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作品名:DESTINY 作者:把 多摩子

第150回   始まりの唄『外伝2-7 女が一人』
「久し振り、トバエ」

 兵達の中から、金銀細工を嫌味なほど身体に纏って現れたトダシリアは、大層機嫌が良さそうだった。子供の頃となんら変わりは無いトバエの身に災いが降りかかる前の、不気味な笑みを浮かべている。当然成長していたが、一目で自分の双子の兄だと解った。昔の面影はそのままに、瞳に宿る悍ましい光は増した気がする。
 面白がって軽く手を振っているトダシリアに、心底吐き気がする。不敵に微笑んだその表情が、酷く歪んで見える。
 震えているトバエに気がついたアリアは、そっとフードの隙間からその相手を見つめた。
 トバエと同じ髪と瞳の色だと思った、目の前の相手のほうが若干幼く見えた。無邪気な笑みを浮かべているように見えたが、トバエが恐れ戦いている様子にアリアは息を飲んだ。
 常に傍にいて力強く頼れるトバエが、非常に小さく見えた。

「貴方は……だぁれ?」

 そんな恐縮しているようなトバエに代わり、彼を護ろうとアリアが一歩前に進み出た。舌打ちしてトバエが背に隠すが、遅い。
 トダシリアはすでにアリアを視線で捕らえ舌なめずりしていた、トバエの顔が青褪める。喉の奥で笑うと、困ったように首を傾げるトダシリアはアリアに手を伸ばしていた。

「初めまして? になるんだろうな。トダシリアと申します、トバエの双子の兄ですよ、アリア」
「双子?」

 だから瞳の色も髪の色も同じで、どこか雰囲気が似ているのかとアリアは納得した。だが怒鳴りつけるトバエの声に身体が震えて、反射的にその背に隠れる。

「どうしてお前がアリアの名を知っている! 一体何をしにオレの前に現れたっ」

 怒りに溢れたトバエの表情を、アリアは息を飲んで見上げた。初めて見た、大きく瞳を開き相手を全身で威嚇しているトバエを。常に寄り添ってきたがここまで敵意をむき出しにしているトバエは、見た事がない。以前盗賊や人攫いに襲われた際とて、トバエは無表情で冷淡に敵をねじ伏せただけだ。
 余程の相手なのだとアリアは思い、唇を固く結ぶ。トバエの敵は、自分の敵だと言い聞かせる。双子の兄がいただなどと聴いてはいなかったが、話したくない事情があったのだろうと察した。

「あの、トバエのお兄様。私達急ぎの用なのです、通して下さい」

 強気に発言したアリアを、トダシリアは大きく瞳を開いて見つめた。
 今にも斬りかかってきそうなトバエだが、その左腕にはアリアがいた。寄り添っているニ人を何気なく見つめていたが、大きく口元を歪めて唾を吐き捨てると、トダシリアも腰の剣を引き抜きトバエに向ける。

「心外だな、トバエ。質問なんぞしなくても、オレが現れた理由など知っているだろうに。だから背に必死で隠しているんだろう、アリアを。オレの標的がアリアだと……解っているんだろう?」

 歯軋りするトバエと、軽く身動ぎするアリア。何故、自分の名が出たのか全く理解出来なかった。トバエがアリアをきつく抱き締める、知らず、力を込めていた。あまりの強さにアリアが軽く眉を潜める。

「というわけで、アリアを貰いに来た」
「逃げるぞ、アリア!」

 言うが早いか、トバエが氷柱をトダシリアに投げつける。アリアの腕を強引に引っ張り、荷物を放り捨てて近くに居た馬に飛び乗った。アリアを引き上げそのまま前に乗せると、馬の腹を蹴り加速する。

「邪魔だ、退けっ」

 機転を利かせて立ち塞がった兵士達にも氷柱を放つと、一気に馬で駆け抜ける。周囲は、喧騒に包まれた。他人を気遣ってなどいられない、なりふり構わずトバエは逃亡する。
 身を案じ駆け寄ってきた兵に薄ら笑いを浮かべると、紙一重で避け地面に突き刺さっている氷柱を一瞥したトダシリアは、そこに火炎を投げつけた。
 徐々に氷柱は解けて水となり、地面に染み込む。その様を見つめていたトダシリアは、地面に広がる水を蒸発させんとばかりに、再び火炎を投げつけた。

「水は、形を変えて氷になる。けれども、氷も形を変えて水に戻り、地に」

 ぼそ、と呟いた言葉は誰にも聞こえなかった。

「水と地は、共に。大地に豊かな河があればその地は繁栄する……」

 何を言い出したのかと、兵達は訝しげにトダシリアを畏怖の念で見つめた。トダシリアは暫し乾いた地面を見つめたままだったが、ようやく剣を腰に収めると不敵に笑った。指先に火を灯す、若干自嘲気味に笑う。

「どうやらこの時代、オレのほうが勝るらしい……勝てる”アイツ”に勝てる!」

 両手を頭上に掲げたトダシリアの瞳が妖しく光り、口角が徐々に上がっていく。

「ラファシの兵は帰国準備に入れ! あのニ人を炙り出す」

 途端、掲げた両手から四方に火炎球が飛び散った。地面に落下するもの、建造物に直撃し破壊するもの、街路樹に燃え移るもの、幾つもの球をトダシリアは発生させて飛ばし続ける。

「お、おやめくださいませ、トダシリア様! こ、これでは街が」

 慌てて止めに入った一人の兵士だが、トダシリアに睨まれると喉の奥で悲鳴を上げてそのまま倒れ込んだ、絶命したのだ。彼の鎧はラファシ国のものではない、この街の兵士である。トダシリア配下のラファシ兵は、直様トダシリアの言いつけ通りに帰国準備に入っていた。
 命が惜しいからだ。

