デズデモーナはアイラを乗せてゆったりと森の中を歩いてたが、不意に歩みを止めるとアイラを背から下ろす。 それはとても器用で、まるで大人の男性がアイラを背負い、そして優しく下ろしたように見えた。 下ろされた場所は、柔らかな苔が一面に生えている森の最深部である。老木ながら、溢れる威厳に満ちたその神聖なる場所の前に、五十センチほどだが湧き水があった。木々に遮断されながらも辿り着いた陽射しが、キラキラと水面に反射していた。 楽園、と人は呼ぶだろう光景である。
「ん」
アイラは触れている地面の感触に気付き、薄っすらと瞳を開くと身体を恐る恐る動かす。まず、仰向けになる。目に飛び込んできた心配そうに覗き込んでいるデズデモーナに薄く笑うと、右手を延ばして鼻を撫でた。 助けに来てくれたのだろう、信頼関係を築けていたのだ。満足そうにアイラは愛おしくデズデモーナを撫でる。気持ち良さそうに、鼻を鳴らして尻尾を振っていた。
「ここ、何処?」
左の肘に力を籠めて、上半身を起き上がらせる。初めて見る光景だ、唖然と手入れされたような完璧な美しさの情景に目を奪われた。 擦り寄ってきたデズデモーナの頭を両手で抱き締めながら、隣の湧き水に視線を移す。あまりに、甘くて美味しそうな水があった。 思わず喉を鳴らせば、風が大きく吹いて木を揺らす。
――お飲みなさい、お帰りなさい。
脳内に、突如として響いた声に驚き、アイラは小さく悲鳴を上げると周囲を見渡した。 敵意のない声で、どこか、懐かしい老人の声だ。アイラはギュ、とデズデモーナを震えながら抱き締めていたが、周囲には何の気配もない。 デズデモーナが先に水を飲み始める、アイラは暫し水面に映る眩い光を見ていたが、満足そうに飲み終えたデズデモーナに微笑すると、自分も両手で水を掬い、口へと運んだ。 空から降った恵みの雨が、森林の恩恵に抱かれて地中を潜り抜け、風ある地表に顔を出し、光を受けた水。ぶるり、と鳥肌が立つ冷たさとそして、洗練された美味さ。 アイラは、乾ききっていた喉を、無我夢中で潤していた。高温の場所に曝されていれば、体内とて水分が当然失われる。飲んでもまだ、足りない。 静かに、森の中で水音だけが響き渡っている。口を拭い、ようやく満足そうに顔をあげたアイラ。 余裕が出来たので、周囲に目を走らせる。不意に見れば近くの木に、何やら実がなっていた。必死に、図鑑を思い描いた。
「林檎」
呟くとデズデモーナと共に木へと移動し、手を伸ばしてみるが届かない。だが、デズデモーナの背に立ち上がり、林檎を数個木から戴いた。短かったドレスの裾をさらに破いて、簡易な風呂敷にして持ち帰ることにする。 見れば、他にも実がなっていた。
「瓢箪」
思い出したアイラは、懸命に瓢箪をもぎ取った。中を掻き出し、洗えば簡易な水筒になると以前本で読んだことがあったのだ。 アイラは持てるだけ瓢箪をもぎ取り、丁寧に水筒を作る。先を歯で噛み千切り、中を懸命に指でかき出した。水をありったけ詰め込むと雄大に佇んでいる老木に深く頭を垂れ、恩恵の森に感謝の祈りを捧げると、デズデモーナと歩き出す。 さわさわさわ。 風が、老木たちの木の葉を揺らしていた。『いってらっしゃい、頑張りなさい……』アイラに、そう告げるように優しく優しく、揺らしていた。
デズデモーナがミノリとトモハラの居場所へ案内してくれたので、直様かけつけたアイラは、二人の口元に先程の水を流し込んだ。 懸命に飲もうとする二人、喉が当然乾燥しているので冷ややかな液体を感じ、無心で唇を動かしたのである。安堵の溜息を吐くと持ってきた瓢箪の水を、全て二人に与え、林檎を包みから出す。 一つ齧りながら、アイラは再びデズデモーナと歩き出した。デズデモーナも林檎を齧っている。誰が手入れしていたのか、非常に甘くて瑞々しい林檎だった。生命力が沸いてくるような、そんな気さえして来る。勇気付けられたアイラは、身体は重いがそれでもトモハラとミノリを思い必死に身体に鞭打った。 