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作品名:DESTINY 作者:把 多摩子

第122回   魔王様と勇者のハイキング 
 攫われた勇者は、魔界にいる。時間を少し戻す。

 昨晩の宴会の後、部屋に戻って湯に浸かった。眠りについたのは午前四時頃だった、アサギはふらつきながらハイに抱かれて部屋に戻っていた。
 現在午前十一時頃、陽が高く昇り熱い日差しが降り注いでいる。

「大丈夫かアサギ? 疲れてはいないか?」
「あ、はい大丈夫です」

 既に起き上がって軽く柔軟体操をしていたアサギは、振り返って嬉しそうに微笑んだ。ハイが眠たそうに上半身を起こして大きく伸びをしている、結局二人で寄り添って眠った。
 別にやましいことは何も、ない。

「今日は遠出になるからな。……疲れていないな、本当に?」

 多少控え目に呟いたハイは、全く疲労感がない、しかし、アサギはまだ幼いのであのような時間迄起きていてはいけないと思うハイは、心配そうに再度尋ねた。
 魔族達にアサギの存在が知られた以上、あまり外出しないほうが良いのだろうがどうしてもハイにはアサギに見せておきたい場所がある。ハイ自身が付き添っているのだから、一大事にはならないはずだと言い聞かせた。自分が目を離さなければ、何も問題はないだろう。

「大丈夫ですってば、ほら、こんなに元気です」

 言いながらアサギは笑顔で元気良く体操中である、身体を伸ばせばすらりとした手足が強調された。それが些か扇情的に見えたハイは、思わず顔を赤らめた。
 ここはハイの部屋なので、アサギは自分の部屋へと移動した。
 昨晩。自分で湯に浸かったことまでは記憶にあるが、誰が寝間着に着替えさせてくれたのだろうか。その辺りの記憶が全くなかった、ホーチミンかスリザであると、願いたい。
 アサギは顔を洗い髪を整え、動き易そうな衣服と靴を出す。薄桃色のチューブトップにデニムのような素材のボレロと短パンである、それにブーツ。着替えれば既に身支度したハイが、部屋の外で待っていた。
 朝食はミルクと、スイカのみ。十分だった、夜更けまで皆で騒いで食事をしていたので多少胃もたれしているが、新鮮なミルクで活力が出た気がした。
 お弁当を作って貰ったので、少な目で正解である。可愛らしい籠を受け取ったが、何が入っているのかは開けるまでのお楽しみだ。
 今日の行き先はハイ曰くアレクの城から徒歩で片道二時間、遠いが風景が美しいので気にならないという。一体どのような場所に案内されるのか、アサギは期待に胸を膨らませていた。何しろ魔王の気に入りの場所であるのだから、興味が湧かないわけがない。
 ハイとアサギは大理石で出来た廊下を真っ直ぐに進み、中心にある階段を下りていく。正面を突き進めば無論玄関に辿り着くのだが逸れて、幅の狭くなった廊下を進んでいった。暫くすると聴こえてくるのは鳥の囀り、草と花、土の香り。庭園でもあるのだろう、アサギは歩いてきた道を思い返す。
 精神的に余裕が出てきたので今は城内の把握に必死だ、正直一人きりでは自分の部屋にすら戻ることが出来ない広大さだった。今は昼間なので城内も明るく、道は無論装飾品もじっくりと見ることが出来る。
 それはアサギが憧れていた異国の城そのもので、例えば旅行会社に度々出向いてパンフレットだけ貰ってきていたドイツやフランスの城のような。神聖城クリストヴァルにあったような、厳粛かつ神秘的な雰囲気というよりも明るく解放感溢れる中に、優雅な雰囲気を持ち合わせているような感じだ。
 弾む心と共に周囲を見渡し続けるアサギ、銅で植物の蔦を模してある門を潜れば中庭だった。中央に小さな噴水が設置してあり、周囲は花壇で囲まれている。手入れされた花々が、見事に所狭しと咲き誇っていた。
 そこで一旦立ち止まったハイは、アサギをおいてアレクの部屋へと出向く。アレクに「リュウを引き止めておいてくれ」と伝言する為だ。
 何故アサギを同伴しなかったかというと、推測にしか過ぎないのだが『アレク様もリュウ様も一緒に行きませんか?』とアサギならば言い出しそうだったからだ。
 寒気。百%に近い確率でそれが現実になると思ったハイは、要因のアサギを中庭に置いて行く事にしたのである。もし四人で出かけることにでもなれば、ムードも何もあったものではない。ハイ的にそれは避けるべき緊急事態だ、己の欲望を最優先する。ハイは、アサギと二人でいたい。
 しかし、ハイは些か不安だった。リュウは、昨夜本日ハイとアサギが出かけることを知ったはずなのだが、朝から姿を見せていない。確実に邪魔をしてきても良いと思うのだが、静か過ぎて不気味なことこの上ない。
 が、好都合だと思い込んだハイは、おそらく二日酔いで寝込んでいるのだろうと解釈した。そんなわけない、リュウは酒を飲んでいなかったのだ。浮かれすぎて深く考えこまなかったハイは、この後致命的な出来事に遭遇する。
 ともかく、アサギを振り返るハイ。この中庭は高等魔族しか立ち入り禁止地区である、それこそアレクに信頼されていなければ無理だ。なので、一人きりにしても大丈夫だろうとは思っていたが、やはり不安である。アレクの部屋の廊下からも姿の確認は出来るので、そこまで危惧しなくてもよいがやはり不安。
 過保護万歳、である。
 いざとなれば、城を破壊してでもアサギを救う決意のハイだった。何度も振り返りながら名残惜しそうに歩く中、アサギは噴水の中に手を浸して気持ちよさそうにしていた。反射する水面、穏やかに微笑むアサギ、暫し足を止めて見つめるハイ。「美しい……心が洗われるようだ」
 これでは何時まで経ってもアレクの部屋に到着しない、話が進まない。
 冷たくて気持ちの良い水温に、アサギは水鏡を覗き込みながら上機嫌である。見つめていると、水面に何かが映ったので眩しそうに上空を見上げれば。

