サンテと出会ってから半年が経過していた。 普段は剣の修行と畑の手入れだけの単調なモノだ、サンテの剣術は以前より幾分かマシになっている。といっても剣の扱いは不器用なままだ、それでも気迫を出せるようにはなった。 畑も二人で耕している、リュウを喜ばせようとしたのか、サンテも以前より真面目に力を注いだ為、食物の種類も増え始めていた。収穫が楽しみだった。 一人きりの生活では、だらしなくなる。だが、人が増えることによって、その状況は打破される。 行く先で農業について助言を賜ったのか、肥料を与え、新しい苗を購入しては一つずつ増やしていた。あと数ヶ月もすれば、畑で出来た何かが口に入る予定だ。 二人で顔を見合わせ、泥だらけになった顔に吹き出しながら、まだ小さな芽に期待をして静かに見つめた。野菜の収穫がしたいと、リュウは思った。それがここへ来た意味とは全く反する願いであることも、解っていた。 自分に有余などなかったのではなかったのか、だがどうしてもサンテと過ごしていたい気持ちが大きい。 リュウの中で葛藤が続く、仲間達の救出も、サンテとの共同作業も、どちらも、愛おしい。王子としてなすべき使命と、王子ではない自分に出来た初めての友達との生活。それは、どちらかしか選択出来ないことであると、理解している。 そんな中で相変わらず、サンテには時折”勇者”として要請が来ている。サンテ曰く、以前よりも頻度が多いらしい。ぼそ、っとサンテが呟いた。
「敵側の、磐石の守りと言われていた街が陥落しそうだとか」 リュウはエレンとその間に密会し、互いの得た情報を交換する。といっても、エレンは特に新情報など持っていない。過去に知りえた事実を、有りの侭にリュウに伝えているだけだ。 地面に大凡の地図を書く、サンテが所持していたものと照らし合わせながら、エレンの記憶を頼りに付け加える。
「付近に厳重な都市がありますわ、時折そこの人間が山に狩猟で入ってきますの。私の力があれば、そこから攻め落とすつもりだったのですが、力及ばず」 「いや、慎重に行こう。だが、早手回しは必要だな」 「えぇ。その街の見取り図はこのような感じでございます……大河沿いに壁がぐるりとあり、その壁に弓兵が常時配置されております。上空から確認致しました、壁は二重構造でございます。街中には、大聖堂とよばれる神々を祀った巨大な建築物があります。ここに鐘があり、何か入用の際に鳴ります。人間の数は、相当かと」 「ふむ、この大河からの侵入を防ぐ為に壁が作られているのか……」 「人間達は、この川に面した場所以外……三箇所に出入り口を設けている様子です。仲間が捕らわれているのでは、と思った事もありました。実際に入っていくところを見たわけではないのですが、街の至る箇所に、人間用とは思えない巨大な施設が数点ありましたので」
敵の目を欺くためには、この川から侵入するのが得策だろう。 リュウは一人、様子を見に行くことにした。念の為、犬のトッカを連れて行く。人間達とて、幻獣が犬を連れているとは思うまい。
マントにすっぽり身を隠し、川の上流からその街とやらを見ていた。大河は思いの外壮大だ、水量も豊富で流れも速そうである。ここを泳いでからあの壁をよじ登ることは、体力的に厳しそうだった。 川に足を浸す、陸地からでも直様膝辺りまで水に浸かった。切り立った崖のような位置に作られている壁の真下の水深は、計り知れない。 そうこうしていると、鐘が鳴り響く。 不気味な重低音に、リュウは鳥肌が立った。トッカが吼え、鴉が飛び立つ。夕焼けは不気味に染まり、疎らな雲が儚げに浮かんでいた。 リイィン……。 不意に、耳に何か音が届く。小さな鐘を転がしたような、いや、水晶で出来た故郷の楽器の澄んだ音のような。初めて聴く音だったが、妙に安心できる音である。思わず、リュウは瞳を閉じて聞き惚れていた。 ゴォォン、ゴォォン! 直様、耳を劈くような不愉快な鐘の音が響いた。耳障りな音に、思わず両手で耳を塞ぐと唇を噛締める。 舌打ちしてリュウが何事かと街を見やれば、何やら慌しい空気の動きが見て取れた。人間達が中で動いているのだろう、壁にも弓兵の姿が時折見え隠れしている。 何か、あったのだろう。 先程の鐘の音は啓発か。リュウは、大きく固唾を飲み込みトッカを胸に抱いて上流から下流へと向かった。 筏の様なもので通過してみてもよいかもしれないが、それではあまりにも目立ちすぎる。弓矢の餌食になりそうな気もする。そんなことを思案しながら歩いていると、再び耳に”リィィン”と不思議な音が聴こえて来た。 どうしても気になり、早足でリュウは壁に向かい歩き出す。近づくにつれ、中から人間の怒鳴り声が聴こえ始めてきた。人間同士の諍いならば、その混乱の隙に中に入り込むことが出来るのではないか、とふと思い立つ。 魔力で身体を浮かせ、地面から若干浮かびながら進む。壁に沿って、侵入できる場所は無いか瞳を走らせた。 入口は三箇所だと教えられている、門から侵入すべきか、それともこの河沿いに立てられている壁から侵入するか。リュウは、唇を噛締めると身体を浮上させる。 身の危険を感じたら直様河へと避難出来るように全神経を纏って、上がる。トッカも大人しく腕の中にいてくれた。 壁から覗く弓矢だが、音も立てずに上昇するリュウには構えている兵とて気付かない。息を大きく飲み込み、そっとリュウは耳を傾ける。
「……いやぁ、まさかこんな場所に、なぁ?」 「いや、ココが今後の拠点となるのだから当然だろうよ。しっかし、今回の兵器は小柄でよかったよな」 「巨体だと邪魔だしな、にしても、兵器はどんな?」 「切り込みに使える猛禽類系の奴だとよ」
硬直する身体は、危うく魔力を失い落下するところだった。小刻みに身体を震わしながら、逸る胸を押さえる。人間達の会話からして、間違いなく今から”仲間がここに来る”のだろう。 冷静になれ、と言い聞かせた。 人間には、真名を知られてはいけない。自分の名を知っているのは、幻獣達と、サンテのみ。 サンテはここにはいないので、人間達に名を知られることはないだろう。あるとすれば、拷問に耐えかねた仲間が漏らすことだろうか。 スタイン・エシェゾー。 代々伝わるエシェゾーの家名は、もしかしたら人間達も知り得ているかもしれないので、死守すべきはスタインの名だけである。 それさえ奪われなければ、自分は頂点に立つ竜の長だ、人間になど負けることは無い。中に運び込まれた仲間を救い出し、人間の呪縛から解き放つためには、その仲間を使役出来る召喚士を抹殺しなければならない。 一人で、この街を陥落させねばならない。救出後も、その仲間の名を知り得る人間がやってくるかもしれない。来た順に、抹殺していくしかない。 早い話、どう足掻いても。
「人間達を抹殺するしか方法はないようだ」
