今日もアリアは想いを篭めてスープを作り、パンを焼く。しかしそれがトダシリアへの想いなのか、トバエへの想いなのか、分からなくなっていた。 ただ暴虐なトダシリアだがアリアが料理をしている最中は、大人しく後方でそれを見守っているという事実は変わらない。それが可愛らしくて可笑しくて、思わず口元に笑みが浮かんでしまう。 出来上がりを食べてくれるだけで良いはずなのだが、何故かトダシリアは仕事の最中でも手を止めて厨房へ足を運んでいた。 それを、アリアは知ってしまった。狂王は他人に任せて仕事などしないと思っていたので、てっきり毎日暇だから戯れているのだと思っていた。しかし、そういうわけでもなかった。
「職務が、忙しいのでは?」 「忙しい。が、これとそれとは話が別だ」
料理が出来上がるまで、ワインを呑んでいるトダシリア。そのフルーティな香りはアリアにも届いた、豊潤な香りが高価なものであることを示している。といっても野菜を切っている間は良かったが、煮込み始めればすぐにワインの香りは消えた。 アリアの背中を見つめながら、ワインを口元に運ぶトダシリアは何も言わない。広い厨房だ、ニ人きりではなく周囲にずらりとコックは勿論、雑用係や兵士まで付き添っている。 だが時折トダシリアは錯覚した、周囲には誰も居らず、自分の為だけにアリアが料理をしてくれていると。ニ人きりで暮らしているのだと、アリアは自分の妻であるのだと。 それは、数年前からトバエが置かれていた環境だ。 恐らく、トバエも同じ様に後ろ姿を眺めていたのだろうと思った。こことは比べ物にならない貧相な狭い家で、しかしアリアとニ人きりで。 知らず、トダシリアは唇を噛締めていた。アリアの隣にいつしかトバエがいて、共に談笑しながら料理している……そんな映像が脳裏に浮かび、激しくテーブルを殴りつける。 その場に居た全員が驚き、身体を縮ませる。罵声が飛んでこないか背筋を伸ばして気を引き締めたが、トダシリアは何も言わなかった。 アリアも当然何か機嫌を損ねたのかと怯えたが、その大きな音以降は不気味な程静かだったので、気づかれないように深呼吸すると、冷静を装って振り返る。頬杖ついて渋い顔をしているトダシリアが見えた、出来上がった料理を運ぶ為に歩き出す。
「今日は根菜をたっぷり煮込んだスープです、パンは胡桃を入れて焼きました」
木のトレイにパンと出来上がったばかりのスープを乗せて近寄ってきたアリアに我に返ったトダシリアは、軽く頭を振った。 香辛料の香りが、食欲をそそる。トダシリアはそれを受け取ると、夢中で食べ尽くした。軽く頷き、時折嬉しそうに口元を綻ばせる。 その間に同じものがトバエへと運ばれて行く、それをアリアは静かに見送った。 瞬く間に食事を終え、トダシリアは背後に控えていた者に何か囁くと、運ばれていった食事を見つめたままのアリアの腕を掴み、部屋へと戻る。強引に腕を捕まれ、アリアは顔を顰めた。だが、抵抗することなく共に歩く。 部屋に入ると、どっかりと愛用のソファに腰掛けたトダシリアから避けるように、アリアは窓際の隅に移動する。 ニ人の定位置だった。 数分してワインのボトルにマスカット、チーズが運ばれてくる。ワイングラスになみなみと注がれたそれは、美しく澄んだ白だ。
「辛口だが呑むか? 爽やかな口当たりと、余韻が素晴らしいワインだ」 「い、いえ。ワインは苦手で」
意外そうに軽く瞳を開いたトダシリアは、口元を歪めながら小声で言いたくない名を告げる。
「トバエも好きだろう、ワインは。アイツのほうがオレより詳しかった、一緒に呑まなかったのか?」
確かに、トバエはワインが好きだった。葡萄が豊作になれば村中総出でワイン作りに精を出したが、アリアは頷きつつも首を傾げる。二人とも子供の頃からワインを呑んでいたのだろうか、トバエとアリアが出逢った時はワインなど嗜んでいなかった。二人が共に暮らしていたのはそれより前の筈なので、違和感を覚える。 しかし王族ならば子供の頃から、水を飲むようにワインを呑んでいたのかもしれないと、勝手にアリアは解釈した。
