫い直すことなく服ごと買い替える。絢爛な館すらも、気に入らなくなったら同じように買い替えてしまう。
 トダシリアの感覚に、流石に側近は蒼褪めた。

「お、恐れながら……トダシリア様。そろそろ城に戻りませんと。この館に滞在を始めて、数ヶ月です。城に国王がいつまでも不在では流石に拙いかと」
「餓鬼じゃないんだ、オレがいなくとも城くらいどうにでもなるだろう!? ……まぁ、確かにそろそろ戻ってもいいが」

 少しの間を置いて、トダシリアは髪をかき上げながらぼんやりと呟いた。怒りを買わないように、顔色を窺いながら意見を述べる側近は、脂汗を垂れ流している。

「そ、それから税ですが、その、市民から反発の声が上がっておりまして……上げるのは困難かと……思いまして」
「黙らせろ、皆殺しだ」
「そ、そうしますと、税を払える人間が減りましてですね、悪循環に」
「そうか、ならばオレに意見したお前が責任持って良い案を考えておけ」

 鋭い視線で睨み付けたトダシリアは、早足でトバエのいる部屋を目指した。
 一方、そのトバエは騒乱に見舞われた館を案じながら、医者と様子を窺っている。火災が発生し、消火作業中だとは情報が届いていたが、それがトダシリアによる人災だと知ったのは、つい先程である。
 
「何をしているんだ、アイツは」

 頭を抱えて項垂れるトバエを、気の毒そうに医者達が見つめる。と、そこへ大慌てて助手が入ってきた。助手は医者の遣いで比較的自由に行動出来た、情報を探るのは彼の仕事だった。

「国王がこちらに向かっています!」

 深夜だったので、トバエは先程まで素振りをしていた。普段通りに医者達が付き添っていたのだが、夜間にしては滞在人数が多いので不自然である。トダシリアに見つからぬよう、ニ人の医者を残して他の者達は隣室へと逃げ込んだ。隙を見てそこから自室へと戻るつもりだ。息を押し殺し、タイミングを見計らう。
 仮眠しているフリをする一人の医者と、トバエが逃げ出さないように見張る医者。そして、眠っているフリのトバエ。
 怒鳴りながら入室してきたトダシリアに、怪訝そうにトバエは瞳を開き、医者達は竦み上がる。

「夜更けに何用だ」

 不機嫌さを露わにして、トバエは起き上がると睨み付ける。トダシリアから、微かに微妙な”揺らぎ”を感じたが何か解らずそ知らぬフリをする。 

「朗報だ、トバエ。お前にあの女を返すことにした、よかったな」

 流石にトバエにも予測不能な事態である、怒りに任せて口から言っているようにもとれたし、何かの罠かもしれないとも思った。遅れて返答する、真意が全く読めなかった。

「……どういう風の吹き回しだ、アリアが欲しいんじゃなかったのか?」
「気が変わった、直ぐにでも会わせてやる」
「気が、変わった?」

 トバエは、双子の兄を見やった。何か、何処か不自然な気がしたが、何か解らない。気が変わった、で済む問題ではないの、何か引っかかって仕方がない。

「立てるのか? 這ってでも来い、会わせてやる。早くしろ、オレの気が変わらない内に」

 顎で指図し、トダシリアは直様退室した。取り残された者達は、唖然と顔を見合わせる。タイミングを逃し、隣で耳を傾け話を聴いていた医者達も、暗闇の中で狼狽を隠せずにいる。
 罠にしか思えなかった、トバエを殺す為の。

「お気をつけ下さい、トバエ”国王”」

 不安そうに見送る医者達に軽く手を上げ、完治し体力もほぼ戻っていたトバエはトダシリアの後を追う。
 武器は、トダシリアに反する水の魔力。そして極秘に隠し持っているフォークは、毎晩研いで先端は鋭い。医者から貰った劇薬も、懐に入っている。
 医者達は思った、皆で祈った。あの狂王を失脚させ、新たな賢王が産まれるのだと。歴史に残る革命の日だと。

 眠っていたアリアは、女官達に揺すられて目を醒ます。身体中に纏わりつく体液に顔を赤らめながらも、身体を拭いてもらった。慰めの言葉を貰い、首を横に振る。「私は大丈夫ですよ」と気丈に微笑んだ。
 だが、そこへ怒鳴りながら入ってきたトダシリア。予想より早い戻りに、悲鳴を上げた女官達をトダシリアが睨み付ける。アリアは慌ててその前に立つと、庇うように両手を広げた。
 これ以上、自分達の事で迷惑をかけてはいけないと思った。

