馬に乗って、何日も旅をする。トバエは乗馬を嗜んではいたが、こんな長距離は無論初めてだった。苦戦したものの、供の二人が老体であったし、時間の制限もなかったので体調に合わせて行動出来、逆に良かった。 村を見つければそこで休むが、見つからない時は止むを得ず野宿をした。僅かな食事で飢えを凌ぎ、小川の水で喉を潤し、馬に休息を与えながら移動する。苦痛ではなかった、トダシリアと居た城内を思い出せば、どんなことでも我慢できた。 幸いにも夜盗に遭遇することなく、また体調を崩すこともなく旅は続く。 町を見つけると、トバエは自分の高価な装飾品を売って金にし、二人に寝心地の良い宿を与えた。それが、彼なりの感謝だった。 乳母の夫は狩りの達人であったので、トバエは狩猟を習う事ができたし、野草についても詳しくなった。川で魚も獲る事も、上手く出来るようになった。食事は自身で用意する、用意できなければ、空腹が待つ。今まで当然だった食事の有難さが身に染みて、トバエはものを口にする旅に天に感謝をした。 城から眺めていた景色と違い、手入れされていない歩道を山を、馬で進む。 途中飢えに苦しむ村を見た、今年は特に不作だという。
「……もうオレには何も出来ないが、もっと視野を広げて城以外に注目しなければいけなかった。国の余っている金を、地方に注がねばならなかった」
旅をしているトバエ達の方が随分と裕福に見えてしまう貧困に喘ぐ集落で、ぼそりとトバエは呟く。
「そう思われているならば、やはり貴方様には王としての力量が備わっていたのですな。惜しい事です。ですが、そう思えるお方だからこそ、私達は供を申し出たのですよ」
乳母の名はカルティア、その夫の名はウィルといった。カルティアは眩しそうにトバエを見つめ、ウィルは満足そうにトバエに平伏す。「もう王子ではないのだから」と苦笑し、トバエはウィルを立たせると「以後、敬語も禁止だ」と嗜めた。 年老いた夫婦とその息子、という偽りの設定を設けて旅を続けた。 やがて大きな街に辿り着いた、確かにここに住居を設けて職に就けば、普通に過ごす事が出来るだろう。物資も溢れている、酒場を覗けば仕事も多々あった。 何しろ城に勤める事が出来る程の腕前である乳母カルティアと、物知りで狩猟に秀でたウィルである。年老いているとはいえ、働き口はありそうだ。カルティアは刺繍も上手く、それを売れば裕福な家柄の婦人たちに大うけしそうだったが、トバエはここでの滞在を考える事ができずに去る。 騒がし過ぎたのだ、もっと静かな場所に居たかった。苦労してでも良いから、自分が居心地良いと思える場所に行きたかった。 そんなトバエに夫婦は静かに頷くと、三人は再び旅を続ける。苦労をかけてすまない、と申し訳なさそうに謝るトバエに、二人は優しく首を横に振る。 城を出てから、トバエの表情にも変化が訪れた。今までは張り詰めた糸で絡め取られていたのだろう、冷酷にも見えた冷たい視線は太陽の光に触れて穏やかに色づく。上等だった衣服は汚れて幾箇所か継ぎはぎをした、顔も泥で汚れていた。 だが、子供らしい素直な笑顔を見せるようになった。
「あれは? ウィル、あの美しい鳥は?」 「ウィル見ろ! 巨大な魚が獲れた! これは美味いのか?」 「カルティア、森で変わった茸を見つけたが……食べられるか? ほら、傘の形が不思議だ」 「可憐な花だな、小さくとも存在感がある華やかな深紅だ。この花の名はなんというのだ、教えてくれカルティア」
行く先々で、トバエは全てのものに興味を持った。ようやく見せた好奇心旺盛な感情に、夫婦は安堵して胸を撫で下ろす。 城を出て半年程度が経過した、傍から見たら元上流階級の親子のようだった。身分を偽っても、トバエの供え持った気品は隠せない。汚れても高貴で整った顔は人目を惹く。夫婦も元々貴族出身だ、否応なしに品性が滲み出ていた。 ……この子は窮屈な城で暮らすよりも、こうして外に出たほうが正解だったかもしれない。
