バジルの叫び声など虚しく、ただ木霊するのみで誰からの反応もなかった、あるわけがなかった。皆の荒い呼吸が響き渡るだけだ、静まり返っているこの空気が重く冷たい。
「拙いぞ」 「言われなくても解っている!」
ようやく声を絞り出したヘリオトロープに、バジルは振り返りざまに怒鳴った。皆震えてその場に立ち尽くしているが、項垂れたい気分を必死に押さえ込んで支持を出さねばと焦燥感に駆られる。
「……王子は何処まで事情を知っているのだ? 誰か、解る者は!?」
おずおず、とリュウと先程出くわした親子がバジルの前に進み出る。子供はこの状況を理解出来ておらず、無邪気に母親の衣服に摑まって遊んでいた。母親は顔面蒼白で涙を零しながら、消え入りそうな声で真実をバジルに伝える。
「最悪……辛うじて王子が使役されることは免れる……か」
聴き終え、バジルが吐露した。やるべきことは、唯一つ、王子の救出である。時間がかかるだろう、だがたった一人の王族だ。放っていくわけにもいかない。
「直様魔術師系を城へ召集してくれ、一刻を争う」
バジルの一声に数人が慌てて飛び出していく、ヘリオトロープは天井を見上げ腕を組んだまま立ち尽くしていた。
「誰が王子のこの魔力を解き放てると思う?」 「知らぬ……だが方法がそれしかないだろう。外部からの魔力の影響があれば、もしかしたら打ち破れるかもしれないが……私は他種族の能力を知らない。もし、王子の魔力に匹敵する人物がいるのならば……或いは」
落胆し、力なくバジルはその場に座り込んだ。思わずヘリオトロープが目を開く、沈着冷静、どのような時も毅然と振舞っていたこの火竜が今、初めて目の前で弱音を吐いた。 当然か、見守るべき最後の王族を止められなかったのだから。
「バジル、王子は運が良い御方だ……幸運を祈ろう」
気休めにしかならないが、ヘリオトロープはそう告げる。笑うことも頷くことも出来ず、バジルは俯いた。
頬を撫でる風、身体に纏わりつく黄金の稲穂、眩しき夕陽。 リュウは唖然と目の前の光景を眺めていた、両膝を地面につき自分の肩ほどまでの稲穂に覆われた場所に居た。綺麗な光景だった、何処かは判らなかったが。無論、幻獣星ではない。 暫し風そよぐ音に耳を任せる、何処か懐かしいような音だった。 急に涙が込み上げる、胸に不安が押し寄せる。よく考えれば、一人きりだった。いつも誰かが傍に居た、朝起きればドアの前には、んごうごうとバジルが立っている。朝食も皆で戴いた、勉強はバジルが教えてくれた。昼食も皆で戴いた、昼寝のときは子守唄を誰かが歌ってくれた。おやつも皆で食べたし、夕食も無論皆と一緒だ。城の庭に湧いている温泉で身体を洗い流す時も誰かがいたし、眠る直前まで誰かが頭を撫でてくれていた。 振り返ってみれば自分は確かに大人とは言い難い、一人では何も出来ない子供だ。甘やかされて、そのまま過ごしてきた。
「私は何も出来ないのか、一人では。情けない……よくもまぁ、こんな私を王位につけようとしたものだな。冗談にも程がある」
自嘲し呟くが、これは自分で決意したことだ。いつまでもここに蹲っているわけにもいかない、早急に現状を把握する必要があった。 リュウは徐に立ち上がると、稲穂を押し倒しながら前進する。夕陽の眩しさに瞳を細め、鴉の鳴き声に時折身体を震わせた。幻獣星に、鴉は存在していなかったので何の音か判別が出来なかったのである。まさか、自分よりも小さな鳥だとは思わず、得体の知れない何かに脅えた。 そういえば、武器を所持していない。思わず丸腰に気がつき舌打ちする。バジルに剣も習っていたのでそこそこ扱えるが、素手での格闘は不得手だ。なんとも無鉄砲な自身の行動に嫌気が差すが、文句を言ったところで自分の愚かさが曝け出されるだけだった。
「どうし、よう」
一旦、立ち止まる。けれどもここで死するわけにはいかない、食料も確保せねばならないし寝床も欲しい。 稲穂を抜ければ、前方に黒い煙が一筋空に上がっている。故郷でも見た光景だ、夕飯時に成るとああして家の暖炉に火がくべられて煙突から煙が出ていた。 つまり、誰かがいるということだ。 大きく唾を飲み込み、リュウはそっと腰を屈めて煙に向かって歩き出す。 稲穂を抜けて歩いていけば切り立った斜面が待っていた、が、そこから様子を窺えば下の様子が丸解りだ。一軒、貧相な家が建っている。そこから立ち昇る煙が、自分以外の生物の存在を意味していた。 再び大きく息を飲み込むと、地面に這い蹲って家から誰か出てこないか瞳を凝らした。家の後ろには小さいが畑があり、何か育ているようだ。故郷にはここまで質素な家はないが、壁と屋根に囲まれた建物だったので住屋だと判断したまで。 あの中に、誰かが居るのだろう。リュウは、何度も瞬きした。震える手を押さえつけた。察するに”ニンゲン”だろう。 ニンゲンがどのようなものかリュウは知らないが、一思いに殺してあの住屋を奪い取れば今後が楽になる、そう思った。 活動拠点を早々に見つけられた興奮感で、リュウは口元を歪める。瞳は充血し、喉の奥から奇怪な声を出す。
