ジョアンへ向かう途中の馬車内。マダーニはトモハルに専属で魔法を教え、トーマはミノルに魔法を教えていた。 思いもよらない幸運だと、マダーニは薄く微笑む。ミノルは同年代の友人のような存在に教えられたほうが、すんなりと受け入れやすい性格だと思った。 マダーニは知る由もないが、ミノルは学校でも教師の言う事を聞かず、自宅でも親に反発。思春期でもあり、目上の者には抵抗感というよりも反発感があるのだった。その為今回、トーマが同行してくれることになり感謝の気持ちで一杯である。
「こんの、出来損ない! 何度言ったら解るんだよポンコツ勇者! こうだって言ってるだろ!?」 「うっるせーな! もっと解りやすく教えろよ!」
トーマとミノルの罵り合いが始まるが、苦笑いしつつもマダーニは二人のやり取りを口出しせず見守った。一見仲が悪いようで実は相当相性が良さそうである、どちらも口では負けない。 おかげさまで数日の内に格段にミノルの魔力は上がった、いや、神経を集中する事に慣れた、のか。すんなりと魔力を操作することが出来始めている、目まぐるしい成長だ。 元々ミノルの能力が高く、トーマの引き出し方が上手かったのだろう。
「俺達の世界では、魔法なんて存在しないんだよね」
魔道書を片手に、トモハルが不意に口にする。二人の喧騒など全く気にも留めずに、真面目に勤勉に励む姿に好感がもてる。利巧そうな顔立ちは、裏切らなかった。
「そうなの?」 「うん。もしかしたら……出来る人もいるのかもしれないけれど、大概がインチキ。本物は身を潜めていると俺は思ってる、馴染めないし他人から中傷を受けるから隠れていると思うんだよね」 「なのに、トモハルちゃん達は魔法が使えるようになったわね」
右手に回復魔法の光を灯しながら、トモハルが神妙に頷いた。
「うん……。思うんだけど、こっちの世界と俺達の世界の違いって、自分の能力を発揮できる環境か、そうではないか、だと思うんだ。こっちは知らないけど、俺達の……地球では、人は自分の能力の僅かしか発揮せずに人生を過ごすらしい。開花しやすい状況にあるんじゃないかな、こっちの世界は。だから魔法が使えるって俺は考えたんだけど。俺達だけじゃなくて、誰しもがもしかしたらこの世界なら魔法を使えるのかもしれない」 「トモハルちゃんは、難しい事を考えるのね」 「んー、この間、寝込んでたし。その時に、なんでかな、って」
恥ずかしそうに苦笑いしたトモハルの頭部を、マダーニは優しく撫でる。アサギの次に頭の回転が速いのは、間違いなくトモハルだろう。彼には妙に威厳を感じる時があるが、それが勇者の片鱗なのか。 回復役が欠落しているこのメンバーでは、トモハルが主力となるのが無難だと判断し先日からほぼ独断で勤勉に励んでいる。時折魔物に襲われながら、豪雨に見舞われながら、それでもめげる事なく各々成果を発揮していた。 火炎魔法を得意とするトーマは、無論ミノルに火炎系の魔法を伝授している。 トモハルが回復魔法を何処まで扱えるかによっては、最も強くバランスのとれたチームである。 トーマが何時まで同行するのか不明だったが、それまでミノルにつきっきりになってもらう予定だ。利用できるものは何でも利用する、簡単にトーマを利用できるとは思えないが、あちらもミノル育成に関しては乗り気な様子である。
ジョアン行きの古びた看板が、ようやくお見えする。皆、安堵の溜息を吐いた。『この先分かれ道あり』と、道案内の看板だった。真っ直ぐ進めば、ジョアン。左へ入れば、ライアンの故郷でもあるジョリロシャへと進むことが出来る分かれ道があるようだ。
「ジョリロシャって、ライアンさんの故郷だろ? 寄りたいんじゃなくて?」
看板の文字は読めないがマダーニが読み上げたことで、トモハルが気遣ってライアンに語りかける。トモハルの問いに、ライアンは豪快に笑った。
「故郷と言っても、第二の、な。俺の生まれた村はジョリロシャ近辺の山中だ。魔族に滅ぼされたから、もう今は何処にもないよ」