「面白いじゃないか、あのニ人が何処まで逃げられるか。……古来より、狩りを男は愉しんできた。さぁ今から、極上の獲物を捕らえる愉しい愉しい時間の始まりだ! あぁ、この湧き上がる興奮と高揚感! 堪らないね」

 数人腰を抜かしている兵がいる、無論それはラファシの者ではない。トダシリアの異端な魔力を初めて目の当たりにすれば、誰とてこうなるだろう。だが、それでは逃げ遅れてしまう。
 冷静に非難する兵達と、突然の予想だにしない出来事に悲鳴を上げて逃げ惑う街の人々で街は溢れ返る。瞬く間に、街は炎に包まれていった。

「簡単に摑まるわけないよなぁ、トバエ? 抵抗してみろ、オレを愉しませてみろ、トバエェッ!」

 その瞳は、生き餌を見つけ今にも飛びかからんとする獣の光に満ち溢れていた。愉快で仕方が無い時間が訪れる、欲求を満たすための貴重な時間だった。

「出て来い、トバエ! 反撃はどうしたっ!」

 トダシリアが両手を勢い良く振り下ろすと、そこから燃え盛る炎が赤い光を放ちながら一直線に突き進んだ。避ける事ができなかった者は、瞬時に灰と化す。閃光と灼熱に周囲は覆われ、避けたとしても結局命を落とす。

「さて」

 前方の建物は吹き飛ばしたので、満足そうに直進していくトダシリア。首を軽く鳴らして、意気揚々と笑う。
 燃え盛っている街を歩く、普通ならばその場にいるだけで火傷する温度だが、トダシリアは術壁を身に纏い熱などもろともしなかった。それ以前に炎がトダシリアを避けているようにすら見えた。完全に火を操っているのだ。

「焼け野原にしたほうが、手っ取り早いか」

 言いながら両手を四方に動かした、無造作に手を動かすだけで出現した火炎球が飛び散り辺りを燃やしていく。消火活動など、出来るわけが無い。皆必死に街から逃れようと必死だった。
 誰しも、敵わない事など見れば解っていた。阿鼻叫喚で覆い尽くされた街、標的を炙り出す為に犠牲となる街の人々。
 ふと、トダシリアの歩みが止まる。
 前方に影が二つ、立っている。トバエとアリアかとも思ったが身長の差から違うと直様解った。肩を竦めて気の毒そうに瞳を閉じると、影に向かって会釈をする。
 その二つの影の周囲には、炎がない。掻き消えている。

「これはこれは、ルイス嬢の兄上ベリアス殿と……その弟君リオン殿。こんにちは、本日は結構なお天気で。お散歩ですかな?」

 ニ人の男に呼びかける、喉の奥で笑いながらも瞳は全く笑みを浮かべていない。炎を操るにしては、妙に冷たく凍て付いた瞳をしていた。
 立っていたニ人の男は、真正面からトダシリアを見つめている。
 一人は三十代前後に思えた、がっしりとした身体つきだが非常に端正な顔立ちをしている。槍を構えていた。
 もう一人は二十代前後だろう、幼く華奢な身体だが杖を掲げて睨みつけている。
 ニ人はトダシリアがこの街を訪れていた要因の一つだ、このニ人の妹をトダシリアの側室に、という話が浮上していた。本来ならば妹ルイス嬢がラファシを訪れる筈だったのだが、トダシリア自ら迎えに上がるとなり、こうして滞在していたのである。
 自ら足を運んだのは他でもない、この地に行けば何か愉快なことが起こると直感したからだ。でなければ顔すら知らない一人の女を、迎えに行くわけがない。女など、吐いて捨てるほどいるのだから。
 ルイス嬢は由緒正しい名家の娘で、一族は世界にも名を馳せている。すでにトダシリアは百人ほどの側室を抱えつつ、正妃は勿論の事、第五妃まで揃っているまだ足りない。足りないというか、娘らを献上して来るので適当に皆を置いているだけだ。
 トダシリア自身、誰が自分の側室なのか判っていない。暫く顔を合わせていない妃すら存在する。

「現代の王は凶王だと噂があったが、事実だったようだな」

 ベリアスが口を開き、細い瞳を更に細める。軽く槍を振ってから、再び構え直す。

「赦さない……! この街の惨状、このまま生かしておけば同じ様な街が増えるだけ」

 リオンが杖を振り翳した、憎悪に瞳が燃えている。
 ニ人を興味深そうに見つめていたトダシリアだが、軽く首を傾げると気だるそうにやる気のない拍手をした。

「逃げる余裕があっただろうに、オレに向かってくるとは。その馬鹿さ加減を表しよう」

 肩を竦めながらも満足そうに微笑んだトダシリアは、目の前で敵意を露にし突撃してきたニ人に両腕を差し伸べた。
 無論そんなことでニ人は足を止めない。リオンが杖から疾風を巻き起こした、ベリアスが光り輝く槍でトダシリアを突き刺そうとした。

「遠い昔……オレが手にしていたのは火の力」

 リオンの疾風を火炎の勢いで押し戻した、ベリアスの輝く槍を自ら作り出した燃え盛る炎の剣で受け止めた。驚愕の瞳でそれを見つめるニ人に、軽やかにトダシリアは微笑む。

「お前達ニ人が手にしていた力は、光と風。……残念だったな、地獄の業火には敵わない」

 直様次の攻撃態勢に入ろうとしたベリアスとリオンだが、不意に身体が硬直する。

「ニ人も力、所持していたんだなぁ……。トバエもだけど、どうやらオレが最も操る能力に長けているらしい。”昔とは”違うんだよ」
「ガハッ!」
「ベリアス!?」

 途端、ベリアスの脇腹に火の剣が突き刺さった。肉が焦げる香りとベリアスの絶叫が響き渡る、リオンが再び杖を振り翳すがその身体を強大な火炎の壁が襲った。

「り、リオ……」

 弟の姿が、瞬時に消えた。燃えカスすら、残らなかった。唖然とそれを見つめたベリアスの四肢に、火炎の弓矢が突き刺さる。地面に倒れこもうとするベリアスの首元を、無造作にトダシリアが掴む。