向かう先は、炎から逃れている城の一部。何か、薬草や食料など残っていないか。 アイラは城内の地図を必死に脳裏に描いて、食料を探す。食料と確かになるべく飼われていた、鳥の焼かれた姿を発見した。焦げてはいない、裁けば食べられそうだ。 何でも良い、二人に何かを食べさせたい。 アイラは森でキノコを見つけ、木の実や果実を採る。欠けた剣の先で懸命に木を彫りスプーンを作る、おわんを作る。 いつ、二人が起きても良いように。 城の火が耐えないので夜でも暖かいのは幸いだった、アイラは寝る間も惜しんで二人を看病する。 顔も全身も煤と泥まみれだ、拭えば余計に汚れが広がる。 それでも、そのままだった。緑の髪が、灰を被って白くなろうとも、二人の傍から離れようとはしなかった。 焦げていたが毛布を確保したアイラは、早速地面に敷いて二人を改めて寝かせた。汗を拭いながら、何度も城に潜入し探索する。 三日後、鍋を見つけ自分でスープを作ることを憶えたアイラは、材料調達の為に再び森へと入った。食べられる草木は、図鑑で覚えていた。香辛料とて調理場から見つけられた。 身体の回復に必要なのは、栄養素の高い消化によいものを沢山食べ、清潔な場所で眠りにつくこと。アイラは、二人の為に全ての知恵を振り絞り、毎晩夜遅くまで活動を止めない。だが、流石に森は夜に足を踏み入れられず、太陽が昇ってからこうして入っていく。 森でアイラが彷徨っている間に、街の火事は沈下しつつあり、善良なる人々が生存者を探し城までやってきていた。 当然、ミノリとトモハラの姿を見つけ、慌てて荷台に二人を乗せるとそのまま街へと戻って行く。 信じられないことに、傷が完治していたミノリは周囲の騒がしさに怪訝に瞳を開いた。
「あぁ、起きたかい!」 「さぁさ、これを」
数日身体を動かさなかったので、感覚が衰えていたミノリは背を支えてもらい、スプーンで口までスープを運んでもらう。 数時間前も、誰かがこうしてくれていたような気がしたが、朦朧としている意識では解らなかった。 隣のトモハラはまだ、眠っていた。だから、ミノリも再び眠る。 やがて、目を醒ます。夢なのか、現実なのかわからないが身体が軋むので現実だろう。生きている事に、まず驚いた。何故か検討がつかないが、トモハラも生きている。 混乱する頭の中で、頭痛が始まり思わず苦痛に顔を歪めた。蹲り、震えながら呼吸を整える。今になって、戦いの恐怖がミノリの精神を脅かしたのだ。簡易なテントの中、薄暗い空間で、ミノリは一人、泣く。怖かった、悔しかった、本当は足が竦んでいた。皆が、死んだ、殺された。異常な光景の中で、興奮状態に陥りあの場は恐怖すら、感じる暇がなかったのだろう。 惨状を思いだし嘔吐したが、駆けつけた街人に助けられ精神を落ち着かせる。ようやくミノリは立ち上がった。近所の人達と再会し、聞きたくなかった情報まで聞かされた。 二人の王子率いる兵士達が、城下町にも押し入り火を放ち、破壊の限りを尽くしていった事を。馬車に放り混まれた、黒の麗しの姫君の事を。しかし、誰も緑の髪であるアイラの姿は見ていないらしいことを。 ミノリは不審に思った、確かにアイラは連れ去られないだろうが、何処へ行ったのか。まだ城にいるのか、死んでしまったのか。 そして。
「ミノリ! あんた、騎士だったんだろ!? マロー様をお助けに行くのかい?」 「あの子が奪われたら、ラファーガはもうおしまいじゃて」 「呪いの姫君は、何処に。この災いも嬉々として呼び入れたのじゃろうか」 「あぁ! 呪いの姫君のせいで!」