「……後悔している」
ワインを呑みながら、トダシリアが呟いた。グラスを片手に立ち上がると、部屋の隅にいたアリアへと足先を向ける。一瞬身体を引き攣らせたアリアだが、トダシリアが近づくことはなかった。窓辺に移動し、風に当たりながら外を見つめ言葉を続ける。
「オレとトバエの立場が逆だったら、よかったのに」 「……え?」
何を言い出したのかと、聞き間違いかと、アリアは狼狽する。
「あの時、城に残ったのがトバエで、旅立ったのがオレだったならば……今頃オレとアリアは夫婦だった。そうだったら、よかったのにな」
身体が硬直し、絶句した。数秒混乱していたが、徐々に笑いが込み上げて、アリアは瞳を大きく開く。しかし、声には出さなかった。湧き上がった感情が何か解らなかった。 そんなアリアを他所に、トダシリアは続ける。
「そうだろう? 間違いなく、そういうことになっていたはずだ。違うか?」 「で、でも、貴方が国王の座を捨てて旅に出るなんて、有り得ないことですから」
アリアは、上ずった声でそう答えた。それは違うと、直様反論できなかった。言おうとして言葉を詰まらせたので「有り得ない」と言い切ってみた。 もし本当にトダシリアが国王の座をトバエに譲り、アリアの村に来ていたならば。この瞳で微笑みかけられ、幼い頃に両手を広げられていたならば。 或いは、いや、間違いなく。
「ふ、夫婦になんて、なっていません! わ、私はトバエだから愛して夫とし、妻となったのです。あ、貴方を愛するだなんて」 『間違いなく、恋に堕ちていた』
脳裏に過った考えを捨てるように、焦ってアリアは叫ぶ。しかし、耳元で誰かが思考を肯定する様に囁いたので、途中で言葉を飲み込んだ。 確かに脳裏には描かれていた、手を取り合い、村を歩く自分とトダシリアの姿が。何故かそれが自然に思えた、そして「そうだったらよかったのに」と思ってしまった自分がいた。蒼褪め、幻聴を聞かないように耳を塞ぐ。 トダシリアは、皮肉めいて笑った。震える声で否定したアリアを瞳の片隅に入れ、グラスのワインを一気に飲み干すと、早足で近づき壁に押付け唇を奪う。 アリアが狼狽していることなど明らかだった、今の言葉が本心ではないと思っていた、知っていた、願っていた。 押し返すように抵抗したアリアだが、唇をこじ開けて深く舌を突き入れると、一瞬仰け反り大人しくなる。催促する様に舌を舐め上げれば、たどたどしく舌を絡ませてきたので唇を離した。 二人の唇から、唾液が糸を引く。
「強がるな、間違いなくオレを愛していた。他にお前を愛し、愛する男などその村にいたのか? いないだろう、自然にオレ達は愛し合った筈だ。……つまり、アリア。お前は自分と同じ年頃の男なら誰でも良いんだ、偶然トバエがその場にいただけで」 「ち、違いますっ」
荒い呼吸のアリアは、必死の形相でトダシリアを睨みつけた。だが、涙を浮かべていては全く威圧感がない。
「違わない、認めたくない必死の抵抗だろ? 口では何とでも言える、その頭の中を覗き込めたら、オレが今言った通りになってるんじゃないか?」
面白がって顔を近づけ、鼻先を軽く噛む。「もっと想像してみろ」と耳元で囁けば、吹きかかる息にアリアは声を上げそうになり、慌てて唇を噛締めた。 そう囁かれても、すでに想像はしていた。想像してしまったから抵抗している、トダシリアが隣に居ることが安易に想像出来てしまったのだから。 トバエと同じ瞳と髪の色が、アリアを混乱に陥れた。容易く、想像できてしまった。言う通りかもしれないと思っていた、村には他にも男はいたが、幼い頃から共に過ごしていた相手を自然に選んでいたのだとしたら。 不意に、ニ人の視線が交差する。思わず顔を背けるアリアだが、顎に伸びてきた手がそれを阻み、再び口付けされる。 深く激しく、絡まる舌。乱暴に口内を犯されることにも、慣れた。慣れるどころか、アリア自身絡めてしまうことにも気付いていた。最初は強要されたので仕方なくだった筈だが、今は違った。