「勝手に身体を拭いていたのか? そんな指示、オレは出していないだろう」
「皆さんが好意で拭いて下さったのです、見逃してください」
「成程、オレの体液がいつまでも自分の肌にあるのは気に食わないか? なら、トバエのならいいのか?」
「そういう意味ではありません。この女官さん達は何も悪くありません、どうか見逃してください」

 震えている女官達を励ますように、必死に庇う。
 数分二人の睨み合いは続いたが、やがて興味なさそうにトダシリアは身体の位置をドアから外した。アリアが促し、女官達は一目散に部屋から出て行く。

「ありがとうございました」

 胸を撫で下ろしアリアは礼を述べたが、トダシリアは窓際に移動し外を見たまま何も言わなかった。静まり返る一室でアリアは戸惑う、その背を見つめているがトダシリアは何も言わない、動かない。
 暫くして、部屋にトバエが入って来た。
 あまりのことに、アリアは名前を呼べなかった。幻である気もしたし、焦った自分もいる。言葉が出てこない、数ヶ月ぶりに会えた夫が目の前にいるというのに。
 逆にトバエはアリアの姿を見て、ゆっくりと微笑した。腕を伸ばされても、素直にその中に飛び込めなかった。躊躇しているアリアに、ただトバエは微笑み続ける。

「会いたかっただろう? トバエを連れてきた、嬉しいだろう」

 と、トダシリアに言われたが、脳内は混乱していた。

「もうお前は用済みだ、トバエと共に何処へなりとも消えるが良い」
「え?」

 アリアが、トダシリアを見つめる。窓際から大股で歩き、愛用のソファに深く腰掛けると足を組む。好みだと言っていた銘柄のワインを、平素通りに呑んでいる。アリアは、動揺した。

「聴こえなかったか? 消えろと言っているんだ」
「あ、あの」

 微動出せずにトダシリアを見つめるアリアの顔色は、微かに青褪めている。一目散にトバエの元へ駆け寄るものだと思い込んでいた、トダシリアは嘲笑しながら唾を床に吐き捨てた。
 不愉快で仕方がなかった、胸の底が熱く焦げ付いているようだった。

「なんだ、嬉しくないのか? 不貞を働いた身体では戻れないとでも? 本命があの商人に代わっていたからか? 豪華な生活に慣れ、ここを出るのが惜しくなったのか? それとも……あぁ、毎晩オレに抱かれていたからな、明日から不安になったか? トバエとは抱き方が違うからな、寂しいのか。何が不服なんだか」
「え、あ、あの」
「アリア、気にしなくて良い。オレと一緒に帰ろう」

 狼狽しているアリアに、トバエが近寄った。ゆっくりと歩み寄って、背後から優しく身体を抱き締めるとアリアは硬直する。強張り、震える唇のアリアを瞳に入れ「白々しい」とトダシリアは肩を竦める。

「トバエ、双子の兄として忠告しておこう。オレはお前が嫌いだが、そんな阿婆擦れ女と共に生涯を終わらせるお前は、流石に気の毒で仕方がない。その女を捨てれば、城に戻って良いよ」

 トダシリアの言葉に、トバエは耳を傾けなかった。だが、アリアは聴いていた。

「男なら誰でもいいんだよ、その女。おしどり夫婦だといわれていたようだが、解ったもんじゃない。トバエ、お前は騙されている。夫が瀕死の状態の時に、他の男に抱かれて嬉しそうに啼く女だぞ? 恍惚の笑みを浮かべて、腰も振った女だぞ。いいのか、それで」

 アリアは聴いていた、トバエが聞かせないようにと両の耳を塞いでくれていたが、聴こえていた。

「まぁ確かに顔立ちは良い方かもな、身体もまぁまぁ……だが、それだけだ。その程度の女なら、そこらにいる。田舎の片隅で限られた女しか見ていなかったトバエには解らないかもしれないが、世界は広く無限だ。国に戻れば、その女が霞むよ。そもそも、愛していると連呼する割には、簡単に気を他の男に許した。実際、オレにも傾き始めていたぞ? 夫であるお前を刺した、このオレを! どんだけ馬鹿な尻軽女だよ」

 アリアは、聴いていた。
 爆笑し始めたトダシリアを、見ていた。何を言えばいいのか、何を考えればいいのか、解らなくなった。言っている事に間違いはなかった、これがトダシリアの本心だと思った。
 とすれば、切なそうに『愛している』と言ってくれたあの言葉は、嘘だったのだろうか。