「おっと、地面に倒れてもらっては困るかなぁ。……残念だったな、お前らニ人も”また”会いたかったんじゃないか? ここに、居たのに。あぁ、それとも、お前はすでにトバエの目を掻い潜ってあの女を抱いているのかな? 今回手にしたのはトバエみたいだ、あのニ人”夫婦”なんだとよ。ククッ、笑えるだろ?」
「お、おま、おまえ、は」

 呼吸ままならず、掠れた声で懸命に言葉を紡ぐ。そんな中でベリアスは哀れんだ瞳で、一瞬トダシリアを見つめた。
 何故そんな瞳で見つめられたのか理解出来ず、見下された気がしてその顔に唾を吐き捨てると、トダシリアは手に力を篭める。
 ベリアスの身体から、炎が溢れ出た。燃え尽きる前に首が取れて、地面に転がる。その転がった頭部を踏みつけ、頭蓋骨を砕く。

「……トバエは、もっと歯ごたえあるよな? こんなニ人みたいにあっさりと、平伏さないよな? あれぇ、オレ……強くなりすぎた? ククッ」

 燃え盛る炎の中、自分の両手を見て吹き出す。

「残念だったな、ニ人とも。ここまで差がつくと、どうにもならないね。しかし……アンタのおかげで、如何に権力が役立つものか解ったよ。成程、素晴らしい。下々の者を顎一つで動かす事が出来る、皆がオレに頭を下げる……権力って、イイね」

 ゆっくりと、笑い出す。腹の底から笑いが込み上げてきて、止まらなかった。瞳を閉じれば、瞼に焼き付いて離れない美少女が浮かぶ。

「あれは、オレのだぁ! オレの、女だぁぁぁっ!」

 逃げ惑う人々に紛れ、トバエとアリアは街を疾走する。逃亡することが前提だったのか、兵が至る所に配置されていた。馬を狙う攻撃を交しながら、トバエは馬を走らせる。
 民に悪気はないのだが人々が前方を塞ぎ、焦りを感じた。「退いてくれ!」と叫んでも退くわけが無い。皆この場から少しでも安全な場所へ行こうと必死だ、道は押し合う人々で埋め尽くされている。自宅から有り金を全て持ち出し、家族で逃げ惑う。この騒ぎに便乗して窃盗に走る者達も居たが、誰も咎めなかった。
 それどころではない、他人を気遣ってなどいられない。
 どのみちこの火力では直に街は燃えてしまうだろう、消火活動をしている者などいなかった。最初は居た、だがこれはただの火災ではない。発生原因であるトダシリアが今も炎を撒き散らしているのだから、消火できるわけがない。
 唯一、そのおぞましい魔力に対抗出来る術を持っている人物は、逃亡している。
 トバエならば、互角の魔力で消火できるかもしれない。だがそんなことをしていては、トダシリアに捕らえられてしまう。人々を見殺しにしても良いはずは無いが、今のトバエには迫り来る魔の手から逃れる他なかった。
 数年トダシリアと暮らしていた、だが今日ほどあの双子の兄に恐怖したことはない。幼い頃より莫大に力が増していることは明らかだ。反する魔力を所持しているが、今のトダシリアの火炎を相殺できるかと言われると自信を持って返答出来ない。
 トバエの背を冷たい汗が伝う、身体が小刻みに震える。

 ……何故、あそこまで力を増幅できたのか、何をしたのか。

 考えても仕方が無い事だと思い、トバエは頭を振って馬を走らせた。

「トバエ、お兄さんって」
「喋るなアリア、舌を噛む!」

 怒鳴り声にアリアは口を噤んだ、今は余裕のないトバエのいう事を聞いているのが最善だと判断した。
 後方で爆音が聞こえる、人々の耳を裂く様な悲鳴が響き渡る。目に染みる黒煙が、周囲を覆う。アリアは強く瞳を閉じた、本当ならば耳も塞ぎたかった。助けを求める人々の声に、自分は何も出来ない。道では親を探して泣いている子が大勢居た、駆け寄ってあげたいのだが、出来ない。
 何も、出来ない。
 アリアは自分の無力さに、馬上で項垂れるしかなかった。
 やがて人々が一か所に集中し始めたので、馬では進めなくなった。トバエは舌打ちして馬から降りると、アリアの手を引いて進む。
 街の出入り口である門は、先程の一箇所だ。だが、万が一の火災や襲撃に備えて、街には小さな出入り口が数箇所設けられている。緊急避難口である、そこに人は殺到していた。すんなりと出られないので、渋滞している。
 トバエは、この状況に判断を迫られていた。このまま順番を待っていたらトダシリアに追いつかれてしまう、身を隠しながら先程の門を目指したほうが利巧かもしれない。だが、トダシリアの目を掻い潜る事が出来るだろうか。
 燃え盛っている場所は、トバエが水を駆使して消火すれば進んでいけるだろう。だが、それではトダシリアに察知されてしまいそうだ。

「どうすればいいっ」

 鋭くトバエは叫ぶ。
 人に押されながら、ニ人はただ身を寄せ合った。長身のトバエがアリアを気遣い、腕で囲みながら抜け道を探す。冷静になれ、と。落ち着け、と。しかし、考えをまとめるだけの余裕がなさすぎた。
 この事態は、強固な門で囲んでしまった街の構造が災いした。過去に盗賊から護るべくして作られたらしいが、内部からの災害に非常に脆い。街からの抜け道である数か所の出入り口は、まず地下への階段を降りなければならない。そうして進んで行くと、街から離れた森の小屋に出られる仕組みになっている。
 そこは兵達が交代で護っている小屋なのだが、今はどうなっているのやら。我先にと、その地下へ進む階段を皆が目指している。
 トバエは知らない事だが、階段で押された人物が落下し、何人かは骨折していた。下敷きになり、息も絶え絶えの者、もしくはすでにこと切れている者もいる。そこはもう詰まっていた、正常に流れるわけなどない。

