アイラは嬉しそうに手を振ると、軽やかに馬から降りそのままゆっくりとミノリの方へと歩み寄る。周囲の人間達が、反射的に後ずさった。大人しくデズデモーナはアイラの後をついてきた。 非常に、利巧な馬だった、そして忠義があった。 ひそやかな囁きあいが続く中で、視線を気にせずにアイラは進む。 緑の髪、煤だらけの顔、深緑の瞳。 汚れていようとも、纏う布は光で煌く上等なもの。スカートの裾が大胆にも切れているが、卑しさなど微塵もない。 皆が集中し、アイラの行く先を見ている。誰にだって分かった、騎士のミノリに会いに行くのだ。
「みどりの髪の姉は、破壊の子を」 「呪いの子を産む母親は、無論呪いの塊、災いの元」
誰かが、小さく呟けば、ざわざわ、と広がる言葉。それはもう、誰にも止められない。
「緑の髪の姉姫は、災厄の姫!」
誰かが、大声で悲鳴を上げるように叫べば、張り詰めていた空気が一気に膨張する。皆、口々に怒涛の勢いで口々に「呪い」「破滅」を連呼し始めた。罵声を浴びさせる、身振り手振り、全ての不満を今アイラに叩きつける。 流石にアイラも足を止めて、不思議そうに街の人々を見ていた。 自分の国の、民達だ。初めて見た、アイラは深く会釈をする。丁寧に、身分など関係なく、教えられたとおりに。敬意を持って、会釈をして顔を上げるが、異様な雰囲気は変わらない。 自分に対して畏怖の念を抱き、激怒しているようにとれるのだが、理由が全く解らない。見慣れない人物だから恐怖なのかと、アイラは再び深く会釈すると声を発した。
「あの、アイラと申します」
戸惑い気味だが、微笑した。名を名乗ることは、礼儀だと本で読んだのでそうした。 騒然となる人々に、アイラは恐れ戦いてデズデモーナに寄り添うと、首を竦めて自分を指差す人々を見つめる。どうみても、怒りの矛先を向けられているようにしか見えなかった。 王族でありながら、民を護れなかったので皆怒っているのだろうと解釈し始めた。当然だと、そう思った。 森から出て、ミノリとトモハラを探してここまで来たが、あまりの惨劇に目を覆いたくなるばかりだった。もはや、家と呼ぶ事が出来る建物はそうあらず。時折、火はまだ残りパチリ、と爆ぜる音がする。 蹲っている人々、死体にすがって泣いている少女、迷子の子供、瓦礫の下敷きになっている家族を救い出そうと懸命に作業している少年。 現実だ、一夜にして平穏な街は奈落へと突き落とされた。 アイラは心痛に、どう謝罪すべきか思案していたが、そうではない。 民は知っていた、アイラの噂を。怒りの矛先を向けるべき相手を。
「呪いの姫君!」 「災いの姫君!」 「死を呼ぶ姫君!」 「地獄からの使者!」 「姫などでは、ない!」
人間とは、愚かなもので。人数が多い側につけば、それだけ態度も大きくなる。小さくなっているアイラを取り囲むように、人々は輪を縮めていった。 口々に、今までの惨劇を怒鳴りながら語る人々。最後に”お前のせいだ!”、と同じ事を繰り返す。父を、母を、夫を、妻を、子を、友人を返せ、と。 皆の話を一度に聞こうとしたが、人が多すぎて出来るわけがない。ただ、狼狽してふるえる脚で、懸命に大地に立つのが精一杯だった。 誰かが、石を拾い上げ投げつけた。大きな石ではなかったが、右肩に当たったそれに思わずアイラは小さな悲鳴を上げる。
「出てけ!」 「国から出て行け!」 「黒の姫君を返せ!」 「お前が攫われれば良かったのに!」
一つの石が、二つ、三つ。重さも、速さも増して行く。容赦なく、アイラに石の飛礫が投げられた。直接、攻撃する者がいないのは、その呪いを穢れを、身に寄せ付けたくないからだ。 止めてください、と必死に懇願したが声など届くわけもなく。アイラは懸命に両手で頭部を庇いながら、その場で耐えていた。 が、馬の高らかな鳴声に、アイラは我に返ったのだ。デズデモーナに石が当たって、痛がっている。アイラに投げられる石に、当然後方にいたデズデモーナも被害を受けていた。
「止めてください!」