 ……私は、何の取り柄もない上に、とても馬鹿な尻軽女。
『あ、あぁ。普通の女の子に産まれていたら。変な力がなければ、両親にも愛されていたのでしょうか? 気軽に抱ける女、だったら彼の目に私も止まりましたか。いえ、止まらなくても構いませ、ん。どうか、もし、願いが、叶うのなら。普通の、普通の、平凡な女の子に、なり、たい、です。そして、あの人が笑っているすがたを、遠くで良いので、一目見られたら。それで』
 ……愚鈍な出来損ない、馬鹿な尻軽女。

 キィィ、カトン。
 
「聞き流せ、アリア。さぁ、あの村に帰ろう。大事な温かい、オレ達の故郷へ戻ろう」

 トバエが頭を撫でながら、アリアにそう囁く。それでもアリアは立ち尽くしたままだった。
 ただ、涙が。
 涙が頬を伝った、瞬きもしていないアリアの瞳からとめどなく溢れ出る。
 会えて嬉しい筈のトバエの存在、その喜び以上に、トダシリアの言葉がアリアを揺さ振る。

「こうして、ニ人が会えた。辛かったなアリア、でももう大丈夫だ」

 トバエが抱き締めても、アリアは動かない。ただ、泣き続ける。

「女は簡単に心を許す、確かめてみて正解だったな。トバエ、お前にはそんな女より他に相応しい女がいるよ。兄さんが探してやるから、その女は放り出せ。甘い言葉ですぐに懐く……オレだったら、そんな女いらない」
「確かめてみて?」

 ようやくアリアが呟いた言葉は、トダシリアの復唱だ。
 瞳を細めてトバエが天井を見上げた、唇を噛締めた。震えるアリアの身体を必死に押さえながらも、トバエも小刻みに震えている。

「さぁ、”愛し合うニ人”よ。オレの前で愛し合って見せろよ。お前は夫の元にその汚らわしい身体で戻れるのか? 戻るんだろうな、いけしゃあしゃあと。妻を寝取られたトバエ、目の前の無様な妻をまた愛する事が出来るのか?」

 何も言わないトバエとアリアに、満足そうにトダシリアは頷いた。愉快になってきた、この状況に冷めやらぬ興奮を憶えていた。
 愛していると囁き、欲しいと願った女が青褪めて立っている姿に、異様に高揚する。今トバエの腕の中に居ても、嫉妬心など湧いてこなかった。湧き上がるのは、愉快であるという悦楽のみだ。
 二人に勝った気がした、最大の屈辱を味あわせたことに成功したと思えた。

「悦んでオレのを”咥えて”いた女だぞ、トバエ?」

 ドン!
 今まで動かなかったアリアが勢いよくトバエを突き飛ばし、耳を塞いで部屋を駆け出した。顔を真っ赤にして、号泣しながら消えていく。
 弾かれてトバエが名を叫び、その様子を肩を竦めて見ていたトダシリアが眉を顰めて嘲笑う。
 後を追う為に走り出したトバエだが、失笑しているトダシリアに立ち止まった。振り返ると、侮蔑の瞳を投げかける。その視線に思わず声を止めるトダシリアは怪訝に睨みつける、ニ人の間に緊迫した空気が流れた。

「お前、オレの質問にこう答えたよな。”オレはアリアが欲しい”そう言っただろ、違ったのか? あれは嘘か、何故彼女を貶めた」
「……忘れた」

 ニ、三度首を動かし無造作に髪をかき上げながら視線を外したトダシリアに、トバエは哀れみの笑みを浮かべる。

「トダシリア、お前は。”ニ人揃ってアリアに出会っていたら”とは考えなかったのか?」
「は?」

 何を言い出したのかと怪訝にトバエを見たトダシリアだが、すでに部屋から立ち去っていた。走り去る足音が聞こえる、アリアを追ったのだろう。

「熱くなっちゃって。いいのかねぇ、他の男に身体を許した女で。あんな、権力に吸い寄せられて這いよる、貪欲なくせに愚鈍で馬鹿な尻軽女なのに」

 呟いたトダシリアは、急に気だるくなり力なくソファに倒れこんだ。

「誰にでも、寄り添う女なんて、要らない」

 一人きりの部屋で呟いて笑い出す、何が愉しいのか解らなかった。
 アリアは確かに欲しかった、トバエを想う一方で、自分にも気を許し始めたアリアが嬉しくて……憎らしかった。アリアを手に入れても、また別の男が現れたら、同じ様にアリアはそちらに行くのだろうと思ったら、急に冷めた。別の男、というのがトバエに戻るなのか、新たな男なのかはどうでもいい、自分以外の誰かに靡かれることに恐怖した。
 手に入れるのは無理だと思った、トバエが手にしていた時点で、それはどうにもならないことだ。
 『自分だけを見て欲しい、だけれど心変わりする様を見たくない』……それは、トバエの妻だった時点で無理な話である。
 ぼんやりと、何かを思い出していた。蠢く何かの気配に我に返れば、近くに誰かが立っている。