「やぁ! お姫様今日は何処へお出かけなんだい?」

 明るく躍けた様子の声が降ってくる、時間差で二階のバルコニーから何かが降ってきた。光の加減で顔は見えなかったが、声で誰だか解っていた。舞うように下りてきて着地した人物に、思わず拍手する。

「おはようございます、アイセル様」

 華麗に跪いたまま、アイセルは満面の笑みでアサギに手を差し出した。
 現れたのはアイセルだ、アサギの姿が見えたので思わず来てしまった。昨夜最も飲酒していたアイセルだが、酒豪なので二日酔いなどという言葉とは無縁だった。血色の良い肌は不調など思わせない。

「ハイ様とお出かけでしたね、姫様。楽しそうで何よりです、ははは」
「一緒に行きますか? お弁当も作って貰ったんです、中身は確認していませんけどほら、こんなに大きいから沢山あると思って」

 籠を掲げて、嬉しそうに微笑むアサギに思わず釣られて微笑むアイセル。
 ハイの予感は的中した。
 正直、ついて行きたかったアイセルだったが瞬間悪寒が走った。なんとも言いがたい陰鬱な空気が背中から忍び寄り、後頭部に圧し掛かる。
 アサギに全く悪気はないだろうがこれは警告だ、ハイからの警告を第六感が察知したのだろう。付き添いでもしたら、翌日には死体になっているような気がしたアイセルは、思わず我武者羅に首を横に振る。
 くわばらくわばら、虫の知らせ。
 昨晩のハイは気さくなただの魔王……気さくな魔王という表現もどうかと思うが、全く争いごととは無縁な雰囲気だったが。しかし、思い出してみれば記憶はまだ新しく、ハイと言えば”冷徹無慈悲、極悪非道な暗黒魔王ハイ様”である。 奇声を発しながら忍び寄る情景を瞬時に想像し、身震いすると冷汗が額から流れ落ちる。