……この人は、私の気持ちが揺れ動いているのを知っている。 後頭部を撫でられ、腰を抱き締められながら壁に押付けられ口付けされる。震える両足の間に割って入ってきたトダシリアの右脚は、いとも容易くアリアの足を開かせた。 唇が離れ、首筋を噛むように舐められ始めたアリアは、身体を震わせた。トダシリアの背に腕を回し、必死に衣服を掴んで声を堪える。
……恐らく、私を屈服させたいの。私を陥れて、トバエに屈辱を与えたいのです。そうでなければ、執着する意味が分からない。
淫靡な音が室内に響く。何時の間にかはだけた胸元には、新しく赤い痕が幾つもつけられていた。それでも、必死に声を我慢する。思い通りになるものかと、堪えた。 掴んでいる衣服からは暖かな体温と、最近間近に感じるトダシリアの香りがする。眩暈を起こしそうだった、その香りを昔から知っている気がして混乱してしまう。素直になったほうが楽なのかもしれないとも思った、だがそれでは自分が許せない。
「”愛する”とは、なんと軽薄なんだろうな。出逢えたことが運命なのか? もし、オレ達のどちらもアリアに会わなかったらお前は誰の妻になっていたんだろう」 「そんなのは解らないです……。け、けれど、トバエだから私のいる村に辿り着いたんです、彼は必ず来てくれました。でも、貴方だったらきっと辿りつけていないと思います」 「成程、辿り着けない、か。あくまでトバエの妻であると言い張るか」
急に髪を摑まれ、顔を上げさせられる。驚いて悲鳴を上げたアリアの瞳に、真面目なトダシリアの顔が飛び込んできた。いつものように残忍な笑みは浮かべていない。
「辿り着いたトバエを、運命の恋人とするか? ……前世で、お前達は恋人ではなかったのに」 「ぜ、前世?」
突拍子もない事を言い出したトダシリアに、痛みを堪えつつアリアは問う。 ”前世”などアリアは信じていなかった。死んだ魂は誰しも空に還り、天国で暮らすのだと聞かされて来た。 産まれ変わるなど、有り得ない。
「ま、まさか貴方が私の前世の恋人だと?」
引きつった笑みを浮かべてアリアは告げる、それこそ茶番だと思った。 表情を崩さす、トダシリアは静かに首を横に振る。 アリアの唇から溜息が漏れた、威張り散らして『あぁ、そうだとも』と言われると思っていたので、拍子抜けした。『運命の恋人は自分だ、トバエを裏切っても神は赦す』そう言い放ち、甘く優しい危険な手を差し伸べてくるのだと、そう身構えていたのだが、違った。 唖然とアリアはトダシリアを見返す。
「違う、オレじゃ……ない」
絞り出した声に、鳥肌が立った。何かが身体を駆け抜けていった気がした。
「そ、そうですか」
では誰だというのだろうか、問おうかとも思ったが、アリアは他に思いつく男などいなかった。 沈黙が流れる、想像しなかった事態にアリアは狼狽した。 恋人ではないと言い切られたら、何故か哀しかった。胸が、痛んだ。前世などないと、想像上の御伽話だと言い聞かせる反面、どうしても泣きそうな自分がいる。 アリアはそれに動揺した、言って欲しかったのだろうか、『オレが恋人だった』と。そう言われることを、期待していた気がした。振り払うように、思わず声を張り上げる。
「じゃ、じゃあ! 誰が」 「逢いたいか?」
挑むような目つきで見つめてきたトダシリアに口篭り、遅れて首を横に振ると、気丈に鋭く見返す。
「いいえ、私にはトバエだけですから」
ようやくトダシリアはその言葉に笑った、想像通りだったからだ。『逢いたい』と言い出したらどうしてやろうかとも思っていたが、言わなかった事に安堵した。「流石に”今”が大事か」小声で呟く。 怪訝に見つめるアリアの髪を掴むのを止めると、再び唇を塞ぎ太腿をまさぐる。仰け反るアリアを抱きとめる腕に、力が籠もった。