一瞬、静まり返る一行。初耳だった、皆口篭るより他ない。マダーニは軽く知っていたので驚きはしなかったが、それでもやはり口を噤むしかない。 沈黙を破ったのは、トーマだ。
「よくある話だよ。小さな村は生き残る率も確かに高いけど、暇つぶしに破滅に導かれることもある。変なのに目をつけられるかつけられないか、そこだよね」 「そうだな、運が悪かったんだ。俺だけが、生き残った。おかげで、ジョリロシャに出向いて騎士になったんだがな」 「苦労人だね、ご愁傷様」 「昔のことだ、実際記憶も曖昧でね」
遠慮なくライアンに言葉をかけるトーマは、まだ幼いからなのか、気遣っても過ぎた事実は変わらないと知っているからなのか。 不意に、小雨が振り出した。トーマが素早く馬車に熱を帯びさせる、小雨程度なら、この魔法で弾くことが出来る。負担がかからないように馬の上部にも張り巡らせていた、その為この旅は順調に来ていたのだ。流石にこの魔法は、ミノルには伝授しきれていない。 結界魔法のもっと高等なものだ、自然に対して扱う魔法など、マダーニでも無理である。 雨が、魔法の熱で蒸発していく。ほんわりと暑い馬車内で、軽くマダーニが仮眠をとる為に眠りについた。耳に心地良く届く雨音が子守唄の様で、すぐに深い眠りに誘われる。 懸命に魔道書を読み耽っているトモハルとミノルは、干し肉を齧りながら火炎の魔法のおさらいだ。荷物を整理していたトーマは、何故かしらトモハルを先程から気にしていた。落ち着きなく身体を小刻みに揺らし、話しかけようか迷っている。 荷物を全て床に出し、何やら片付け、再び取り出し、を繰り返し。何度かどもりながら、舌打ちしては、右手を硬く握り締める。
「あの、さ……」
ようやく、トーマは声を絞り出した。それが自分へだと気付かず、トモハルは魔道書から目を離さない。ミノルへの掛け声だと思っていたのだ、トーマの視線に気付かなかった。
「おい、トモハル。トーマが呼んでる」 「え?」
自分が呼ばれたと思い、顔を上げていたミノルはトーマの視線で相手が自分ではないことに気付いた。きょとん、と顔を上げたトモハルに、トーマは引き攣った笑みを浮かべる。
「……あんたの好きな女の子って、どんな子?」 「ん?」 「なっ!?」
小声だったが、間違いなく聞き取れたトーマの声。首を傾げたトモハルと、赤面したミノル。ライアンまでは声が届いていないらしい、外の雨音の為だ。何を言い出したのかと、ミノルは急に縮こまると思わず顔を伏せる。 恋愛話は、苦手だった。 そんなミノルは他所にトモハルは腕を組み、真剣に悩むと低く唸って返答する。
「んー、どうかな。アサギみたいな子はイイな、って思うけど。可愛いし、スタイル良いし、頭も良い」 「アサギ……」
名を呼んだトーマに、トモハルが微笑みながら付け加える。
「今離れ離れになってる、女の子の勇者だよ。とても、可愛い子なんだ」 「説明しなくても、トーマはアサギを知ってんだよ」
魔道書で顔を隠していたが、アサギのことになると参加しざるを得ない状態になったミノルは、不貞腐れたように頬を膨らませて苛々し始める。
「え? なんで?」
トモハルの唇から、アサギのことが形容されるのが嫌だった。ミノルは弾かれたように顔を上げると、思わず殴るような勢いで睨みつける。無論、意味が解らず、首を傾げるトモハル。 ミノルが何故機嫌が悪くなったのかも、トーマがアサギを知っているのかも。 トモハルには知る由もない。
「見たことはないよ、名前を知っているだけだよ」
肩を竦めて苛立つミノルを見ながら、トーマはそう言って天井を見上げた。「だから、なんで?」と訊くトモハルには答えない。
「……トモハルとアサギは仲が良いんだ」
ミノルは大きく肩を落とすとそれだけ告げて、ライアンと話す為立ち上がろうとした。こんなことが言いたいわけではない、本当のことだが言いたいことが違う。 わざと、トモハルの口から聞きたくない言葉が出るように仕向けてしまった。
「仲、いいんだ?」
意外そうにトーマは身を乗り出す、軽く頷いたトモハルだが首を傾げたままだ。自分の疑問には答えてもらっていない、アサギを知っている筈がないトーマが何故知っているのかが、最も重要だというのに。