「い、いや、ざ、残念だけど遠慮します。仕事がありますので、これでもね」

 残念そうに「そうですか」と瞳を伏せたアサギには申し訳ないが、自分の命が優先だ。沈黙が訪れる。
 アイセルがここへきたのは別に偶然ではない、朝から探していた。正直ハイが居ては不都合だったので、一人になる隙を探していた。そんな好機など滅多に訪れないのは百も承知だが、こうして今二人きりである。今しかないと思った、これは運命なのだと。
 唾を大きく飲み込むアイセルは、葛藤する。言うべきか、まだ、待つべきか。
 目の前の少女は、あまりにも非力だ。とても運命の少女には見えないが、内に秘める最強の”魅力”こそが、捜し求めていた人物であると確信する。
 
 ……度胸を決めろ、頑張れ俺! 

 再度、大きく喉を動かして固唾を飲み込みアイセルは口を開きかけた。

「……アサギ”様”その、お話がありまして」
「待たせたな、アサギ!」

 ドゴン! 
 全速力で走ってきたハイは、アイセルを左に蹴飛ばしアサギの正面に立った。

「ごふぅ」
「アイセル様!?」

 ずしゃぁ、と地面に壮大に叩きつけられたアイセル。悲鳴を上げたアサギと、突っ伏したアイセルを気にも留めずハイは上機嫌で笑う。

「よーし、さぁ歩こうか。アレクには許可を貰ってきたぞ」
「いえ、あの、アイセル様が倒れてらっしゃるんですけど……」
「疲れたらいつでも言うが良い、負ぶってやるからな」
「あ、あの、ですからアイセル様が」
「あぁ、その籠は私が預かろう。重たかろう?」
「あの、ハイ様?」

 笑みを浮かべて語るハイに、流石にアサギも顔を引きつらせる。地面に突っ伏しているアイセルは起き上がれなかった、というのもハイから放出されている汚泥に似た陰鬱なオーラを直に受けているからだ。冷汗を流しつつ必死にもがくが、威圧感に負けて動けない。
 アサギには笑み満開だが、アイセルには凍結寸前の空気を放っている。
 恐るべきは、魔王である。
 こうなれば一気に逃亡が利巧だと悟ったアイセルは、逃亡を謀った。気にかけてくれるアサギには申し訳ないが、これ以上心配されると余計にハイの機嫌を損ねそうである。
 圧迫されながら深呼吸する。
 畏怖の念を抱きつつ、アイセルは一気に腕に力を篭めると地面を全力で押し返して跳ね上がる。

「おはよーございまーす、ハイ様! いよぉっ、今日もかっこいいデスネ、男前っ素敵ぃ! じゃあ、さよーならぁぁぁぁぁっ」

 海老が水上に打ち出されたかのごとく、跳ね上がって後方にカサカサと逃亡する。猛スピードだ、追って鉄槌を食らわそうかと右拳に魔力を秘め始めたハイだが大袈裟に舌打ちして諦める。時間が勿体無かっただけだ。

「ちっ、逃げ足の速いコソ泥め」

 悔しそうに睨みつけているハイと、傍らで消えたアイセルを不安そうに見つめていたアサギ。

「あの、ハイ様。人にぶつかったら謝らないといけないと思うのです」
「うんうん、うんうん。そうだな、アサギの言う通りだな、アイセルには悪い事をしたな。今度会ったら謝ろう」