「まぁ、逢いたいと言ったところで、逢えないがな。殺してきてしまった、あの街で」 「こ、殺した?」
平然と恐ろしいことを口にし、アリアは青褪めた。呆然とその言葉をアリアは繰り返し、やはりこの男は自分達と住む世界が違うのだと恐怖を抱く。
「殺した。気の毒だったかな、奴も愛しいお前を一目見たかっただろうに。記憶を取り戻して息絶えたからな、思い出さなければよかったものを」
ククク、と低く嘲笑する。手際良く衣服を脱がせ始めながら、普段通り狂気の瞳でアリアを覗き込んだ。 が、不意にその表情が強張る。
「待てよ? まさか、お前。トバエの目を掻い潜って奴とも寝てたりしないよな」 「ば、馬鹿にしないで下さい!」
間入れず叫ぶ、顔が一気に熱くなるのを感じた。頭に血が上り思い切り腕を振り上げるが、そのアリアのか細い腕はいとも容易く受け止められる。悔しそうに歯軋りするアリアを、愉快そうにトダシリアは見つめてから開いた胸元に顔を埋める。
「思い出していないフリでもしているのか、アリア? オレもトバエも、奴らも思い出したというのに。……どうにも、思い出さないんだな。お前が思い出さないわけがないだろう、一番力が強かった癖に」 「な、なんのことですか」
言いながらもアリアの唇から上ずった声が漏れる、自分の身体はすでにトダシリアに慣らされた。良いように扱われていた、必死に声を堪えるが抗うにも限度がある。壁に手をつかされ、そのまま背後から強引に突き入れられると流石に声が我慢出来なかった。 嬌声を上げるアリアを見下ろしながら、トダシリアは熱い身体とは逆に冷めた瞳で唾を吐き捨てる。
「オレの事、どう想っている? 嫌ではないだろ、今だってほとんど抵抗していない。オレでも良くなってきたんだろ、違うのか? ん?」 「……トバエだけ、です。トバエに逢う為に、こうしてっ」
と、反論したアリアだが、実際分からなくなっていた。
「嘘くさい。お前結局誰でもいいんだろ、”オレ達”は馬鹿みたいにお前を追っているのに。お前だけは」
トダシリアが何を言っているのか解らなかったが、考える余裕がまずない。慣れた手つきでアリアの敏感な部分を責め立ててくるのだ、思考は途切れてしまう。 けれど、押し寄せる快楽に身を任せると思ってしまうのだ。 もし数年前、村に来ていたのがトダシリアだったならば。普通に、ニ人仲良く暮らしていたような気がしてならない。それこそ、甘いひと時を。妙にそれがリアルに思えて仕方がなかった、常に寄り添い手を繋いで森を駆け巡っていただろうと。 しかしそうなると、トバエはどうなるのだろう。 トバエならば、立派に国王を務めて誰からも愛されるのではないか。余程、この狂王が治めるよりも、皆幸福になれるのではないか。 そのほうが良い気がしてきた、二人が逆だったらと思い始めた。 言い訳を作った。皆が幸せになれるから逆が良いのだ、などと言っても、本音は『トダシリアが村に来て欲しかった』それだけだ。
「トバエ! トバエ!」
アリアは、何度も男の名を呼んだ。自分を後ろから犯している男ではなく、違う男の名を呼んだ。本当の夫の名を呼んだ、今心を傾けつつある男ではなく、昔思っていた男の名を呼んだ。 呼んでいないと、気が狂いそうだった。どこかに逃げ道を作らないと、トダシリアに堕ちる自分を知っていた。相手は国王だ、自分に執着しているのがトバエを苦しめるだけだというのならば、そこには愛などないだろう。求められているわけではなく、一種の戯れだとアリアは痛感していた。 だから、トダシリアの名を呼ぶわけにはいかなかった。 必死に言い聞かせる、自分が愛しているのはトバエで、トダシリアではないと、自分を愛してくれているのはトバエで、トダシリアではないと。 「オレの名を呼ばないか、アリア!」
何度肌を重ねても、連呼するのは弟の名。トダシリアは苛立ち、アリアの髪を無造作に掴むと頭を壁に打ち付ける。鈍い音がして、痛みによる悲鳴が上がる。