「可愛いよ、すっごくね。頭もいい、気配りも出来る。アイドルにでもなれる子だよ。俺とも仲がいいけど、幅広い交友関係かな、人気者だし。あんな子が彼女だったら、って思うよ」 「……案外、両思いなんじゃねーの」
聞きたくないのに、言いたくないのに。ミノルはつい、口を出した。妙に絡むミノルに、トーマは気付いた。「あぁ、ミノルはアサギに想いを寄せているのか」と。先程からの行動は、トモハルへの嫉妬だろう。 なんとなく人間関係が読み解けてきたトーマだが、聞きたかったことは違う。そしてミノルの恋心を応援したくとも鼻で笑ってしまった。”器が違う、無理だ”と。
「好きって、なんだろう?」
魔道書を床に置いて、足を組み腕を組み、首を傾げるトモハル。怪訝に振り返ったミノルと、視線が交差した。しげしげと幼馴染を眺めて、一言。
「ミノルは、誰か好きな子いる?」 「は、はぁ?! お、俺はそーいうの関係ないし! 女って好きじゃねーし!」
突如振られて慌てふためくミノルだが、さほど興味なさそうにトモハルはすぐに横を向く。一人だけ裏返った声で弁解していた事実に、ミノルは赤面し頭をかいてその場に座り込んだ。 しかし意外だった、トモハルがそんなことを聞いてくるなんて。
「アサギは……確かに可愛いよ、すっごく、可愛くて魅力的だ。でも」
思わず、ミノルが口内に溜まった唾を音を立てて飲み込む。
「でも、好きか、と問われると俺はアサギが好きなのかな……」 「は、はぁ!?」 「価値観とか似てるし、一緒に居ると安らぐし、性格も合うけどさ。けど、好きなのかって問われると答えられなくなったんだ」 「ふ、深く考えすぎじゃねーのか、お前……」
二人のやり取りを観ていたトーマは、挑むような目つきでトモハルを観ていた。トモハルの、”向こう側”を観ていた。
……潮時だ。
思わず小さくそう呟いて、肩を竦める。
「だからさ、トーマ。好きな子って、どんな子、って訊かれても……今答えられないかも」 「それは、つまり今好きな子がいないって事でいいの? 好きが解らない?」 「どうだろう……」
黙ってしまったトモハルを、右往左往しつつミノルは二人を見ていた。ミノルは、アサギが好きだった。トモハルも、同じ様にアサギの事を好きだと思っていた。 けれど、何故、言わないのか。解らないって、何だろうか。嬉しいのか憎らしいのか、はっきり言わないトモハルにミノルは苛立つ。だが、トモハルには身に覚えのないことだった。 思案している様子のトモハルに、トーマは静かに語りかける。訊きたいことは、アサギの事ではない。
「じゃあ、聞き直すけど。どんな子が好き?」 「……どんな子って……可愛い子、かな」 「じゃあ、アサギじゃねーかよ」
ミノルが口を挟む。自分で『アサギは可愛い』と断言したことに気付いていないミノルだが、トモハルは上の空だった。普段ならば直様トモハルのツッコミが入りそうだが、今は意識が飛んでいる。
「アサギは、可愛いよ。でも、俺……好きなの……かな。ミノルはアサギとどうしたいわけ? 付き合って何したいと思う?」 「俺は……手を繋いでぶらぶらしたりとか、一緒にゲームしてぇけど。料理も上手いって聞いたから手料理作ってもらったりとか、さ……って、な、何言わせんだーっ!?」
素直に、口にしてから青褪めて告白まがいの事をした事実に狼狽するミノルだったが、トモハルはやはり聞いていない。わめいているミノルなど放置して、馬車の布を見つめたまま虚ろな瞳で呟く。
「俺の……好きな……子?」
トーマの額が、ぴくり、と引き攣る。囁いたトモハルの様子を見つめながら、トーマはそっと荷物に触れていく。
「俺の、好きな子は……まだ……いない……よ」
凝視していたら、トモハルは薄く微笑んでそう答えを出す。ミノルは未だに弁解を一人でしていた、誰も聴いていなかったが。 ……それが、答えか。
トーマは大きく溜息を吐いた、見当違いだった気もするが、あながち外れていなくもない。しかし。
「ただ」
