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作品名:朱(あか)と黒 作者:杉原詩音

最終回   1
   朱(あか)と黒
             杉原詩音




 時勢というものは、人の縁(えにし)をときとして不可思議な具合に結びつけるものらしい。
 文政七年(一八二四)の春の終わりのことである。



 書斎の障子を開け放ち、男がひとり羽織袴のまま、ごろりと横になっていた。戸外には眩しい光が降りそそぎ、狭い庭に植えられた南天の葉が爽やかな風に揺れている。夏へと移ろうこの季節、空の蒼さが濃くなってゆくにつれ、未だひんやりとした冷気の残る屋内は、ほの暗さを増す。遠眼鏡を逆さに覗いたように明るい庭は小さく現実味がなく、意識が遊離してゆけば薄暗い書斎はさながら洞窟の中、別棟にいる塾生たちのざわめきが潮騒のように聞こえる。
(ここは海だ……)
 精神(こころ)も身体もゆらゆらと寄せては返す波にまかせて漂う。そこは郷里安芸(広島)の海岸か、または以前に旅した天草であろうか。
 その男、頼山陽(らいさんよう)はこの上なく寛いでいた。だが、此処は彼の自宅ではない。一つ年下の友人、篠崎小竹の大坂斉藤町の邸(いえ)である。山陽自身は鴨川の近く、京は東三本木丸太町に居を構え、朱子学を講じていた。その彼が今ここに逗留しているのは郷里から出てくる老母を迎えるためである。
(四十五のこの歳になっても、母と会うのがこれほど待ち遠しいとは……)
 彼の心は躍っていた。
 儒学の徳目からいえば、老いた母親に孝養を尽くすのは当然のことであろうが、山陽の場合、いささか陰影が違ってくる。父から『大豚』と呼ばれ、廃嫡までされた彼にとって、母の静子は唯一の理解者であり、家庭内での同盟者であった。



 山陽の父、頼春水は広島藩の儒官である。昌平黌(しょうへいこう)の三博士と並び称されるほどの学識の持ち主でありながら、一方で寛政期に行われた『異学の禁』の蔭の立役者として学者仲間では知られていた。
 孔子によって唱えられた儒学は宋代になり、朱熹の出現で宋学として大成する。彼の名をとってそれは朱子学と呼ばれるが、明代になるとその教条的な考えを批判する立場から陽明学が起った。やがてそれらは禅僧によって日本に持ち込まれる。そして戦乱が収まり、国を治める理論的な裏づけが必要となったとき、徳川幕府は儒学者林羅山を採用し、彼の教える朱子学を奨励したのだった。

 けれどもそれは強制というほどではなく、むしろ緩やかなもので、寛永期以降に生まれた、孔孟の時代に復古すべきと説く古学派や、経世済民を実践しようとする折衷学派などとも互いに刺激しあいながら存在していた。しかし春水は自らの信奉する学問を世の中心に据えたいと願い、先ず自分が教える広島で藩学と為し、そして次に林家の家学にすぎなかった朱子学を幕府の正学にしようと密かに動いた。それはまた、拝金主義を助長した田沼時代を経て、ゆるんだ士風を粛清しようとする老中松平定信の思惑とも一致して、『異学の禁』は実行された。それより昌平黌では朱子学以外の講義を禁じ、官吏登用試験は朱子学をもってすることとなった。ただこれは幕府の学問所に限っての禁令であり、各藩に及ぶものではなかった。しかし大藩はともかく、幕府を怖れたほとんどの藩ではそれに倣って朱子学を藩校の学問とした。

 こうなると当然、在野の学者達からは「学問に異説が生まれ、学派が多くなることは、学問の進歩であり、思想が豊かになることである」と反対論が湧き起こる。けれども、その矢面に立ったのは春水が昌平坂学問所に送り込んだ友人の三博士、古賀精里、尾籐二州、柴野栗山であった。自らの願いを実現しながら、自身は表に出ず、春水は安芸浅野家の藩儒であり続けた。
 彼はこのように老獪、細心な学者であった。さらにその日常は謹厳を極め、食卓においても菜に箸をつける順番が決まっていたという。その長男として生まれた山陽も幼いころから才覚を現し、周囲の期待を一身に集めていた。しかし、彼自身についていえば偉大で威圧的な父の下、その青年期に精神の自由を求めて足掻き続けたのだった。

 十八歳のとき江戸の昌平黌へ遊学した際には父の元から離れた気楽さから酒色に溺れて放蕩者の烙印を押され、二十一歳のときには鬱屈のあまり発作的ともいうべき脱藩をし、本来なら追い討ちに遭うところを藩公の温情によって幽室の仕置きを受けることになった。
 この監禁生活は四年に及び、春水が山陽を廃嫡することによってやがて解かれることになる。しかし後に、そんな不始末を仕出かした彼を引き受けてくれた父の友人、菅茶山の塾を飛び出すようにして上洛し今に至っている。町儒者暮らしをしながら地方に出掛けて潤筆料を稼ぐという生活に春水は眉を顰めたが、山陽には合っているらしく若い頃の狂騒も収まり、京の儒者中島椋隠が「書は貫名(ぬきな)、詩は山陽、金は弼(篠崎小竹)、経書は猪飼、粋は文吉(椋隠)」と狂歌にしたように、詩文の大家として世間に名を知られるようになっていた。ただ、京摂の儒学者には過去の放蕩と恩師を裏切ったということから評判は最悪で、初めに受け入れてくれたのは父の友人の息子たち、大坂の篠崎小竹と京の蘭医小石元瑞だけであった。

 篠崎小竹は山陽が二十代のころから手がけている史書『日本外史』の草稿を一読しただけで彼の才を認め、その保護者となった。さらに近頃、山陽の一番弟子である後藤松陰を婿としたばかりだったので、此処は山陽が最も気の許せる家なのであった。



 やがて、女中が近づいてくる足音がした。
(到着されたか)
 と、山陽は半身を起こし、居住まいを正して書見をしているふりをした。
 ところが、女中が持ってきたのは母が着いたという報せではなく、一通の手紙であった。
(またどこぞの者が、交際を求めてきたのであろう。それにしても、よく此処に儂がいるとわかったものだ)
 と、彼はそれをはらりと広げた。達筆の挨拶文が綴ってあり、詩が一篇添えてあった。