何度言っても石は投げ続けられている、人々の声に掻き消されて、アイラの声など無力だった。 唇を噛締め、アイラはデズデモーナの前に出た、庇うように両手を広げて前に出た。一向に止まらない石、痛がるデズデモーナ。鋭く尖った石で、腹部から流血している。 アイラは、決心した。歯軋りし、右手を背に伸ばす。 ガン! 一つの石が、アイラの米神に当たった。そこから流血し、血が瞳へと流れ込む。それでも右目を瞑りながら、右手で剣を引き抜き、飛んで来た石を剣で地面へと叩き落す。 雲の切れ目から差し込む光が、剣を輝かせる。血を流しながらも、剣を片手で構えて静かに瞳に強い意思を灯し。
「やめて下さい。この子が、痛がっています」
真っ直ぐに人々を見つめながら、先程までの怯えた様子など微塵もなく言葉を発した。威圧感に、石を投げる人々の手が止まる。一廉の人物、とはこういうことを指すのかもしれない。 静まり返ったその場、唖然と皆、無心でアイラを見ていた。その立ち姿が悠然と、そして威厳に満ち溢れていたからだ。神々しいとさえ、思った。 アイラは、剣を構えたまま直向な態度で語り始める。
「住んでいる街が、家が。焼き払われ、破壊され。皆苦しい思いで、生き抜いているのですね。私は、アイラ。妹のマローは私が必ず連れ戻しますので、それまで皆で頑張っていただけないでしょうか」
悲痛そうに、軽く瞳を伏せる。剣を、音を立てずに背に仕舞うと首を動かして全体を見渡した。 人々の顔に、余裕がない、笑顔など全く見られない。 そういう民の姿に、胸を痛めた。本で読んだのだ、民が心から笑顔の国は、良い国である、と。 今、ラファーガ国はもはや亡国。それでも、民さえ笑顔なれば国など幾らでも立て直すことが出来る。アイラは、そう思った。国を創るのは、民だ。先導者として、王が居る。 しかし、民に必要な、民の心を支える人物・麗しの姫マローが拉致された。 アイラは、悲壮な決意を皆に見せたのだ。マローを連れてくるから、それまで諦めずに生きていて欲しい、と。 切実な願いを投げかけ、アイラは民が犇めき合う中、それでも波紋すら立てない静寂の中をミノリへと再び歩き始める。 民達は、もはや何も言えなかった。ただ、緑の呪いの姫を見つめるだけだった。 ふっ、と急に顔の力を緩め微笑したアイラ。それが、一部の男には非常に媚態に見えた。本人に、意図は当然なかったが。 石が飛んでこなくなったので小さく安堵の溜息を漏らし、デズデモーナの背を撫でて落ち着かせるとミノリを探す。 皆が見守る中、静かにミノリへ歩み寄るアイラ。
「よかった、目が覚めたのですねミノリ。急に姿が見えなくなったので、心配していました。トモハラは……」
アイラがゆっくりと手を差し伸べる、ミノリは、アイラを微視的に見続けていた。 流れ出る深紅の血は量が多かろうと少なかろうと全身にあるが、痛かろうに笑顔を絶やさずに。 ミノリは、見ていた。 皆が罵声を浴びせ、石を投げ続けている時もアイラを見ていた。 ほんの数日前までならば、ミノリは真っ先にアイラの前に立ちはだかり、民に向かって剣を抜いただろう。アイラ付きの、騎士なのだから。 そうでなくとも、大事な女の子であった筈なのだから。あの日、護ると誓ったのだから。 だが、ミノリは動かなかった。動けなかったのかもしれない、見ている光景が幻のようで。 ”次元の違う世界の出来事であるように思えて”、微動だしなかった。 今もそうだ。目の前に、アイラ。数年前から、焦がれ、傍に居て。『貴女に、守護を。穢されない麗しき花で居られるように、守護を』そう誓った相手だ。自身が、命をかけて護るべきだと魂を揺さ振られた相手だ。 差し伸べられた手を、見つめる。 数日前なら。 数日前のミノリならば、恭しくマントで自分の手を包んで手を取っただろう。いや、取る前に跪いただろう。 無事な姿を確認でき、涙を零す勢いで赤面しながら俯いただろう。それ以前に、先程民達からアイラを護っただろう。 けれども。 