夫婦は瞳を細め、顔を綻ばせる。確かに賢王になれる器を持っていた、民を平穏に導けただろう、だがそれではトバエ本人が休まらない。 すでにトバエを自分達の愛しい息子の様に思い始めていた夫婦は、平凡な人生を歩ませる事になんの躊躇いももっていなかった。例え故郷の国が狂王によって、混沌に導かれたとしても、だ。 夫婦には子供がいなかったこともあり、感情移入は早い。
やがて大河を船で渡り、暫く歩いた山中に静かな村を見つけた。 小さな村だったが、村の中心には小川が流れている。女達はそこで洗濯をしていた。山から湧き出た冷たく美味な水である、上流で飲食用に水を汲み、下流で洗濯をしていた。 豊富な水源のある山なのか、小川だけでなく至る場所から水が湧き出ていた。覗き込めば水中花が綺麗に咲いて、ゆらゆらと揺れて美しかった。 鶏や牛や豚、山羊の鳴声が聴こえる、畑では逞しい腕の男達が土を耕している。質素ながらも心は裕福なのだろう、突如現れたトバエ達にも村人達は始終笑顔で挨拶する。トバエは感じの良い村人達に好感を抱いた、すぐにここに住みたいと思い始めた。 トバエの瞳の輝きを見て、ウィルが直様村長へ謁見を申し出た。近くで畑仕事をしていた老人に頼み込むと「村長といっても、そんな立派なものではない」とからかうように言われ、多少大きな家に案内された。畑仕事をし、村長の家へと連れてきたその人物こそが、村長本人だった。 老人とは思えぬ大声で豪快に笑いながら額の汗を拭い、娘に客人を持て成すように伝える。娘と言っても、もはや三十路を超えている。 若く見えたが、ウィルよりも年上だと知り、それに三人が驚いた。 出された茶は、娘が調合したというハーブティだった。レモングラス、レモンバーム、ペパーミント、スペアミント、ローズマリーが程好く調合されている。香り良いその茶に、トバエは瞳を閉じ十分に嗅覚で堪能してから口にした。 湧き出ている水と、娘が丹精篭めて育てたというハーブ達の茶は、城で飲んだ高級な紅茶よりも美味しく感じられる。喉を通り抜けるのは、自然の恵みそのものだった。 一息つくとウィル達に小難しい話は任せ、トバエは村を散策することにした。村長とてこの三人に気を許している様で、話は直ぐにまとまることがトバエは解っていた。去り間際に『廃屋がありますので……』という村長の言葉を聞いて、確信した。おそらくそこが家になるのだろう。 思わず笑みを浮かべて小走りに村長の家を飛び出したトバエは、活気あるその人々の生活に憧れて胸を躍らせた。 自分はここで何をしようか、何が役に立てるだろうか。 走り回る鶏を避けながら村の端まで一気に駆け抜けると、そこは切り立った崖になっていた。崖には幾つも黄色い小さな花が咲き乱れて、楽園のように見えた。城で手入れされていた庭園とは違い、自由かつ幻想的な風景だった。 荒くなった呼吸を沈めるように大きく肩で息をした、だがその風景に興奮してしまう。と。
「ぁ……」
思わず、声が出た。その黄色い花畑に、美しい若緑の髪を揺らして美少女が歩いていたからだ。崖の上の木の柵に縄を結んで、それを頼りに時折しゃがみ込み歩き回っている。 美少女といっても、まだまだ幼い。だが、すでに美しさが滲み出ている。 危ない、と叫ぼうとしたのだがそれよりも身体に電撃が走って声が出ない。硬直した、呼吸が停止する、胸がざわめく、身体が小刻みに震える。何かが体内を突き抜けていくように、血液が逆流するかのように、強い圧迫感を覚えていた。 トバエの視線に気付いたのか、ゆっくりと少女はこちらを向き、やんわりと微笑んだ。縄を懸命に握って崖から上がってくるその姿が、一生懸命で可愛らしい。 食い入るように見つめても、完璧としか言いようがない美しい少女だった。着飾った少女達を城でも街でも見たが、ここまでの美貌を目の当たりにしたのは初めてだ。 健康そうな肌の色に上気した息遣い、艶かしいしなやかな手足。豊かな新緑色の柔らかく艶やかな髪に、温かみのある光を帯びた大きな瞳、軽く頬を桃色に染めて、熟れたさくらんぼの様な唇の娘。まるで御伽噺の女神の様だと思ったが、同時に懐かしさが込み上げた。 何故だか解らないが、胸が早鐘の様に鳴り響く。けれどもそれはなんとも心地良いものだった。