春暁城中春睡多
遶檐燕雀聲虚哢
非上高樓撞巨鐘
桑楡日暮猶昏夢

(春の暁、大坂のえせ儒者たちは眠りをまどろみ、軒端を飛び交う小人どものさえずりは虚しいばかり。今、高楼に登り警鐘をつかねば、夕暮れにも目覚めないであろう……とは。鳴らす鐘を二人で荷おうとでもいうのであろうか。何とも意気高いことだ)
 山陽は呆れた。
 差出人は大塩子起なる未知の人物であった。
(はて、何者か。儒学者にこのような者がいたであろうか)
 山陽は詩文だけでなく、書画にも巧みでその絵は佐賀の鍋島閑叟公が求めるほどであった。学問、文芸の両面で頼山陽の名は広く知られ、大納言の日野資愛公が宴に招いたこともある。そのため、彼と誼(よしみ)を結ぼうとする者も多かった。しかし山陽は一切を謝絶し、どうしても会わなければならない場合以外、面会しなかった。このときも返書をしたためるだけで済ませようと思っていたが、相手がまるでわからない。そこへちょうど今日の講義を終えた小竹がやってきたので聞いてみた。
「大塩……」
 山陽の前に、ふわりと坐った小竹はその穏やかな相貌を崩して即答した。
「それは、平八郎どのであろう。子起は字(あざな)だよ」
 と、山陽から渡された手紙を一読して苦笑する。
「この燕雀のうちには儂も入っておるのだろうさ。悪いお人ではないのだが、気が鋭すぎるのだ。世の不正不義を憎むこと甚だしい方でな。それで山陽どのの詩に共鳴したのだろう」
「儂の詩文はそんなに悲憤慷慨しているかね」
「しているさ。少なくとも、嫋嫋(なよなよ)とはしていないね」
 山陽の詩は歴史を題材とした雄渾なものが多い。
「まあしかし、気持ちは解る。いつも罪人や訴え事を見聞きし、ぬらぬらとした日和見と保身ばかりの役人が朋輩となれば、怒りが込み上げてもこよう。平八郎どのは東町奉行所の与力なのだよ」
 与力と聞いて、山陽は酸っぱい顔をした。彼は痩身で、その容貌は頬骨が高く、眉がせばまっていて眼光が鋭い。弟子に対するときはそれが威厳とも感じられるのだが、いまは口をへの字に曲げていかにも嫌そうなのが小竹にはおかしかった。
(天才の中に幼子がいる。これが山陽どのの良いところでもあり、悪いところでもあるな)    
 と、小竹は思ったが、山陽の方はといえば、監禁生活の経験からお上というものが苦手であったし、何よりも自分の自由を束縛する存在が嫌いだった。
「……平八郎どのは以前、儂の義父に句読を習っておったのよ。定町廻りのお役に着いていたのだが、四年前に高井山城守さまが奉行に着任されてから重用され、今は目安役並びに吟味役を仰せつかって忙しい身の方だ。西町与力の内山彦次郎どのとは『東の大塩、西の内山』と評判になるほどの能吏でな。しかしあの方も、天下の頼山陽に詩を送るとなると、こうも青二才になってしまうのかね」
「いくつなのだ」
「もう三十二になっていよう。義父の許に通っているときから詩文中心の当世風の学問に満足できなかったようで、独学で陽明学を学んでな、近頃では大したものだ、私塾を開くと聞いている」
「変わっておるな。朱子学全盛のこのご時世に、陽明学とは」
「まったく、儂など家学の古学から朱子学にわざわざ習い直したものを」
 と、小竹は、にっと笑った。

 彼は山陽と同じく、学派にあまりこだわらない。それどころか、五倫の道を失態なく実践しさえすれば、儒者として一巻の書を著すことなくとも、売文のために詩文を作ろうと揮毫を売ろうともかまわないと考えていた。そのため京摂の学者内では一番の長者で、「儒中の鴻池」とも呼ばれていた。また、彼の主催する梅花社はこのときもっとも盛んな時期であり、入塾者は毎年五十人を数えた。儒者らしい著作もせず、金を儲けている篠崎小竹は大塩のいう、えせ儒者の最たるものであろう。塾の束修料、諸祝儀に加え、揮毫からの収入が年五百金もあり、小竹自身実務能力に優れていた。しかしそれだけで、彼の周りに人が集まったのではない。小竹は大変な世話好きであった。その上、性格が穏健で敵がいないということもあって、京摂以西の学芸の世界では頭領的な存在となっていた。梅花社からは優秀な学者が輩出し、誰もが自分の詩文集に彼の序を欲しがった。この小竹の恩恵を最も受けたのは山陽である。彼が庇ってくれなかったら、山陽は学者仲間からもっと手厳しい批判を受け、はたして今のような生活が出来たかわからない。

「……ともあれ、山陽どのが今まで逢ったことのない異色の人物であることは確かだな。しかし、母御は気に入られたようだが」
「母が」
 山陽の目の色が変わった。
「面識があるとは知らなかった……」
 ふむ、と小竹は手紙を返しながら続ける。
「昨年のことだ。儂がひきあわせた」
「聞いておらぬぞ」
「梅(ばいし)どのの歌の師匠、香川景樹どのなど幾人かを招いて宴を開いたことがあったろう」
「……そういえば」
「その席におったのよ。平八郎どのは自分が正しいと思ったことは決して曲げぬ。袖の下も受け取らない。このために朋輩の与力たちと折り合いがよくないのだが、婦人にはそのようなところが却って好ましく映るのであろうな」
 静子は大塩をよほど気に入ったのか、後日、
『うらおもて 無ければ人に あほがれて 時に扇の 風ぞ涼けき』
 という和歌を贈っている。
「ほう、そうなのか……」
 最愛の母が好ましく思っていると聞いて、山陽はその大塩なる人物に興味が湧いてきた。
「なれば浅からぬ縁(えにし)、答礼に出向いた方がよかろうなあ」
「そうさな」
 友の急な変わりようを見て、小竹は曖昧に笑っている。



 やがて昼もいくぶんか過ぎたころに、山陽の母静子が供の者と一緒に篠崎邸へ到着した。足を漱ぎ、居間に通されて彼女が上座に坐ると、小竹が道中の様子などを聞き、そのあと山陽が大塩の話を切り出した。
 大坂の儒医飯岡義斎の長女に生まれた静子は華やかで社交的な婦人であった。しかし家計の切り盛りも上手く、江戸と広島を往復することの多かった春水の留守をよくまもって子供たちの教育にも心を砕いた。その一方で和歌の才も表し、梅?という号をもつ歌人でもあった。八年前に夫を亡くしてからはさらに若々しくなり、六十を越した今では風雅に遊ぶ日々を送っている。その彼女が息子の話を聴き終わるや、巫女が神託を告げるように云った。
「お往きなさい」
 静子が微笑む。
「信ずるに足るお方です、久太郎どの」
 と、彼女は息子を通称で呼んだ。
 山陽が勢いにつられて、こくりと頷く。
(多くの若者の師となり、名を襄(のぼる)、字(あざな)は子成、号は山陽という立派な学者になろうとも、母の前ではひとりの子に過ぎないのだなあ)
 と、小竹は変に感心しながら困惑の表情を浮かべた。

