「アリア?」
トバエは一人きりで立っていた。 周囲を見渡したが暗闇で何も見えない、瞳を賢明に凝らしてようやくその暗さに慣れ始めた頃。そこが、無音な空間であることに気がついた。 アリアを捜した、出逢ってから片時も離れた時などなかった。離れてはならないと思っていた、焦燥感に駆られて大声で呼ぶが返事は無い。 トバエはいてもいられず走った、名を叫び続けながらその暗闇の中を駆け抜ける。何処まで続いているのか解らない、虚無の空間だった。 足元は平坦だが、周囲には石ころ一つ、いや砂すらない。ここが地面なのか、それとも走っているような錯覚に陥っているだけで進んでいないのか、それすら解らなくなってきた。だがその異質な場所は怖くなかった、ただアリアだけが心配だった。 この空間の何処かで泣いている気がして、唇を噛締めて走り続ける。アリアも自分を捜している気がした、泣きながら。 足を軽くもつれさせたが、すぐに体勢を立て直すと再び走る。しかしそれを嘲り笑うかのように暗闇が膨張し、襲い掛かってきた。目には見えない漆黒の何かが波の様に覆い被さり、元居た場所へと押し戻す。
「アリア!」
トバエは跳ね起きた、小刻みに震える身体からは汗がとめどなく吹き出している。両手が動くかを確認する、瞳を瞬きする、呼吸を整える。額の汗を拭いながら、ようやく落ち着いて周囲を見渡した。見慣れた部屋だ、自分の部屋だった。 周囲はまだ薄暗い、トバエの荒い呼吸だけが響き渡る。シン、と静まり返っており不気味だった。 呻きながら隣で寝ているアリアを見つめた、間違いなくそこに居た。 姿と温もりを確認し安堵すると、大きく肩で息をし未だに震えている自分の身体に軽く爪を立てる。妙に気持ちが悪い、腹の奥で何かが蠢いているようで、誰かが背後で見ているようで。 たかが夢だった、夢の筈だが妙に不安に襲われる。 汗で濡れた肌着が冷えて寒く、軽く身震いする。呼吸はまだ整わない。 静まり返った早朝の空気の中、いやにトバエの息苦しい呼吸が響いた。空気に似つかわしくなく、それは荒々しいままだ。自身の胸に手を置く、鼓動の速さが嫌でも判る。まるで、本当に全速力で駆け抜けていたみたいだった。 苛立ちを覚え、頭を振った。深呼吸を、一度、二度してみる。アリアの髪を撫でながら、気持ちを落ち着かせる。 アリアは、その掌でトバエの衣服を掴んだまま眠りについていた。思わず、その手に自分の手を重ねて包み込む。暖かさがトバエを安心させ、ようやく安堵の溜息を吐かせた。 日中、トバエの目の届く場所にアリアはいる。離れるとすれば、夜眠っている間だ。同じベッドで横たわり腕を絡ませて眠りにつくが、眠っている間はアリアの姿を確認できない。夜がアリアを連れ去ってしまわないようにと、それだけが不安だった幼き頃。常に傍にいて、誰も邪魔する者などいない筈だが、トバエは夜が些か怖かった。 地獄の帝王がもし存在するならば、アリアの美しさに惹かれて夜に紛れてやってきて、そのまま連れ去ってしまうのではないか……と。 ゆっくりとトバエは横たわると、アリアの額に口付けた。頬に、瞼に、髪に口付けた。
「アリア、恐らく君がオレを想う以上に、オレはアリアを愛している」
アリアが自分を慕い、愛情を注いでくれていることなど承知だが、それ以上に自分のほうが想いが強い事など判り切っていた。 死がニ人を別つまで、共に居たい。寄り添って同じ時間を過ごして生きたい。 自分のこのもどかしいばかりの溢れ出る愛情を、全てアリアに伝える手段など、なかった。言葉では足りない、態度でも足らない。解って貰えなくても構わないから、強く抱き締めたい。永久に同じ時を過ごせば、いつかはきっと気持ちが伝わるだろうか。
……愛しいアリア、その花のような笑顔を護るためならばオレは何だってしよう。 トバエは再びいつしか眠りについていた、傍らのアリアを強く抱き締めながら。
「おはよう、トバエ。よく眠れた?」