リュウは感情のない声で呟いていた。 壁を伝って上昇する、壁の上には当然、弓兵が配置されている。だが、河を見つめている弓兵は僅かだった。皆、街を見下ろして弓を構えている。運ばれてきたらしい幻獣に警戒しているのだろう。 リュウには翼がない、頭部の角さえ見つからなければ、人間として紛れ込む事が出来る筈だった。 意を決し、息を潜めてじっと壁際に身を隠す。 再び、あの耳障りな鐘の音が鳴り響いた。途端に湧き上がる大喝采の騒ましさに、リュウは顔を顰めて奥歯を鳴らす。 だが、好機だった。 弓兵の全員がそちらを向いたのだ、今しかないとばかりに身を乗り出し、リュウは壁を乗り越えるとトッカを降ろし、気配に感づいた一人の人間の喉元に短剣を突き刺す。 声も出せずに、絶命する人間。短剣を抜きとり、倒れてきた人間の腰に下がっていた長剣を引き抜いた。 河側の壁に配置されている弓兵は二十人程だ、面倒なのでこの場で抹殺することにした。両手の指を鳴らしながら、俊敏に決められた間隔で配置されていた弓兵達に斬りかかる。 まさかの侵入者に、慌てて人間は弓を構えるが遅い。 まして接近戦ならば、弓ではなくその腰の剣を引き抜くべきだった。戦闘に不慣れな寄せ集めだったのか、瞬く間に狼狽している弓兵を全滅させる。名のある兵ならば臨機応変に応対したのだろうが、異変を知らせる救援信号すら上げることもなかった。 大きく肩で息をしながら、身を低くし街の様子を窺う。 他にも弓兵は街の至る所に配置されているようだ、太陽からの光の反射で弓先が煌いている。 特に高層の建物の屋根などである、リュウは翼を広げなくても浮遊できる種族であることに感謝した。翼の付け根を弓で狙われればひとたまりも無い。 寄せ集めの武器だが、身を屈めて扱えそうなものを物色しながら中で何が行われているのかを探る。愛用の短剣を懐に隠し、長剣を二本腰に下げ、弓を右手に構えて弓矢を背負う。 単独で配置されている弓兵へ向かって、壁の隙間からリュウは慎重に弓矢を放つことにした。 兵を今この安全な状況下で、出来るだけ減らしておきたい。 人間と違い、嗅覚も視覚も幻獣のほうが優れている。獣の瞳でリュウは注意深く周囲を見渡し、確実に弓兵の喉もとに弓矢を放っていった。 思いも寄らぬ攻撃に人間など無力で、そのまま喉に刺さった弓を驚愕の瞳で見つめると、もがいて息絶える。抵抗することも出来ず、その場に崩れ落ちる。 吹き出る汗を拭いながら、リュウは確実に仕留めていった。 高い位置から落下すれば何事かと騒ぎになる、上手く、その場に倒れこませることに精神を消耗した。
「なんだ、私も弓の名手だったのだな」
震える声で、多少の歓喜と共にリュウが呟く。こうしてみると、バジルからの訓練があって心底よかった。授業を受けていた昔、唇を尖らせて反抗的だった自分に苦笑いする。 その場にあった弓矢がかなり減少した、だが、まだ全員仕留めてはいない。位置を変えながら、容赦なくリュウは人間を殺していく。人間達が下で騒いでいたことも手伝い、未だ誰もこの状況には気付いていない。 と、大歓声が沸き起こった。 訝しげに隙間から覗き込めば、花を撒き散らしている娘達の中央を、赤い絨毯が転がっていく。上空からは見えないが、派手な装飾の日よけの傘に馬車、位の高い人間が街へ来たのだろうということは安易に見て取れた。 人質にしてみたらどうだろう、ふと、リュウの脳裏にそんな考えが過ぎる。 何者か知らないが、大層なご身分のようだ。目には目を、歯には歯を。こちらも幻獣を何人も人質状態にされているのである、人間と同じ行動を取りたくなどないが、それが最も利巧な手段だと思えた。 リイィィィン……。 そんな時再び、何処か懐かしい音色が聴こえる。 それが同胞が残した命の欠片の共鳴によるものだと、リュウも今、明確に理解出来た。 太陽に反射され、この街へ訪れた人物が大観衆の前で高らかに掲げているもの。それこそ、命の欠片だ。美しい、澄み切った碧い石と燃えるような紅い石である。 反射的に身を乗り出しかけて、慌てて引っ込める。胸の鼓動が速まる、吹き出る汗は止まらない。 嫌悪感に支配された、あれは、人間が所持してよいものではない。 冷静になれ、と自分が叫ぶ。だが、それ以上に込み上げる憎悪の念は限界などない。
「か、かえせ……」
ぼそ、とリュウが呟いた。不安そうに隣でトッカが小さく吼えた。
「それを、返せーっ!」
リュウは、そのまま高々と跳躍すると一気に壁を垂直に駆け下りていく。 人間のざわめきなど聴こえなかった、最も攻撃に向いている弓兵はほぼ、リュウが先程仕留めている。残っている弓兵の弓を避ける事など、リュウにとっては容易い事だった。 避ける、といわずとも、”当たらない”。多量の弓矢ならば一本くらい当たったかもしれないが、怒りに我を忘れている今のリュウの速度になど、人間の視覚では追いつけなかった。 地面を蹴り上げてそのまま疾風の如く、突き進む。悲鳴を上げて避ける人間、倒れ込む人間がいるが、誰も攻撃してこない。ただの一般市民ではそうだろう。 やがて、周囲を囲んでいる槍を装備している兵が突進してきた。だが、跳躍して槍先を軽やかに交わすとそのまま進む。勢いなど、止まらない。 高々と宙に浮遊し、所持していた弓矢を上空から何本も一気に雨の様に降らせた。 直様血の香りが立ち込める。 弓を投げ捨て、腰に下げていた剣を引き抜くと地面に降り立ち、そのまま雄叫びを上げて斬りかかる。二本の剣で攻撃と防御を上手く使い分けて、リュウは悪鬼のごとく突き進んだ。 フードなど当然外れており、その頭部からは猛々しい角が人間の目に曝されている。 命の欠片を所持している人物は、どうやら護られて中央の厳重な建物に入ったらしい。舌打ちしてリュウは入り込める場所を探した。 あの鐘が吊るされている建物だ、上空から入り込むのが適切だろう。 リュウは跳躍するとそのまま一気に浮遊し、鐘を目指す。
「一旦お引きください!」
鋭い叫び声に、我に返ったリュウは辛うじて身を翻した。鋭利な鍵爪が目先を掠る。そこに居たのは、幻獣だった。 猛禽類のリングルス=エースが、顔を歪めて立ちはだかっている。
「こ、このような場所で何をやっておいでなのですか!? 早く、早くお逃げください! ここにいては、攻撃するしかっ」
空中での速度であれば、リングルスが上である。そんなことくらい、リュウにとて解っていた。舌打ちして身を翻すが、弓矢が四方から飛んでくる。弓兵隊が態勢を持ち直したのだろう。
「上空に! 上空へ避難して、そこから街を出るのです! さぁ、早く!」 「リングルス! お前をおいてはいけない! 一緒に行こう」 「行けるものならばとうに、行っています! このように攻撃も致しませんっ」
会話しながら、リングルスの猛攻は続いていた。涙しているリングルスとて、人間の呪縛から逃れようと必死なのだ。だが、どうにもならないことなど知り得ている。出来たのならば、こんな場所には滞在していない。
「大きくなられましたなぁ……もう、いっそのこと、この場で私を殺してください。本望です」 「たわけかっ! それでは私がここへ来た意味がないだろうがっ!」
リュウの呼吸は上がっている。先程弓矢で人間を何人も射止めた際に消耗した精神、怒りに我を忘れて我武者羅に動いた為に消費した体力。それに加えてこのリングルスの鋭く強烈な空中での蹴りである。限界に近かった。
「一旦は引いてください! お願いします! 狡猾な人間どもです、下で何を企てているかっ。貴方にお会いでき、希望が湧きました。何時までも機会を待ち、好機を窺いますから! 今はっ」
リングルスが名を呼ばないのは、万が一に備えて、だった。聞き取れる人間などいないだろうが、念には念をである。 唇を噛締め、壁で吼えたままのトッカに向かうと、リュウはそのまま抱き上げて河へ飛んだ。
「ええぃ、誰かおらんのか! あの新しい兵器はなんなのじゃ!」
建物内部では王が喚き散らしている。この街に訪問していたのはリュウが人質に出来ていたならば、紛れもなく有利に運べた人物だった。カエサル城に身を置き、この地を治めている王、その人である。 突如出現した新たな幻獣に、王は無論召喚士の末裔達も躍起になっている。リングルスと互角の速度と俊敏な動き、何よりも見た目が非常に美しい兵器にしてはもってこいの獣だ。
「頭部の角から察するに、竜族の類ではないかと……」 「種族などどうでも良い! 名前を、誰かきゃっつの名前を知る者はおらんのかぁっ!」