   *

 翌日の午後、山陽は小竹の案内で天満へと出掛けたのだった。
 薄曇りの空の下、通りではうっすらと額に汗した飛脚が走り、荷駄や人々が忙しく行き交っている。山陽は友人の蘭医小石元端から最近、近海に異国の船が出没していることを聞いていた。だが、この街中にいるとそれも幻のように現実味がない。諸国から米をはじめとした様々な品物が流れ込んでくる大坂の繁栄は翳りなく、船場の鴻池や三井呉服店の賑わいを見るにつけ、大塩がいう警鐘など撞かなくとも、このまま太平の世にまどろんでいて良いような気がする。
(しかし、思いがけなく目を覚まされたのは儂の方だったな……)
 山陽は思った。だからこうして、初めは会う気もなかった相手の家へ向かっている。
 やがて彼らは難波橋を渡って天満へ入った。与力同心が多く住むそこは、船場とうってかわって塀や生垣の続く静かな地域であった。
「平八郎どのは通常、八つ時(午後二時)頃に奉行所から戻られるので、もはや在宅されているであろう」
 小竹が山陽に云った。
 大塩平八郎の邸は天満橋筋長柄町を東へ入って角から二軒目、南側の四軒屋敷だった。淀川が近い。
 玄関で訪れを告げ、案内を乞うと、若党が出てきて書斎へ通してくれた。上がるとき、玄関脇を見ると書架があった。舶来の書物が数多く積んである。
(大変な読書家であり、研鑽を怠らぬ者のようだ。学問をせぬ地役人にしては珍しい)
 と、山陽が思う一方で、小竹は案じていた。
(山陽どのは昔ほどではないが、今でも浮名を流し、その衣きせぬ物言いに、江戸はともかく京摂の儒者たちから敬遠されておる。人の噂や詩文の印象から平八郎どのは山陽どのを敬慕したのであろうが、はたして実物を前にして、どのように思われるか)
 現在の山陽は権威に屈しない剛直な学者であると世間に伝えられているが、友人の小竹から見ると軽薄なところもあるし抜け目がない。それを堅物の大塩がどう見るか。
(期待が大きいほど、それが外れたときの落胆も大きい。よもや喧嘩になぞなるまいな)
 と、やはり自身も堅物と評判の小竹は考えていた。
 そして書斎で二人が席に着くと、山陽は周囲をくるりと見渡した。質素ながら硯箱や文鎮などの四宝文房も趣味がよく、此処は居心地がよい。と、振り返って壁の掛け軸へ目をやったとき、彼は動けなくなった。
「これは……趙之璧(ちょうしへき)の『霜渚宿雁図』か」
「ああ、真筆のようだな」
 小竹も首を曲げてそちらを見た。
「寒々とした風情が感じ取れる見事なものだ。さすがに雁を得意とした之璧……」
 と応えながら、小竹は、はっとした。
(これでは、猫に木天蓼(またたび)ではないか)
 頼山陽の書画の好みは決まっていて、書は倪元?(げいげんろ)、屠長卿(とちょうけい)、画においては盛茂曄(せいもよう)、そしてこの趙之璧であった。みな明の人で、山陽はすでに十余幅を愛蔵している。
(欲しくなったな)
 小竹はすぐに察した。
 悪い癖だ、
「これはいかんぞ……」
 と、戒めようとしたときに、大塩平八郎が入ってきた。
 黒の羽織に縞の袴を着け、面長で色白な人物であった。
「ご無礼を顧みず差し上げた私の書簡のため、わざわざ拙宅にまでおいでくださるとは恐縮です。しかしこれを機に先生のお話をうかがえるとは真にもって喜ばしいかぎりです」
 と、礼を述べる大塩は詩の激しさとは違い、物腰穏やかな好人物に思えた。けれども切れ長の目がときおり眼光鋭くきらめくところは、やはり与力というべきか。
(勘の良い平八郎どのは、我らの心底などすぐに見抜いてしまうだろう)
 何も悪い事はしていないのに小竹の背には冷や汗が流れた。しかし山陽は上機嫌だ。運ばれてきた酒を勧められ、口に含むと感嘆の声を上げた。
「や、これは剣菱ではありませぬか。私は伊丹の酒を好みますが、これが最も良いと思うのです」
「それは良かった。お好みに合って安堵いたしました」
 と、もてなす大塩も如才ない。
 風雅を語る同好の士の前では、特に自分の敵でない人物には大塩は実に細やかな気遣いを見せる。
(このように皆に物腰柔らかであれば、朋輩と揉めることもなかろうに)
 小竹は大塩のためにも残念に思った。しかし、そうしているうちにも山陽と大塩の話は弾み、明代の書画の品評から趙之璧の画へ話題が移った。そして掛け軸を見ながら、山陽が切り出す。
「今日、私は得がたい人物を知己としました。末長くお付き合い願いたいものです。そこで、といってはなんですが、あの画を無心いたしたい。趙之璧は私も幾つか所蔵しております。けれども、これほどのものはありません。よろしければ、ぜひに……」
「いやそれは……」
 さすがの大塩も驚いている。
「我が家伝来の家宝でありますれば」
「山陽どの無理を云ってはなりませんぞ」
「……やはり駄目ですか」
 小竹から見て、山陽は意外にもあっさりと引き下がり、話題を転じた。そのうちに頃合いを見計らった小竹が促すと、山陽も素直に応じたので、二人はまだ陽のあるうちに大塩邸を辞した。
 ほろ酔い機嫌の山陽は来たときとは変わり、足取りも軽く先へゆく。その後ろを小竹は青い顔をして歩いている。
(諍うどころか、この水と油ほども違う両人が、思いのほか気が合ったというのはどういうことだろう)
「取り越し苦労だったのか」
 二人の間で気を回しすぎ、珍しく悪酔いをしてしまったらしい。
 儂は知らんぞ、と呟いたら、山陽が振り返った。
「酒は適量というものを知らねば」
 と、云う。
 誰のせいだ、と応じたいのを堪えて、小竹は「大丈夫だ」と、手を振った。
 友の性格を熟知していたものの、このときばかりは小面憎く思えた。世の中は、気ままをした方が勝ちらしい。