「火精? 呼んでないぞ」

 幼い頃から、自分に寄り添っていた影である。トバエは”水精”が傍らに居たが、トダシリアには火だ。人型をしていて、恐らく男だと思っていた。この守護があるからこそ、自分は魔力が扱えるのだとトダシリアは思っている。
 何か言いたそうに、火精は間近で突っ立っていた。気分を害されたので、無造作にトダシリアは手を振って消えるように意思を示した。

――違う、違うんだ。
「は?」

 明確に聞き取れた言葉に、怪訝にそちらを見つめる。

――間に合わない。彼女が絶望したから、均衡が崩れた。”また”。
「はぁ?」

 間抜けな顔をして見ていたトダシリアは、息を飲んだ。目の前の火精が、はっきりと人間の形をとったからだ。今までは影しか見ることが出来なかった、こうして存在を明らかに示したのは今日が初めてである。

「オレ……!?」

 目の前に立っていたのは、紛れもなくトダシリア。髪色も瞳も、背格好までも全く同じだった。鏡を見ているような錯覚に陥る、違う点は衣服と火精の耳が細長かった事くらいだ。
 唖然と大口を上げているトダシリアに微かに唇を噛んだ火精は、諦めて何かを探すように手を伸ばす。周囲が見えていないのか、弱弱しく歩き回る。

――アース、アース、君は、何処に。
「お、おい落ち着けよ、オレ! オレ? オレ?」

 目の前が発光する、記憶の断片が甦る。
 緑の髪の愛しい娘、絶対に手を出してはいけない、聖域の娘。神の申し子、純潔の娘。愛しくて愛しくて、恋焦がれた。
 
『初めて出来た果物はマスカット、ニ人で口にして微笑んだ。
 スープを作ってくれれば、あまりの美味しさに褒め称えた。彼女は恥ずかしそうに笑った。
 急に降り出した豪雨に慌てて木に隠れた、寒そうな彼女を抱き締めようとして、そっと触れた。
 傍にいられれば、十分だった。彼女は、笑いかけてくれた。
 けれど、ある日現れた年上の貴族に彼女は直様懐いてしまった。それが気に入らなくて暫く距離を置いていたが、風の噂で聴いたのは。
「愛しています」
 頬を染めて恥ずかしそうにそう告げた愛しい愛しいその娘は、純潔ではなかった。「愛すると言う事を、あの方に教えて戴いたのです」』

 記憶の断片が、加速する。思い出したくなくて、喉の奥から悲鳴を上げていた。

『強打したので身体中は青あざだらけ、歯は抜け美しい顔も見るも無残に。泣きながら詫びる彼女を床に転がし、自分は立ち去った』

 立ち去った、立ち去った、瀕死の彼女を置き去りにして、立ち去った。

「な、なんだよ、あの女が悪いんだろ?」

 過去の記憶が”ほぼ”甦ったトダシリアは、引きつった声を出す。
 火精は、泣きながら部屋を彷徨った。ベッドに手をやり、そっと触れれば懐かしそうに優しく抱きしめる。

「何してるんだよ、お前!」
――彼女の、香りがする。
「はぁ!? いい加減諦めろよ、目を覚ませ。あの女に何をされたか憶えてるだろ、あの女が憎かっただろ!? お前、昔のオレだろ、愛していたのに裏切られて」
――逢いたい、逢いたい、抱き締めたい、抱き締めたい、最初に会いたかった、最初に会いたかった、誰もいない場所に閉じ込めてニ人でニ人でニ人きりで。そうしたら、きっと。