黒き髪に黒き瞳、恐ろしく整った凛々しい顔立ちの幻獣である。 竜族に連なる記載を、皆がこぞって調べていた。当てずっぽうに全ての名を呼んでいくが、該当しない。もし、呼んだ中に真名があれば、手ごたえがあるはずだ。 王の苛立ちは、募る。減少していた幻獣なのだ、新たな者は捕らえなければ意味が無い。
「自由に飛びまわっているところを見ると、敵方の兵器でもありません」 「阿呆か貴様は! それくらい誰でも見て取れるだろう!」
全く成果の出ていない召喚士の首を手持ちの剣で撥ねる王に、青褪めて召喚士達は震えながら何度も帳簿を見つめる。が、記載されている筈が無い。
「捕らえて、何処から来たのか問いただした上で兵器とせねば! 誰か、誰か! きゃっつの名を呼べる奴はおらんのかっ」
自身の剣を構え、傍若無人に剣を振り回し斬首している王は、もう何処かおかしかった。随分と前からだが。
「答えろ、石ども! あれは何という名だ!」
所持している幻獣の欠片に話しかける、答える筈等無いのに。王の手元には、数個の欠片があった。煌くそれは、本当に宝石のようである。最も、加工しても効果が発揮されるのであれば王自身、王冠や指輪に使用したいくらいだ。 その場は、惨劇だった。家臣が止めようものならば首を斬られるので、すがるような瞳で召喚士一同に望みを託すしかない。王の機嫌を損なわずに持ち上げられる人物を、待つしかない。 小声で、召喚士達は会話した。「解るわけが無い」と。記載されている名は、先程全て読み上げたのだ。どうしろというのか。 だが、こうしている間にも王は手当たり次第に誰かの首を撥ねている。血生臭い空気が室内に充満していた、豪華絢爛な壁紙に、血痕が舞う。
「お、王よ。自ら名を吐かせる為に、主力を全て奴に注ぎましょう。その間にも召喚士達には、全力で名を調べさせましょう」 「ふん……他の兵器も出すというのか」
ようやく瞳から狂気の光が消える、王は近寄ってきた臣下を足蹴にしながら片手で団扇を仰ぎ始めた。直様数人がかりで豪勢な椅子が運ばれ、美しい半裸の娘達が酒と果物を持ち近寄ってきた。娘の一人の乳房を揉みながら、注がれた酒を豪快に飲み干す。
「地下に幽閉している兵器を全て出せ! きゃっつを引き摺り下ろせ! 時間がかかるようであれば、多方面の兵器も全速力で要請しろ」
異常な興奮状態にあったので、王は下腹部を露にすると娘の一人を膝に乗せてこの状況下で突き入れた。だが誰も驚かない、日常茶飯事だった。 娘とてこの街で選ばれた器量の良い娘達だが、事前に話は聴いていたので脅えてはいたが、受け入れた。 これが、今のカエサルの王である。 興奮すると、所構わず性行為に及ぶ。近親相姦を繰り返した為に、産まれた時から何かがおかしかった。 だがこの世界にこの時代で、濃い血が人を狂わせるなどと誰も知らない。”王とは、こういうものなのだ”それで、誰にも納得できた。
「お父様、あれ、綺麗ですわね」
無論、その娘の姫とておかしかった。自分よりも幼い生娘が涙を流して、父の膝の上で仰け反っている姿を平然と見ながら、斬首された者達の死体の上に汚れないようにと、絨毯を敷いて貰って歩み寄ってきた姫。 母は、父の実の姉である。王よりも、もっと血が濃いのがこの姫だ。
「お父様、わたくし、あの黒い獣が気に入りましたの。今まで見たどの獣より美しいですわ。あれが欲しいのですが」 「はっはっは! 流石は我娘だ、兵器を欲しがるのか?」 「はい。いけませんか? あの綺麗な獣の首に、輪を填めたいのです。ほら、拷問で使うような内側に棘のついた……。少しでも動けば、苦痛を伴うあれですわ。あれを填めて引き摺り歩きたいのです、屈辱的で反抗的なあの獣の瞳を見ると、うっとりしてしまいそう」
娘は、身体を震わせる。頬を紅潮させて、艶めかしく舌を出した。 控えていた女官は、青褪めた様子でこの父娘を下から見つめる。割り切ってはいるが、並みの精神ではついていけない。王など、新たな娘を手繰り寄せて再び犯していた。
「うむうむ、敗北感を与える趣向としては面白いな。流石愛しの娘だ」 「とっても綺麗……今まで与えられた殿方よりも、とっても綺麗」
この姫も、自分の目に止まった美しい少年や青年を城に連れてこさせ、鞭で叩くなど拷問して楽しむ霹靂がある。猛々しい髭以外は、血走った瞳と抜け落ちた毛の貧相な王。その娘の姫とて器量が良いとは言い難い。 だが、二人とも美しいものが大好きだった。そこは父娘である、そっくりだ。
「というわけだ、姫の要望に応えねばな! さぁ、さっさときゃっつを捕らえるのだ!」 「嬉しい、お父様!」
姫はにっこりと優美に微笑むと、踵を返す。途中、自分よりも美しく、今し方父に処女を奪われ床に倒れていた娘の秘所を、グリグリと靴の爪先で踏み潰した。痛みに悲鳴を上げる娘の泣き顔を見て、姫は微笑した。「あら、醜いお顔ですこと」 そんな中で。誰もが注目していなかったみすぼらしいドアがあった。下々の者が行き来するドアだった、そこから一人の若者が入ってきた。若者は、その惨劇に身体を硬直させた、話は聞いていたが初めて見たのだ。 なんと、醜悪なのだろう。これが、今の国の現状なのだと嘆き哀しみ、恐れ戦いた。 けれども、自嘲気味に笑った。自分もそんな国に存在する、たった一つのちっぽけな人間だった。この目の前の下卑たどうしようもない人間の同類だと、言い聞かせた。
「王よ、お話を聴いてください」
跪き、若者は震えながら声を出す。 誰もが、その貧相な若者を怪訝に見た。血相を変えて一人の騎士が彼を摘み出す、だが彼は必死に床にすがりついていた。 地面に広がる夥しい血で彼の顔が、汚れた。
「なんじゃ、お前は」 「勇者、です。勇者サンテです」
騎士に押さえつけられながら、顔を上げたサンテ。皆が爆笑する。あぁ、あの仮初の勇者か、と。爆笑の渦の中で、それでもサンテは拳を握り締め唇を噛締め堪えていた。笑うだけ、笑えば良いと。
「ぼ、僕は! あの者の名を知っています! 褒美を下さいっ」
サンテの絶叫に、その場は静まり返った。荒い呼吸で、押さえつけていた騎士を押し返し、額に吹き出た汗を拭う。 サンテの顔も髪も、血液で染まった。その中に佇む瞳は、何処か遠くを見ている。
嘘を申すでない、と罵声が飛んだ、しかし王は自分に跨っていた娘を跳ね飛ばすと、下腹部を隠すことなく近づく。体液と血液の混ざり合う異臭に思わずサンテは顔を顰めるが、唇をきつく噛みながら跪いている。
「……このような状況下で、そこまでの戯言を言えるような度胸があるように思えん。褒美に何が欲しいのだ」
王が名ばかりの勇者と本気で話を始めたことに、周囲は驚きを隠せない。見下している様は見てとれたが、意外だった。
「ぼ、僕は普通に生活がしたいんです! 小さくても良いから、人が住まう集落に住みたい! 家が欲しい、畑が欲しい、最初に資金さえいただければ自分でどうにかやりくりします。一人で生活なんて、もう、うんざりなんです!」
叫ぶように言い放ったサンテに剣が四方から向けられた、だが王は豪快に笑い飛ばす。剣を下げるように顎で指示をした。
「謙虚だな”勇者”よ。階級が欲しいだの、屋敷が欲しいだの、そういった願いでなくて良いのか?」 「僕はどのみち、卑しい身分なき者です。高貴な方々の華やかな生活には憧れても、無理ですので。ただ、あんな寂れた場所で一人きりでいたくないのです」
王はサンテがどのような生活をしているのか知らない、下々の者に興味は無い。だが、珍しい褒美を口にしたサンテに興味が湧いていた。