「アリア、戻ろう。壁を伝って、あの門へ戻るんだ」
「は、はい!」

 トバエとアリアは、必死に人の波を掻き分けた。裏路地を進み、物音がすれば身を潜めながら進むしかないと判断した。上手くトダシリアから逃れられれば、何も恐れることはないだろう。
 しかし反対方向に行きたがるニ人を簡単に通すわけもなく、人々は蠢いている。呼吸もままならない状態で、それでもニ人は手を握り締めて進んだ。離れてはいけない、と言い聞かせて。
 生きている人間が一つの場所に集中すれば、誰しも身動きがとれないだろう。
 門を超えようと梯子を持ち出したり、高い場所から縄を外へと投げつけて、なんとか逃げ出そうと思案する者もいた。だが、簡単に飛び越えられる門ではない。それでも順番を待っているだけでは、皆発狂しそうだったので死にものぐるいだ。
 ようやく辛うじて走れるような路地へ到達したニ人は、息を殺して進む。
 目の前は火の海だった、怯むアリアを抱えてトバエは賢明に走った。身に、水の粒子を纏って。
 キィン……。
 ふと、何かの物音に思わずトバエは立ち止まる。金属音のようだったが、聴いた事がない澄んだ音だった。
 瞳を細めて、物音が聞こえた左を見つめた。しかしそこには何も、なかった。
 ただ周囲と同じ様に、何かが燃え盛っている光景があるだけだ。けれど、確かにそこに”何かがあった”。

「トバエ?」

 アリアが咳込みながら声をかける、ようやく我に返ると、トバエは再び走り出した。
 黒煙に包まれた街の上空で太陽の光が降り注いだ、それを払うかのように風が一瞬吹いた。

『どうか、頼むから』

 声が聞こえた気がして、トバエは再び振り返る。アリアも眉を潜めてそちらを見た。
 途端、すぐ傍で起こった爆音に悲鳴を上げるアリア。

「見つけた。お前のことだ、こちらへ戻ると思ってたよ」
「お、おまえ」

 建物を破壊し、炎を身に纏ってトダシリアが宙に浮かんでいる。身体から、幾つもの火の玉を放出させながら愉快そうに笑っていた。 
 驚愕の瞳で見つめてくるトバエに、意外そうに首を傾げて笑うトダシリア。舌舐めずりしながら、震えているアリアに視線を移す。
 その腕の中で丸くなっているアリアの唇は青褪め、立っているのも辛いのかトバエに身体を預けていた。

「鬼ごっこは飽きた、そろそろ終わりだ」

 遊んでいた子供が不意にそう呟くように、トダシリアは言葉を投げ捨てる。とても街一つを火に沈めた男の台詞には思えない。両腕を大きく広げれば、地面から火柱が現れた。四方で火柱が上がる、ニ人を囲み逃げ場を失くす様に。
 鼻で笑いながら、それを満足そうに見つめているトダシリア。唇を噛締め、敗北寸前のトバエに優越感を抱いた。そして直様手に入れられるだろう、トバエの最も大事な女に恍惚の笑みを向ける。

「アリア、オレから離れるな!」

 言うが早いか、地面から巨大な氷柱が出現した。宙に浮いているトダシリアを突き刺す勢いで、何本も飛び出す。
 標的を狙いながらも、囲まれている火柱の一角を相殺すべく、トバエはこちらの策に気付かれないように、行動する。持久戦に持ち込めば、街を焼き尽くす勢いで魔力を放出したトダシリアに勝てるのではないかと踏んでいた。再び逃げれば、勝機があるのでは、と。
 けれど、万が一失敗した場合。トダシリアの能力が、トバエの想定外だった場合。

「アリア」
「はい」

 妙に落ち着き払ったトバエの声に、アリアが顔を上げる。そこには、先程の狼狽しているトバエなど微塵もなかった。穏やかに、うっすらと笑みさえ浮かべていた。

「オレはアリアを置いて死にたくはない、アリアには生きていてもらいたい。けれども、アリアの傍にオレがいないことが耐えられない。居ないと護る事が出来ない」
「私はトバエがいないと、どうして良いのか解りません……だから」

 その時は共に、死のう。
 二人固く手を繋ぎ、抱き合って安らかに死のう。死がニ人を別つまで共に居たいと願ったのだから、それがどんな最期でも共に居られれば本望だ。
 同じ想いだった事に、トバエはこの状況下ながら目頭が熱くなった。共に生きることも、死ぬ事も一緒でありたいと願えた人物に出会えた事、そして相手も同じ想いを抱いてくれていた事に感謝した。
 どんな終末を迎えようとも、それでもトバエは神に感謝した。神など、信じていなかったが。

「アリア、愛している……アリアの笑顔を、護れなくて悪かった」
「いいえ、トバエは何時も傍にいて、私はとても安心できました。以前から……ううん、今も、護ってくれてます」
「そうか」

 小さくトバエは漏らすと、嬉しそうに瞳を細めて柔らかな笑みを浮かべているアリアを見つめた。
 顔が煤だらけであっても、目の前の妻は美しいままだ。あの日、あの村で出逢った時と同じ様にトバエを魅了する。
 ニ人共に生き延びる事が、無理だと判断しざるを得ないこの現状。トバエはアリアを強く抱き締めながら、口元を緩ませる。トダシリアの放つ火炎が、四方から迫ってきていたがトバエは対抗しなかった。
 想定外だったのだ、異常なまでにトダシリアの魔力は増幅している。幼き頃、ほぼ同じであった筈なのに。敗北を認めるしかなかった、悔しいがアリアが傍にいる以上自分とて無茶は出来ない。
 トバエ一人であったならば、まだ戦えただろう。だが、アリアがいては無理だった。