   *

 けれども、事はそれで終わったわけではなかった。やはり『宿雁図』を諦め切れなかった山陽はそれ以後、母の静子を連れ、立て続けに二度も大塩邸を訪問したのだった。
 山陽の家政は慎ましく、一銭たりとも妄りに消費しなかったが、母をもてなす時は別であった。静子が上洛すると、吉野、奈良の景勝を訪ね、伊勢参宮、琵琶湖の遊覧などもした。あるときは母の求めに応じて島原の妓楼に上がり、芸妓舞妓を呼び集め、贅沢のかぎりを尽くした。連れて行った女中がこれを見て驚き、勘定の心配をしたほどであったが、山陽は気にもかけなかった。今回も静子が京に滞在している間は様々な場所を案内し、母を喜ばせていたのだが、大塩の家を二度めに訪れたときには、彼女も息子の意図を察した。
 応対に困惑している大塩と、何事かを期待し、遠まわしな話し方をする息子を見比べて想う。
(疳症はまだ治っておりませぬか……)
 山陽は子供の頃、疳の虫がひどくひきつけるほどであった。青年になっても、自分の意思が通らないと狂態を演じた。静子にはその過去の残像ばかりがあるので、このときも息子の想いを通してやりたいと、大塩に云った。
「わたくしはまだ舟遊びというものをしたことがありません。ですから次の機会には、どうでしょう。大塩様もご一緒に……」
「それは良い」
 と、山陽もこのときとばかり強く勧めたので、平八郎も断りきれず、次にも会うことを約したのだった。しかし大塩の都合がつかず、その約束が果たされたのは八月のことであった。

   *

 簾を上げた屋根船が淀川を下ってゆく。陽差しは夏の暑さを残していたが、川面を渡る風は秋のものだった。静子がいるので和歌の話題が中心で、伊勢を旅したときのことなどを彼女は大塩に話して聞かせた。役目柄、大坂近郊より遠くにいったことのない大塩は興味深そうにそれに耳を傾けている。山陽はといえば、ひとりで杯を傾けながら、ときに相槌をうち、一方で頭の中は趙之璧の画のことでいっぱいだった。
 船はさらに川を下っていき、左の岸辺には町家が並び、右に緑の多い武家屋敷が見えるあたりへ差し掛かったとき、大塩が船頭に何事か云いつけた。
「ああ、もう天満なのか……」
 山陽が呟く。
「少々、お待ちを」
 船が岸に着くと、大塩はそう云って下りた。そしてしばらくの後に、細長い包みを抱えて戻ってきた。
「それは……」
「『霜渚宿雁図』です。どうか、お収めください」
「まことに……まことにこれを」
 突然のことで、山陽は呆然とした。
「先生にお持ちいただいたほうが、この画にとっても良い事でありましょう。今日は実に楽しい時を過ごさせていただきました。では……」
 と、大塩は静子にも礼をして船を下りていった。
 船頭が再び艪を操る。
「大塩どの……」
 動き出した船の中から岸辺を見ると、大塩平八郎はまだそこに佇んでいる。
「ほんに良かったですねえ」
 静子は小さな子供へ云うようにして微笑んだ。それは幼い頃の記憶にある若い母の姿そのままだったので、山陽はせつないような気持ちが湧き起こってきた。そして、包みを解き、箱の中から画を取り出して広げてみた。
 それは確かに、大塩邸にあった『霜渚宿雁図』だった。
(高価であるだけではない、家宝であると云っていたではないか。それをなんとも気前のよいことだ……)
 欲しかったのは間違いない。しかし、容易にくれるはずもないと思っていた。それが急に自分のものとなった。嬉しいには違いないが、それと同時に清々しい感動がある。
「なんと心映えの見事な漢(おとこ)か」
 山陽の中の駄々っ子が影を潜め、歴史家としての顔が表に出てくる。
(あれは、何者か……)
 このとき初めて大塩子起という人物が山陽の視界に入ってきた。
(儂はこの画を眺めるたびに、今日のことを思い出すだろう)
 作者の趙子璧は古(いにしえ)を嗜んだ奇人のため時勢と合わず、その胸中にある想いを詩歌に発し、超然高潔としてその生涯を送った人物である。山陽には何故か二人が重なって見えた。
 そして彼は後日、七言古詩を送って感謝の意を表した。

   *

 こうして二人は親しくなり、山陽が大坂へ出てくると、まず天満の大塩邸を訪れるのが常となった。
 そして三年後の文政十年(一八二七)、閏六月十五日の早朝に山陽はまた、ふらりとやってきた。
「これは先生……」
 玄関先に出てきた若党が困ったような顔をした。蝉の鳴き声に混じって、奥からは門人たちの書物を読む声がする。
「待たせてもらってよいかな」
 と、山陽は構わず上がり込んだ。
 書斎に通され、手拭で汗を拭いているとそこに大塩がやってきた。
「これは、申し訳ない」
 そう云いながら破顔する。
「いやもう、不躾かと思いながらも子起どのと話がしたくてこんな早くに来てしまいましたよ」
 山陽も答えながら、互いの近況など語り合っているうちに、家人が出仕の刻限であると告げに来た。
「せっかくお越しいただいたのに、今から奉行所へ行かねばなりませぬ」
 大塩は、いかにも残念そうな顔をした。知己との語らいを何よりも楽しみにしていた彼は、躊躇したようではあったが、重責を負った身で欠勤は出来ない。四月に大塩は東町奉行高井山城守の命により切支丹の一味を捕縛し、現在、吟味から証拠固めまですべてを取り仕切っている最中であった。
「もし宜しければ、某(それがし)が帰宅するまでお待ち願いたいのですが……」
「ああ、お構いなく。待たせていただいて良いのでしたら、いつまでも此処にいますよ」
 と、山陽はのんびりとしている。
「でしたら、書架の本でも読んでいてください。なるべく早く戻りますから」
 そう云い置いて、大塩は別室で継裃(つぎかみしも)に着替え、鋏箱持(はさみばこもち)や槍持(やりもち)を連れて名残惜しげに門を出てゆく。後に随(したが)う若党は目を丸くしたままだった。彼の主の所有する書物は多かったが、容易に人には貸さなかった。けれども、頼山陽は別らしい。
 書斎を出た山陽は玄関へ向かい、西側の壁一面に本が詰まっている棚の中から数冊を抜き出して、再び奥へ向かった。右へ行ったところには大塩が開いている洗心洞という塾、左が講堂、書斎、勝手向きとなっている。五百坪ほどの屋敷地で住居を開放して私塾を開いていたため、いかにも手狭である。大塩は朝七ツ時(午前四時頃)に起きて一度講義をし、役所から戻ってすぐに一回、そのあと二、三度塾生たちに教えるという日常を送っていた。門弟は与力が多く、他は近隣の庄屋名主の子弟であった。しかし今は朝の講義が終わり、師である大塩も出仕した後でもあるので、邸内は閑散としている。
 山陽は案内も乞わずに書斎に入り込み、本を机の上へ置くと、どっかと坐った。
 いささか、あてが外れた気分だった。
「大塩どのには、お役目があるのだったな……」
 話したいことがあったので高揚した気持ちのまま来てしまった。だが改めて、自由(きまま)が出来る身分の己(おのれ)との違いを思う。