「オレは、トダシリアだ! トバエではないっ」
悲鳴を無視して何度も壁に頭部を押し付けるが、アリアは泣きながら名前を呼び続けた。
「トバエ、トバエ!」 「っ、こ、のっ!」
何をしても、トダシリアの名は呼ばない。 舌打ちし萎えてしまったのか、アリアを床に突き飛ばすとトダシリアは壁にかけてあった剣を引き抜く。床に蹲り、嗚咽しているアリアの腕をその剣先でなぞれば、肌に薄っすらと血が滲んだ。
「オレの名を呼べ。抱いている最中に他の男の名を呼ばれるなぞ、胸糞悪い。萎えるだろうがっ」 「い、いやです」
力なくも床を這って隅に逃げたアリアは、助けなど来ない事を知っているが抵抗を試みる。斬られた肌がピリピリと痛み、腕を庇って顔を背ける。
「強情な奴! まぁいい、何処まで我慢できるか試してみるか」
何故名前を呼ばないのか、それだけの事なのに頑なに拒否されいい加減苛立ちが募っていたトダシリアは近づき、剣を振り下ろす。とにかく、名を呼んでもらいたかった、それだけだった。
「っ!? ぁ、ああーっ」
まさか、本当に容赦なく斬られるとは思いもしなかった。宙にアリアの鮮血が舞う、何が起きたのか解らず、数秒遅れてアリアの盛大な悲鳴は館に響き渡る。右腕から滴る血痕が、床に敷かれた上等な刺繍の絨毯に染み込んでいく。 「あ、あ、あ、あ、あ」
広がる赤色を見つめていると、気分が悪くなってきて舌が回らない。鉄の香りが鼻について、痛みより吐き気を覚えた。
「痛いか? だがな、トバエの名を呼ぶお前を抱いていたオレの心は、もっと痛かった。当然の報いだ」 「そ、そんなのっ」
嘘だ。……と、言おうとして再び悲鳴を上げる。右手首をつかまれ、身体を持ち上げられた。斬り口を噛むように押さえつけ、舌で傷口を広げるように動かされたのだ。
「い、いたっ、痛いっ、いたっ」
狂っている、とアリアは思った。 間違っても愛する人にする態度ではない、やはりただ、戯れに言わせたいだけなのだと思いつつも、激痛で思考が止まる。
……この人は、私を愛してなど、いない。
唾液が、肉に染みる。歯が、さらに追い討ちをかける。自分の身体が今どうなっているのか、解らなくなってきた。ただ、痛い。
「や、やめ、やだぁっ!」 「アリア、お前の血は甘美だな。美味いよ、マスカットよりも、あぁ、ホントに美味いよ」
口元を鮮血で滴らせながら微笑したトダシリアがうっすらと見えた、アリアは悲鳴を上げる。もう、恐怖しか湧きあがってこない。人間ではなく、悪魔なのだと、自分の手に負える相手ではないと思った。
「痛いだろうが、少し我慢しろ。思った以上に……美味いんでね」 「たす、たすけ、助けてぇっ! トバエ、トバエ!」
トバエの名がアリアの唇から零れるたびに、トダシリアはアリアの肉に噛み付きその血を啜る。 アリアの気が遠くなってきた、こんな猟奇的な人物は知らない。人の血液を嘗めているトダシリアが、正真正銘の悪魔にしか見えない。
「たすけ、てぇ……」
力なく、身体をトダシリアに預けるアリア。顔面蒼白で今にも気を失いそうだった、いやすでに呂律回らず、白目を向きそうだ。
「トダシリア、と呼べ。抱いてくださいトダシリア、と請え。先程の続きをお願いしますと、懇願しろ」 「たす、け」
それでも、名を呼ぶことだけはしなかった。一回でも呼んでいたら斬られることはなかったかもしれないが、少しでもこの男に気を許した自分が愚かだったと抗う。いつしか、アリアは意識を手放した。
「……おい、おい!? チッ、気を失ったか」
夢中で血を啜っていたトダシリアだが、反応がなくなったアリアを抱き抱えると、ベッドに運ぶ。その青白い頬を軽く叩くが、アリアは動かない。見れば、右腕は真っ赤に染まっている。傷口に何度もトダシリアが噛み付いたおかげで血液は凝固せず、流れ出るばかりだ。
「気を失っていれば、トバエの名は呼ばないか」