ミノリは差し伸べられた手を、反射的に叩き落したのである。パシィ、と乾いた音が静寂に響き渡った。 唖然、とミノリを見つめたアイラ。後方でも、どよめきが起こる。 視線が交差した瞬間に、思わず顔を引き攣らせたアイラは、無意識に一歩後退する。 憎々しげに、自分を見ているミノリがそこに座っていた。 普段とは違う様子のミノリ、なんという憎悪の瞳だろう。先程民から向けられた視線よりも、たった一つの強大な、恐ろしい瞳だとアイラは感じてしまった。 それは、ミノリを信用していたからだ、自分の敵になるなど思ってもみなかった。
「どうして無事なんだよ!? トモハラは起きないのに、アンタはどうしてそんなに元気なんだ!?」
掴みかかる勢いで立ち上がったミノリ、アイラには触れる事がなかったが、寸でのところまで詰め寄り全身から殺気を放つ。
「今まで何処に居たんだよ! 城内は全滅、運よく俺とトモハラはこうしてみんなに助けられたけど、アンタはそれまで何処に居たんだ!? マロー様は連れ去られたのに、アンタは何をやってたんだ!?」
ミノリと、トモハラを助けたのは他でもない、アイラ。マローが連れ去られた時、アイラはベルガーの放った槍で突かれ、壁に激突しミノリ達の傍で意識を失っていた。 けれども、ミノリは知らない。自分を助けたのが、アイラであることを。 自分が倒れた後、果敢にも一人でトレベレスに立ち向かっていたアイラを。ミノリは知る由もない。 そして、普通姫ならばこのような状況下で何も出来ずに右往左往するだろうという先入観。必死に看病していたアイラを、微塵も思い描かなかった。 ほんの数日前のミノリならば、解ったろうに。本を読み、目で見たことはなくとも知識は有り。薬草や怪我の手当ての仕方、草木に詳しく長けている事。 傍に居て仕えていたミノリならば、知っていた筈だ。 あの日の二人は、忘却の彼方。幼き頃、庭から見たアイラの細く可憐な腕と麗しい歌声に魅せられたミノリだが、記憶は消える。 アイラは、豹変したミノリに驚き声を出せずにいた。 助けたのは自分で、今も森に食料を探しに出掛けていたのだと、説明したくともミノリの視線が怖くて声が出なかった。何も言えないアイラに、ミノリは引き攣った笑い声で、大声でひとしきり笑う。 狂気だ、民達ですら、怯えて一歩ずつ後退している。あの騎士は、怪我と状況で気がふれて頭がおかしくなってしまったのだと……皆、思った。 そういった、いびつな笑い声だった。
「何処かに隠れてたんだな!? アンタ、城内の隠し通路や部屋にも詳しいもんな? だから無事だったんだろ、えぇ!?」
一歩、アイラに詰め寄る。 一歩、アイラが後退する。 青褪め震えているアイラを見て、”肯定”と判断した、ミノリ。押さえ込まれていた何かが、爆発した。胸に広がる、ドス黒いモノ。吐き出すために口を開く。 身体はまだ苦痛を伴う、意識があれば周囲は自分に期待の視線と言葉を投げかける、懇願する。『マロー姫様を救出して来て』 たった一人の騎士で、どうしろというのだろうか、この他力本願な民達は。騎士団長でもない、ただ騎士という肩書きを貰った一般市民なのに。 手柄も特にないのに、大国二国に単独で挑めと願うほうが間違っている。 名が大陸中に知れ渡っている”勇者”や英雄ならば可能なのかもしれないが、今の自分ではどう足掻いても無理だ。しかし、人は救いを求める。 救いを求め、願う、期待をする。そうしないと、生きてゆくのが辛いから。自分達よりも優れていると思う者に、全てを託して願うのだ。 目覚めて数時間、普段期待など背負わなかったミノリは、重くのしかかるプレッシャーに潰されそうだった。何かにぶつけないと、ミノリ自身が壊れてしまいそうだった。 もう、壊れていたのかもしれないが。 下手したら。”目覚めたくなかったのかもしれない”、この状況下では。 死んだままで、いたかったのかもしれない。無理やり起こしたのは……誰だ。