「ふむ、話が本当ならば望む通りの褒美をとらせよう。面白い奴だな、興味が湧いたわ。で、きゃっつの名は?」 「お、おまちください王よ! そのような召喚士でもない者が知り得るはずはありま」
王に駆け寄った一人の召喚士の首が、弾けた。冷徹な眼差しでゆっくりと倒れていく胴体を見ていたのは王だ、自分に口答えしてきたので斬首したまでである。何より、自分の趣向を邪魔されたのだ、その憤怒は計り知れない。 王は直様サンテに向き直ると、奇怪な恐怖を憶える、めた笑みを浮かべていた。
「僕は、あの者と暮らしていました。その時、名を聞きました。勇者として何かお役に立たねばと、あの者の油断を誘えるように、親密な関係を築き上げたのです。報告が遅くなりました、申し訳ありません」 「ほぉ! なかなかやるではないか!」
その言葉に皆が息を飲んだ、異端の目でサンテを見た。幻獣と暮らしていた男、異端だ。王が気にかけていなければ、直様迫害すべき人物だった。
「ですが、正式な名は知りません、一部だけです。ですので、僕にも召喚士様方が所持する記帳を、一冊戴きたいのです、調べてみたいのです」 「ふむ! そこらに溢れかえっておる愚鈍な役立たず共より良いではないか! 貴様ら、この小僧に至急記帳を渡せ」
王が叫ぶなり、召喚士の一人が醜悪なものでも見るようにサンテに近づき、そっと手渡す。ずしりと重く、古めかしいそれにサンテは戦慄した。唇を噛む。始終身体は震えていたが、本はしっかりと受け取った。
「あの、皆様がお持ちの記帳の中身は皆同じなのですか? 違うのなら全て見てみたいのですが」
召喚士達は、王が睨みを利かせていたので渋々サンテに近づくと、手にしていた記帳を渡し始める。全部で九冊の記帳が手に入った、何気なく一冊を開いて瞳を細めたサンテ。
「王よ、その高名な御耳をお貸しください。貴方様にお伝え致します」
恭しく跪きながら、サンテは胸に記帳を抱きとめて呟く。王はいそいそと、サンテに近寄った。兵達はサンテが不穏な動きを見せないか、武器を構えたままだ。 サンテはそっと顔を上げると、唇を動かす。見る見るうちに、王の表情がにんまりと歪む。伝え終えると、直様床に平伏した。
「ですが、欠けています。僕はそれを調べます」 「うむうむ! 誰か、小僧に前金を渡せ。褒美じゃ! 暖かな食事と飲み物を振舞うように!」
惨劇があった部屋で食事など、とサンテは密かに眉を顰めたが、杞憂だった。直様、サンテに豪華な衣装と宝石をあしらった装飾品が届けられ、食べきれない量のパンやら肉が出てくる。香ばしい美味そうなそれらにサンテの腹が鳴った、まともに食事をしていなかったので、記帳を丁重にテーブルに置くと用意された食事を口に放り込む。 食べた事がない肉だった、一級品の牛である。ソースなど上等の赤ワインだ、付け合せの野菜も宝石の様に輝いていた。無我夢中で食べ始めると、果物盛りも出来た。甘くて瑞々しいそれらには、美しい深紅の苺がこんもりと乗っていた。
「小僧よ、早く名を調べるように。他の者は至急地下の兵器を解放しろ! 召喚士達は操ってきゃっつの捕獲に向かえ!」
浮き足立った王は、豪華な毛皮を羽織って煙草を吸いながら部屋を出て行く。召喚士達も兵器を操らねばならないために、付き添った。部屋には、少しの使用人が残され、飛び散った血痕の掃除にあたっている。 サンテは、食事を頬張りながら記帳を眺めていた。普段ならばパンのカス一粒すら残さないサンテだが、有り余っている食料に豪快に食べ続ける。
街の地下に幽閉されていた幻獣が解き放たれた、突如姿を現した美しい兵器を捕獲せよ、との命令だった。逆らう事など出来ないが、幻獣達は顔を見合わせ項垂れる事は出来た。あぁ、また仲間が捕まるのかと。 しかし、一体何者だろうか。まだ使役されていない幻獣がいたことに驚いたが、それも今日で終わるだろうと嘆き悲しむ。 額に一角を所持する、氷のような滑らかな肌の娘はユニコーンの末裔だ。自慢だった長く煌びやかな髪は、疲労と抑圧で痛み放題である。名を、キリエ。飛行部隊として重宝されていた。 背に蝙蝠のような羽を持った細身の男は、瞳が深紅で血を連想させる。短い金髪が漆黒の羽によく映えた。鋭い爪を持つ彼は、ケルトーン。夜間でも敵を見逃さない、飛行部隊の一人である。 背負う強大な斧を軽々と持ち上げて項垂れている中年の男は、片目がない。筋肉の塊のようで動きこそ鈍足だが、腕力では一撃で地面をえぐる。オーガの彼はコルケットという名だった。
「飛行部隊で叩き落し、地面に落下したところでお前が仕留めろ。死ななければ多少の無茶は構わん」
キリエ、ケルトーン、コルケットは顔を見合わせて諦めた溜息を吐いた。いつものことだった、この戦法で何度か敵方にいた仲間を手にかけた。キリエとケルトーンが召喚士たちに監視されながら飛び立つ、新しくこの街に配置される予定だったリングルスが先に戦っていることは、すでに聞かされていた。
「……まさかっ」
近づくにつれて、キリエとケルトーンの表情が変わる。上空を仰ぎ見たコルケットも、顔面蒼白で思わず斧を手から落としてしまった、当然だ。 リングルスと格闘していた人物は、他ならない最愛の故郷の王子である。 名前を挙げそうになって、辛うじてキリエが自身で口を塞いだ。だが、口は塞げても攻撃の手は止まらない。リングルスの後方から、リュウ目掛けて突進してくる。
「っ! このような場所に仲間が大勢」 「お、お逃げください! 何をやっているんですかっ」
一角でリュウを突き刺すように突進してきたキリエを避ける、痛んだ彼女の髪にリュウは涙した。
「そ、そうです! 早く遠くへ!」
急降下しながら手足の爪で突き刺そうとしてきたケルトーンを、紙一重で避けて地上を見れば、もう一人の仲間がいる。
「この街だけで四人か! 必ず助けるから!」 「我らのことは構わず、お逃げください!」
悲痛な叫び声は、咆哮となる。リングルスの猛攻に加えてのこの攻撃ではさすがのリュウとて、体力に限界が来ていた。おまけに腕の中にはトッカがいる、上手く避けないとトッカが傷つく。焦燥感に駆られて、水面すれすれを飛行するリュウ。一旦は何処かの森に身を潜めねばならない。 地上では、人間達が眉を潜めていた。コルケットが取り乱したのだ、尋常ではないほどに。見過ごすわけにはいかない。
「王よ、ひょっとしたらあの新しい兵器……相当な位の者では?」 「位? なんだ、兵器にも位なんぞあるのか?」
召喚士の一人が、恐る恐る王に近づく。王は再び踏ん反り返り、娘らを侍らせている。 本来、この街に王達が滞在することになったのは、今上空にいるリングルスの移動の為だ。敵方で使役されていたリングルスを確保し、その戦闘能力を見てみたいという王の為にこの街が選ばれた。街には敵方を崩壊に導いた兵器も揃っており、鼻の穴を膨らませて見物に来たのである。 指示を出すだけで、前線には出ない王だが、こんな男でも剣の腕は確かだった。
「代々、王として君臨する家系があると聞いております。名は……」
水面を飛んでいたリュウの身体が、電撃に打たれたように痺れて一気に水中に沈む。悲鳴を上げたキリエだが救う事等出来ない、寧ろこれ幸いとばかりに水中に潜り攻撃を加える。死ななければ良いのだと、命令されていた。 身が硬直し、鼻と口から水が入ってきた。だが、一瞬の痺れだ。トッカがいるので渾身の力を振り絞り、対岸の森に身を潜めると水を吐き出す。木々が生い茂っているそこは、簡単にはあの二人とて攻撃を加えられない筈だ。
「な、何だ今の……」