不意にそう呟いたトダシリアは、アリアの上に圧し掛かるとそのまま抱き始める。傷の手当てをしてやらねば、とも思ったが柔らかな唇に舌を這わせると忘れた。 アリアの悲鳴を聞きながら血を堪能し、異常な興奮状態になっていた。昂ぶる自分を、解放しなければいけない。大きく足を開かせ、無理やり突き入れると腰を振る。
「アリア。お前、どうしたら、オレの名を呼んでくれるんだ。トバエじゃないんだ、オレ、トダシリアなんだ」
と、呟いても。 アリアには、聴こえない。切なそうに口付け「愛している」と耳元で囁こうとも。アリアには、届かなかった。
翌朝、アリアが目を醒ますと右腕は薬を塗られ包帯を巻かれていた。あの後、治療を施してくれたのだと解り、複雑な心境になる。
「痛むか? 悪かったな、流石にやりすぎた」
声に慄き悲鳴を上げ逃げようとするアリアに、トダシリアが覆い被さる。 再び狂気めいたことでも始めるのかと思えば、トダシリアは優しくアリアを抱き締めた。
「っ!」
予想外の態度が、余計に怖い。
「怖かったか? ……アリアが小意地になるから、悪いんだ。まだ、痛むか? 傷に良い薬草で粥を作らせた、食べろ」 「ぅ」
しかし声が、優しく。瞳が、迷子の子犬のようで。腕の温もりが、安堵出来て。その肌の香りと居心地を知っていた気がして。 思わずアリアは頷いてしまった。 粥を食べさせてくれた、一口分が喉を通れば、トダシリアが微笑する。 その表情から逃れようと、アリアは顔を背けた。 昨日、あのような恐ろしい目に合わされたというのに、どうしてこうもこの男が気になるのか。何故気を許してしまうのか、恐怖が薄れていってしまうのか。
「美味いか」 「は、はい」 「そうか、よかった。だが、オレはアリアのスープのほうが好きだな」
言って笑うトダシリアに、思わず息を飲む。
「早く右腕を治せ、また料理してくれ。今は痛むだろうから控えろよ」 「は、はい」
素直に頷いたアリアに一瞬驚いたが、すぐに屈託のない笑顔を浮かべたトダシリアは唇を塞いだ。粥の入っていた器を放り出し、右腕に触れないように重心をかけて押し倒していく。 微かに顔を赤らめて、恥ずかしそうに髪をかき乱す。
「……参ったな、そんな顔するから」
照れた子供の様な可愛い仕草に、思わずアリアは訊いてしまった。
「ど、どんな顔してしました?」
観念したような顔をして唇を塞ぐと、優しく舌を入れる。耳を撫でて、アリアの身体が反応してきたのを確かめると。
「薄っすらと頬を赤く染めて、穏やかに微笑んだ。オレが好きで好きで仕方ないみたいに」
そう囁き、髪を撫でる。
「う、うそっ」 「痛めつけられたのに、それでも構わないと。構って欲しくて、嬉しいんだか? 口ではトバエと名を呼んでも、アリア……お前はオレを気にしてるな? 違う名を連呼するのは、オレへの想いに歯止めをかけるためか?」
喉の奥で笑い、アリアの顔を覗きこむトダシリアが息を飲む。反抗してくるとばかり思っていたアリアが、赤面し言葉を失っていたからだ。 意表をつく反応に、トダシリアも困惑する。確かにそうだと嬉しいとは思っていた、願っていた、だが違うと思っていた。
「え」 「あ、ち、ちが、違うんです、違いますからね!? き、気にしてなんていませんから、からっ」
今更、否定したところでどうなるというのか。 涙目で見上げられ、トダシリアの喉が鳴った。 頬を赤く染めて困惑している様子に、アリアの胸が高鳴った。 トダシリアは、夢中でアリアの唇を奪う。力を篭めないようにと思いつつもそれは無理な話で、アリアの右腕には激痛が走った。
「アリア」
名を呼びながら、無我夢中で抱いてくるトダシリアに、アリアは。思わず、名を呼んだのだ。「トダシリア様」と。痛みのせいだと言い訳をしながら、身を任せた。 本心に身体を預けて、目の前にいる恐ろしい筈の男の名を呼んでいた。
キィィィ、カトン。
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