「眼鏡」
眼鏡を掛けていない時、恐しく文章が書けることがある。想像力が湧いて来て、小さな作業も、億劫にならないのだ。時に、思い切って、文章を書ける。眼鏡を掛けていると、途端に、書くことが億劫になって、筆が走らなくなったり、細々した事まで考え過ぎて、変な文章構成になることがある。
眼鏡を掛けない術を、敢えて身に付けたのは、世間で、他人の顔を見ないで済ませる為であった。自分の性格、性質が、感じ易い故だと思った。 他人の気持ちを思いやり過ぎて、あることないこと考えて、「今私が言った、した、言動によって、他人の気持ちはこの様な有様でいるに違いない」と、勝手に決めて、その所謂、妄想によって、自分を窮地に追い込む事が多かった。他人が良い気持ちで居ても、悪い気持ちで居ても、どちらにせよ、自分は裏切られた気持ちを憶えてしまうのだ。 相手が良い気持ちで居ても、次の瞬間、裏切られはしないか、と不安を憶え、悪い気持ちで居れば、歴然、私の心は、その時に、傷付く。裏切られる、ということにより、自分が傷付くことが怖かったのだ。その脆弱(よわ)さ故に微妙な他人の表情をみないようにする為、或る時から眼鏡を外して、世間で他人と関わるようになった。 もう憶えていないが、眼鏡を外して他人と喋った時、上手くコミュニケーションが取れて、他人の気持ちを、微妙な表情により、読み取らせる煩わしさから、解放させられた気分でも味わった事があったのだろう。表情を読み取って、自分の言動を決める、或いは、自分の心を傷付ける、という様な煩わしさから、解放された自分をみたのだ。楽だったのだろう。
自分の世界のみで、物事を決める事が出来た。話が出来た。何か、一貫性のようなものを持つことが出来た。 ものかきとは、自分の世界のみを、この世に映し出すものなのか。だとすれば、眼鏡を掛けていない自分の方が、私は自分の世界に埋没し易い故、向いているのではないか。しかし、現在、この眼鏡掛けていない時の自分のキャパシティ(capacity)に、狭さを憶え、嫌になった。他人の内に生きる上で、そう思い、感じたことである。まるで、その所謂、マイ・ブームが、廃れた様であった。 このような経験を踏まえて、今、眼鏡を掛けている時と、掛けていない時と、どちらを自分の内でのメイン・マン(自分)にしようか、迷っているのだ。あの、若い時、どちらの自分が、どういうものを書いていたのか、知りたい処である。眼鏡を掛けていない時の自分が、昔ゼミナールの先生に褒められたレポート(論文?)を書いていたとすれば、残念である。眼鏡を掛けた時の自分を、自分の内での主流としたいのだ。
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