急に、トモハルの口調が変わった。驚いて目を見開くと、目の前のトモハルはどこか懐かしそうに愛おしそうに、優しく笑みを絶やさずに語り出す。
「ふわふわの、髪で。気紛れな仔猫みたいな大きな瞳で魅惑的な華奢な身体で、お姫様みたいな女の子。ただただ、その子がその子らしくいる為に、傍にいたくて護りたい……って。あれ? お、俺、何言ってるんだろ」
乾いた声で笑ったトモハルだったが、トーマは今の言葉を聞きたかったのだ。照れたように苦笑いしているトモハルは、それでも何故か懐かしそうに唇に指をあてて何かを思い出すように……静かに微笑む。
「まぁ、誉めすぎだけど」
小さくそう呟いたトーマは、瞳を軽く閉じ息を吐いた。瞬きを三回ほどして、一呼吸置いてから、一言告げる。
「僕、次の分かれ道でバイバイするね」
唐突に言ったので、すっとんきょうな声を出したミノルとトモハル。その声に、マダーニがゆっくりと目を醒ました。
「目的の場所が違うんだ、僕はジョリロシャに行くよ。残念だけど、さ」
手際よく、あれほど散らかしていた荷物を片付ける。そろそろ分岐点だろう。
「そ、そっか……寂しくなるな」
ミノルのあからさまな落胆気味の声に、トーマはからかうように笑った。
「頑張りなよ、レベルは上がったはずだよ。何しろ僕直々に教えたんだから。あ、そうだこれ」
トーマは徐にミノルに何かを手渡した、掌サイズの珠だ、さほど重くはない。綺麗な紅で高価な宝石にも見える、不思議そうにそれを眺めるミノル。トーマはマダーニの傍に近寄りながら、ミノルに声をかける。
「それはさ、簡易な魔法球だよ。僕の火炎の魔法が閉じ込めてある。威力的には中の上、ミノル君の発動魔法よりは威力が上だ。危機を感じたら使いなよね」
聴き終える前に、ミノルが歓声を上げる。
「すっげー!」 「一度きりだから、ここぞって時にね。対象物にぶつけると発動するよ、間違えないでよね?」
説明しながら、マダーニにもトーマは手渡した。
「非力なおねーさんには、これを。接近戦になると危ないからさ、一度きりだけど豪腕の加護が付加できる。大男でも投げ飛ばすことが出来るから、敵に攻撃を当てられればこちらの勝ちだろうね」
葉に包まれている粘着力ある白い液体だ、香りはない。これを手に塗って使うらしい、初めて見る代物に目を白黒させるマダーニ。
「馬車のおにーさんには、これね」
これも葉に包まれている粘着力のある液体だった、色は深紅だったが。
「武器に塗ると、火炎の属性になるよ。火炎に弱い敵が出たときに使うと良いよ」
ライアンは丁重に「忝ない」と深く頭を下げ、それを受け取った。魔法が使えず物理だけの攻撃になるライアンにとって、これは嬉しい代物だ。 最後にトーマはトモハルに向き直った、微笑んでいるトモハルに、トーマは無表情で杖を手渡す。
「……回復の杖だよ、一度僕が使ったから残る回数はあと四回。神経を集中して使うことで人を結界に入れて治癒出来るんだ。威力はトモハル次第、詠唱なしでも治癒出来るから危機的状況に陥った時用にね。ちなみに四回使うとどうなるのか知らないけど、とりあえず効果がなくなるだろうから数、忘れないでよ。砕けたり折れたり破裂してくれれば、流石に解るけどさ。爆発はしないと思うけど」 「へぇ、解った。助かるなぁ、魔王戦には欠かせない回復アイテムだ」
嬉しそうにそれを受け取ったトモハルは、早速しげしげとそれを眺める。さり気無く、渡す瞬間にトモハルの手にトーマは触れた。
ピイン……
途端眉を顰めたトモハルとトーマ、静電気が走ったのだ。思わず手を引っ込めて苦笑いするトモハルだが、トーマには承知の上だった。痺れた指先を何度か上下に動かし、口角を上げる。
「……じゃ。そろそろ行くよ」 「……そっか」
周囲を見渡せば、微笑んで佇んでいたトーマと視線が交差した。例のごとく、音もなくトーマはミノルの真正面に移動してくる。
「ありがとう、助かった」
もう何も驚かない。何者なのかは知らないが、悪い奴ではないから、と。だからミノルは素直に礼をした。 にこっ、と口元の端を上げて笑ったトーマは子供らしい屈託のない笑顔を浮かべている。そこにまた、ミノルは喉を詰まらせた。やはりその笑顔はアサギに似ていて、頬が赤く染まるのを感じる。