 故意にぶつかったので謝るわけがないが「一度ぶん殴ってから」と、心の中で付け加えてハイは優しくアサギの右手をとる。
 魔王は、感情の起伏が激しすぎた。

「じゃあ、行きましょうハイ様!」

 小首傾げて手を引いて走り出したアサギに、瞬時にハイの脳裏からアイセルの罪は掻き消えた。この単純な思考回路、それこそが惑星ハンニバルの魔王ハイ。

「あぁ、良いよ良いよ。二人で行こうな二人で」

 ”二人で”を強調する、上機嫌なハイである。鼻の下を伸ばし、傍から見たらいかがわしい光景にしか見えない。
 数分前、先程の光景を思い出すと腸が煮えくり返る。アレクとの話を終えてアサギを見下ろせば、何処かで見たような黄緑の髪がアサギににじり寄っていた。怒涛の勢いで駆けて来たのだが、自分を差し置いて何を語っていたのか気になった。だが、アサギに訊くほどの勇気はない。
 その頃アイセルは命からがら逃亡に成功し、冷たい廊下の壁にもたれつつ、深い溜息を吐いている。

「ぞっこんにも程があるでしょ、ハイ様」

 想像以上にアサギに近寄る事は難しいらしい、命が幾つあっても足りない。ぞわわ、とアイセルの脳裏に迫り来る魔王ハイが再現された。
 だが、待ち侘びたアサギが来たのだ。話をしなければならない、アレクも動くだろうがアイセルには”マビルを紹介する”という使命がある。
 多々諸々。
 機会を待ち、出かけた二人の後を追うなどということはする筈もなく、立ち上がると首を鳴らして歩き出す。

「今日はもう、寝ようかなぁ」

 疲労感は最大に達した。苦笑し、意気消沈して家に向かう。

 出掛けた二人は、何処までも続いているような道をひたすら歩く。城を出てから暫くは、青々とした山が見える小道を歩いていた。緩い坂道になっている道は、登りきれば森の小道へと誘われる。小鳥の囀り、陽の光、まるで御伽話のようだ。
 思わず、アサギは眠り姫を連想した。森の中、木々と花々、そして森の動物達に護られながらずっと”その日”が来るまで待ち続けている、可憐で綺麗なお姫様。王子は、導かれるがまま森の小道を進むだろう、こんな木漏れ日が優しい森の中を姫の元へと。
 運命に導かれて、それは必然だ。

「綺麗……」

 アサギは心酔し、うっとりと溜息を吐く。思わず伸ばした両手、その掌にも一筋の光が降りてきていた。それを捕まえるようにして、手を動かしてみる。何度か繰り返し、アサギは小走りになりながら進んでいった。
 柔らかな表情でそんな様子のアサギを見つめながら、ハイも小走りになった。苔に覆われた石の道、大きく聳え立つ木々、僅かな光でも煌びやかに咲き誇る地面の花たち。不意に姿を見せる艶やかな蝶、謡うように囀る鳥達の心地良い合唱。
 瞳を周囲の風景に奪われながら、約二時間半。ハイの目的地に到着である、唖然とアサギは立ち尽くしたまま息を飲み込んだ。
 楽園、と言っても過言ではない風景だ。小道の終点は、故意に作られたかのような場所だった。アサギの背ほどの高さから落ちる細くて小さな滝が、浅く広く広がる泉を造っていた。ここから先は地層が若干高くなるらしい、なんとも言いがたい神秘的な水音が周囲の大木に反響する。
 その滝に差し込む一筋の光が、泉で泳いでいた魚の姿を映し出した。驚くほど澄み切っている泉に、思わずアサギはしゃがみ込むと手を入れる。想像以上に冷たいが、歓声を上げると顔を綻ばせる。滝の下へと駆け寄り、滑り落ちる水を両手で丁寧にすくうと口へと運ぶ。
 喉を軽やかに流れていく水は、大地の味がした。
 全身を駆け巡る衝撃に、思わず身震いする。目頭が熱くなる、命の源、生命の糧。大地に包まれて一体になったような、感覚だった。

