ベルガーの声に弾かれて、トレベレスはアイラを見つめた。無論、アイラはトレベレスを見つめたままだった。 ようやく二人の視線が交差する、不思議そうに首を傾げ再び咳き込むアイラを思わずトレベレスは抱き締める。きつく強く抱き締めたかったが、身重だと分かった以上、硝子細工を扱うように優しく包み込む。 体温を、感じる程度に。優しく背中を擦る、そっと、アイラの腹に手を当てたトレベレスは涙が込み上げてきた。 確かにアイラが身篭っていたとしても、不思議ではない。毎日毎日溺愛していた、毎晩、いや、昼の時もあった。日中夜問わず、愛していたのだから。寧ろ必然だ。 アイラを見つめるトレベレスの顔に、徐々に赤みが戻っていった。
「アイラっ……」
トレベレスは、涙声で感極まり涙を零す。その涙にアイラも何故か泣きたくなった。嬉々として、満ち足りた表情で語り出すトレベレス。
「オレとアイラの子、産んでもらえるな? 大事に二人で育てよう、愛し合って育てよう。息子だろうか、娘だろうか。名前はどうする? オレはアイラに似た娘が欲しいが、オレに似た息子も欲しい。……あぁそうか、何人か子供を作ればいいのか。多くの子供に囲まれてす過ごそう」
トレベレスと、アイラの子。今、アイラの腹に。 抱き上げて宙に掲げ、呆然としているアイラに口づける。優しく右手をアイラの腹に添えると、温めるように、慈しむように撫でながら震える声で耳元で囁いた。
「解るか? ここに……アイラの腹には、オレとアイラの子が存在する」 「……そうなの、ですか?」 アイラは子が、どうして出来るか知らなかった。何故、そうなったのかまだ判っていなかった。 深く頷き、慈しみながらアイラの髪を撫で懸命に腹の子を気遣う。
「気分が悪いのは風邪ではない、悪阻だ。身体を温めないと、大事にしないとな! 栄養もたくさんとり、ゆっくり過ごそう」
うっとりと語り出すトレベレスに、周囲は物の怪でも見るように脅え、徐々に後退していく。温度差が激しい室内だった、ベルガーは表情一つ変えず二人を見つめる。 トレベレスの柔らかな表情は、子を護る父親の顔だった。家臣達は狼狽し、顰めき合うばかりだった。あのトレベレスが他人の為に涙を零し、至福に包まれている光景など異様だと思ってしまう。 子供など、煩わしいだけだと思っていた。何れは跡取りが必要だが、当面は自分が国を仕切るので不要だと思っていた。そんなトレベレスだった。 それでも、繁栄の子が産まれるのであればとマロー姫に目をつけた。 しかし何故か今、アイラと自分の子が存在するという事実が自分でも奇怪だが、喜ばしかった。 愛しい愛しい、娘のアイラ。その娘を独占出来る喜びなのか、ついに手に入れたという征服感なのか。薔薇色に輝く未来があるのだと、トレベレスは思った。信じた。
キィィ、カトン……。
遠くで、何かの音が聞こえる。それを無視する。 まだ困惑気味に自分の腹を擦っているアイラを優しく見つめ、髪に何度も口付けながらトレベレスは震える身体を必死で押さえる。誰かが耳元で囁いていた、よくやった、と。
”ようやく、手に入れたんだ” ”真っ先に、手に入れたんだ” ”今度こそ、手に入れたんだ” ”願いは、成就されたんだ”
連呼する、ひたすら心の中で叫び続けた。大喝采だった、何が嬉しいのか解らなくなりそうな感覚に陥った。目の前の美しい娘は、曇りのない瞳で自分を見つめている。艶やかな唇は、今後も名前を呼んでくれるだろう。 腕の中にある温もりは、現実だった。欲して欲して、やまなかったものが手に入った。まるで何十年も前から待ち望んでいたことのようだった、声高らかに叫びたかった。『オレのものだ!』と。 子が存在すれば、自分の子を置いてアイラは逃げたりしないだろう。自分の描いていた未来が、すぐ傍まで来ていることにトレベレスは気付き、発狂しそうな程脳内が沸騰した。 誰にも邪魔をさせない、アイラは決して手放さない。至高の歓びを実感し、描き続けた未来を掴むまでは。 他の問題さえ片付けば、もう、何も恐れる事はない。