眩しい陽射しが差し込んできた、トバエとアリアは口付けを交わす。起床時と就寝時に口付けることは日課だ、今後も続いていくだろう。 アリアは小さく笑うと、ベッドから這い出して朝食を作り始めた。クルクルと動くアリアに微笑し大きく伸びをすると、トバエもベッドから出てくる。小さく欠伸をして、忙しなく動いているアリアを見つめながら椅子に深く腰掛けた。
「他に、何もいらない。アリアがいて笑ってくれていればそれだけで満たされる」
小声で、呟いた。 苦笑すると良い香りが漂ってきた、スープを温め直しているのだろう。瞳を閉じながら今日は何をしようか思案するのだが、トバエはこめかみを引きつらせる。今朝方の夢が無性に気になった、あそこまでリアルな夢は初めて見た。警告な気がしてトバエは軽く瞳を開く。
「水精……か?」
トバエは幼い頃から水を操ってきた。 産まれながらに備わっていたが、それが特殊な能力だと知ったのは物心ついてからだ。『頻繁に使用してはいけない』と教えられた、それは人に仇名す最凶の武器であると。 トバエはこの能力など不要だと思っていたので、滅多に使うことは無かった。最後に使ったのはあの、忌まわしい城にまだ自分が身を置いていた頃だ。自分を暗殺しようとしていた者に、使った。 大気中の水分を瞬時に凍らせて、敵に打ちつける。標的を貫きたい時は、鋭利に尖った氷柱を作り出して投げつける。 そんな特異な魔法を使用する際に、常に傍に現れる影があった。その影をトバエは”水精”と呼んでいる。人型のそれは、なんとなく男である気がした。 久しく水精の存在は忘れていた、王子であった頃は頻繁に姿を見ていたが。というのも、魔法を発動する時だけでなく、危険が迫ってくると水精が現れ警告してくれたのだ。 『命を狙う輩がいる』『トダシリアが悪事を働こうとしているから、事前に防ぐべき』 自分の味方である水精は、未来の出来事を察知して夢で教えてくれていた。
「トダシリア、か」
その忌まわしい名を呼び、トバエは心底嫌な顔をした。何故爽やかな早朝から、こんな重苦しい溜息を吐かねばならないのか。今日一日億劫な時間を過ごさなければならないのだろうか……引き攣った笑みを浮かべる。 思い出すことがなかった、双子の兄であるトダシリア。実の兄でありながら、この世で最も嫌悪する男の顔が浮かぶ。 ……今まで、思い出したことなどなかったのに。
唇をそう動かす。今兄は何をしているのだろうか、国はどうなったのだろうか、荒廃しているのだろうか。
「忘れよう、ろくな事がなさそうだ」
……もう二度と会う事はない筈だ、大丈夫だ落ち着け。
自身に言い聞かせながらしかめっ面でテーブルに突っ伏すトバエだが、アリアの動き回る足音に顔を上げる。アリアを見つめていると、心の霧が晴れていくようだった。微笑してトバエは席を立つ。
「出来たよ、朝食にしましょう」 「運ぶ、貸せ」
大きなトレイを運ぼうとしていたアリアからそれを奪い取ると、トバエは薄く微笑んだ。
「座っていてくれてよかったのに」 「ニ人でしたほうが早いだろ? 何でもニ人でするんだ、ずっと一緒だから」
軽く肩を竦めるアリアの背を叩くと、トバエは手際よくテーブルに朝食を並べ始める。質素だが非常に風味豊かなアリアの食事を口にすると、不思議と安堵の溜息が漏れる。 昨晩の野菜スープに手を加えて、牛乳を入れたミルクスープに小麦を水で溶いて丸めたものが入っている。それにベーコンの切れ端と野菜だ。
「いただきます」
アリアはスープを口に運ぶと、小さく啜る。美味しく出来たので満足してトバエに笑いかけた、つられてトバエも微笑む。 アリアの手料理で不味いものなどない、トバエも早速口にすると昨晩の残りで作られたとは思えない、旨いスープが出来上がっていた。寝かせたからこそ、味が深くなったのだろう。
「今日も美味いな、アリア。オレはアリアのスープにはいつも驚かされる、大好きだ」 「ありがとう、トバエ。喜んでもらえるから、作り甲斐があるね」
数分、ニ人は無言で食事をする。しかし満ち足りた表情で食事をしていたトバエに反し、アリアの表情は曇っていった。最終的にはスープを残して、スプーンを置いてしまう。 流石に眉を潜め、トバエも食事の手を止める。
「アリア? どうした、気分でも悪いのか?」
