静まり返った図書館に一人きり佇んでいるのは、愁いを帯びたホーチミン。踝までの純白のワンピースを身にまとい、高く結い上げてある見事な金髪をレースで結ぶ。 一見、良家のお嬢様。実際、男。睫毛は長く、肌は白い、手足も華奢だ。女性から見ても憧れの的である、嫉妬の念にかられているので敵は多いが。 ホーチミンは、アサギに教える魔法を探しに来ていた。多種多様の魔導書が存在する図書館の一角には、誰しもが入れるわけではない。ホーチミンは高等な魔術師であるため、顔パスで立ち入ることが出来た。
「何が良いかしら。全部教え込ませたいくらいだわ、きっと完璧にこなすもの!」
ホーチミンとて不得手がある。火炎においては右に出るものがほぼいないという現状だが、他は全くだ。 サイゴンの姉であるマドリードが亡くなった為に、ホーチミンの能力が注目されたこともある。マドリードこそ、火炎においては魔界において右に出るものなどいなかった。故に、何者かに殺されたと知った時は衝撃が走ったものである。 サイゴンに口付けてから恥ずかしさのあまり逃亡していたのだが、ようやく心身共に落ち着いたのでこうして図書館に戻ってきた。 ゆっくりと指先を唇にあてると、微笑する。
「……無理やり、口付けしちゃった」
こほん、と近くに居た魔族が大袈裟に咳をする。しかめっ面でこちらを見ていたので、苦笑しホーチミンは頭を下げた。 それでも、思い出すと笑みが零れてしまう。自然と顔が赤く染まる。 実は、二度目の口付けだった。幼い頃、一度サイゴンと口付けを交わしている。
「サイゴンはきっと、憶えてなんていないだろうけど」
若干寂しそうに、絞り出した震える声。ホーチミンは唇を噛締めると気を取り直すように、軽く頭を振る。 今は惚けている場合ではない、神経を集中し本を探すことに本腰を入れる。本来ならばアサギをこの場に連れてきて選ばせたいが、彼女が立ち入れる許可がない。アレクに頼めば直様許可を出してくれそうだが、頼むまでに時間を要しそうだったので自ら探しに来た。 何より多くの者はアレクに賛成だろうが、反発する者が存在することを忘れてはいけなかった。人間の勇者を魔界における厳重な場所へ招き入れた場合、アレクの立場が危うくなることも視野に入れた。 アレクが失脚することなど、万が一にもないとホーチミンは思っている。魔王アレクと勇者アサギが揃っていないと、アレクの夢は達成できない。 ホーチミンとて自分の向上の為に魔力を磨いているのであって、人間達と戦う為に自分の力を磨いているわけではなかった。そんなことの為に無駄な労力は使わない。 争いなど、ないほうが良いに決まっている。 ホーチミンは人間の世界へ出向いた事がないが、たまに人間界で買い物をしてきた女達の会話を盗み聴いていた。物珍しいものが沢山あるらしく、実に興味が湧いている。 種族という境界線が少しでも薄れれば、自分も行きやすくなるのでアレクの夢は叶えたい。何より、勇者であるアサギが永久に魔界にいるわけもなく、人間界に帰った場合でも気軽に会いにいけるようにしておきたい。
「……あら? 何コレ」
本棚に手を翳していたホーチミンの指先が、止まった。 眉を潜めて、その”違和感”を感じた本を棚から引き抜く。 古めかしい本だった。 厚さ一センチにも満たない本だ、茶色の表紙で焦げたような形跡がある。表紙には何も書かれていない、著者の魔族を示す紋章すら施されていない。 不審に思い一瞬躊躇したが、挑むような目つきで表紙を開いた。 白紙だ。 更に捲るが、白紙だった。 ホーチミンのこめかみが引き攣る。が、次のページは。 ようやく、文字が書いてあった。
「序章……? 何、これ?」
瞳を細めて、文字を見つめる。ホーチミンはそれを手にしたまま移動した、所々に設けられてある椅子に深く腰掛けると目を再度落とす。
『私たちを引き離すことが出来ますか 私たちが出会うことは宿命です 私たちは愛し合うことを止めないでしょう 例え、この身が滅びたとしても 私たちの思い出は消えません 私たちはいつまでも憶えています 私たちは、忘れることはありません 例え、この身が滅びようとも
一人、灰色にくすんだ空を見上げてあどけなさを残した少年、いや、青年は言葉を紡いでいた。
我は忘れない、君のことを 愛しい愛しい、君のことを いつの日か、君をこの胸に抱く時を夢見て 今度こそ、君を抱きしめることを夢見て 我の思い出は消えることなく あぁ、愛しい君 どうして君はあの時裏切った あぁ、愛しい君 裏切った君が酷く憎らしいよ、こんなにも愛していたのに 愛しているよ、愛しているよ、戻っておいで 我の愛しい愛しい美しい君 神に愛された、美しい少女 早く、我のモノになれ 我に、殺される前に』
と、書かれている。
「え、魔導書じゃないわよね、これ……。何故、この場所に? 誰かが間違えて片付けたの?」
ホーチミンは呆気にとられて呟く。小説のように思えた、次を捲ると文字がずらりと並んでいる。 魔界の図書委員は非常に賢明で、仕事に対して厳しい。重要なこの場所に、小説を片付ける事など有り得ない筈だった。
「まさか、必然、じゃないわよね」
言いながら、再びホーチミンは目を落として読み始める。背筋に汗が吹き出し、流れ落ちていることに気がつかなかった。身体が震えていることに、気がつかなかった。 読むしか、なかった。 キィィィ、カトン……。 何か音が、鳴った。
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