 目の前の自分が、気味悪い。鳥肌が立った、悪寒が走った。同じ顔をしているのに、昔の自分だと解ったのに、自分ではない気がした。

「あの女は、トバエが好きなんだとよ」

 トダシリアがそう口走れば、火精は微かに笑う。哀しそうに、涙を流したまま嗚咽する。

――もし、ニ人同時に彼女に出会っていたら。彼女はどうしただろう、あぁそうとも。トバエは、気づいているのに。どうしてオレは。

 嘆きの瞳を投げかけた、その時だった。地面が急に大きく揺れ、床に叩き付けられたのは。
 次いで、叫び声が上がる。慌てて立ち上がれば、火精の姿はもうなかった。薄く光りながら、最期に言いたそうにしていたが、聴こえない。

――記憶の、伝達、に、間違い、が。なんで。
「な、なんなんだよ……」

 消えていった過去の自分と思われる存在に唖然としていたトダシリアだが、周囲が騒がしい。気持ちを切り替えて窓から外を見れば、眼下に火の手が上がっていた。「は?」間抜けな声を出した、状況を認識するのに時間を要した。
 再び足元が揺れる、地震だということは解ったが長すぎる。見れば遠くの山でが燃えるように赤かった。噴火したのだろう、宵闇でも解るほどに黒煙が天に禍々しく広がっている。
 舌打ちしてトダシリアは部屋の外に飛び出した、右往左往している兵士達に怒鳴りながら消火活動を叫ぶが、彼らが武器を手にしている事に気付いた。
 一人が奇声を上げながらトダシリアに突進してきた、慌てて避けるが、次々に兵士達は襲ってくる。舌打ちし応戦するが、数が多すぎる。
 混乱の隙に兵士達が一斉蜂起したことを、トダシリアは知らなかった。

「トバエ王、万歳!」

 トバエという存在に期待をし、反トダシリアが膨れ上がっていた事実など、全く知らなかった。アリアの事だけで、手一杯だった。口々にトバエの名を叫びながら攻撃を仕掛けてくる兵士達に、吼えながらトダシリアは火炎を操る。
 だが、何故か直ぐに身体が痺れた。子供の頃から無意識のうちに扱っていた火炎が、上手く扱えなくなっていた。火精が消えたからなのか、精神状態が不安定な為なのか解らないが、一時休息しようと身を潜める場所を探す。
 荒い呼吸で無様に駆けずり回りながら、追っ手を巻きつつ、一つの部屋に逃げ込んだ。そこはアリアが使っていた機織がある部屋だった、目にした瞬間に笑いがこみ上げる。皮肉めいて首を横に振り、視線を逸らした。
 数日前はここでアリアの機織を見るのが好きだった、熱心な横顔は美しかった。優美に舞っている様な動作に、見惚れていた。だがそれはトバエを想っての事だ、だからこそ自然に悠々と動いていたアリアに絶望した。
 結局、自分は何がしたかったのかと情けなく笑った。

「何がしたかったって? そんなの決まっているだろ、オレは」

 疲労し、機織にもたれかかって喧騒を聴きながらそっと瞳を閉じた。「あぁ、愛してる。自分以外の誰も見て欲しくない、誰の事も考えて欲しくないと思う程に愛してるよ。愛されていると、アリアに愛されたかっただけだ」
 それだけ、の筈だった。
 
 地震に悲鳴を上げながら、アリアは逃げ惑う。余震が続いていたが、当てもなく彷徨い、気がつけば屋上に来ていた。

「アリア、止まれ、アリア!」

 後方から追ってくるトバエから、必死に逃げていた。合わせる顔など、なかった。逢いたかった、だが、逢いたくなかった。

「来ないでトバエ! トダシリア様が言うように、私、私最低なのです!」
「オレは全く気にしない! アリアが傍にいてくれればいいんだ」

 そうは言っても、もう戻れない事などアリアは解っていた。トバエがいっそのこと捨ててくれたほうが気が楽だとすら、思った。解っている、トバエは自分を”許す”と知っている。だから余計に近づけなかった。
 そんなことは、自分が許せない。
 ようやく追いついたトバエは、力強くアリアを抱き締める。泣き喚くアリアの背を、優しく撫でた。必死に、撫でた。

「気にしなくて良い、アリアも過去のことを忘れて一緒に生きよう。オレは平気だ、何も自分を卑下しなくても良い。トダシリアのことは、忘れて」

 アリアの身体が、小刻みに震える。トバエが苦笑いし、一瞬泣きそうに瞳を閉じた。何かを決意したように、瞳を開くと固唾を飲み込む。震えそうになる声を抑えて、冷静さを装って口にした。