 この年の、やはり四月に山陽の身辺にも変化があった。彼は二十年以上も推敲を繰り返し書き続けた『日本外史』をついに脱稿したのだった。
 全二十二巻にもなるその歴史書は、源平の時代から徳川の世までを司馬遷の『史記』の中の「世家」を手本に、漢文体でつづった通史である。名文で読みやすく、人物中心の記述のため、読者にとっては面白い内容なのだが、一方でその底流にあるのは朱子学の大義名分論に基づく天皇親政の理想であり、政治(まつりごと)を行うものが根本である人民を蔑(ないがし)ろにしたとき、その政権は瓦解するであろうとの暗示だった。これは、下手をすると幕府の咎めを受けるかもしれない内容である。
そのため筆禍を怖れた彼は『日本外史』を世に出すにあたって慎重に動いた。山陽は幕府の大官に認めさせ、その推薦の辞をもらえば安心であると考えて、官学の総帥、大学頭の林述齋と、前の老中松平定信に狙いを定め、友人のつてを使って『外史』を二人の手元に届けた。山陽が心血を注いで完成させた『外史』は彼らに好意的に迎え入れられ、松平定信からは白銀二十枚と定信自撰の『集古十種』二凾、そして「この書物は中庸を得て穏当であり、正しい理(ことわり)にあっている」との題辞(感想文)までもらうことが出来た。これはつい先月末のことである。『日本外史』によって世に立とうとしていた山陽は今、大仕事をやり終えた後の開放感に浸っていた。

 そこで大塩に会いたいと思い立ち、来てみれば、友とはすれ違ってしまった。手持ち無沙汰なまま、ぼんやりと山陽は蝉時雨を聞いている。
(それにしても、大塩どのは実務の才があり、また学問の才もあるという他に有り難き人物なのだなあ……)
 山陽は考えていた。付き合っていくうちに周囲から大塩について様々なことが耳に入ってくる。



 大塩平八郎は幼い頃に父母を相次いで亡くし、祖父によって育てられた。十四歳のとき、家督を継いで与力見習いとなり、定町廻役に就く。市中を回り、盗賊や乱暴者を捕らえる一方、金品を公然と要求する役人たちや賄賂によって罪を逃れようとする町人の姿を目にする。そんな毎日の中で、彼は大塩家の家譜を読み、祖先が輝かしい武功を立てていたことを知って自らの境遇を恥じた。与力という職は二百石取り、付け届けなどの収入を加えると五百石以上の実収があったが、罪人を扱うとのことで格が低く、御目見(おめみえ)以下の身分だった。日々接するのは罪人か小役人、耳にするのは栄達の話、税金の話、泣き言、わめきごとばかりである。感受性の強い時期に世間の裏をいやというほど見聞きし、大塩は鬱屈した。そんなときに彼は陽明学に出会った。
 孔子が人々に説いた教えは漢代に国教となると経典の字句の解釈を主とした訓古学に堕してしまった。宋の時代の朱熹は仏教や道教の影響を受けながら孔子の教えを新しく展開する。そこで朱熹は、物事の本質を「知る」ということを重視した。だが、明代の王陽明は「知る」だけでなく「実践」しなくてはならないと説く。そこで大塩は、陽明学を学ぶことによって、賎職と疎ましく思っていた自分の職業を、誠を尽くして勤めることこそが人としての道である、と覚ったのだった。



(子起どのは、日々職務に励むことで自らの学問を深めていったのだ。しかし、この世はひとり正しいことをすれば反感をかう。あのような裏表のない男は、さぞ生きにくかろうなあ)
 山陽は思った。
 蝉がさかんに鳴いている。じわりと暑さが増したようだ。女中が煮花をもってやってきても、彼はぼんやりと返事をしただけだった。
 そのうちに、山陽はなにげなく壁に目をやった。趙之璧の画(え)があったところに今は何もない。
 と突然、詩想が湧いた。
 山陽は大塩の机に向かい、硯を引っ張り出すと墨をすり始めた。そして磨ったばかりの墨を含ませた筆を手にし、壁に一篇の詩を書きつけた。

 丁亥閏六月十五日、訪大塩君子起、君謝客而上衙、作此贈之。

上衙治盗賊
帰家督生徒
獰卒候門取採決
左塾猶聞喧?唔
家中不納鬻獄銭
唯有??万巻書
自恨不暇仔細読
五更已起理案牘
知君学推王文成
方寸良知自昭霊
八面応鼓有余勇
号君当呼小陽明
吾来侵晨及未出
交談未半戒鞭韈
留我恣抽満架帙
坐聞蝉声在簷?
功労拙逸不足異
但恐?折傷利器
祈君善刀時蔵之
留詩在壁君且視

 彼はこの七言古詩で云う。
『さて解った。君の学問は王文成先生に力を入れていて、一寸四方の胸中の「良知」によっておのずから精神が光り輝き、八方から敵が鼓を鳴らして攻め寄せても、それに応戦してなおかつ勇気はあり余るので、私は君を名づけて小陽明と呼びたいのだ』と。
 大塩平八郎は激務をこなしながらも身体は頑健なほうでなく、肺疾を患っていた。胃痛もあり、心配した山陽が友人の蘭医小石元瑞に診てもらったことがある。すると肺疾はともかく、胃の方は職場での軋轢と二重生活の疲れからくるものであった。
(それでも正しく公平に職務を行おうとする子起どのには、本当に頭が下がる)
 山陽は思い、良友の篠崎小竹を「腐儒」に引っ掛け「富儒」と陰で云うような口の悪いこの男が、年下の大塩には「小陽明」と最大の賛辞を送っている。しかし一方、警告も忘れない。
『……君は有能だから働かされ、私は無能だからのんびりしていられるというのは、怪しむに足りぬ。ただ心配なのは、やりすぎて欠けたり折れたり、鋭い刃物のような君自身を傷つけてしまうことだ。君に祈る、時には刀を手入れしてしまい込み給え。この詩を壁に書き残しておくから、まずは君、よく見てくれよ』
 彼は大塩を案じていた。
(このままでは、子起どのは天寿をまっとう出来まい)
 それは、山陽の歴史家としての予感だった。



 やがて昼過ぎに帰ってきた大塩は壁に書き付けられた詩を見て、その厳しい顔に笑みを浮かべた。そして二人は痛飲したのであった。
 このとき大塩は山陽が『日本外史』を脱稿したと知り、西町奉行の新見伊賀守の求めにかこつけてその一部を欲しがった。山陽が写本を贈ると、大塩は月山という大坂の名工が作った九寸余りの愛刀をお礼として持ってきた。そこで山陽も七言古詩を示し、その中で「一片の素心 両(ふたつ)ながら雪の如し。君は吾が心を観 吾は君が心を佩ぶ。百歳 虫くわず また 折れざらん」と、ともに志が同じことを述べ、交友が不滅であることを願った。