「アリア、ごめんな」

 それでも、死ぬ事は不思議と怖くはない。想像を絶する灼熱に襲われるだろうが、腕の中にアリアがいるというだけで安らげた。心地良ささえ感じた。
 けれど。
 一瞬、背に高温を感じ唇を噛締めたトバエだが、次の瞬間熱く重いものが身体に突き刺さった。鈍い、音がした。
 何か解らなかった、目の前の青褪めたアリアが自分の名を呼んで発狂している様子しか解らなかった。

「馬鹿か、ニ人揃ってオレが殺すと思うか?」

 だらり、とトバエの腕が力なく下がる。アリアの衣服が見る見る真っ赤に染まっていく。何が起きたのか解らなかった、ようやく、唇からうめき声が漏れた。
 トバエの身体を炎の剣が貫通していた、腹部から突き出た剣先には滴り落ちる鮮血。
 呆れた声で背後に回っていたトダシリアが呟く。
 ニ人に火炎が迫る中で、直様それを消去し自らの剣に取り込むと、俊敏にトバエに近づき背後から刺したのだ。
 ニ人揃って死んでしまっては、全く意味がない。欲しいものが手に入らなくなる、死なせるわけがない。
 つまらなそうにトダシリアは唾を地面に吐き捨てた、ゆっくりと剣を抜き取ると右脚で辛うじて立っていたトバエの身体を蹴り落とす。

「トバエ! トバエ!」

 泣き叫びながらその身体をアリアが抱き締めた、腹に穴の空いたトバエの身体からは血が止まらない、瞳の光が虚ろだが意識はあるのかないのか。

「……オレ、強くなり過ぎた?」

 小さく零したトダシリアは、逃げもせずにトバエにしがみ付いているアリアを見下ろす。死に逝く双子の弟と、その妻。面白い構図だと思った、見ていると異常な興奮が込み上げてくる。

「さて、放っておけば死ぬだろう。アリアおいで、オレが今日から新しい夫だ。未亡人では辛かろう」

 右手をアリアに差し出した、だが誰がその手に縋るだろうか。アリアは泣きじゃくったままその手すら見なかった、懸命にトバエに呼びかけている。

「直に、死ぬ。死人はお前に何もしてくれない。おいで、アリア。まずは何をしようか、その衣服に染み付いた血痕を洗い流そうか。近くに所有している館がある、そこへ行こう」

 気にも留めずに語り続けるトダシリアだが、誰もその言葉を聴く事はない。

「……アリア、オレはあまり気長なほうではないんだ。夫の言う事を聞かない妻には、それ相応の仕置きが必要になるがそれでもいいのか?」

 アリアの耳に、声は届かない。ヒューヒューと息をしているトバエをしっかりと抱き締め、ただ神に祈るばかりだ。アリアには、何も術がない。

「アリア、お前……治癒能力が備わっていないのか」

 だから、その呟いた言葉もアリアの耳には届かなかった。訝しんだ、それでいて意外そうなトダシリアの声。いつしかトダシリアが片膝つき、傍に来ていた。だがそれすらも気がつかない、構っている余裕はない。もしトバエの生命が事切れたらば、アリアは舌を噛んで自害するつもりだった。
 それまでは共に居ようと、決意していた。

「行くぞ、アリア。流石にここまで暴れたのでな、オレも疲れた。休みたい、出来るならばお前の胸の中で。何色が好きだ、流行のドレスや宝石を選ぶと良い。好きな食べ物は何だ? 今日から一つずつオレに教えて欲しい。何でも与えてやろう、欲しいものを言ってみろ。このオレに用意出来ないものはなにもない」

 そっと肩に手を乗せた、それでもアリアはトバエの名を呼び続けるばかりだ。
 肩を竦めて唇を歪めると、強い視線を感じ何気なくそちらを見る。不意にトバエの瞳が自分を捕らえた気がした『彼女に、手を出すな』そう言った気がした。瞬間、弾けた様に喉の奥でトダシリアは笑い出すと、トバエに寄り縋っているアリアを無理やり引き剥がす。相当力を入れないと無理だったが、アリアの細い身体は大きく揺れて地面に倒れ込む。

「別れの言葉は済んだか、寛大なオレはここまで待った……行くぞ、アリア」
「トバエを助けて!」

 地面に這い蹲っていたアリアは、口の中に入った砂と身体に突き刺さった陶器の破片で正気を取り戻した。思わず縋る言葉を口から出していた。
 目に鋭利なものが飛び込んでくる、欠けた土器だろうが、人の皮膚を刺すのには十分だった。機転を利かせてそれを掴み取ると身体を反転し、自分の喉元に突きつける。震えながらトバエに近づこうと、足を動かす。
 そんなアリアを、冷めた瞳のトダシリアは見下ろした。

「……は?」

 興ざめした様に眉間に皺を寄せて、多少の苛立ちを見せる。チリリ、と空気が震えて熱を帯びたのがアリアにも解った。機嫌を損ねたのだろう、だがそれで構わないと思った。

「と、トバエを助けてください! あ、あなたの大事な弟なのでしょう!?」
「大事じゃない。そもそも刺したのはオレだ、どうして助ける必要がある」

 呆れ返り、大袈裟な溜息を吐くとトダシリアは小さく欠伸をした。アリアの喉元にある破片が大きくぶれている、恐怖に慄いていることなど誰が見ても明らかだった。自害する前に幾らでも止められると、鼻で笑う。

「わ、私を欲しいというならば! トバエを助けて下さい! トバエを、助けて下さるのなら、い、一緒に行きます」

 隣でトバエが『駄目だ』と訴えていた、だが解るわけもない。意識が朦朧としている中で、トバエとて全ての会話を認識出来ていない。けれども今ここでアリアがトダシリアにとって有利な発言をしたことだけは、明確に解った。
 脳の片隅で、何かの記憶が甦る。散々泣いて、床に蹲って腕を伸ばしている愛しい娘の姿が鮮明に映し出されていた。
 必死に訴えるアリアを、眉を潜めて見つめるトダシリア。だが、泣きながら懇願し、今にも土下座をしそうな勢いの脅えた子羊は非常に愉快に見える。「こういう趣向もありかな」と唇を動かすと、無意味にマントを翻した。