「まぁ、上出来。懐に入ればこっちのものなんだけど、腕が厄介で難しい。強力な魔法が使えればアイツら魔法対抗が弱いから楽な種族だよ。円熟者でも同じことするかな、今みたく」 「ふむふむ、そうか」
素直に深く頷くミノルに軽く笑いかけると、少年は足元に転がっているトロルを冷めた瞳で見つめる。死ねずに未だに悶えていた。
「醜い、汚らわしい、不様だね……見てな」 「え」
トーマは大きく右手で宙に円を描く、その腕を真っ直ぐにトロルへと向けた。
「膨大なる光を体内に留めることなく、耐え切れず内より弾ける。肉片に帰せば未来は白紙へ、その存在を抹消せよ」
トーマが無造作に繰り出したその魔法は、魔導書に載っていなかったものである。いくら勉強をサボっていたとはいえ、一通り目を通していた。 トーマの掌に光が集まる、人間の大人の頭部くらいに球体になった時だった、不敵に笑みを浮かべたままそれをトロルへと放つ。ゆっくりと吸い込まれるようにトロルの体内に入っていった球体を見届けると、ミノルの手を掴み突如トーマは空中に飛躍した。
「な、なんだぁ!?」
ミノルが下を見るのと、トロルが爆発したのはほぼ同時だった。広野に寝そべっていたトロルの巨体は、一気に跡形もなく吹き飛んだ。テレビのニュースで観た事がある、地雷が良い例だろうか。トロルの肉片が粉々に飛び散り、四方へ飛散した。緑色の粘りあるヘドロのような血液も、同時に霧吹きしたように散布された。 ミノルは口元を押さえた、胃液が溢れ出る、吐き気に襲われても仕方がない光景だ。眩暈を覚える不気味な臭いは、空中にまで漂い始める。 トーマは耐え切れず嘔吐するミノルの様子を見て密かに溜息を吐いた、この程度でのこれでは先が思いやられると思ったのだ。 しかし、今はそっとしておくことにした。トーマとて、最初にこの禁呪の威力を目の当たりにした際は引いたものだった。一気に跡形もなく灼熱の業火で焼き尽くすよりも、粉々の破片として遺すほうが残虐である。原型がないとはいえ、カタチは残っているのだから。
……勇者ならば、この程度の光景に目を背けるな。今後、これ以上の惨劇が待ち受けているであろうから。
この禁呪、おそらく現時点で使える術者はトーマを含めているかいないか、だ。強力かつ、残虐で確実なる禁呪。実はこの禁呪、完成しているとは言い難かった。光球を弾き返してくる強者とて存在するだろう、一見完璧に見えて危ういことをトーマとて知っていた。何時の日か、来るべき時に備えて完全なものにする必要がある。何人たりともこの禁呪に屈するしかない、完璧なものを繰り出す必要があると思っている。魔力態勢に弱いトロルだったからこそ、上手く出来たのだ。 トーマはミノルをマダーニの元へと送り届けると、遠方を見ながらぽつり、と呟く。
「ドコに行くんだ?」
やや戸惑いつつ、むせ返りながらミノルは答える。
「ピョートル。ピョートルに行くんだ」
ふらつきながらも笑ったミノルに、トーマはあどけなく微笑むと遥か地平線を指す。
「あっちだね、至急この場を離れたほうがいい、トロルの死臭によって多くの魔物が集まってくるだろうし、刺客ならば探りを入れてくるかもしれない。こんなところで往生を遂げたくないだろ?」 「でも、もう一人仲間が!」 「うん、知ってる。今から僕が助けてくるから、後で合流しなよ」
トモハルを抱き抱えながら、訝しがりつつマダーニはトーマとミノルを見比べた。 この少年は何者か。 あの禁呪の威力、マダーニとて見ていた。あんなもの、そこらの人間が操る事ができるものではない。ミノルを奮い立たせたのは彼で間違いないのだが、親しくなったみたいだが、敵ではないのか、信用して良いのか。
「敵じゃないよ、味方でもないと思うけど」
トーマがマダーニに微笑みかけ、無邪気に笑う。不意に視線が交差したが、背筋が凍りつく事もなくマダーニはトーマを見つめ返した。
……この子も、心が読めるの?