   *

 このように、ふたりの友情は打算のない純粋なものであった。けれども、一度だけ山陽は大塩の力を借りたことがある。




 八月に、山陽は師である菅茶山の病篤しと聞いて備後福山の神辺へと急いだ。しかしその臨終に間に合わず、遺稿の整理を山陽に託すという遺言だけが残されていた。
 それまでの漢詩は唐詩の模倣ばかりであったのだが、茶山はそれを個性的に、また実際の生活を詠うように変えた先覚者である。彼は山陽に自らが主催する廉塾を継がせようとしたが、山陽の方はその話が進む前に京へ出奔してしまった。そのような経緯もあり、茶山はこの弟子に複雑な感情を抱いていた。山陽が大塩から『宿雁図』を贈られた際、感謝の意を表した詩を見て、「宛モ涎流三尺ヲ見ル」と酷評し、山陽の詩を「お嬢さんの詩(女郎詩)」とからかっていたが、その才は認めていた。そして弟子である山陽の詩は茶山よりさらに進んで、漢詩の骨格、韻律を踏まえながらも日本的感覚をそこに持ち込んで成功したものであった。これは一方で「和習」、日本人くさいという否定的な評価にもつながるのだが、わかりやすく同時に芸術な味わい深いその詩は広く人々に受け入れられていった。

 ともあれ様々な葛藤があったにせよ山陽は茶山を師として尊び、恩義を感じていた。遺言で遺稿の整理を託され、彼は師に赦されたような気がしたのだった。
 そのとき山陽は形見に茶山の杖を貰い受けてきた。これは他人から見れば何の変哲もない竹の杖であったろうが、茶山が旅する際には常に携えていた思い出深いもので、九つの節のある竹を布袋で包み、『九節杖』と銘が彫ってあった。山陽は師の形見として大切にし、また自らも遠出をするとき持ち歩いていた。しかし、九月に姫路の仁寿山学問所へ出講した帰り、尼崎で暴風雨に遭い、川舟の乗り場あたりで紛失してしまったのだった。
(なんということを……)
 自分の粗忽さが悔やまれたが、どうしようもない。
 そのとき山陽は大塩の役目柄を思い起こした。
(しかし、いかに与力といえども、海まで流されてしまったかもしれぬ一本の杖を探し出すことなど出来まいが)
 と、思いつつ、その足で天満の大塩邸へ寄り、主が不在だったので家人に伝言を頼んで京へと戻っていった。

 その三日後、茶山の杖は山陽のもとへ届けられた。
『老竹幸ヒニ未ダ化シテ竜トナラズ、猶ホ潜ミテ某水ノ辺リニ在リタリ』
 と、大塩の手紙が添えてある。
「いかにも子起どのらしい」
 文面を見て、山陽は笑みを浮かべた。けれども同時に役人としての大塩の凄みを改めて知った。彼はたった一本の杖のために下役を動かし、川舟の往来に網を張り、その杖を持っていた者を挙げたのだった。
(……とてもかなわぬ)
 その実務の才も律儀さも友を想う心も何もかも。
 根っからの自由人で、世の中の権威とか組織とか自分を縛ろうとするあらゆるものが嫌いな山陽には、逆立ちしても出来そうにない。
(だが、儂の戦場(いくさば)は書斎にある)
 と、彼は思い返し、再び机に向かった。

   *

 この年、大塩らが捕縛した切支丹まがいの邪教の一味は文政十二年(一八二九)、十二月に仕置が申し渡される。初の切支丹の処刑ということもあって、この一件により大塩平八郎の名は全国に喧伝された。さらに同じ年三月に奸吏弓削新左衛門糺弾事件、翌天保元年(一八三0)には破戒僧遠島事件を手がけ、能吏として大塩は三都に知られることとなる。けれども破戒僧の一件が一段落した七月、彼は突然三十八歳という若さで隠居してしまう。上司の東町奉行高井山城守が老齢のため職を辞する意向であるのを知ると、それに先んじて辞職を願い出、許されたのだった。このとき大塩は、目付役筆頭、地方役筆頭、盗賊役筆頭、唐物取締役筆頭、諸御用調役などを兼役しており、与力として権勢の頂点にのぼりつめていた。そのため、大塩の辞職については様々な噂が乱れ飛び、惜しむ声もあったが、山陽は友の致仕をむしろ喜んだ。
(聡明な子起どのは、自分の処遇が高井山城守さま在ってのことだとよく知っている。また正邪をはっきりさせ、清廉であろうとする子起どのはあれほどの手腕を見せながらも、朋輩に疎まれ、奉行所では針の筵に坐るような日々を送っていると聞く。ただでさえ忙しいのに、病弱の身で与力と儒学者の二重生活はさぞ辛かったであろう。しかしこれで洗心洞での生活に専念することができるな……)

 このころ大塩は陽明学の研究も進み、学問の世界では昌平坂学問所の学頭佐藤一斎と並び称されるほどの学者となっていた。
 そして九月に大塩が尾張にある廟墓に旅立つと、山陽は『大塩子起の尾張に適(ゆ)くを送るの序』という送辞を書いて餞とした。
 文中で山陽は大坂行政の腐敗を大胆に述べ、それを正そうとする平八郎を讃えた。この文章は舌鋒鋭く役人の不正をあるがままに描いているので、後に自らの著書にこれを跋文に代えて載せようとした大塩も幕府を憚ってその大部分を伏字にしたほどであった。さらに山陽は続けて云う。
『いま権勢に恋々とせず自分を重用した上司と進退を共にし、読書生活に入ったことは、大塩に対して、あまりにも鋭すぎ折れ易きを戒めてきた私にとって喜ばしいことである』と。
(これで子起どのは政(まつりごと)を行う連中の『虎の尾』を踏むことなく学者として静かな日々を送るであろう)
 彼はそう思い、安堵したのだった。
 市井で普通に暮らす場合、緩やかに感じられる徳川の世も、思想の分野ではあまりにも堅牢で、天に網が広げられているかのように息苦しい。山陽は自分の著した『日本外史』を世に出すとき、いかに筆禍に遭わないかを考え、腐心した。時の権力が不都合なもの、刃向うものに対して、どれほど酷い仕打ちを為すか、歴史を学ぶ者としてよく解っていた。そして憂国の情を詩文で詠いながらも、何も出来ない己(おのれ)を熟知していたが、一方、大塩はどうであろうか。その性向から、きっと我が身を顧みず諫言をし、古(いにしえ)の忠臣のように一族もろとも殺されるだろう。
 山陽はその悲惨な状況をまざまざと脳裏に思い描くことが出来た。しかし危険は、大塩が致仕することによって遠くに去った。これは友のためにも実に嬉しいことである。