「殺し、て、やる」
リュウは腕に力を入れて起き上がった、泥を衣服から払い落とし再び煙突から立ち昇る煙を見つめる。 その時だった。
ウーワンワンワンワンワン! 「え」
けたたましい獣の声にリュウは慌てて振り返る、声の主などいない。だが、視線のその下だ。
「う、うわぁ! な、なんだこれ」
犬である。茶色の中型犬がリュウの足元目掛けて走ってきていきなり周囲をくるくると回り出したのだ。尻尾を振って、さも、楽しそうに。
「お、お前がニンゲンか! くそ、予想外の風貌だっ」
とてもじゃないが、愛しささえ感じられるその姿にリュウは狼狽した。何をしているのかすら理解出来ない、跳ね回っている犬に右往左往する。幻獣星には、犬はいなかった。狼男はいたのだが、もっと巨大だった。だから、リュウは犬を知らない。
「こら、トッカ! いきなり人様にじゃれ付いたら駄目じゃないか。本当に躾が……」
ガサガサ、と音を立てて稲穂から現れた自分と同じ位の背丈の男が現れる。黒い短髪に、濃い青の瞳、顔に幾つかの傷がついていた。所々破れた衣服は麻で作られたものだろう、靴とて穴が空いている。なんともみすぼらしい風貌だ、そう思ったリュウの存在に驚いて、現れた男は顔を引き攣らせる。
「あれ、君、どちら様? こんなところで何を?」 「……うーん?」
目の前の人物が話す言葉が理解出来た、足元でじゃれている生物が”トッカ”ということも解った。 微動だしないリュウに首を傾げながら、男、いや、少年と呼んでも過言ではないその人間は、相棒の犬の名を呼ぶ。ようやくトッカがリュウから離れて主人の下へと、駆け戻った。片膝ついてトッカの首を撫でながら、無邪気に笑っている人間。 リュウも理解出来た、目の前にいるのが”ニンゲン”であると。 目の前の人間は、思い描いていた風貌ではなかった。ほとんど、自分と変わりない。リュウにある頭部の角がないが、幻獣星にも角がない種族は存在する。肌の色はリュウよりも褐色だが、同じ様な色合いの種族なら知っていた。
「トッカ、帰ろう。そろそろスープが出来ている頃だよ。じゃあ……さようなら、ごめんなさいトッカが」
犬と共に軽く会釈をし、歩き出した人間。リュウは拍子抜けした、自分が誰だか解っていないのだろう。好都合だ、と思った。色々とこの場所について聞き出したほうが今後の為になると思った。一思いに殺してしまっては、その後の行動に支障をきたすだろう。「だから、生かしておいてやる」舌打ちすると、リュウは慌てて引き止める。
「ま、待て!」
不思議そうに振り返った人間は、どう見ても脅えているようなリュウを哀れに思い、迷子かな? と首を傾げる。 だが、見たこともない輝く衣装を身に纏い、何処かの貴族の様に気品のある佇まいのリュウを流石に不審に思った。
「わ、私はその、行くところがないのだ。少しばかり身を寄せたいのだがっ」 「ぇ?」
放蕩貴族の少年だろうか、跡継ぎ問題やらで嫌気が差して逃亡してきたどこぞの王子だろうか。 沈黙が二人の間に訪れた、足元でトッカだけが愉快そうにまた、リュウにじゃれている。
「まぁ、その、いいよ。大変なんだろうね」
苦笑しつつ、少年は答える。「僕も色々とね、うん」頭をかきながら、少年は手をリュウに差し出した。戸惑い気味に微笑んで「ようこそ、僕はサンテ。君は?」と告げる。 差し出された手に思わず、自分も手を伸ばしていた。そして口を開く。
「スタイン……」
自然に名前を告げてから、慌てて口を押さえた。顔が一気に青褪める、真名は他言無用だと教えられていたのだ。全て名を告げたわけではないので良いだろう、と震えながらサンテを窺うと特に気にした様子もない。
「そっか、よろしくねスタイン。とりあえず、鍋が心配だから帰ろう。あ、うちに居座るなら雑用手伝ってくれよ」
言うなり、後方の薪を指差して悪戯っぽく笑う。
「まぁ、いつ忙しくなるか解らないけどさ、当分は戦争も落ち着いてきたし」
半分残してサンテは薪を拾い上げると歩き出す、渋々言われた通りに同じ様にリュウも拾い上げた。手に木の枝が刺さって痛く、顔を顰めるが手を離すわけにもいかない。痛みを堪えて抱えて歩く、こんな仕事は初めてだった。火を起こす際に使うことは解るが、火は起こしたことが無い。 勉強しておくべきだったと後悔するが、思案中のリュウにあっけらかんとサンテは告げる。
「先に言っておくよ、僕ね勇者なんだ」
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