ジェノヴァで出逢った魔族を思い出した、雰囲気が似ていなくもない。眉を潜めたマダーニに、喉の奥でトーマは笑う、肯定するかのように。
「綺麗なお姉さんは好きだよ。名前は教えないで置くけど今は助けてあげるね。でも、もしかしたら今後は敵になるかも。全ては、”あのお方”次第、あのお方に反するならば僕は容赦なく敵となる、崇高で高貴な麗しきあのお方、あのお方の為だけに僕は存在するんだ」 「あなたも不思議な事を言うのね? 最近は予言めいたことを言う人が多いの、もう少し頭の回転が悪い私にも手がかりが欲しいものだわ」
溜息交じりのマダーニにトーマは軽く瞳を見開いたが、鼻で笑うとミノルに向き直る。
「何時か判るよ……必ず。君も考えといて、僕と敵対してもいいように頑張りなよ? 勇者なんだろ、鋭意努力しな」 「”あのお方”って、ハイのこと?」
その名を口にしたミノルに、驚愕の眼でマダーニは直様トーマを見つめ直した、が意外そうに首を傾げている。
「違う違う、なんだ、憶えてたんだ魔王の話。ハイ様じゃないよ、確かに君達の知り合いだとは思うけど。……ヒントはね」
そう言ってトーマは月を仰いだ、月から放たれる不思議で神秘的な光に包まれて悠然と宙に浮かんでいく。 麗しい、人。人間だろうが、桁外れの美貌に思わずミノルもマダーニも息を飲んで見守る。透き通った水のような、それより深い深い水底に潜む冷水のような、そんな声と幻想的な光景だった。
「……やめとこ。もう一人の人、助けに行かなきゃ。とりあえずね、でも折角出逢ったんだから教えて欲しい事があれば、僕の独断でよければ返答するけど? 何か知りたい事ある? 君らよりは物知りだと自負している」
ミノルはマダーニに全てを委ねることにし、視線を送った。軽く頷きそれを受け取ると唇を舌で湿らせ、湧き出た汗を拭いつつ唇を動かす。
「何でも良いわけ?」 「僕が答えられる範囲ならば、ね」
意を決し、最も聴きたかったことをマダーニは問う。
「アサギちゃんの居場所。解るのね、教えて」
その名を聞いたとき、トーマの表情が揺らいだのをマダーニは見逃さなかった。聴きたかった、待ち望んでいたとでもいうように、うっとりと微笑んだのだ。けれども、追求はしなかった、言葉を飲み込みマダーニは返答を待つ。
「ミノル君にも伝えたけど、魔界イヴァンにいるよ。その中央、魔王アレク様の城内に大切に囲われている。命に別状なんてあるわけがない、勇者でありながら最高のもてなしを受けている筈だよ。敵の本拠地でね」 「本当のことなの?」 「信じる信じないは別だけど、嘘は僕は言わないんだ」 「ありがとう、無事ならいいの、アサギちゃんが」
安堵した様子でマダーニはトーマを見つめる、不可解で掴めない人物だが嘘は言っていないとなんとなく思った。信用してもらえた嬉しさからか、恥ずかしそうにトーマは小声でありがとう、と呟き月へ帰る様にふい、っとその場を離れていく。 二人はトモハルを背負って馬車へと急いだ、寝かせて傷の手当を再開する。運悪く、現時点で回復魔法を扱える人物がいない。マダーニとて簡易な初歩中の初歩のものしか扱えないのだ、トモハルの体力に任せるしかなさそうだった。ミノルはからっきしである、トモハル本人が可能だが、生憎これではどうにもならない。 毒小剣をマダーニに返却し、ミノルは予備の剣を受け取りそれを装備する。ミノルの使っていた剣は、トロルと共に大破しているだろう。 致命傷はないトモハルだが、打撲が痛々しい。
「アサギ……無事だってさ。よかったな」
ミノルがトモハルにそう零すと「知ってるよ」とでも言わんばかりに、苦悶の表情がうっすらと微笑んだ。 その頃トーマはもう一つの巨体に到着茶していた。先程の戦場よりも離れた場所で、地には無数の激戦の爪痕がある。口笛を吹き、愉快そうにトロルを見れば一つの小さな影が飛び交っていた。 ライアンだ。呼吸の乱れは限界だった、気力のみで持ちこたえている状態。頭部から流れ出る血液が視界を奪う、身体は痛みで痺れを通り越して動かなくなってきた。
「こりゃ、ヤバイかもな」
ライアンはさも面白い、というように唇の端を上げて笑った。