身体が麻痺したようだった、自分の意思では動けなかった。体力の衰退ではない。寒気がする、水に濡れたから冷たい、というわけではない。嫌な予感がしてたまらない。 震えながら様子を窺うと、二人の仲間達は不安そうにこちらを見ている。大丈夫だよ、と微かに頷くと安堵して首を垂れた。いつしか、夜になっている。 そうなるとケルトーンの分野だ、リュウは夜間にはさほど瞳が慣れていない。
「あぁ、でも今日はそういえば」
昨晩は満月だった、今日から月が欠けていく。自分の髪が変色していくことに気がついた。リュウの髪は、月の満ち欠けで髪と瞳の色が変化する。最初観た時はトッカも驚いたようで吼えていたが、流石にもう、慣れたようだ。 神々しい銀髪に、金色に光る瞳は暗闇でも目立つ。黒髪黒瞳のほうが、闇夜に紛れるには丁度よかったのだが仕方がない。リュウは、銀髪になった自身の髪を見て苦笑するしかなかった。
「王子! 王子!」 「エレン!」
震えているリュウの前に、エレンがやってきた。胸騒ぎと、石の魔力によって吸い寄せられてきたのだという。リュウは手身近に現状を話した。
「まぁ、まさかあそこに四体もの仲間が。……それに、命の欠片を何個か所持している人間がいるのですね。だからこうも身体がざわめくのですね」 「どうする、エレン。一旦引くのが得策かな」
キリエとケルトーンの姿はなくなっていた、不気味である。人間達がどのような策を思案しているのかわからない以上は、撤退が得策だろう。仲間を目にして逃げるしかないリュウは歯軋りするが、エレンが嗜めた。
「身体も濡れていますわ、すぐに乾かさないと。攻防が激しかったのですね」 「いや、何故か身体が硬直したように……麻痺したようになって、河に落ちたんだよ」
何気なく言ったリュウだが、エレンは悲鳴を上げる。首を傾げて見つめるリュウに、唇を震わせて声にならない声でエレンは告げた。
「真名が! 真名を一部知られたのでは!?」 「まさか!」
だが、そうなれば納得がいく。突如として身体が制御出来なくなった事態も、それならば理解出来る。 名前を知っている人物は、人間ならばサンテ。先程の仲間達が拷問されて、名を一部呟いたのか。 青褪めるリュウとエレンは、身体を寄せ合う。ともかく、一刻も早くこの場を立ち去るべきだと、闇夜に紛れて森を移動した。 もし、ここでリュウが捕らえられてしまえば終わりだ。単独で乗り込んできた意味がない、ただの、阿呆である。それだけは避けねばならないと、リュウは震える手でトッカを撫でて落ち着かせようとした。 だが、恐怖心はそれだけで消える筈が無い。捕らえられた先の末路を考えると足が震えた。
「わ、私は弱いな……」 「お気を確かに!」
リュウの身体に寄り添い、エレンが励ます。だが、それもリュウには自分の愚かさを強調させるだけだ。 不意に、トッカが腕で暴れる。驚き、思わず腕を離したリュウは、トッカが一目散に河へと向かう姿を見た。 エレンは急かしたがトッカは大事な犬、いや、もはや仲間だ。ここにおいてはいけない。追う様に走り出すと、トッカが尻尾を振っている。
「サンテ!」
対岸の壁、先程リュウが弓兵を殺害したあの壁にサンテが立っていた。
「あれが、スタイン様と共に行動していた人間ですか」 「あ、あぁ! まさかこの街に居ただなんて」
訝しげに見上げているエレンは、冷ややかに声を荒げる。
「スタイン様? あの人間はスタイン様の名を知っているのでは? あの者が漏らしたのでは?」 「そ、それはない! 大丈夫だ、確かに、名はその、呟いてしまったので知っているが、サンテはそんな奴ではない!」
狼狽するリュウの隣でエレンは瞳を細める、隙あらばその両腕から風を放ちそうな雰囲気だった。
「……あの者が知っているのですね。危険すぎます」 「ま、待てエレン。大丈夫だ、サンテは私の友人なんだ、大丈夫だ!」
リュウは言いながら、壁に立っているサンテを見る。何処か遠くを見ているようだ、こちらには気がついていないのだろう。それにしても、ここに来ていたとは知らなかった。
「百歩譲っても信用出来ませんが。何をしているのでしょう?」 「帰ったら話を聞こう、さ、トッカ、一旦帰ろう!」
主人を見つめているトッカを抱き上げようとするが、するりと逃げる。久し振りに会った本当の主人が恋しいのだろうか、困惑気味にリュウはトッカを見つめる。トッカの視線の先には、サンテ。 不意に、サンテと目があったような気がした。リュウは視えてもおかしくないが、サンテの視力では視える筈が無い。だが、こちらを見て何か訴えているような気もする。確かに口を動かして何かを言っていた。
「何か……言ってる。エレン、私はサンテに聞いてくるからここで待機してくれないか」 「危険すぎます! なりません!」 「頼むよ、サンテは人間だけどエレンの思っている様な奴じゃないんだ」
大きく顔を歪めているエレンは、必死の形相だ。エレンの気持ちも解らないわけではないが、サンテとリュウの仲は二人しか知り得ない。頑固なリュウにエレンが大きく溜息を吐き、こめかみを押さえながら低く呟く。
「援護します、いつ他の仲間が参戦するとも限りませんし、罠かもしれません。それならば赦します」 「有難う! 行こうトッカ」
サンテに向かうと解ったからなのか、トッカは小さく吼えて大人しくリュウに抱かれた。嬉しそうに尻尾を揺らす。 水面ギリギリを低空飛行し、リュウとエレンは近づいた。弓は降って来ない、まだ弓兵は配置されていないのだろうか。近づくとサンテもこちらに気付いたようだった、背後を気にしながらこちらを見つめている。 壁を伝って上がっていく、人の気配はない。静まり返っていて不気味だ。
「な、何やってるんだよこんなとこで!」 「それはこちらの台詞だ!」
小声で話しかけてきたサンテに、リュウが答える。周囲を窺いながら手招きしたサンテにエレンはい訝しんだが、リュウは軽々と壁に降り立った。身を低くし下を覗けば、人間達が慌しく動いている。
「手身近に話すよ、名前の一部が知られたみたい」 「貴様が話したのでは!?」
神妙な顔つきで相槌を打つリュウに、エレンが割って入る。目の前の小さな幻獣にサンテは多少驚いたが、周囲を気にしながら身を屈める。
「静かにしてよ、今それどころじゃな」
急に耳障りな音がした、あの鐘が再び鳴り響いたのだ。思わず耳を塞ぐリュウとエレン。トッカが吼える。 サンテの舌打ちと共に、何かが目の前を掠める。一本の太刀だ、月に反射して光り輝いた。 唖然とそれを見つめる、目の前で剣を振るったのはサンテだ。剣を構えて腰を低く、こちらを見据えている。 状況が把握できずに右往左往しているリュウの傍らで、エレンが風を放った。鮮血が舞う、だが、辛うじて避けたようでサンテは地面に転がると再び体勢を整える。 低い叫び声がした、壁に溢れるように人間が集まってきていたのだ、風の刃はその兵に直撃したのである。エレンが繰り出す風は、カマイタチのごとく皮膚を切り裂く。 何処からか、豪快な笑い声が聴こえた。見れば高めの塔から王がこちらを見ていた。
「でかしたぞ、勇者サンテ! 誘き寄せるとは見事なり! 更に褒美をやろう、貧相な家ではなく、屋敷に使用人もつけてやるぞ」
鼓膜に響く王の下卑た声は、リュウの脳髄に衝撃を与えた。何を言っているのか解らず、脳内が混乱する。視界が揺れる、回る。 虚ろな瞳でサンテを見つめれば、皮肉めいた顔で笑っていた。
「き、貴様! 王子を弄んだのだなっ」
上品なエレンが奇声を上げた、再び風を繰り出す。壁を破壊するほどの威力の風だが、俊敏にサンテは避けた。無傷ではなかったが、致命傷はあたえられない。
「おのれ、おのれぇっ!」