「落ち着いて、アリア。昔の様にオレの名を呼んでごらん、大丈夫だ、オレは何処にも行かないから」

 昔の様に。
 その単語にアリアは我に返ると、衣服を握り締めながら小さく、名を呼ぶ。

「……トバエお兄様」

 一瞬唇を噛み締め何かに耐えたトバエだが、安堵してアリアの髪を撫でる。

「そう、オレはアリアの兄だ。……兄は、妹を護るものだ。だから、一緒にいよう。自分を責めなくても良い、オレは最初からアリアの兄。……アリアがトダシリアを愛していても、気にしない」

 アリアに言い聞かせたのか、自分に言い聞かせたのか。驚愕の瞳でアリアが見上げるとトバエは微笑んでいた、いつものように微笑んでいた。

「ここは、危ない。一緒に帰ろう、アリアおいで。アリアがトダシリアを想っていても……オレは構わない。夫婦でなくても構わない、アリアが望めば、また夫婦に戻るし、そうでなくても問題はない。それでも、オレは傍に居たい」

 唇を噛締めて、嗚咽するアリアの髪を、背を。ただ、トバエは撫でていた。決意を口にした、本心を口にした。
 トバエにとって最悪の事態は、アリアが悲しむこと。想いが違えども、アリアが無事で微笑んでいてくれれば構わないと思った。出来れば傍に居たいと、助けを求められればすぐさま手を差し伸べられる場所に居たいとは思ったが。

「もし……あの日あの村に、オレとトダシリアがニ人で訪れていたら。間違いなく、アリアはトダシリアを選んでいた。兄の立場を利用して、懐いている君を半ば強引に妻にしたのは、オレだ。アリア、君はオレを信頼し、家族同然だと想ってくれた。それを恋愛感情だと錯覚しても、仕方がなかった」

 と呟くトバエの声は、アリアの嗚咽に掻き消される。
 トバエは深い溜息を吐いた、自分で言ったことだが苦痛だ。自分の口で、アリ
アは愛していたわけではないと言った。
 嘘でも、愛し合っていると最期まで願っていたかった。本心は、アリアにしか解らない。恋愛感情があったのか、錯覚していただけなのか、それはトバエにも解らない。けれども、錯覚にしておいたほうが、アリアが楽になれるのではないかと、そう思った。
 あの村では、恋愛相手が限られていた。相手は最初から決まっているようなものだ、以前トダシリアが言った通り。

「以前と、同じだったろう。二人で目の前に現れていたら、間違いなくアリアの目に止まったのはオレではなく」

 揺れる館は、危うく。
 アリアを抱き抱えてトバエは避難しようとした、地震などというものに慣れてはおらず、それでも高いこの建物から逃げなければならないことくらいは解る。
 見渡せば、置かれている状況に血の気が引いた。噴火だけではなく、近隣の河が氾濫し水が迫っていた。
 海から離れているこの地だが、津波の勢いが河に入り、逆流してきたらしい。

「アリア、逃げるぞ! 流石に拙い」

 しかし、何処へ逃げるというのか。
 トバエが焦燥感に駆られて叫んだ時だった、再び地面が揺れたのは。
 倒れ込んだニ人の足元が崩れていく、建物が崩壊し始めたのだ。気味悪く揺れる視界に、アリアは耐えられず嘔吐する。舌打ちし、トバエがアリアに手を伸ばすがそれは宙を握る。その手をとらず、アリアは泣きながらトバエに微笑んだ。
 トバエの顔色が蒼褪める、あの表情を以前も見た気がした。一番させたくなかった表情だった、無理に感情を閉じ込めて諦めている時の表情だ。
 もう終わりだと悟った。

「私、いい加減で、ごめんなさい」
「気にしないと言っただろう! 悪いと思うならオレの傍にいろ! オレはそれで」
「でも、夫婦になったのに、他の人に心変わりするなんて、神様が許してくれないです」
「オレが気にしないからいいんだ、神なんて居やしない! もうオレが神とやらでいいだろう、それでいいから」
「……トバエお兄様ったら、トダシリア様みたいなこと、言うんだね。いつも、護ってくれて、ありがとうございました。大好きです」

 やんわりとアリアは微笑む、トバエは息を止めた。美しすぎるその表情はこの世のものではない気がした、儚く壊れそうなそれは、手の届かないものな気がした。
 アリアは懐から何かを取り出し、トバエに投げる。それを反射的に受け取ったトバエが次の瞬間見たものは、身投げをしたアリアの姿だった。