 ――ようこそおいでなさいました、アサギ様。貴女様がこの地を踏むのを、待ち焦がれておりましたよ。

 木で覆われた空を見上げてみれば、葉を掻い潜って一羽の純白の鳥がやってきた。旋回した鳥は、躊躇することなくアサギの肩に止まると頬に擦り寄る。水面では魚達がアサギの足元に集まり、紫色の蝶がアサギの髪に止まる。
 滝から掬い取った水滴を指先につけ、鳥の嘴に近づければ美味しそうにそれを飲む。嬉しくて、アサギはそのままくるくると廻っていた。
 言葉を失ったハイは、暫し呆然としていた。溶け込みすぎていた、アサギに言葉が出ない。あぁもすんなりと森の守護者達に受け入れられるとは、思いもしなかった。
 昔から知っていたように、寧ろ、その存在を待ち侘びていたように。森全体がアサギを歓迎しているようで、ハイは眩暈を起こす。

 ……これが、勇者の魅力なのか。 

 不可触の女神だ、目の前のアサギに敬いたくなる。
 大木の根がまるで自然に出来たベンチのようになっていた、ハイはふらつきながらそこに腰掛けると、無邪気に自然と戯れるアサギの様子を飽きもせずに見続ける。微笑を絶やすことなく、眩いばかりの娘を一心不乱に見続ける。「連れてきて正解だったようだ」とハイは安堵の溜息を漏らした。大きな瞳がくるくる良く動いて、光り輝く。しなやかな手足が、舞の様にも思えてくる。柔らかで弾んだ声が、木霊する。瞬きするのも正直惜しい、ある意味これは芸術作品で、切り取って絵画にしたいくらいだった。

「っ!?」

 木々の葉から零れおちた光が、アサギの全身に降り注いだ瞬間。ハイの瞳にアサギの姿が変化して見えた、瞳が周囲の木々に同化する様な豊かな緑色に、髪が若々しく瑞々しい若葉のような緑色に。
 森の妖精、大地の女神。深い川底、光を受けて輝き放つ緑の水。アサギの表情とて、何か違って見えて仕方がない。
 平常と変わらないはずだ。見てきた笑顔、自分に斬りかかってきた時の気丈な強さ、瞳を潤ませ唇を噛締めていたあの時の……いや違う。
 もっと、もっと。

「な……」

 幼いアサギが、自分よりも年上の女性に見えるような圧倒的な抱擁感を放っていた。全てを委ねてしまいたくなる、安らぎと多少の罪悪感と。
 硬直したハイを正気に戻したのは、アサギの身体がぐらりと揺れ、泉に倒れ込んだ音だった。

「あ、アサギ!?」

 水滴を、髪に手足に舞わせて濡れた衣服でアサギは愉快そうに笑うと、泉の中に「ごめんね」と話しかけた。魚に謝ったらしい、飛び立っていった鳥にも、離れた蝶にも同様に謝る。
 立ち上がり、舌を出して濡れた上着を脱ぎつつハイに視線を投げかけたアサギ。

「濡れてしまいました……、ごめんなさい」

 なんという色香。
 思わずハイは生唾を飲み込む。初々しさの残る女の色気、水も滴るイイ美少女。ハイは喉を大きく鳴らした、喉に詰まって息が止まるほどに。呆気にとられていたハイだが、頭を振って滴を飛ばすアサギに大股で近寄ると、細い腕を掴んでくるり、とまわす。
 怪我がないか診たのだった、安堵で胸を撫で下ろす。

「苔が柔らかいです、絨毯みたい! だから大丈夫です。お陽様の光に当てたら服も乾くかな? 寒くはないんですけど」

 脱いだ上着を手頃な木の枝に引っ掛けたアサギは、悪戯っぽくハイに振り返ると微笑する。
 なんという扇情的な光景だろう、ハイには全てが卑猥に見えた。露出された肌の健康的な色、柔らかで艶やかな肌は滴が魅惑的に乗ったままだ。滴が真珠にも見える、海から上がった人魚姫の様。露出された肌は、チューブトップなので無論鎖骨も肩もへそというか腰も露出している。
 大いに、けしからん光景。
 しっとりとした髪、肌に浮かぶ水滴、まるでシャワー後のような。大きな瞳が、フ、と伏せ目がちになれば、淫蕩な空気が流れる。

 ごっふ!