   *

 二年後、天保三年(一八三二)の五月、頼山陽はまたもや淀川を船で下って大塩に会いにやって来た。このときまで彼はさまざまな修史を手がけ、すでに脱稿していた『日本楽府』を上木し、『通議』を完成させ、『日本政記』を延喜式まで書き進めていた。また、昌平坂学問所の教授に推す話もきており、彼の周囲には順風が吹いていた。対する大塩も念願だった学究生活に入って各地の史跡を旅し、招かれて講義に出向くなど穏やかな日常を送っていた。
 大塩邸の前に立つと、懐かしさが込み上げてくる。
(ここを訪れるのも五年ぶりになるのだなあ……)
 書簡のやりとりはあったものの、直接会うのは久しぶりである。邸の佇まいは少しも変わっていなかった。大塩が職を辞したのちは、養子の格之助が後を継いで出仕している。
 玄関で顔なじみの若党の応対を受け、いつものように書斎に通された。以前、山陽が壁に書き記した詩が、そのまま残っている。蔵書がさらに増え、講堂から聞こえる門人たちの声も前より賑やかだ。
 そうして待っていると午前の講義を終えた大塩がやってきた。
「人が増えたようで、何よりですな」
 挨拶を交わした後、山陽がずけりと云った。
「いや、生業(なりわい)でやっているわけではないので入塾者の多寡は気にするものではありませんが、学ぼうとする者が多いのは嬉しいものです」
 繁盛して良いねと云われてこう答えた場合、普通の者なら謙遜だが、大塩は本気でそう想っているのだと山陽には解っている。
(よい顔をしているな)
 大塩の眉間にあった鬱屈とした暗さがなくなり、厳しいながらも今は教育者としての表情が見える。
(子起どのの実務の才が揮える場がなくなったとはいえ、これでよかったのだ……)
 山陽は晴れやかな喜びを感じた。
 やがてふたりは酒を酌み交わしながら、書画や詩、互いの学問のことなど語り合った。遊び仲間の文人画家田能村竹田や小石元瑞となら酒席となれば戯れ歌や悪口を云い合ったりするのだが、その山陽も大塩に対するときは何故か行儀が良く風雅な話題となる。けれども彼らとは別の意味で本音で話せる大塩を前にすると、また酒が心地よく飲めるのだった。
 そのとき大塩は自らが書いた『古本大学刮目』七巻と、『洗心洞箚記』の草稿を見せた。『刮目』は陽明学の立場からの『大学』の注釈書であり、『箚記』は自分自身の語録や王陽明をはじめとする中国の儒者の言葉を解説したものである。
 山陽はこの二つを時間が経つのも忘れて読み進めた。
(子起どのはよくぞここまで独学で理解を深めたものだ)
 と、学派が違っていながらも彼は驚嘆した。
しかしすべてを読み終えることが出来ず、いつの間にか日暮れとなってしまった。
 辺りの暗さで我に返り、顔を上げた山陽に大塩が云う。
「……いかがでしょうか。宜しければこれに」
 と、『刮目』を指し示す。
「序文を書いていただきたいのですが」
「勿論だ」
 山陽は即答した。
「私なぞでよければ序を寄せさせて貰いましょう。『洗心洞箚記』のほうは出版されたら、評を書いても良いですかな」
「願ってもないことです」
 平八郎の顔が明るくなった。
『古本大学刮目』は大塩の忌憚ない意見を述べていてやや過激な部分があり、世に出すには有力者の庇護が必要だった。大塩はそれを山陽に期待した。一方の山陽は世間の評価と違い、自分にそれほどの力があるとは思っていなかったが、幕府から咎めを受けることがあるかもしれないと承知の上で快諾したのだった。
 やがて大塩邸を辞した山陽は天満橋の方へ向かって歩いていく。背には門のあたりに佇んで見送っている大塩の視線を感じていたが、一度も振り返らなかった。そして角を曲がったとき、立ち止まって空を見上げた。
 黄昏時の薄青い天空、赤い西日が射す中を蝙蝠が飛んでいる。その向こうに、猫の爪のような細い月が出ていた。
 涙が溢れる。
「子起どのは変わらぬなあ」
 著作を読んでよく分かった。官吏を辞めても大塩の不正を憎む心は強く、いつかそれは身の破滅を招くに違いない。
(子起どのは死ぬだろう……)
 それは確信だった。歳が一回りも離れているせいか、その必要もないだろうに大塩には世話を焼いたり心配したりしてしまう。
「意気相逢う処、厚情歳月移る。すでに知る 雲樹の念(ともをおもうこころ)……」
 いつもなら腹案も作らず、すらすらと出てくる詩が、今は想いばかりが先走って胸が塞がり、続かない。
「終句が出てこぬ……」
 それに、出来が良いとはいえなかった。
 山陽は涙を拳で拭うと肩を落とし、疲れた旅人のような足取りで再び歩き始めた。
「……そうだ、今夜は斉藤町に泊まるとしよう」
 独り言を云いながら、彼は篠崎小竹の邸へ足を向けた。

   *

 その性向から大塩の方が自分より先に逝くと思い込んでいた山陽なのだが、これより一月余り後の六月十二日に突然喀血した。彼を診た医師が、
「これは労咳であって、回復の見込みはない」
 と、正直に告げた。このころの労咳、すなわち肺結核は不治の病である。
(三年ほど前からの胸痛はこれのせいであったか)
 山陽は驚いたが、心は不思議なほど静まっている。
 別の医師は、「まだ希望がないわけではない。養生してみては」と勧めた。そのとき、母静子の顔が浮かんだ。
(儂には妹がひとりと弟がふたりいたが、弟は二人とも夭折し、成人して他家に嫁いだ妹は六年前に病死した。今や母にとってこの世にある子は儂ひとり。それがこのようなことになって病み衰え死んでいく様を目の当たりにするのは、さぞ辛く悲しいことであろう……)
 山陽は答えた。
「死生は天命だから従うほかあるまい。だが私には老母がいる。それに志業とする著述はまだ完成していない。だからたとえ治る見込みがなくとも療養に努めてみようと思う。私は謹んで薬を服用し、そのかたわら死に処する計画を為そう」
 彼は治療を友人の小石元瑞に委ねた。
 それからの山陽は記述途中であった『日本政記』の執筆に昼夜を問わず専念し、広島の母には心配しないように、「軽い病気に罹っているが、快方に向かっている」と手紙を送った。しかし秋になると病状はさらに進み、山陽も覚悟を決めた。
(もはや余命いくばくもあるまい。だが、これを完成させねば、あの世へ逝けぬ)
 彼は弱った身体に鞭打つように眼鏡をかけて原稿を書き、校正に余念がなかった。門人の大雅堂義亮が肖像画を描くことを請うて許され、三点描いた内一点を選んで自賛二首を書き入れようとしたのだが、もはや筆を執ることもかなわず、傍らにいた篠崎小竹が代筆するほどであった。