「アリア!?」
「あんなに優しいトバエお兄様を、酷く、傷つけたのに、一緒に居てもいいなんて、そんなこと。私が許さない」

 小さく呟いたアリアの声など、誰にも届かず。忌々しそうに自分を憎み嫌い、腸が千切れそうなほどの怒りを自らにぶつける。
 トバエの視界から、アリアの姿は完全に消えた。
 受け取ったものを堅く握り締め、すぐさまトバエはアリアを追ってそのまま落下した。彼女が生きていないのならば、トバエの存在価値など、なかった。
 握り締めていたものはアリアが織った額あてだ。前髪が邪魔にならず、汗も吸い取るので様々な模様でアリアは織っていた。何枚か持っていたが、その一枚を今でもトバエも額に撒いていた。 

 夢を見た。
 名も無き村の小さく黄色い花が咲き乱れている崖で、いつものように遊んでいると人の気配がした。振り仰いで見れば、紫銀の髪と瞳の少年が立っている。
 懐かしくて思わず崖を駆け上ると、アリアは彼に抱きついた。多少たじろぎながらも、彼は優しく抱きとめる。
「私は、アリア! おにーちゃんはなんてお名前?」
「オレはトダシリア。よろしく、アリア」
 フフフと、笑うと、二人はくるくると回る。初めて出会ったとは思えなかった、以前からの顔馴染みである気がした。
 やがてニ人はそのまま成長し、互いに愛を抱いた。小さな村の中で祝福され、婚約した。
 やがてアリアの欲しがった楽器を探す為に旅に出たニ人は、行く先々で暖かな人々の心に触れた。
「時の王様が賢王で、皆豊かに平穏に暮らしているよ。曇りない眼と、広い心で治めてくれているよ」
 ニ人は王に心から感謝した。あの小さな村と同じように、何処へ行っても人々は穏やかである。それは王の知性ゆえなのだろうと思った。
 誰しもが辛い事もあれども、大きな争いもなく過ごす事が出来る。素晴らしい世界だった。
 楽器作りの盛んな街に到着したニ人が、その仕上がりを待つ為に滞在していると、その王がやってきた。時折王自ら国の隅々の街や村へ出向き、人々に触れ話を聴いているのだという。
「トダシリア!」
 皆が感謝の祈りを捧げている中、懐かしそうに叫んだ王に皆が一斉に注目する。王であるトバエは、トダシリアの双子の弟だった。トダシリアとアリアの姿を見つけると、王であるトバエはそのまま歩み寄る。
「流石オレの弟、何処へ行ってもお前の評判は良かったよ。トバエに王位を譲って良かった」
「そんなことはない、まだ未熟だ。トダシリアはこの街で何を?」
 双子の話は積もり、アリアもまた、トダシリアの兄であるトバエに誘われて街の館で数日過ごした。
 トダシリアが王族であったことにアリアは多少驚いた、恐縮したが王子であろうと放浪の民であろうと、愛しいことに変わりはない。
 とても仲の良い双子の兄弟であったが、周囲が双子は不吉だと潜めいていた為、トダシリアが幼き頃自ら王位を放棄したのだという。
 トバエはニ人に王都へ来て欲しいと懇願したが、あの懐かしい村へ戻りたいと丁重に断った。だが、年に何度かは必ず会うために王都へ行くと誓った。
 アリアは、村で質素ながらも愛しい夫とニ人、つつましく暮らし平穏な人生を送る。手に入れた楽器を奏でながら、畑を耕し、布を織り、家畜の世話をして反復した生活ながらも、幸せだった。
 愛しているよと、毎日飽きもせず囁き合い満ち足りた生涯で幕を閉じた。
 余程離れたくなかったのだろう、先にアリアが静かに息を引き取ったが、追うようにトダシリアも隣で息を引き取った。大勢の子供達に看取られて、同じ墓に入れて貰った。
 命を授かったことに感謝した、トダシリアと出会えたことに感謝した。自分を包む全てのモノに、感謝した。

 ……そんな、夢を見た。
 もし、願いが叶うのであれば。次に、次に逢えるのであれば。

「邪魔にならないように、貴方を見ていたいです。見ているだけなら、良いですか。誰とも関わらずに居られたら、貴方は」

 アリアは、そう願った。一瞬、トダシリアの姿が見えた気がしたが、気のせいだと微笑する。「こんな私を、あの人が見つけてくれる筈がない。もう、名前すら……呼んでもらえなかった。こんな私では、私では、私では、幾ら望んだところで」