「で、どうして俺に会いに来た? まさかアンタもマロー様を救出してくれ、なんて言い出さないよな?」
沈黙。アイラも民も、皆一斉に口を噤み息を殺した。 嘲り笑いながら、ミノリは足元の石を地面に埋め込むように思い切り力任せに踏み潰すと、低く笑い出す。石が、地面の中で割れた。パキリ、と綺麗に。
「お高くて、優等生ぶって、自分が正しいと思って。もうたくさんだ、俺らはほっといてくれ! 家族は死んだし、トモハラは目覚めないし、騎士になんてならずに他国へ移住すればよかったんだ! アンタ方のお守りなんてしなければ、こんなことにはーっ!」
絶叫。 涙を流しながら、空に向かって吼えるように叫び声を上げたミノリ。荒い呼吸でまだ、狂ったように笑っている。
「あぁ、まんまと、呪いの姫君に俺達騎士は騙されたんだ! 誘惑されて、その代償がこれだよ! あー、ばっかみてぇ!」
沸き上がる言葉を、全て腹から吐き出せば少しでも、楽になれるとミノリは思った、だから、笑いながら、おどけるようにアイラを指差しながら、叫び続ける。時折近づいて、突き飛ばしながらそれでも罵声を仁王立ちで浴びさせた。
「ご、ごめんなさい」
小さい声だった。 しかし、ミノリ以外の無音の空間で、そのか細い声は異様に大きく聴こえた。 ようやく、アイラが声を発したのだ。両手を胸で握り締め、足から震えながらアイラは座り込んだままだ。先程ミノリに突き飛ばされ、誰にも助けてもらえなかったので地面に倒れこんだままだった。 唇は紫、潤んだ大きな瞳からは、今にも涙が零れそうだ。 擦れた声で笑いながら、ミノリは視線をアイラに移す。
「謝ってすむ問題じゃないだろう!? 見てるだろ!? 自分の目にこの惨状が映ってるんだろ!? どうやってアンタ、マロー姫を連れ戻すんだ? 色仕掛けも通用しない相手に、どうやって取り込んで返して貰うってんだ!? 居ても、何の役にも立たないだろ、アンタ!」 「ご、ごめんなさい!」
喉が嗄れる程の、アイラの謝罪。 瞬間、ミノリが我に返った。悲鳴に近い声を聞いて、ようやく焦点のあったミノリ。 言いたい放題愚弄して、気が晴れたのか。思わず口を押さえて、自分が今何を言ったのか思い出し、冷汗を流す。腹は、すっきりと爽快だった。黒いものを全て吐き出したのだから、本人に。 アイラに視線を合わせようとしたが、アイラは自分を見ていなかった。 いや、正確には瞳を見ていない。ミノリの腹部を見ているようだった。 気まずい空気が流れる、民も誰も、二人の間に入れない。 アイラは、考えていた。ミノリに言われてたことを考えていた。 自分が、最初に目覚めた。近くに居る二人を、なんとか助けたいと思った。だから必死で看病した。
……何の為に?
アイラは、そっと、立ち上がる。 一瞬引き攣ったミノリに、ゆっくりと近づいた。右脚を、引き摺っていた。先程突き飛ばされて足首を捻ってしまったのだ。 だが、ジリジリと後退しているミノリの腹部へと恐る恐る両手を差し出す。無言で何かを念じているようにミノリは見えたが、微動だするどころか、声を出せずにアイラを見下ろしたままだ。謝罪の言葉など、出てこない。
「確かに、そうなんです」
アイラの声を、聴いていた。気落ちした、初めて聞く失意の声だ。 腹部に暖かい何かが、じんわりと流れ込んでくる感覚にミノリは安堵し強張っていた身体を解く。 何と暖かな、心を癒す温感だったろう。ほっとして俯いたら、アイラと視線が交差した。赤面し視線を逸らしたミノリに、アイラは寂しそうに笑うと両手を下げる。
「大丈夫、です。私、一人で出来ますから。あの、トモハラが目覚めたら、マローは連れ帰るので待っていてくださいと、伝言お願いできますか? とても、彼は心配していると思います」
言うなり、アイラはミノリの傍を離れ眠っているトモハラへ歩き出した。 口を開きかけたが、ただ、目でアイラを追うだけ。それしか、ミノリには出来なかった。 寝息を立てているトモハラを確認し、アイラは優しく微笑するとミノリにしたのと同じ様にトモハラの両の瞳へ両手を掲げる。乾ききった唇を、舌で湿らす。 震える手で、皆に気付かれないように言葉を発した。 ぽたり。 トモハラの頬に、涙。アイラの瞳から、涙。震えながら、泣きながら、懸命に何かを呟いている。