 思わず口元というか鼻を押さえるハイは、熟れたトマトの様に真っ赤である。

 ……いかん、いかん、鼻血が出そうだ!

 思わず空を仰いで後頭部をトントン、と叩く。
 異様なハイの行動に、アサギは首を傾げて籠を手にするとハイに近づいて引っ張った。先程ハイが座っていた木の根のベンチである、並んで仲良く座り込むとアサギは籠をあける。歩き回って飛びまわって、お腹が空いたらしい。
 中を見て、アサギは歓喜の声を上げた。可愛らしい中身だった、まるで遠足時に母が作ってくれたような雰囲気である。りんごウサギに、たこさんウインナーまで入っているではないか。ふわふわオムレツに、鳥のから揚げに、サンドイッチなどとにかく美味しそうだ。
 母親を思い出し、アサギは籠を思わず抱き締める。急に家族に会いたくなったのだ、こんなにも会わないことは初めてだった。
 目まぐるしい生活だったが、忘れていたわけではない、深く考えないようにしていた。
 泣いてしまうから。

「どうしたアサギ? 嫌いなものがあるのか?」

 不安になり、覗き込むハイ。アサギは首をゆっくりと横に振ると、涙目の鼻声で、ぽすん、と広いハイの胸にもたれかかる。
 そっと、躊躇いがちに。

「ハイ様って、お父さんみたい。……ちょっと違うかな、なんだろな」

 勇者アサギの一言『お父さん』は、魔王ハイ・ラゥ・シュリップにクリティカルを叩き込んだ。吐血しかかったハイだが、辛うじて命は取り止めた。

 ……父親か、まぁ、歳が離れているし当然かもな。

 項垂れるが、慕われていることに変わりはない。
 嫌わないでいてくれるのならば、それで良い。いきなり攫ってきたのだが、普通に会話し笑って、言葉を理解してくれる。
 これ以上のことはないだろう、それ以上を望んだら幸福が壊れそうだと言い聞かせる。

「そなたが、傍にいてくれるのならば。……それで十分だ」

 言い聞かせるように、ハイは呟く。その呟きが、はっきりとアサギの耳に届いた。アサギがハイを見上げれば、ハイがアサギを見下ろし。
 風が森を吹き抜ける、純白の鳥が何羽も透き通った木々の上空の青空に舞った。滝の飛沫の音が、何重にも響きわたるように鳴り響くようにこだまする。

「ハイ様?」

 アサギの唇はほんのりと染まった桃色で、熟す前の甘い果実のよう。ハイの姿を映す大きな瞳は、純粋で美しく。今はその宝石のような瞳に、ハイしか映っていない。アサギの抱き締めていた籠が、ハイによって地面に下ろされた。

「アサギ」

 ハイの全身がアサギを欲する、今はもうアサギしか見えていない。アサギは返事をしようとしたのだが、開きかけた唇を硬く閉ざした。
 ようやく雰囲気が違うハイに気がついたのである、これは乙女の本能。

「アサギ、アサギ、アサギ!」

 大きなハイの声に驚いたアサギは身体を一瞬引き攣らせ、抵抗するように離れようとした。が、アサギの抵抗など全くの無意味。自分の両腕にアサギを抱え込み抱き寄せると、ハイは再び名を呼んだ。
 アサギ、と甘い声で憂いを含んで。何事かと見上げたアサギの顔に、ハイは徐々に顔を近づける。

 その頃。

「クレシダ! 速度を上げろっ」
「何事ですか主」
「デズも、オフィも! 急ぐぞ!」
「何事ですか!?」
「アサギの貞操の危機だっ、嫌な予感がするっ」
「……は?」

 トビィが大空を舞いながら、憤怒して相棒の竜達を攻め立てていた。

「……あの幼女趣味大馬鹿変態魔王が、何かやらかしている気がするっ」

 恐るべき、トビィの直感だった。


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