「トレベレス殿、お子は一人ではないわけだが? そのように話されても鼻白むだけ」
冷めた口調のベルガーに、静かに顔を向ける。アイラを執拗に護りながら、ベルガーを好戦的に睨みつけた。 抜本的な解決を目指すには、まずベルガーを黙らせる事だ。腕を組み仁王立ちしているベルガーに、心底怒りが湧いてくる。あの、高圧的な態度が”昔から”気に食わなかった。 二人の間で、緊迫感が漂う。紛れもない、殺気だ。 槍を硬く握り直したベルガーの姿に、焦燥感に駆られた兵が小声で何か告げるがそれを弾き飛ばした。「経過観察すればよいのです」と兵は告げたのだ。 繁栄と破滅の子が、この場所にいるならばそれが良策だろう。ベルガーとて、それが最善だと思っていた。願ってもない事だった、これで女王の予言が真か否か判明する。
「いや、矛盾するか。火の国フリューゲルはどうなる? 破滅か、繁栄か。先に生まれるのは繁栄の子だ」
父親は同一人物。姉の破滅の子が勝るのか、妹の繁栄の子が勝るのか。それとも、相殺されてしまうのか。 だがこの場の皆は知らない、その予言は逆だ。 皆、ベルガーの言葉に息を飲み緊迫した空気が震える。土の国を治めていた偉大な魔女の言葉に秘められた、恐るべき魔力に脅えてしまう。 真実を知っているトライとリュイは、この場にいない。
「国は捨てる! オレはアイラと二人きりで暮らすことに決めた。……誓え、アイラ。オレと共に来い」
そんな中でトレベレスは動じていなかった、マントでアイラを包み込み、口付ける。軽く、ではなく深い口付けでアイラからは平素通りに喘ぎ声が漏れる。人前での口付けは恥ずかしいと何度も拒んだが、トレベレスはお構いなしだった。軽く頬染めて微かな抵抗を見せるアイラが、愛おしくてトレベレスはやめる気が全くない。挑戦的にベルガーを見やり、わざとらしく見せ付けるように唇を吸い上げる。 瞬間、ベルガーの眉が、ピクリと動いた。 目前で口付けを交わしている二人を見ていると、何故か胸が痛いことに気付いたベルガー。頭痛がしてくる、非常に不愉快な気分になる。耳障りな音が、何処からか聞こえてくる。 額を押さえ、唇を噛締め再度口付けを続ける二人を見つめれば。 眩暈、周囲の喧騒が消えて漆黒に包まれた。
大木の木陰で、緑の髪の少女が座っていた。自分を見つけると、嬉しそうに立ち上がり駆け寄ってくる。彼女の胸元に、紅玉のネックレスがきらり、と揺れていた。 媚びのない笑顔、自分を慕ってくれている彼女の笑顔。しかしその笑顔に、”恋愛感情”は含まれていなかった。錯覚していた、心からの彼女の言葉を自意識過剰だった自分は履き違えた。 あの時、彼女が見ていた先にいた男は。自分ではなく、紅玉のネックレスを贈った男。炎を司る、まだ青二才の男。その男は彼女の視線と心を独占していた、彼女の想いは揺ぎ無いものだった。
「……紫銀の……短髪……の」
ベルガーの身体が硬直する。口走った言葉に、身体を引き攣らせる。 幻影の男が、自分を見て忌々しそうに睨みつけていた。何処かで見た瞳だ、近いところで見た瞳だ。寧ろ、目の前にある瞳だった。
「トレベレス……?」
今、自分の目の前にいる男の名を呼ぶベルガー。兵が気分悪そうに前のめりになっていたベルガーの身体を支えていた、耳鳴り止まず、荒い呼吸で二人を見つめる。その瞳に若干の嫉妬と焦りが浮かぶ。 再度、眩暈。