「だが、諦めたら俺らしくもないな」
戦い抜いて、決して諦めずに最後まで希望を捨てずに。諦めれば、全てが終わる、諦めなければ奇跡の逆転が起きるかもしれない。 奇跡なのか、月から天の遣いが現れた。 トロルの向こうの月から、人影が現れたのだ。漆黒の髪を靡かせながら、麗しき少年が目前にせまってくる。
「うわ、エグイやられ方したねぇ、僕に任せてよ」
鈴を転がしたような声だった、聞き覚えのある声だったが、意識が朦朧とするライアンには誰に似ているのか判別できない。するり、とトロルとライアンの間に割って入ってきたトーマは、風に舞っている布の様に艶やかで柔軟に見えた。 詠唱の声が辺りに響いたと思えば、至近距離で凄まじい破壊力のある魔法を繰り出す。
「巡る鼓動、照らす紅き火、闇夜を切り裂き、灼熱の炎を絶える事無く。我の敵は目の前に、奈落の業火を呼び起こせ!全てを灰に、跡形もなく燃え尽くせっ!」
熱さが空気を伝わってライアンにも襲い掛かった、瞳を細め顔を覆い隠す。
「ちっ、至近距離過ぎたかな」
舌打ちしトーマはライアンを掴んで後方に飛ぶと、トロルの死期をじっと見つめる。最強クラスの火炎の魔法である、マダーニが見ていたら唸り声を上げそうだった。だが、ライアンにはトーマの魔力がどこまで底知れず恐ろしいか解っていない。 灰だけになったトロルの亡骸に唾を吐き捨てると、トーマはようやくライアンに微笑みかける。
「無事? ……みたいだね」 「あぁ、ありがとう、天の遣いかい?」 「ぷ! そりゃいいやぁ!」
トーマは腹を抱えて笑い出すと涙を拭きながら、きょとん、としているライアンに視線を送る。
「そんな面白い事言ったかなー?」 「言った言った! 僕、普通の人間だよ。あぁそれより、お仲間が待ってるよ。……合流するの時間かかりそうだから僕が連れて行ってあげるね」
立っているのすらやっとなライアンを、ここに放り出して行くのも気が引けた。天然なライアンだ、雰囲気が温和なのも手伝って手を差し伸べたくなっていた。
「かたじけないな、何から何まで」 「いいよ、気にしないで」
言うなり、トーマはライアンの腕をがっしりと掴むとそのまま宙に浮かぶ。
「あぁ! これは凄い!」
自分が宙に浮かんでいる状態に大興奮のライアンだ、秀でたトーマの能力などお構いなしである。ただ、現状を楽しんでいる。愉快そうにトーマは笑うと、そのまま飛び続けた。 このまま戻れば再びミノル達に会う訳だが……仕方がない。先程の別れを前言撤回するしかなかった。 馬車もこちらを目指しているようで、慣れないながらにマダーニが手綱を握っているようだった。
「おーい! マダーニ! 俺だ、俺!」
トーマの腕で暴れて自己主張するライアン、バランスを崩したトーマは急遽降下した。
「あんた子供じゃないんだから」
呆れた顔つきでトーマは睨むが、豪快に笑っているライアンを見ていると不思議と自分もおかしな気分になってきた。馬上からマダーニが意地悪く顔を出すと、白々しくトーマに話しかける。
「あらあら、また会ったわねボーヤ? 貴方は今、敵なのかしら?」
む、っとした顔つきでトーマはそっぽを向くと「気が変わったんだ」と言葉を吐き出す。揚げ足を取られてしまった。 馬車に転がり込んだライアンを心配して看病に入るマダーニ、トモハルは眠っており、ミノルはその傍らについている。トーマは控え目に馬車から覗き込むと四人に声をかけた、自分でも不思議だったが。
「よかったらさ、僕も乗っけてくんない?」
思いもよらないトーマの言葉に、一瞬唖然としたマダーニだがにんまりすると近寄って頭を撫でまくる。
「いいわよー、空いてるしこの馬車っ」 「……何、馬車賃として色々教えろって?」 「やだぁ、そんなコト言ってないけど、そうね、ボーヤは頭の回転が速いわねぇ」
おっほっほ! 自分の豊満な胸にむぎゅ、っとトーマの顔を押し付けて高笑いだ。若干羨ましそうに見つめたミノルと、微かなヤキモチなのかむっすりとしたライアン。
「マビルと同じくらいかな……いや、でも、あっちのほうが柔らかい」
ぶつぶつ、と何かトーマが呟いている。