青褪めていたアリアを見た瞬間に、すぐさま立ち上がると駆け寄り肩を抱く。肩を揺すると、アリアは途端に大粒の涙を零した。そしてトバエにしがみ付くと、口を開く。
「ゆ、夢を見たの。今朝、変な夢を見たの!」
トバエの表情が、強張った。震えるアリアを抱き締めながらも、自分も震え出したことに気がついた。
「いないの、トバエがいないの! 誰かがいるの、近くにいるの。でも、それはトバエじゃないの」 「オレが……いない?」
トバエは、今朝見た夢を思い出した。闇の中で一人きり、アリアを探しているあの不気味な夢を思い出した。
「たかが夢なの、だけどね、すっごく怖かったの。押し潰されそうだったの、息苦しかったの……。忘れようとしたんだけど、思い出して」
最後のほうは、アリアの声が擦れていた。必死に宥めながら、トバエはその震える肩を抱き締める。
「落ち着いて、アリア。ほら、暖かいだろう? オレはここにいるよ、大丈夫だ」
嗚咽しているアリアを抱き締めながらも、自身も不安で仕方が無い。だが、恐ろしくて口には出せなかった、正夢になってしまいそうだったからだ。『同じ様な夢を見た』などとは、口が裂けても言えない。 しかし直感した、アリアも同時に似たような夢を見るなど、ただ事ではない。恐らくこれは予知夢だろう、警告だ。
「……アリア、一旦この街を離れよう。楽器は出来上がった後で取りに来よう。厭な予感しかしない」
顔を上げたアリアは、不安そうに眉を顰めて泣いている。その唇に口付けて、トバエは早々に立ち上がった。 間違いなく、暗示である。今すぐに危険を回避せよと水精が告げているに違いない、とトバエは確信した。街から立ち去れば、回避できるような気がした。 夢が指し示した未来は、ニ人の決別でしかない。何かしらの原因でニ人が引き裂かれてしまう、としか思えない暗示だった。
「ふざけるなよ……」
小さく呟いて、トバエは我武者羅に荷物を用意する。楽器を取りに頃合を見て戻るので、家はそのままにし、別の場所で簡易に暮らせるだけの衣服と全財産を所持した。 人目を気にしながら、ニ人はフードを被って静かに家を出る。脇目も振らず、ただ街の門を目指した。門の出入り口に馬の貸し借り所があるので、そこで手続きする為に半ば駆け足になる。 自分達が出て行こうとしている、など知られてはいけない気がしてトバエは息を押し殺すように目立たない路地を通過する。勤務先に挨拶が出来ない事が心残りだが、一刻の猶予も無い気がした。 まだ朝は早い、人の通りもまばらなので人ごみに紛れることは出来ないが皆仕事に向かうので他人に関心はなさそうだった。 門が見えたのでトバエは軽く溜息を零し、手を繋いでいたアリアに振り返る。が、アリアは不思議そうに門を見つめていた。トバエも視線を戻すと、やたらと人だかりが出来ている。武装した兵達がおり、街の住人達は何かに脅えるようにざわめいていた。
「チッ、こんな時になんなんだ……」
強盗事件でも起きた為、検問が張られているのかと思った。重々しい雰囲気に包まれている門だが進むしかない、あそこからしか出られない。 しかし強盗事件や殺人事件が起き、犯人を捜している最中だとすると馬の手配が厳しくなる。トバエは忌々しそうに舌を鳴らすと、アリアの手を引いて進み出た。 馬を借りる為に話をし、名前を記載している時である。
「現れたぞ! 囲め!」
傍らに立っていた兵が、大声で叫んだ。何事かとトバエが振り返った時にはすでに、遅い。槍を四方から向けられており、馬屋の主人が悲鳴を上げている。 咄嗟にアリアを抱き締めると、腰に下げていた剣をトバエも引き抜いた。
「一体何だ!」 「あぁよかった、まぁ、鈍間なトバエのことだからそろそろ動く頃だとは思っていたけれど。……この街から逃亡を計るなんて、兄さんが許さないよ?」
トバエの身体が瞬時に凍りつく、今朝方の夢が現実になる気がした。一気に鳥肌が立つ、口にしたくなかった名前を、トバエは掠れた声で呟いた。
「トダ、シリア……」
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