「助けてやろう、アリアの願いを叶えてやろう。その代わり、今ここでオレに口付けをしてみせるが良い。それが条件だ。あ。トバエの血の香りが生臭いからな、衣服は脱ぎ捨てるように。『どうか、トバエを助けて下さい。愛しい愛しいトダシリア様。私の全てを捧げます』と言いながら口付け出来たら、全力でトバエを助けてやろう。お前に、出来るか? 出来るよな、愛しい男を救いたいんだろ? これくらい、どうってことないよな。減るもんじゃないし?」

 アリアは、青褪めた。トバエ以外の男に肌を見せたことなど当然、ない。口付けなどもってのほかだ。
 躊躇した。
 喉の奥で悲鳴を上げて、歯を鳴らすほど震えながら、冷徹な笑みを浮かべているトダシリアを見上げる。

「どうした、アリア。早くしないと手遅れになるぞ? 可哀想なトバエ、アリアのせいで死ぬ破目にな」
「や、やります、やりますからっ」

 言葉を被せてアリアが叫ぶ。きつく瞳を閉じるとおぼつかない指先で賢明に衣服を脱ぎ捨てた、羞恥心でトバエすら見ることが出来ない。するり、と衣服が地面に落ちる。血液で濡れて重くなった衣服が地面に落ちた、アリアの肌にも染みた血痕が付着していた。
 現れたのは美しい裸体だった、見た瞬間に鼻の穴を膨らませ、微動だ出来ないトバエに微笑みかける。想像以上に愉快で仕方がなかった、下腹部が熱を帯びるのが解る。嫌悪する双子の弟は何も出来ない、自分の愛した妻が全裸になり他の男に口付けするのを、止めることが出来ない。

 ……なんて無力な。意識が鮮明であれば、もっと愉快だったろうに。

 大げさに吹き出すと、ゆっくりと両腕をアリアへと伸ばす。

 ……どんな気持ちなのだろうな? 愛した女が目の前で自ら衣服を脱ぎ、最も嫌悪していた男に口付けする様子を見なければいけないとは。

 痙攣しているトバエは放置し、今は目の前の獲物に集中することにした。

「おいでアリア、誓いの言葉を。早くしないと、トバエが死ぬぞ?」
「っ。……『わ、わたし、は。トバエを、助けて、欲しいので、こ、この身を貴方様に捧げま、す』」
「”愛する”が抜けている、やり直しだ」

 縮こまり俯きながら、その裸体を賢明に両手で隠し呟くアリア。なんとも加虐心をそそられる姿だ、隠せるわけがないというのにもじもじしている様は初々しい。静かにトダシリアはアリアに近づいた、涙を零しながら再び言葉を紡ぎ始めたその顎に手をかけると、強引に上を向かせる。

「オレの目を見て、誓え」

 語尾を強め、多少の苛立ちを見せる。楽しくて仕方がないのだが、威圧感を与えたほうが怯えた様子が見えると思った。

「わ、わたし、は、愛しい貴方様に全てを捧げます、ので、トバエをどうかお助けください」

 消え入りそうな声だった、ほとんど聴こえなかった。不服だったが、アリアが口にしたので良しとした。言葉は口にすると威力を増す、例えトダシリアには聴こえなくとも、アリア自身を呪縛したことに違いはない。

「……口付けはどうした、アリア」

 顎を揺する。

「トバエには口付けたことがあるんだろ? 同じ様にやってみろよ、毎晩寝所で強請るようにしていたんじゃないのか?」

 挑発的な台詞にアリアが顔を赤らめることはない、ただ、脅えて唇を噛むだけだ。屈辱だった。
 何故愛する夫を刺し、瀕死の状態に至らしめた相手に口付けをしなければいけないのか。それでもトバエが助かる方法があるとすれば、この目の前の最低な男に頼むしかないのだ。
 アリアは泣きながらそっと爪先立ちになる、愉快そうに頭を撫でたトダシリアは軽く屈んで顔を近づけた。すぐにアリアの腰に腕を回して引き寄せる。
 顔にかかる息から瞳を閉じていても、ある程度唇の場所が解った。瞳を固く閉じたまま、アリアはそっと口づける。それが唇なのかも解らなかったが。

「……情熱的な口づけを期待していたが、またそれは別の場所で」

 声が聴こえた途端、頭部を強く押さえ込まれ悲鳴を上げそうになった唇に容赦なく舌が割り込まれた。逃げようにも逃げられない強い力と荒々しい口付けに、暴れても抑え込まれる。口内を犯す舌は、意思を持っているように執拗に舌を絡ませてくる。

「あぁ、忘れていた。トバエを助けるんだったな」

 眩暈がした、脳を強打されたようだった。薄っすらと瞳を開けば、トダシリアが無邪気に笑っていた。それはとても、爽やかで凶悪な笑みだった。

 目を覚ますと見たこともない煌びやかな天井と装飾品に囲まれて、アリアは口を大きく開けてしまう。何が起こったのか解らず、無意識の内に隣をまさぐった。トバエが普段ならばそこに居るはずだったからだ。
 身体中が痛い、関節が軋む。瞳に映る光は眩く、異空間に迷い込んだようだった。
 何より、トバエがいない。軽くて暖かな布団を跳ね飛ばし、巨大すぎるベッドでアリアは一人きり唖然とした。ようやく思い出したのは、忌々しいあの出来事だ。頭痛がした、吐き気がした、怖くて鮮明には思い出せなかった。 
 ただトバエが瀕死の状態であった様子だけは、血の臭いまでも思い出し絶叫する。