腕を振り上げて風を連打するエレンの傍ら、放心状態のリュウは動けずにいた。エレンが言う通りだったのだろうか、この状況はなんなのだろうか。みすみすとサンテの罠に嵌まってしまっただけなのだろうか、あの王が言う意味を受け入れてしまったら、全てが崩壊してしまう。
「王子、逃げますよ、王子っ」
エレンが肩を揺さ振ろうとも、微動だしないリュウは、サンテを見つめている。 唾を吐き、サンテは低い姿勢から剣を一気に突き出した。その瞳に迷いなどない。
「ぅぐっ」
剣はリュウの左腕を掠めていた、心臓を狙ったのだろうが、無理な体勢からで上手く命中しなかった。
「さ、サンテ?」 「ちっ、避けたかっ」
右腕で出血箇所を抑え後退するリュウに、じりじりと滲み寄るサンテ。
「剣が重くて、上手く扱えないんだよね……。でも、教えてくれてありがと」 「さ、サンテ……?」
再び風を起こし始めたエレンに、先にサンテは剣を振り翳した。だが俊敏な風の妖精には触れられない。
「後方からも追っ手だよ」
歪んで笑ったサンテにエレンが振り返れば、弓矢が降り注ぎ、槍を構えた兵が迫ってきている。舌打ちし、エレンは風をその槍兵へと投げつける。
「王子、下に飛んで逃げましょう! 早く!」
弓矢を叩き落す風を巻き起こしながら、防御に徹することにしたエレンは、リュウに必死に叫んだ。だが、リュウは小刻みに震えるばかり。
「サンテ? サンテ、これは一体」 「あー、もう、煩いなぁっ」
地面を蹴り上げ跳躍したサンテの、剣が降って来る。唇を噛締め、リュウは慌てて剣を腰から引き抜いた。だが、震える手では上手く剣を扱えない、防御が出来ない。
「思ったより、幻獣の王子様は精神が脆いんだね。……知らなかった、王子様だったんだね」
喉の奥で笑いながら、血走った瞳で剣を降ろし両手で渾身の一撃を繰り出すサンテの動きは、以前とは違う。当然だ、リュウが教えたのだから。 名前を呼びたくても、口内は乾ききった。声が出て来なかった、震える身体は止まらない。
「使役されるよりも、死を選ぶ? それとも生にすがって使役されるっ!?」
剣を横に薙ぎ払うと、リュウの剣が転がった。慌ててもう片方の剣を引き抜こうとしたが左腕の痛みが増し、顔を顰める。止む無く、右手で以前から所持していた短剣を引き抜いた。
「人間が醜く汚い生き物だって、知っていたはずだろう、王子様。……僕は”人間”の”勇者”だよっ!?」
偽物だけど、と薄く笑って付け加えたサンテは、何度もリュウに斬りかかる。首を横に振りながら、リュウはそれでも抗った。現状に抗った、名を何度も呼ぼうとした。攻撃など出来なかった、目の前にいるのは、人間の友達だった。嘘だと何度も心で叫び続ける、絶対的に信頼していたのだが自分が間違っていたのだろうか。 エレンは懸命に外部からの攻撃を避けることしか出来ない、リュウを救出になど行けない。その顔が青褪める。悲鳴を上げた。
「き、来ました、仲間です! わ、私一人ではっ!」
狼狽しているエレンの声に、横目でリュウとサンテは見た。想定内だが幻獣達が取り囲んでいたのだ。三体とも心痛な表情で涙を浮かべている、傷ついたリュウを見て項垂れた。
「何故逃げなかったのですか……」
エレンの俊敏さなど足元にも及ばない飛行能力のある三体だった、足元ふらつくリュウに寄り添い懸命に威嚇するエレンだが意味が無い。 それでも人間の兵は辛うじて撃退できたようである、何かしらの傷を負わせ戦意を喪失させることは出来たようだ。 後方で、王の笑い声が響いていた。
「珍しいな、髪の色が黒から銀になっておる! 美しいではないか! 流石王族か、はーっはっはっはっは!」
血が吹き出る程、幻獣達は唇を噛締める。
「僕は名前を知っているんだよ、王子様。真名を知ったんだ、君が王子だと知ったからね」 「……私は、サンテを疑いもしなかった。それが、間違いだったのか?」
剣を振り被るサンテにエレンは悲鳴を上げるが、リュウは哀しそうに瞳を伏せたまま力なく短剣を構えている。
「だから、僕は”人間”の”勇者”だってば! 僕は最初からこのつもりで居たよ、君を捕らえれば褒美が貰える、もう、一人きりであんな場所で生活しなくてもいいんだ! 人間らしく人間の中で生きていくんだ! 君の敗因は、勇者の僕を信じたことだよ!」
サンテの剣が、リュウを捕らえた。本来ならば、サンテの剣技ごときがリュウに通用することなどない。だが、それほどまでにリュウは弱っていた。腕の痛みではない、まさかの裏切りに動揺した。 それは、あの水竜の女性から人間の残酷さを聞いた時以上のものだった。
「さ、サンテー!」
悲壮な悲鳴は、掻き消える。渾身の力でエレンがリュウを突き飛ばしたのだ、壁から河へと落下するリュウの身体。銀の髪が、流れるように美しい。 サンテの剣は壁を切り崩す、エレンと共に落下するリュウを、幻獣達が加速し追いかけた。それでもリュウの瞳はサンテを捕らえたままだ、サンテは視線を思わず逸した。見ていることなど、出来なかった。 哀しく光るリュウの瞳を見ていられるほど、サンテは強くなかった。
「しっかりしてください、王子! あれが人間です! 貴方は騙されていたのです! お気を確かに、本来の貴方様の成すべき事を思い出してください!」
エレンが耳元で怒鳴る、追っ手の幻獣達も泣きながら頷いている。
「王子、貴方は人間ではありません。共存など無意味なのです、不可能なのです!」
河に身体が沈んだ、エレンが引き上げようと躍起になるが浮かび上がらない。 このまま、死んでしまっても良いと思った。誰も助けられないから。信じていた者に裏切られたという真実が、何もかも全てを手放したくなった。自分が、甘かったのか。最初は警戒していたのに、何時の間にか心許していた。そしてそれは自分だけだったのか。相手は狡猾にこちらの隙を窺っていたのか、この日の為に、自分の目的の為に。 王から褒美を貰う為に、自分を売ったのだ。
「そん、な」
親しみを感じ、友だと思い、共に生きていきたいと願った自分が愚かで浅はかで滑稽だった。なんと馬鹿なのだろう。全てを投げ捨てても良い。こんなひ弱な自分では誰も救えない、寧ろ足手纏いだから。 薄れゆく視界で、エレンが叫んでいる。リュウは、瞳を閉じた。痙攣する手足は止められない。
「スタイン王子、私達を置いていかないでください! どうか、どうかっ! 私達を、導いてくださいっ」
声が、聴こえた。エレンの最後の叫びだった。
『王子……血気にはやりましたな、このような事態を起こして』
声が、聴こえた。懐かしいバジルの声だった。うっすらと瞳を開く。
『サンテに気圧され、このような失態を招いた。だが落ち着こう自分。このまま死んで良いのか。バジルが呆れてしかめっ面で見ているよ、ほらみろ、まだ子供じゃないかと。何も出来ないじゃないかと。子供でもいいけどさ、やるべきことは成し遂げよう、責任を放り投げては駄目だよ。自分は何をしに来た、サンテの友達になる為に来たわけじゃないだろう? 今目の前にいる仲間を救いに来たんだろう? それならまだ出来るはずだ、諦めなくてもいいはずだ』
自分の声がした、残っていた冷静な自分が語りかけてきた。
――…………! ――
最後に初めて聴く声がしたが、何を言ったのか全く聴こえなかった。 水を吐き出す、対岸に打ち上げられたリュウを、エレンが心配そうに見つめていた。
「助かった、のか?」 「はい、はいっ! もう駄目かとっ!」 「リングルス達……は?」 「そ、それが突然行方を晦ましたのです、下種な人間に呼び戻され、また何か策を練っているかもしれません。ともかく身を潜めましょう!」
力なく立ち上がったリュウは、壁を見た。歯軋りしてから思い直すように首を振る。 サンテの姿は当然なかった、決然と歩き出したリュウの背中を見てエレンは安堵し胸を撫で下ろす。