「いにしえの、ひかりを。 とおきとおき、なつかしきばしょから。 いま、このばしょへ。 あたたかな、ひかりをわけあたえたまえ。 かいきせよ、イノチ。 やわらかであたたかなひかりは、ココに。 全身全霊をかけて、召喚するは膨大な光の破片」
言い終えた途端に、閃光が走った。 悲鳴を上げた民達だが、やがてそれは満ち足りて安らかな気持ちになり、皆力を抜くと地面に座り込む。 柔らかな春の日差しを、軽やかな小鳥の囀りを聞きながら親しい者達と談笑しつつ、転寝している時のような。 そんな、安らかな空気と光だった。 アイラはそっと涙を腕で拭い、鼻をすすると慌てるように立ち上がった。トモハルを見下ろす、静かに寝息を立てたままだ。 満足そうに微笑みそのまま小走りでミノリの脇を通り抜け、一瞬、立ち止まって躊躇してから振り返る。 大きく唾を飲み込んだ、ミノリが見ても判る程、身体が痙攣するように震えていた。初めて見る表情だった、痛々しく、心底怯えたようなそんな表情にキリリ、と胸が痛むミノリ。 そうなのだ、こんな表情のアイラにしたのは、他でもない自分なのだとミノリは気付いた。
「迷惑かけてごめんなさい! 大丈夫です、私、一人で出来ますから! 今まで、ありがとうございました」
アイラは、笑った。泣いていた、瞳から涙を零しながら。それでも、笑っていた。 弾かれたようにミノリはようやく腕を伸ばしたが、直様アイラは踵を返すとデズデモーナに颯爽と跨る。痛む足を懸命にばねにして、唇から血が出るほど噛締めて馬に飛び乗った。 デズデモーナから何かを下ろし、近くに居た者に何か告げるとそのまま振り返ることなく駆け出した。 デズデモーナはアイラを乗せて、躊躇することなく走り去る。
「あ、アイラ姫っ」
ようやく名を呼んだミノリだが、声はアイラに届くことなく。呆然とその場に立ち尽くすミノリ。 眩暈と混乱、そして羞恥心でミノリは額に手を置きながら、ふらふらと足元をよろつかせる。誰も、何も声をかけない。ミノリの暴言は、民とて吐いた。気持ちはわかるが、何も言えない。 アイラが落としていった物を観に行く為に、人々の視線を無視して進むミノリ。よろめきながら、進んだ先には林檎に茸、水の入った瓢箪。そして薬草と思われる多数の草や、自然薯が。
「皆で、食べてください、って……言ってました」
アイラの言葉を受け取った女が、虚ろにそう呟く。地面に、結構な量だ。一人で、探してきて集めたのだろう。 薬草を視線に入れる。弾かれたようにミノリは思わず自分の腹部に手を置き、傷を確認した。
「ないっ」
思い出したのだ、自分の傷を。確かに、衣服は槍で貫かれて破れていた。 だが、傷口が全くない。痛みすら、今はない。 震えながら力が抜け、地面に倒れこむように膝をつくミノリ。 トモハラが、両目を剣で斬られた。自分は、槍で腹部を貫かれた。 その後、記憶が全くない。当たり前か、死んだと思っていた。 が、こうして生きている。何故、どうやって? 慌ててミノリは立ち上がると、トモハラへと駆け寄って両目を確認する。 確かに、傷はうっすらとそこにあるが。”うっすら”だ。
「起きろ! 起きてくれ、トモハラ! 俺達、どうして生きてるんだ!?」
焦燥感でトモハラを揺さ振るが、慌てて誰かに止められた。怪我人は、そっとしておくんだ、と必死に止められる。そう、怪我人だ。自分とて瀕死の重傷だったはずだ。 荒い呼吸で我武者羅に暴れ、再び林檎の許へと。 頭を、押さえる。自分達が倒れた後、どうなったのか。 ミノリは、自分達を誰が助けたのかを問うようにその場で絶叫した。一人しか、いないのに。 判っていたが、認めたくなくて。認めたら、自分の愚行が、圧し掛かる。 真実は、一つしかない。あの状況下でそれが可能な人物は自分が愛して敬った、あの姫だ。今し方愚弄し突き飛ばし、騎士とは思えない行動をとってしまった、あの姫。