「目が覚めたのか、アリア。良かった。何が食べたい?」

 数分後、トダシリアがやって来た。未だに沸き喚いているアリアを軽く持ち上げると、ソファに深々と腰掛ける。

「二日、眠っていた。唯でさえ華奢なのに、ますます痩せてしまう。何が好きだ? 甘い果実なら食べられるか? ふくよかで柔らかな胸をオレも堪能したい、痩せられては困る」

 笑いながら言うトダシリアに、我に返ったアリアは悲鳴を上げた。全裸だったのだ、身体からは甘い花々の香りが漂い、誰かに身体を洗われた事は明確である。自分の身体がこんな豊潤な香りになっているなど、慣れない。
 トダシリアは傍らのテーブルに盛られていた果実から、マスカットを一粒取ると、身体を腕で隠しているアリアの唇に近づける。

「口を開けて、アリア。美味いぞ、これは」

 唇に当たる、瑞々しい果実。確かにアリアは喉が渇いていた、だがこの男の言いなりになるわけにはいけないと唇を固く閉ざす。思い出せば、乱暴に唇も奪われた。それも生涯を誓った相手の目の前でだ。

「やれやれ」

 トダシリアは自らの口にそのマスカットを含むと、腕の中で縮こまっているアリアを面倒そうに見下ろす。弾ける甘味と潤いに、何粒もトダシリアは手を伸ばすと口にした。食べるごとに、空中にその香りが漂い始める。

「あ、あの、トバエは。トバエは本当に無事でしょうか」

 ようやく口を開いたアリアだが、口を開けば”トバエ”だ。トダシリアの眉が吊り上がる。ソファに大袈裟に脱慮しもたれかかったトダシリアは、マスカットを何個も口に放り込みながら懇願するようなアリアの瞳を見返した。

「……約束しただろう、生きている。ただ、まだ意識はないがな。生きるか死ぬかは本人の気力次第だと医者は言っていた」
「あ、会わせてください、看病させてください!」
「無知なお前が行ってどうする、邪魔になるだけだ。お前の夫はこのオレになったのだから、オレの傍にいろ」
「ほ、ホントは、トバエを助けてないんじゃないですよね!? 私を、騙してたりしませんかっ」
「オレを愚弄するのか?」

 無我夢中で叫ぶと、喉が乾燥していたこともあり痛みを覚える。トダシリアはそんなアリアをしかめっ面で見つめると、頭を掻き毟る。

「生きていると言ったろう……全く。まぁ、確かに今すぐに放りだしても構わないがな、オレは。アリア次第だ、お前の綺麗な鳴き声が聴きたいからまずは喉を潤せ」

 残り少なくなったマスカットの房を摘みあげると、口を軽く開けて一粒もぎ取る。アリアの頭部を押さえて顔を近づけると、その唇にマスカットが触れる。舌先でマスカットを押してくるトダシリアに、アリアは仕方なく口を軽く開けてマスカットを受け入れた。
 口内に入ってきた冷たいそれは軽く潰すと、途端に甘味が口内に目いっぱい広がる。初めて食べる、美味なものだった。

「お、美味しい」
「だろ? オレ、これ好きなんだ子供の頃から。そういえばアリアの髪の色に似てる、陽が当たるとそっくりだ」

 嬉しそうに笑ったトダシリアと目が合った、思わず慌てて顔を背けるアリア。今の笑顔は確かに若干トバエに似ていたのだ、双子だということを忘れていた。
 狩りから戻り、嬉しそうに獲物を差し出した時の笑顔。河で水浴びをし、タオルを差し出した時にはにかんだあの笑顔。何より、アリアの手料理を美味しいと何度も誉めて食べてくれた時の笑顔。
 眩暈と耳鳴りがする。

「アリアが食べてくれれば、トバエも必ず治療する。アリアにとって、悪いことではないだろ? さぁ」

 再び、マスカットを口に含んだトダシリアの顔が近寄ってくる。躊躇し、軽く身動ぎしながらも、それでもアリアは大人しくそれを受け入れた。

「いい子だ、アリア。さぁ、もっとお食べ」

 素直に食べてくれたアリアに、自然とトダシリアも機嫌が良くなる。アリアの喉が動いたのを見計らい、再びマスカットを口に咥えて顔を寄せた。
 トダシリアが、アリアの頭部をゆっくりと撫でる。落ち着かせるようにだろうか、優しく微笑んでいるのだからアリアは混乱した。

 ……似ているからといって、気を許しては!

 心の奥で、叫んでいた。それでも、その仕草がとても懐かしく酷く繊細に思えてアリアは再びマスカットを口から戴く。 
 やがて、最後の一粒になった。
 房を放り投げてマスカットを咥えたトダシリアと、先程と同じ様にそれを唇で受け取ったアリア。口内に入ってきた冷たい果実を潰そうとした瞬間、熱いものが入ってくる。
 思わず、顔を顰めて身体を引き攣らせる。腕の力で押し返そうとするが、出来ない。
 トダシリアが覆い被さってきた、体重がかけられソファに押し倒される。混乱し足をばたつかせるが、ささやかな抵抗はトダシリアを面白がらせるだけだ。
 二日前の記憶が甦る、あの日と同じ、乱暴でしかない口付けだった。
 くぐもった声を上げ、嫌がるアリアの身体を容赦なくトダシリアの手が這う。

「二日も待ったんだ、初夜はベッドがいいか? 後で移動する、まずはここでお前の声を聴かせろ」

 初夜、という言葉にアリアが悲鳴を上げた。何をしようとしているかくらい、理解出来た。

「い、いや! 止めてくださいっ、トバエ、トバエーっ」
「止めてくださいといわれても、二日前にアリアが言ったろう。『この身を捧げます』と、体力が戻ってから抱こうとしたんだが、な。アリアがうっとりとオレからの口付けを受けるから、我慢が効かなくなった。腹が減ったら言え、そこに菓子が用意してある。果物をふんだんに使った甘い甘いケーキだぞ、肉が食いたければ言うといい。持って来させる。オレは満足するまでアリアを抱く、食べないと体力が続かないぞ」