そう、全ての不満がアイラへと向けられていることを知ったのだった。不幸な目に合った人間は、多くが不幸を誰かのせいにしたくなる。 自己防衛の手段だ、気を紛らわせ、自分を少しでも助けようと他者を見下し蔑む。幸いこの国には、その標的となる人物がいた。 ミノリは。 まさか、自分はその呪いの姫君付きの騎士であったとは言えなかった。言う精神も、まだ完全に戻っていなかったこともあるが。 言えなかったのだ、言い出せなかった。 あまりに酷いこの惨状に、自分もどうして良いか解らず。そして一向に瞳を開かないトモハラが、心底心配で。 多大な被害に見舞われた街を散策しながら、皆がミノリに声をかける。「マロー姫様を助けて」と。 一人残った、騎士。周囲から圧し掛かる期待は”繁栄の妹姫の救出”。 たった一人で、どうしろと。勇者でもないのに、どう戦えと。 ミノリは、人々の声を聞きながら、徐々に苛立ちを憶えていた。自分達は何もしないで、他人に責任を押し付ける。そもそも、マローの警護についていたのはトモハラであって、ミノリではない。そう告げようとしたが、となると、ミノリは今非難を浴びているアイラの騎士だったということになる。 すれば、自分も非難の対象になるかもしれない。街では、皆が口を揃えてアイラを罵っていた、追い詰められ、食事もままならず、苛立ちも収まらず、皆がアイラの呪いのせいだと叫んでいた。 その中で、とてもアイラの擁護など出来るわけがない。それほどの気力をミノリは持ち合わせていなかった。冷めた瞳で、街を見つめる。呪縛の様に、繰り返されるマローの救出と、アイラへの暴言。 いつしか、ミノリも思い始めていた。最初の”元凶”を。
「大変よ! ミノリ、あんたのトコの家族が死体で見つかったって!」 「えぇ!?」
救助活動は続けられていた。 本調子でないミノリは、ほとんど眠って数時間過ごしていたが、人同士助け合わねばと街の修復に取り掛かっている人々も無論存在する。転寝していたミノリに、衝撃の事実が突きつけられた。 遺体は、街の端に集められ神父が日々祈りに追われていた。ミノリは無我夢中でそこへと走り、家族の亡骸を確認したのだ。顔が多少火傷していたが間違いなく、家族だ。 焼かれたのではなく、建物に下敷きになり、押し潰されたのだろう。懸命にもがいて、顔はほぼ無事だったので確認できた。身体の損傷が激しく、思わず嘔吐するミノリ。神父が肩を支えてくれるが、ミノリは泣く事しかできない。騎士になったことを喜んでくれた家族、仕送りもしていたので多少楽になったと手紙が何通も城に届いていた。結局、最期にあったのはいつだったのか。 茫然自失で、トモハラの隣へと戻ると、すとん、と腰を下ろし。発狂しそうな勢いで、声にならない叫び声を上げた。 一人で、どうしたら良いのか。親友は起きない、家族は死んだ。 ミノリは”何故助かったのか”を、考える余裕がなかった。腹部の傷を、忘れていた。 ただ、この惨劇の中心で、騎士だからと皆に期待の視線を投げかけられ。自分が瀕死の傷を負うまで護っていた、大事なものが思い出せなかった。 思うことは、騎士にならなければよかった、それだけだった。そうしたら、家族と共に颯爽と街を抜け出し、何処か別の小さな村で暮らす事が出来たかもしれない。 いや、むしろ全ての元凶はやはり”呪いの姫君”。彼女さえ、いなければ街はこんなことになっていない。 自分が護るべく、騎士になった筈の、眩しい存在は、目的は。不安定な精神状態のミノリには、思い出せなかった。忘れ去ろうとした、消し去ろうとした。全ての思い出を、あの城の中での甘い恋心を黒のインクで塗り潰した。 頭を掻き毟りながら、地面を蹴り上げていれば。 一つの、ざわめき。広がったかと思えば、小さく、小さく。 ミノリは、無造作に顔を上げた。 そして、見た。聴いた。
「ミノリ! あぁ良かった、無事でしたか!」
馬に乗って、緑の髪の娘が目の前に。嬉しそうに、声をかけてきた。 緑の髪。元気そうな、アイラの姿。確かに身なりは汚いが、上等そうな布に、そこらの娘にはない、気品。誰しもが解ったのである。 ”呪いの姉姫”だと。
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