 瞳を開き、気だるい身体を起こして偶然窓を見たトダシリアは、落下するアリアの姿を見た。一瞬、瞳が交差した気がしたが、気のせいかもしれない。唖然としていると、次いでトバエが落下してきた。手に、何かを握り締めて。
 よろめきながら窓に近寄り下を覗き込めば、ニ人は手を繋ぐように寄り添って死んでいた。
 乾いた笑い声が出る「馬鹿な奴ら」と、うわ言を呟き、もつれる足で機織に倒れ掛かった。
 空虚な瞳が、何かを捕える。何かを視ることすら怠く感じていたが、それだけ鮮明に飛び込んできた。アリアが織っていた物が目に入った、トバエに織っていたのだろうと、思っていた。
 けれども。
 目の色が変わる、光が灯る、それを見つめる。
 それは大きな大きな、布だった。糸が足りなかった、布が大きすぎて、足りなかった。だから、頻繁に購入した。
 大事そうにそれを引き寄せたトダシリアの瞳に、じんわりと涙が浮かぶ。
 織られていたそれは、衣服ではなく掛け軸のようだった。火から連想したのか、赤い刺繍で国旗が縫われている。丁寧で細かい模様に混じって、紫銀で短髪の男の姿が縫われていた。
 トバエならば、長髪だ。短髪なそれは、トダシリア。 
 アリアが懸命に織っていたもの、それはトダシリアに贈るものだった。トバエに贈りたかったいつもの額布は、すぐに完成した。
 衣服では高貴なトダシリアに相応しくないだろうと、何処かに飾れるものにしたのだ。それくらいしか、アリアには思いつかなかった。自分の未熟な腕では飾られず捨てられるのがオチだろうと思ったが、どんな末路を迎えようとも精一杯想いを込めた。
 口に出来なかった想いを、布に託したかった。
 剣と鎧の騒々しい無粋な音と共に、兵士達が部屋に入って来る。
 布を大事そうに抱えたまま、トダシリアは涙を流して微笑んだ。その風貌に皆息を飲んだが、狂王の首を獲ろうと剣を向ける。煌めく刃を幾つも突きつけられると、喉の奥で笑いそのまま身を翻した。小馬鹿にするように顔を歪めて舌を出すと、勢いよく窓から身を投げる。
 誰が首を渡すものかとばかりに。
 地面にぶつかり、鈍い音を立てる。 
 兵士が下を覗き込むと、まるで寄り添っているような三人の亡骸がそこにあった。至る所が潰れているが、アリアを護るように、トダシリアとトバエが寄り添っている。二人共、薄っすらと微笑んでいるように思えた。

『ある処に、美しい双子の兄弟がいました。王子として産まれたその双子は大変仲が悪く、離別することになってしまいました。
 兄は残り、残虐な暴君として国を支配します。類稀なるおぞましい魔力により、近隣を支配したのでした。
 弟は去り、名もなき小さな村で美しい娘と出会い、恋に落ちました。つつましくも幸せな暮らしを送ったのです。
 やがて数奇な運命に導かれて、双子は再会しました。弟の妻となっていたその美しい娘に心奪われた兄は、街を破壊し弟を瀕死の状態に追い込み、彼女を手に入れてしまいます。死するかと思われた弟は、愛しい妻の必死の懇願により寸でのところで一命を取り留めました。
 兄は、あらゆる手段を使ってその娘を手に入れようとしました。国王である彼は、今まで何でも手に入れてきたのです。
 けれども、その娘は夫の身を案じて毎日祷りを捧げます。口を開けば、夫である弟の名を呼ぶ彼女に、兄はある種の憎悪を抱き始めていました。なんとかして、彼女の心を向かせたい……兄は躍起になりました。それでも、彼女の口から出る名前は弟ばかりです。
 ある日、兄は彼女を冷たくあしらいます。酷く蔑み、散々もてあそんだ挙句に弟に突き返しました。捨てられた彼女は、弟の元へと戻るにも罪悪感が邪魔して戻ることが出来ません。それでも弟は彼女に手を差し伸べました。弟にとって、彼女の想いが誰に向いていても愛すべき対象です。
 彼女に心奪われ、周囲に目を向けなかった兄である王は、一度起こった民の反乱と天災によりその身を滅ぼす破目になりました。
 地震、津波、噴火という大自然の前には、未知の能力を所持していた双子も為すすべなく、三人は息絶えたのでした。巨大な国は、一夜にして滅亡してしまいました。
 身勝手な国王への天罰だと、遠い土地の民は呟いたそうです』

 そして、始まる。終焉を迎えるまで、続く。
 ギィィィ、カトン、トン、トン。


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