「おい、とにかく急ごうぜ」
我に返り、初めて自分から行動したミノルは、ライアンに薬草を手渡していたマダーニを見た。今馬車を操る事が出来るのは、マダーニのみだ。名残惜しそうにライアンから離れると、マダーニが覚束ない仕草で馬車を走り出させる。隣にミノルが座り、付き添った。操作方法を覚える気なのである。 ようやくミノルは動き出した、勇者の一人がまた一つ輝きを増した。瞳を細めて満足そうに、マダーニはそっとミノルの頬に口付けをする。驚いて飛びのいたミノルに爆笑し、瀕死の二人がいるにも関わらずマダーニは嬉しくて仕方がない。 反して顔を真っ赤にし、声も出せないミノルだった。
「あら、ミノルちゃん達の星では挨拶代わりにこういうことしないの?」 「すすすすすするわけねーだろ!?」 「あら、残念ね。てっきりアサギちゃんともこういうことしてる仲だと思ってた」 「だだだだだだだあーれが!?」
そんなコト出来る仲ではないとマダーニとて知っている、しかし、からかいついでに言ってみた。旅は楽しくなくてはいけない、気休めも重要だ。自分とアサギを想像したのか、縮こまって項垂れているミノルがなんとも可愛らしい。
「アサギちゃんに可哀想な事したわねぇ」 「は?」
勢いよく手綱を引き、マダーニは速度を上げる。大きく身体が揺れ、ライアンの悲鳴と共に馬車は疾走する。
「ミノルちゃん、今は休んでて。後程たーっぷり馬車の指導をするから、それまでは休息よ」 「……わかった、ありがと」
馬車の中に引っ込んだミノルは、寛いでいたトーマと視線が交差した。
「……で、お前も行くんだ」 「えーっと、ミノル君? だっけ? よろしく」
照れ気味に握手を求めたトーマに、ミノルも唇の端に笑みを浮かべて握手を交わす。その温もりがトーマの心をほんの少し溶かしたことを、ミノルは知らない。 徐にトーマは荷袋の中から薬草を取り出し並べていく、アイセルに用意してもらったものだ。
「えーっと、ミソハギは止血と消化不良……だったような。あげる」
ライアンとトモハル用らしい、と言ってもミノルにはやり方が解らないのでトーマが渋々治療することになった。
「お前、すげぇんだから回復魔法も使えるんじゃねーの?」 「使えないこともないけど、普段は使わないから苦手なんだよ。僕強いから回復とか必要ないんだ」 「……お前、ある意味すげぇな」 「っていうか、勇者なら薬草の使い方くらい覚えてよ」
ライアンの傷口に薬草をあてがい、ゆっくりと横にして水を飲ませる。同様にトモハルもトーマが治療にあたるのだが、大きく身体を引き攣らせた。覗き込むと唇が青褪めている、余裕のない表情にミノルが流石に声をかけた。
「どした?」 「こ、こいつっ!」 「トモハルって言うんだけど?」 「じょ、女難の相が!」 「は?」
血相変えて、震える手を伸ばしかけたままトモハルを見つめている。
「趣味悪っ」 「は?」
トーマは数分後、ようやく我に返ると滝の様に流れている汗を拭った。
「ごめん、取り乱した。あまりに奇怪なっていうか、特異な運命の持ち主だったもんだから」 「確かにコイツ、変だけど。……何、占いかなんか?」 「……この人にさ『よろしく』って言っといて」 「はぁ」
以後、黙々と作業に入る。何のかんの言いながら、律儀な奴だとミノルは思った。絶対に友達になれると思った。 夜が明ける頃、トーマは睡眠に入る。ライアンの体調が戻ったので、マダーニを眠らせるべく交代する。ミノルは半睡眠を繰り返していたが、ライアンの隣で馬車の操作を覚えることにした。 トモハルは、動かない。
――トモハル。あと少しだけ、眠って。起きたら、あなたは……―― 「アサギ?」
眠りの中、アサギの声を聴いた気がして唇を動かした。 トーマが繋ぐ、トモハルとアサギと。そして……マビルを。
「伝えるの、忘れてた。僕……トーマっていうんだ。トーマ・ルッカ・シィ ーザ」
ぼそり、とミノルに告げた後、トーマは照れ臭そうに笑っていた。
……ホントの名前は、多分違うんだけど。
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