「城の付近に、二人とも寝かされていて。近くには人工的なスプーンやらがあったから、てっきり二人でどうにか生き延びていたのだと……」
二人を見つけてここまで運んでくれた人が、ようやく青褪めて名乗り出てくれた。一番最初に、アイラへと石を投げつけた男だった。 ミノリは震える手で、必死に林檎を掴むと齧る。食べた記憶がある。 自分達が倒れている間、誰かが何かを食べさせてくれていた気がする、護っていてくれた気がする。甲斐甲斐しく、林檎を細かく切り刻み、スプーンで運び、水を飲ませ。暖かなスープも啜らせてくれた気がする。それは、気ではない。 アイラでしか、有り得ない。おぼろげに見えたのは、アイラが満足そうに水を飲み、微笑んだ姿だった。気高い姫君は不眠不休だったろう、騎士など捨てて、逃亡すればよかったのに。 ミノリは、乾いた声で笑った。林檎を齧りながら、情けなくて笑った。 判っていた、自分がどれだけアイラに付き添い尊敬していたかを。知っていた、姫でありながら皆に優しくしていたその姿を。だから、惹かれた。 一人きりでも臆せずに、皆を連れて必死に逃げようとしていたアイラを。怪我を気遣い、傷の手当に薬湯を用意してくれたことを。 何より、自分が囮になるからと前に進み出てくれたことを。それを制して自分が出たのに、何故。
「はは……。どうして俺、あんな事言ったんだっけ」
貴女に守護を。穢されない様に、守護を。 ミノリは、狂ったように泣き叫んだ。誰も近寄れずに、遠巻きに皆が見ている中で一人、大声で泣き喚いた。
「俺か。俺が穢すんだ。俺から、アイラ姫を護らないといけなかったんだ。俺は、騎士になってはいけなかったんだ!」
大きな緑の瞳が、大粒の涙を零しそうになりながら。可憐な桃色だったはずの小さな唇は、恐怖で青褪めそれでも必死で謝罪の言葉を紡ぎ。その瞳の先の人物は。 まさか、自分だとは。 もし、自分がアイラ姫の様に皆を先導出来たら堂々としていられただろうか。このように、皆が絶望の縁に立たされている中で自分が動いていたら、自信を持ってアイラ姫へと戻り、再び忠誠を誓い、護れただろうか。
「俺が、強ければよかったのに。勇者みたく……自信を持っていられたら……」
何をするにも機敏なアイラ、自分の憧れ。隣に立つには、誇る自分がなければ。羨望の眼差しで見る反面、抱くのは己劣等感。 ミノリは、何度も何度も先程のアイラ姫の表情を思い出していた。忘れたくとも、忘れられるわけがない。ベルガーに刺された腹の傷の痛みなど、もう、忘れた。身が引きちぎられる痛みなのは、アイラのあの表情だ。最後まで自分を信じ助けてくれたアイラを、最悪の形で裏切ってしまった。 地面の土をひっかきながら、ミノリは不甲斐無さに泣き叫ぶ。 爪がはがれて、民にもういいから、と。およしよ、と涙混じりに止められてもミノリはやめることが出来ない。地面に額を擦り付けて、泣き喚いた。
「追えない! また追って、会って、俺が、俺がアイラ姫をっ」
馬はまだ居る。何頭かは無事で、街の修復作業に準じているから、今なら追えば、間に合う。 しかし、ミノリには追えなかった。自信がない。お供する勇気がない。足手纏いになりそうで、また傷つけそうで。 何より。
「会わせる顔が、ないんだ」
ミノリは、皆に抱き起こされてトモハラの隣に再び寝かされた。精神安定の為にと、薬師が薬湯を調合した。が、そんなもの効く筈がない。 もう、起きられなくても良い。このまま、死を迎えても構わない。 自分の役目は、あの日、あの城で終わったのだ。姫を庇い、猛々しく敵の前に立ちはだかった、騎士らしい最後。 それが、ミノリの一生だと。誇らしい最期であったと。 ミノリは、そのまま数日起き上がることはなかった。 もはや、抜け殻だった。一人の騎士がこの日、敬愛する姫に助けられつつも、自ら、命を放棄した。
|
|