何処かで、見た光景だった。 紫銀の髪の男が、緑の髪の少女を抱き締めて離さない様。自分はそれを、嫉妬心に侵されて見つめていた。ドクン、胸が跳ね上がる。心臓の鼓動は速く、壊れてしまいそうだった。幸せそうな少女と、挑発的にこちらを見ている男。
ベルガーは頭を振った、奇怪な幻影から逃れようとした。 そして、自身を何故か誘惑しようとしているような呪いの姫から逃れようとした。 あれは、破壊の姫だと、言い聞かせる。目障りなトレベレスが引き取って、己を破滅へと向かわせるだけなのだから支障はない、筈だった。しかし、それでも何故か。脳内整理は出来ている、好都合だとも解っている、だが。 ベルガーは苛立ちを押さえられずに、愛用の槍を硬く、いや過剰に握り直した。支えていた兵を振り払い、槍を構える。放ち始めた殺気に、兵が喉の奥で悲鳴を上げた。 どうにもこの目の前の光景が気に入らなくて、唇を噛みながら大きく肩を振るわす。嫉妬なのか、いや、嫉妬する理由などない筈だった。激情に身を焦がすような、想い。キリリ、と胸が鷲掴みにされ、引き千切られる様な。初めての感情だった。 額にじんわりと汗を浮かべながら、ベルガーは胸を押さえつつ乾いた口内を不審に思いながら声を発する。
「何を馬鹿なことを。それでも一国を任される王子の言葉か」 「国は要らない、欲しいものはここにある」
二人の間に発露する、殺意。ベルガーが素早く槍を突き出す、トレベレスが剣を引き抜き周囲が騒然となった。
「そこまで溺れたか! 魔性に魅入られたか!」 「貴様には関係のないことだ!」
怒鳴る二人に本気だ、と周囲は確信し悲鳴が大きくなった。混乱が生じ、皆逃げ惑うばかりである。 ベルガーの構えは、自国の兵とて久方ぶりに見る殺陣だ。口元に冷ややかな笑みを平素浮かべているベルガーからは、想像できない取り乱し様だった。 まさか、冷徹な王子を揺さ振ったものが、呪いの姫君だとは。最も沈着冷静であると思っていたゆえに、動揺を隠せない家臣達。必死で宥めようと背後から声をかけ続ける、こんなところで、価値のない姫に事を荒立てるのは無意味だと。 それはトレベレス側も同様で、突拍子のない発言を撤回させるべく説得を開始する。国を捨てて呪いの姫君と逃亡など、気が触れたとしか思えなかった。
「気を確かに、トレベレス様! それは呪いの姫ですぞ!?」 「冷静に、ベルガー様! あれは呪いの姫ですぞ、このまま行かせましょう」
破竹の勢いで騒ぎは塔全体に広まる、全くの予期せぬ出来事に右往左往せざるを得ない。二人の王子は、互いに睨み合い相手を殺す勢いだと誰の目にも明らかだった。
「ベルガー殿には関係ないだろう! オレはアイラが居れば構わない。放っておいて戴けないか? あぁして繁栄の姫は置いていくから貴殿には好都合だろう?」 「何をおっしゃるか、低脳な動物の様に発情しているだけにしか見えないから、馴染みでこうして止めているというのに」 「発情!? ……いい加減貴様の言い方には腹が据えかねるっ」
周囲に目に見えない何かが発生し、皮膚を傷つける様だった。乾燥した中で、文字通り”火花を散らす”様な殺気に女達は下の階へと逃亡する。 最早、誰も二人を止められない。 家臣達は恐れおののくばかりで、声すらかけることを躊躇い始めた。声をかけたところで、二人は全く耳を貸さない。 ただ、互いの隙を見極める為に沈黙が流れ始めていた。 呪いの姫君が、ついに二人の王子を魔性で取り込んでしまった、と皆思った。これが土の国の女王の呪いなのだと、と思った。二人の王子の異様なまでの執着振りをみれば、そうも思いたくなるだろう。 美しい土の加護の姫は、炎の加護の皇子に抱きとめられ、光の加護の王子はそれに嫉妬する。
|
|