 今ここで腹が減っている、とアリアが申し出ればそれは叶えられた。その間、トダシリアは手を出さなかった。延ばす事は出来たのだ、回避は難しくとも。だが抵抗を続け、逃げることしか考えられなかったアリアはそこまで頭が回らなかった。
 鳥肌が立った、トバエとは違う重みと香りだった。顔は確かに似ている気がした、髪の色も瞳の色も、同じだ。
 しかし、違う。

「トバエに、トバエと生涯を添い遂げると誓ったのです! どうか、どうか、御止めくださいっ」
「安心しろ、神からの言葉だ。『オレと生涯を遂げて問題ない』とのことだ、よかったな」

 どこまで、身勝手な人! アリアは恐怖に脅えて、残忍に笑うトダシリアを見つめる。やがて意識を手放した。
 次に目を醒ました時には、身体の至る所に赤い無数の跡と、白濁した体液が乾いてこびりついていた。暴れていたら押さえつけられたので両の手首は真っ赤に腫れ上がっており、噛み跡も胸や太腿に何箇所かある。
 呆然と、アリアは自分の汚れた身体を見つめた。涙が込み上げた、陵辱された身体はもう消えることはない。

「ん……アリア」

 けれども。

『ん……おいで。……ほら、あったかいだろ、その、さ、うん』
『なんだ、起きていたのかアリア。おいで』

 隣でトダシリアが眠っていた、肩を抱いてくれたまま眠りについていた。その寝顔が凶悪なくらいに、柔らかだった。
 寝顔を見た瞬間に、激しい頭痛に襲われる。

「あたま、いた、痛いっ」
『少し、気温が低いな。大丈夫? ニ人でくっつくと、あったかいだろ。……オレ、火の精霊だし。あ、そうか、空気を温めればいいのか』
『他に、何もいらない。アリアがいて笑ってくれていればそれだけで満たされる』
『この唇は、オレのもの。オレの唇は、アースのもの。だから、絶対に他の誰にも触れさせないで。オレも触れさせない。解る?』
『落ち着いて、アリア。ほら、暖かいだろう? オレはここにいるよ、大丈夫だ』

 激痛は強くなる、アリアは小さく呻いて額に手を乗せた。幻聴が聴こえる、トバエの声だった筈だが、違う声も聴こえる。違う声は紛れもなくトダシリアの声に聴こえた。
 声の質はニ人似ているが、トダシリアのほうが若干幼く高い。

「ど、して? なんの、声なの!?」
『い、いや、その、こう、こうして抱きたくて忘れていたわけじゃ、ないっ。で、でも、得したかも。……笑うなよ』
『アリア、愛している。君の笑顔を護るため、オレは産まれた。何があっても、君に寄り添い願いを叶えよう』

 トバエの言葉は、確かに以前言われたことがある。優しく大きな手で頬を撫でながら、木漏れ日のような安心感に包んで言ってくれた。
 だが、トダシリアは。
 トダシリアとそんな会話をしたことなどあるわけがない、今自分は何を聴いているのだろう。そもそも”アース”という単語が何か解らなかった。頭痛は、激しくなる一方だ。
 脳を何かに強打されているような痛みで、混乱する。痛みを取り除きたくて、テーブルの上の果物ナイフに気づいた。鈍く光るそれを虚ろに見つめるアリア、死ねば楽になる気がしたのだ。
 けれどもアリアがそれに手を伸ばした瞬間に、トダシリアが優しく身体を引き寄せてその胸の中に抱き締める。

「っふ!?」
「……行くな、アリア」

 耳元で囁かれた、体温が上がる、鼓動が速くなる。
 トダシリアは起きていない、眠っている。寝言だ、だが。
 けれど。
 微かに顔を上げて、トダシリアの寝顔を見た。安心し、眠っているその姿は幼い頃のトバエにすら思えた。いや、トバエではない。トバエではないが知っている気がした。
 胸が早鐘の様に脈打つ、綺麗なその顔は、何人もの人々を死に至らしめた、残虐な男であり、最愛の夫を刺し殺した男のものだ。それでも、とても端正な顔立ちで。

「……や、やめて」

 身体を奪った男だった、有無を言わさずに。だが元を正せば確かにアリアは数日前に宣言している。強引に言わされたものだが、確かにトダシリア的には合意のもとなのかもしれない。
 何日、こうして抱かれていたのか。マスカットを口移して食べさせてもらっていたあの日から、何日が経過したのだろう。
 何度も叫んで喉が嗄れる度に、トダシリアが水を飲ませてくれた。トダシリア自身も腹が減ったので、室内に何人かが出入りしたことも記憶がある。その間は身体を見られないようにという配慮なのかアリアもシーツでくるめられ、食事をした。
 しかしよく覚えていない、ソファからベッドに運ばれたことすら、曖昧だ。
 身体中が痛いのは、無茶な体勢をさせられた為だろう。鮮明には思い出せないが、顔を覆い隠したくなるような、恥ずかしいことをさせられた気がする。そして言わされた気がする。
 トバエとは、そんなことをしたことがなかった。ただ、うっとりとするような時間を過ごしてきた。
 熟睡しているトダシリアの、その綺麗な喉元をナイフで一突きにすれば非力なアリアとて勝てるだろう。
 それでも。

「アリア……」

 トダシリアが何度も寝言で呟くのは、アリアの名。冷酷で残忍な男が、笑みを浮かべて、時折切なそうに名を呟いている。
 迷い子の様に見えて、アリアはそっとトダシリアの背に腕を回すと優しく撫でていた。すると、嬉しそうに頷いたのだ。

『…………』

 ゆぅらり、と。影が躍る。部屋の隅で、影が蠢く。二人を見て、蠢いていた。


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