「喜ぶ顔が見ていたい、ただそれだけだ。大輪に咲き誇る向日葵のような、地上の太陽のような眩しい笑顔で笑うから」
ぼそ、とトバエは呟いた。崖から顔を覗かせてにっこりと笑った美少女は、柵を軽やかに飛び越えるとトバエに一直線に向かってきた。 周囲の空気が急激に変化した、村に入った時から異常なまでの安心感に包まれていたが、それは彼女が近づく度に増す。居心地が良いと直感した村は、彼女から溢れ出る不思議な空気のせいだと確信した。
「早く、ここまでおいで」
突っ立ったまま不意に呟いたトバエは、激しく脈打つ胸を押さえようと拳を作り、懸命に唇を噛締める。発狂しそうだった、異常なまでの歓喜に包まれて。 興奮で頭に血が上る、まるで薄桃色の空気がトバエを包み込み、心の奥底を刺激してくる。呼吸が止まりそうだった、意識が朦朧とする、眩暈がする。 けれども、少女の姿だけは瞳に焼きついたままだ。 トバエが、徐に手を差し伸べた。パァ、と明るい笑顔を見せて少女は駆け寄ると、軽くジャンプをしてトバエの胸に飛び込む。伸ばしていた手を戸惑うことなく折り曲げて、飛び込んできた少女を抱きとめた。 なんと、温かいのだろう。そして、どうしてもこうも胸が苦しいのだろう。反射的に抱き締めていたが、自分の行動に戸惑いを覚えた。人から抱き締められた記憶も、抱き締めた記憶も、ない。 親子の様に接してくれているウィル達とて、まだ抱き締められたことがなかった。両親が生存していた頃に抱き締めてもらったかもしれないが、それはまだ物心ついていなかった。憶えていない。 けれども”抱きしめる”ということが酷く懐かしく、そして安心出来た。思わず涙を零しなくなるほどに、熱いものがこみ上げてくる。
『遠イ昔ニ、コノ温カサヲ知ッタ気ガスル』
頭の中で声がした、不快ではない声だ、寧ろよく知った声だった。 それは、紛れもなく自分の声だった。
「逢いたかったよ、捜していたよ。だからオレはここまで来たんだ」
すんなりと言葉が唇から漏れる、若干震えた声だった。 少女は不思議そうに自分を抱き締めているトバエを見上げたが、大きな瞳を何度か瞬きさせると唇を開いた。
「わたし、アリア。おにぃちゃんのおなまえはなんてゆーの?」
アリア……そう唇を小さく動かしたトバエは思わず口元を抑えていた。
……あぁ、見つけたよ、アース。君だね、君が。
アリアの美しく艶やかな髪を撫でながら、トバエは溜息を零した。何度か触れた記憶のある髪だ、指通りを覚えている。彼女から溢れる大輪の花のような、芳しい天上の香りを憶えている。
「トバエ。オレは、トバエだ。……アリア、今日からオレはここに住むからずっと一緒にいられるんだよ」 「トバエ! トバエおにぃちゃん!」
アリアは名前を復唱すると、笑いながらトバエに更に抱きついた。黙ってトバエはアリアを抱き締める、腕の温もりに打ち震えながら。 髪に、口付けた。城内の女ですら、ここまで見事な艶めいた髪を持つ女などいなかった。苦しかったのか軽く身動ぎしたアリアを慌てて放せば、瞳が交差する。見ているだけで吸い込まれそうな大きな美しい緑の瞳は、珠玉。直向で優しさの浮かぶ光。 王位を放棄した美貌の王子、トバエ=カミュ=ラファシ十三歳。 名も無き村の美しき少女、アリア=ブラウン八歳。 安らぐ笑顔を浮かべたままのアリアを、涙を堪えてむせ返るような歓喜を押し殺しつつ、見つめたトバエ。 ニ人は”この時代で”こうして出逢った。
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