(……これが儂か)
 出来上がった肖像画を見たとき、山陽はその悽愴な容貌に愕然とした。彼は気迫のみで生き永らえていた。
 やがて九月二十三日、門人に『日本政記』の稿本及び跋の写本を命じ、さらに校正を進めていたが、暮れ六つ頃に左右を顧み、
「しばらく静かにしていてくれまいか。儂は少し眠りたい」
 と、云って筆を置き、眼鏡をかけたまま瞑目した。享年五十三であった。
 その頃大塩は山陽が病に倒れたと聞いて見舞いのために京へきていた。ところが、ちょうどその日に山陽は亡くなったのだった。
 大塩が頼家に着いたとき、家人が慌しく行き来している。訳を聞くと、主が逝去したと云う。
(なんということだ……)
 大塩は呆然とその場に立ち竦んだ。しかしすぐに我に返ると、中へ入り、死者のために大哭してその場を辞した。
 彼は星明りだけをたよりに夜道を歩いている。身体を動かしていなければ、悲しみで押し潰されてしまいそうだった。
 山陽と過ごしたときが、夢のように幻のように次々と思い出される。
(過日、我が家を来訪されたのは、永訣を悟ってのことであったのか)
 そんな想いばかりが頭の中をめぐっている。
(詩文と歴史を講ずる人と、官吏の出で陽明学を教えるものと、世間から見ればふたりとも相容れないように思えるだろうが、互いに行き来して絶えることがなかった。私は山陽どのの胆力と見識が好きであったが、山陽どのが私のどういうところを認めて交際してくれているのか、初めは分からなかった。しかし、尾張に赴く際に贈ってくれた『送序』によってそれは氷解した)
 このとき、大塩は込み上げてきた想いを、奥歯を噛み締めて殺した。
(……私を知ってくれるもので、頼山陽に及ぶものはない。それは即ち私の学問の真価を知ってくれるものなのだ)
 最大の理解者を失った大塩の虚脱感は大きく、眼前に広がる闇はさらに深い。

   *

 頼山陽の死後、どういうわけか世情も変転する。
 数年前からその予兆があったにせよ翌天保四年(一八三三)は、出羽大洪水、奥羽流作、関東大風雨と災害が相次ぎ、飢饉の年となった。大坂でも不穏な空気が広がったが、西町奉行矢部駿河守の奔走によってその年は何とか乗り切った。ところが天保七年(一八三六)、大雨と冷夏で稲ばかりか青物までが畑から姿を消し、奥州南部領では餓死者も出始めた。甲斐、三河では藩兵が出動するほどの一揆も起きる。全国の米が集まる大坂でも市井では、行き倒れ餓死する者が出、その遺体を跨いで歩くという惨状であった。

 けれども前回、大坂の飢饉対策に尽力した矢部駿河守は江戸へ去り、後任が決まっていなかった。東町奉行の大久保讃岐守は不祥事によって罷免され、その後に老中水野忠邦の実弟、跡部山城守が就くことに決まる。九月に大坂へやってきて行政を一人で担うことになった跡部山城守だが、その目は飢えに苦しむ市井の人々へはいかず、幕閣の方ばかり向いていた。そして、「江戸へ米を回送させよ」との幕命が下ると西町与力の内山彦次郎に指図して、江戸廻米を断行する。

 大坂市中の米の確保のため禁令を出して日々の飯米を買い出す人々を罰する一方、江戸廻米に奔走する奉行所、餓死者貧民を助けることもしないで相変わらず豪奢な生活を続ける富商たち、そんな不正腐敗を見、大塩は烈しい怒りを感じた。そして彼は、救民のため諸役人とそれに結びついた奸商を誅伐し、その隠匿した金銀銭、蔵屋敷米を飢えた人々に分配すべく挙兵を決意したのだった。

 翌天保八年(一八三七)二月、大塩はあれほど大切にしていた自分の蔵書を売却し、施行した。それは一軒あたり金一朱ずつ一万軒にもなった。そして、
「四海こんきういたし候はば天禄ながくたたん、小人に国家をおさめしめば災害並至と、昔の聖人深く……」
 と、始まる檄文を各地にまいた。これは二千字を超え、幕府の失政を糾弾して仁政の実現を求めたものであった。
 それと前後して彼は十九日に挙兵する。しかし密告などもあり、半日で鎮圧されてしまった。仲間が捕縛され、自殺していく中で、大塩自身はその四十日後の三月二十六日、油掛町美吉屋方で捕吏に囲まれ、養子格之助と共に自刃して果てた。

 この大塩の乱によって大坂三郷は五分の一が焼け、度重なる飢餓とこの大火で、市中は地獄絵図と化した。
 学者たちはこの大塩の行為に冷淡であった。彼を揶揄する落し文があちこちに張られ、ばら撒かれたりした。中の一つは、
「学者嘘つくもと大ほら、御陰類焼泣く泣く、良知良能油断ならず、高慢我慢夢中になり、久太(山陽)追従死恥を残し、捨蔵(佐藤一斎)讃め過ぎ文通を悔る、ああ、同心衆馬鹿らしき、とんと命も捨てて功なし」
 と、大塩の思想や山陽たちとの交友を嘲笑し、表に救民を掲げながらもかえって人々の苦痛が増したことを誹謗している。
 知人である篠崎小竹は「狂妄」以外何ものでもないと辛辣であったが、大塩の檄文を受け取ったことを咎められ、閉門を申しつけられている。
 けれども一方で、「大塩死せず」の噂が絶えることはなかった。
 焼け出された大坂の人々は、恨みもせず、
「たとい銀百枚が千枚になろうとて、大塩さんを訴人されようものか」
 と、口々に云い、その徳を慕った。

   *

 こうして大塩平八郎は叛逆者として死んだ。けれどもその行為は世直しの機運となり、維新へとつながってゆく。一方、山陽の『日本外史』は彼の死後十一年、大塩が斃れて七年の後に川越藩が版元になって世に出されると、爆発的に売れ、倒幕を志すものたちの精神的な支柱となっていく。
 後世を意識したわけではあるまいが、泉下でまみえた彼らは、はたして何を語らったであろうか。
                             終
 引用文献
 「大塩平八郎」宮城公子著 朝日新聞社
 「江戸詩人選集」第八巻 岩波書店


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