「すまなかった、な。エレンの言う通りだった。どうやらサンテ……いや、あの人間の勇者は王と結託していたのだな」
毅然とした面持ちで、リュウは拳を握り締めた。これが現実だ、嘆いている場合ではなかった。
「失態を見せた、すまない。私がここへ来た意味を忘れていた。……思い出したら、あまりの侮辱を受け激情に身を焼かれそうだ」
落ち着き払い、考え直せば怒りの矛先は自然とサンテに向けられる。 自分だけではない、エレンにも攻撃を加えたサンテ。不甲斐無い自分も責めなければいけないが、サンテへの憎悪が昂る。
「私を貶しても良いよエレン。間抜けだな、王子としては完璧に欠落している」 「いいえいいえ、スタイン様。死の淵で貴方様は血路を開かれました、目的を遂行する為にこうして私と語っています。貴方様は欠落などしておられませんよ、立派な私達の王子です」
立派ではないけど、と自嘲気味に笑うリュウにエレンは胸を痛める。エレンとて、どんなに二人の仲が良かったかなど知らない。リュウの抱えた胸の痛みの度合いは、解らない。
「下劣な人間、赦さない」
リュウの瞳に光が灯った、それは薄暗い闇の色に似ていた。金の瞳に、黒い影が堕ちる。
エレンの隠れ家に身を隠しながら、周囲の状況を窺った。厳戒態勢で二人は遭遇できた仲間達の解放を思案したが、結局のところどうやっても”人間を抹殺するか”しか方法はないという結論に達する。 真名を知られているエレンと、真名を知られている”らしい”リュウ。 だがリュウは捕らわれなかった。エシェゾーの名を誤って人間が覚えていたのではないか、という憶測で終わった。幻獣に敬意を払っていた人間などとうに消えている、家名が誤っていても不思議ではない。
「上手く出来たら、バジルも私を認めるかな。そうしたら自慢してやるんだ……」 「バジル様はかたくなで人と和合しない様な雰囲気ですけど、あの方誰よりも優しいですよね」 「いや、それは間違ってるけど」
他愛もない話で二人は時を過ごした、サンテと違い本当に心から安堵出来る仲間だった。裏切られることなどは、ない。 数日後、街の外れに鴉が集まっていた。 木の上から遠目に見たリュウは絶句する、骸が放置されていたのだが、その骸。間違いなく、サンテのものだった。 顔はひしゃげて見るも無残なその姿、鴉についばまれて肉もそげているが、身体中から血が抜かれたように穴が開いている。 嘔吐した、裏切られたとは言え、流石に知人のあのような姿を見れば平常心ではいられない。
「王子を捕らえられなかった為に、あのように死骸を弔うことなく曝されているのでしょう。厳罰に体罰も与えられたのかもしれませんね」
淡々と語るエレンに、若干リュウは頷いた。 後日、近寄れば立て札が立っていた。『サンテ=ナチス。この者大罪を犯した為捨て置くものとする』 哀れに思い火でも放とうかと思ったが、人目につくのでリュウは踵を返した。日照りで死体は乾燥した、最も鴉や獣に食われて肉など残っておらず、真っ白な骨が浮かび上がっている。 騒動から一週間後、王が岐路に着くので再び耳障りなあの鐘が鳴り響く。厳重な門が開かれた。 意気軒昂として、リュウとエレンは顔を見合わせる。供として幻獣を連れてはいるだろうが、この機に王とやらを殺害するのが良いだろう。 まさか先日の様に全幻獣が出るとは考え難いので、街から離れて移動する隊を、二人はひっそりと追った。
「人間同士が闘ってくれれば良いのですが。敵対する国の人間を、ここに連れて来たいですわね。そうすればどの仲間を連れているのか掌握出来ます」
エレンの無感情な声にリュウは小さく頷く。 願った通りなのか、谷に差し掛かった時に王の一行は襲われた。地に長けた者達は崖の上から岩や油を落とし、火を放っている。 幻獣が出るかと思えば、誰も出てこない。唖然と成り行きを見守れば、被害はあったものの王達は無事に切り抜けていた。 近くの集落が反発を起こし、僅かな抵抗を見せただけで大事には至らなかったのである。だが、リュウにしてみれば天からの授かりものだ。 部隊を整えている一行にリュウとエレンは突進する、悲鳴を上げる人間など、リュウの敵ではない。
「下劣な人間共よ! 私の怒りを思い知れ! 剣が峰に立たされた気分はどうだっ」
リュウの憤りが爆発した、間近で王を見て怒りが頂点に達したのだ。 地響きが轟く、阿鼻叫喚の中で人間達は見た。輝く銀の強大な竜を。吐く息は、絶対零度の凍る息吹。空気を冷やし、凍て付かせる。振り下ろす尾から人間は逃げることなど出来ない、潰されて一撃で死する。瞳が合えば、目が焼かれて視力を失った。羽ばたき巻き起こる風は、狂気な刃と化す。 逃げ惑う貧弱な人間を、リュウは踏み潰した。失禁し動けない王とその姫を噛み千切ろうと思ったが、生憎美食家なのだとリュウは手で叩き潰す。 阿鼻叫喚の地獄絵図だった。 エレンが止めていなければ、リュウは自我を失っていたかもしれない。殺戮と破壊に心と身体を委ねて楽しみ始めていた。 あまりにも簡単に、虫けらが死んでいくから。 初めて、竜の姿に変化したわけではない。幼い頃面白がって変化したらば、父親に激怒された。あの時は自分の恐ろしさを知らなかったが、ここまでの破壊力があるとは思いもよらなかった。 ものの数分だ、数分で王の軍隊は死滅した。 意気揚々とリュウは直様引き返す、あの街を叩き潰すために、だ。 エレンが不安そうに寄り添っていたので自我は消えていない、だが皆の苦労を思えば先程の呆気ない戦闘が馬鹿らしくなってしまった。 これほどまでに、力の差は歴然としているのに。名前の魔力だけで、縛られてしまうとは。こんなにも、非力な人間なのに。 腹立たしくなった、名前の全てが腹立たしくて仕方がない。 街の壁を尾で叩き壊した、ここに仲間は四体いる筈だ。人間を皆殺しにすれば呪縛からは逃れられるだろう。 突如出現した竜に人々は恐れ戦いた、神に祷りを捧げる者もいたが無意味だった。破壊の限りを尽くす、美しき銀色の竜。
「リュウ=エシェゾー! 我に降れ汝の名の下に!」
身体が一瞬痙攣する、だが一瞬だ。叫んだ人間を踏み潰した。 破壊し尽くし、エレンの喚き声に我に返れば、あの耳障りな鐘すらも放り投げていたようで、その場は廃墟と化していた。ようやく現状に目をやった、酷い有様だ。 荒い呼吸で人型に戻ったリュウは、呻き声すらしない街の中を散策した。仲間は何処にいるのだろうか。 やがて「王子、王子」と声が微かに聴こえる場所に来る。瓦礫を退かせば地下への道だ。そこでようやく幽閉されていた仲間を救出した、怪我はしているが皆十分動く事が出来る。 リュウに風の妖精エレン、猛禽類のリングルスに、一角獣のキリエ、夜の蝙蝠ケルトーンに、オーガのコルケット。仲間が六人になった。 この国の王が死んだのだ、王が帰還しないのであれば異変を感じた人間達が王都からやってくるだろう。それまでリュウ達はここに滞在することにした。良い思い出などないが、初めて皆が出会った場所だ。河もあるし森もあるので住み易い。 涙を流して解放を喜ぶ皆だが、どうにも負に落ちない。召喚士達は何をしていたのだろう、と。 仲間達は身の上を話し始めた、結局生存している他の仲間達の所在は誰一人として知らない。暫しゆっくりと休息をとり、次は王都であるカエサルに向かうことにした。癒えない傷もあるが、手当てできる傷は薬草で治す。治癒能力のある仲間が居ればよかったのだが、ここにはいなかった。 一週間程度して、リュウ達はサンテから貰っていた地図を頼りにカエサル城を目指した。王が不在な国など、竜に変化せずとも一網打尽である。 召喚士が滞在しているであろうことも予測できたので、名を知られている仲間達は暗躍した。先陣を切ったのは勿論リュウである。 城は極力破壊しないように気をつけた、本拠地として住まう為である。人間臭い場所など、と仲間は反論したが、厳然たる事実を人間に至らしめるには丁度良いのだとリュウは言う。 召喚士が幻獣を出してきた、強固な皮膚に包まれた一族だ。鰐を彷彿とさせる瞳と鋭い歯、剣と楯を手にしている地上の戦闘員であるが、空中でも軽やかに舞うリュウの敵ではない。女性だったその幻獣、名をシンディという。シンディを操っていた召喚士の首をはねたリュウは、呪縛から解き放たれたシンディを抱き締めた。 城の召喚士が他にも数人存在し、解放されたシンディを再び使役したがそのたびにリュウが斬首した。シンディが囮を買って出て、召喚士を炙りだしていく。 やがて、人間達が逃亡を計り始めれば仲間達は集結し、逃げる人間をも殺していった。生き延びれば仇名すだろう、新たな召喚士を生み出してはならない。 城を乗っ取り、片っ端から書物を焼いた。幻獣に関して記載されていると思われる書物だけでよかったが、生憎文字が読めなかったのでそうするしかない。 厳重な宝物庫から荘厳な雰囲気の剣が一振り出てきたので、リュウが所持する。人間の手にしては、美しすぎる代物だった。 こうして人の気配がなくなったカエサル城には、リュウ達が住み始める。 人気の途絶えた王都の異様な雰囲気は旅人が脅え、商人も引き返し、直様世界中に噂が広まった。『難攻不落のカエサル城・魔王の手に堕ちた。国王及び軍隊、勇者も殉職』 リュウはその後もエレンとリングルスを連れて、何度も世界を旅した。仲間を救う為だ。ようやく見つけたのは、リュウよりも幼く見える青年だ。両親は捕らえられたが彼は辛うじて逃げ、山奥の小川に身を隠していたという。本来は水中に住まうニンフだが、母親がニンフではなくシルフィであった為、足がある。水辺から離れても生活出来た。 人間達は、恐れ戦いた。 時折やってくる美しい異形の青年と、その配下達に抵抗する手段など持ち合わせていなかった。
「私の名はリュウ! お前達が魔王と呼ぶ者だ!」
名を曝してはいけない、と仲間達も名を変える。もう、本来の名で呼ぶことは出来ない。呪縛は耐えられなかった。 リュウの下には、七人が集まった。七人だけだった。他には見つからなかった、すでに死んでいたのだ。足りない、全く足らない。 リュウは世界を旅し、手がかりを模索した。無論、故郷の惑星へ皆だけでも返す方法がないかも考慮した。見つからなかったが。 文字は読めなかったが、十数年かけて簡単な書物ならば読むことが出来るようになった。そこで知り得た情報は、他にも惑星が存在し、何かしらの手段で行き来が出来るということだった。 仲間達が新たな惑星で使役させられていることを視野に入れて、リュウは旅を続ける。 百年程度経過した、懐かしい雰囲気に何処か胸がざわめく。 鬱蒼とした山の中で、何の気配もないその場所に、朽ちた小屋があった。草が巻きつき、何か解らないほどだった。 小屋には、畑があった。雑草が生い茂っていたが、畑だった。 リュウは硬直した、それはサンテと過ごしたあの小屋だった。畑は荒れ放題だったが、何故か美しい赤い実がそこに幾つもなっている。
「まぁ、可愛い形。何かしらこれ」 「……苺、というんだよエレン。甘くて……美味しいんだ」
一粒、もぎ取って齧る。甘くて、酸っぱい。甘さよりも、酸っぱさが口に残って何故か泣けた。 古めかしい小屋は扉が壊れている、よくも苺が育ったものだと感心しリュウは唇を噛締め中に入ってみた。遠い昔のままだった。 だが、見慣れないものがある。黄ばんでいるが紙らしい、床に落ちていた。拾い上げる。 薄れていて文字が読めない、外に出て光に当ててみた。辛うじて読めた。 わなわなと手が震え出す、エレンとリングルスは夢中で苺を食べていたので気がつかない。リュウは密かにそれを懐に仕舞うと、二人を急かして飛び立った。
「苺、育てましょうよ。リュウ様お好きなのでしょう?」 「あぁ、好きだよ。ここへ来て、感動した食べ物だ」 「たくさん、苺を育てましょうね。楽しみですね」 「あぁ、楽しみだね……」 「あんな荒れ果てた場所でも、たくさん生るものなのですね、自生ではないですよね? あの小屋の持ち主が育てていたのかしら、余程、好きだったのね苺が」 「そう、だろうね……」
リュウの瞳から、涙が零れ落ちたが誰も気がつかなかった。
「そういえばリュウ様。何故お名前”リュウ”なのですか?」
エレンはエレと名乗った、リングルスはリグと名乗った。皆、本名を微妙に変えて名乗っている。皆はリュウに”スイ”と名乗れば、と薦めたのだがやんわりと、否定した。そして本人自ら”リュウ”と名乗った。
「……どこぞの人間が、私をリュウと呼んでいたから」
ぽつり、と呟く。
カエサル城の中庭には、苺がたわわに実っている。エレンが懸命に世話をした。栽培は難しく、数年を要したが立派な甘い実がなっている。
「苺って育成が難しいのですね。野苺は簡単みたいですけど、これはきちんとした愛情と手塩をかけないと。……あんな山奥で苺がなっていたことが、本当に不思議」
エレンがそう言ってリュウに苺を差し出した、微笑してリュウは玉座に座ったままそれを食べる。甘くて美味しい苺だった。 だが、最初に食べたサンテが持ってきてくれたあの、ひしゃげた苺の甘さには敵わない。
「後で試作しますから、食してくださいね。苺を潰して牛乳と混ぜてみようかと。あと、紅茶にも混ぜてみますわ。ジャムも作りますから」 「楽しみだよ」
リュウは、穏やかな笑みを浮かべる。が、どことなく憂いを帯びていることを、誰もが気づき、そして口にはしなかった。 それから数十年後、そこへ魔王ハイが訪問してくる。 この世界に倦怠していたリュウは、未練がないとばかりに惑星ネロを捨て去った。惑星ハンニバルへと移住したのだ、大量の苺と宝物庫の剣を携えて。
「ハイはまだ勇者見ていないんだっけー」 「あぁ、早く出会ってみたいものだ」 「……良いものじゃないよ、勇者なんて」 「お前に倒せた勇者ならば、私ならば数秒で殺せるだろうな。どんな死に方を用意してやろう、くくくっ」
苺を頬張りながら、愉快そうに残忍な笑みを浮かべたハイをリュウは横目で見つめている。苺は甘い、けれども、求める甘さが足りない。
「もっと、あの苺は美味しかったよ……」
惑星ネロにおける無人のカエサル城中庭には、苺の庭園がある。今も白い花を咲かせて赤く美しい実がなっている。誰も訪れない、貧困な土地に一軒の朽ちた小屋がある。そこにも白い花を咲かせて熟れた苺が実っている。その、隣に。簡素な墓があった。 一本の剣の周囲に花と苺が植えられている、刀身に名が彫られていた。幻獣星の文字で”勇者サンテ=ナチス、ここに眠る”。
リュウは静まり返った部屋で、目を醒ました。眠っていたらしい、このところサンテの夢をよく見る。原因は二つ、勇者であるアサギが来たことと、サンテの命日が近いということだ。
「まぁ、アサギは本物の勇者みたいだけどね。……さぁ、どうしようかサンテ。あの可愛らしい勇者を、私はどうしたらいいのかな」
魔王リュウは、涙声で誰に言うでもなく呟いた。傍らに置いてあった苺を、一粒口に含む。
「さようなら勇者……こんにちは魔王。そうだとも、私は魔王リュウだぐ。スタイン=エシェゾーではないよ、あの日サンテと出遭った私とは違うのだぐ」
今は遠い、昔の話。
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