20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:『片腕』 作者:桃色吐息

最終回   無題
川端康成『片腕』


「私」にとって、幸福であるとする、「私」の想像による世界と、その想像を生む「私」の主観が効果を発揮する事が出来ないとする、「娘」の想像による世界、云わば、「未知の世界」とに、自然により区別される事に対する「『私』の諦めを受容する物」というものについて、より刺激的であるとする視覚により認める事が出来る「片腕」をその象徴として、表現しているように考える。この「片腕」とは、「私」の「娘」に対する想像と、「娘」から「私」に対する、「私」にとっては「娘」が持つ未知の思惑から発送される「娘」の情報とを受容して、互いの感動に対して影響させる、媒体であるとする。

 「『視覚メディア』とは、所謂、視覚を通じて情報や意味を伝達する媒体の事であるとされている。現在に於いて、人々の周囲にも、そうした視覚に訴える媒体がある。視覚芸術、映画、テレビ、広告、雑誌、等、様々であり、その全てに、視覚を通じて、人に想像させる刺激を生む契機が在る、と考える事が出来る」と在り、その想像は、刺激が強い分、より強く人の衝動に働き掛けて、人が言動を決定する際に影響するものであると考える。
 「私」が、「娘」ではなくて、「娘」の「片腕」を持ち帰る、という表現とは、「私」が「娘」を部分的に欲しがっている、と解釈する事が出来て、「片腕」は、「娘」のように表現する事が出来ない、と一般常識により考える事が出来るとした上で、「私」は「片腕」を勝手に操る事が出来る、とする、云わば、「私」にとって都合の良い状態を図りたいとする、その欲望を強めたものであるとする事が出来るように考える。
 人の欲望とは、自分に無いものを欲しがる事を契機に生れるものである、とすれば、その視覚により伝達されたものが、自分に無いものであった場合には新鮮に思われ、刺激的であり、上記した、言動に於ける自己決定に、拍車を掛けるものである、と推測する。

 江戸川乱歩著の内に、「芋虫」という作品があり、戦争で手足を失った夫と、その妻との物語を記している。その内容に、「須永癈中尉(夫)の体は、まるで手足のもげた人形みたいに(中略)不気味に傷つけられていた」、「まるで芋虫の様に、(中略)畳の上をクルクルと廻るのであったから」と在り、これ等の光景が、妻の時子の感動に刺激を与えて、夫に対する献身が虐待行為へと転換する、という展開がある。不気味に傷付けられた夫の体は、妻の時子には無く、虐待を与える対象として自分に無い、その云わば、虐待を受け易い脆弱い身体を夫が所有しているとすれば、時子は、自分がその身体を所有していない分、その夫の身体を欲しがる事となり、「不気味に傷付けられた身体」、「手足のもげた様子」等が、時子の視覚により認識される事により、時子にとっては、虐待を与え易い物として、より刺激的な想像と共に、認識される事となり、その容易に支配する事が出来る身動き取れない身体を獲得したい、という欲望に拍車が掛かると考える事が出来るのではないか。
 「片腕」とは、「娘」と形容されていない為に、人として表現する事が出来ない存在と成り、又、切断された腕、と解釈するならば、その「片腕」は「私」が自由に扱える物と成り、その人として表現出来ない「片腕」の形容された状態が、「私」にとっては支配出来る対象物と成る事を「私」が考える事が出来る可能性が在るとして、上記の「芋虫」という形容は、この「片腕」にも使用出来るのではないか。その様に解釈する事により、諦めなければならないと予測する「娘」の獲得への残念を、この「片腕」に対して、晴らしていると考える。

 「人の五感の中で、視覚は最も優れている。人は、色、形、大きさに対する認識により、人の世界を理解し、文化を構築する」と在り、確かに、それ等の内容は一般的に言われる処である。例えば、人が暴力行為を行う際にもその視覚による刺激がその人の衝動に影響して、その人に言動を決定させる現象が在るとされる。その一例に、亀の飼育者と、その亀との物語を記した小説がある。
 亀の水槽を洗い終えた飼育者が、亀を洗おうとしたところ、いつもは大人しい亀が、急に飼育者に口を開けて襲いかかり、その光景を見た飼育者は反射的に、持っていたブラシで亀の甲羅を乱打して、甲羅が割れて弱ったその亀の首を、台所まで取りに行った包丁により切り落とす、という内容である。「いつもは大人しい」という内容により、「口を開けて襲いかかる」という光景は日常には無かったものであり、普段無いものである為に、その「無いものが在った」事がより刺激的にその飼育者は感じた、とする事が出来るように考えられて、その刺激により、その飼育者は過度な言動を決定した、と推測する事が出来るとして、今まで飼っていた亀を、態々、台所まで取りに行った包丁を以て殺すという結果と成った事は、それ等の刺激が、「亀の首を切り落とす」という、一般的に残虐的な行為であると見做されるとする、その行為をさせる為の衝動に、より働き掛けた、と考えられるのではないか。

 「片腕」を「娘」からもぎ取り、その「片腕」を、喜々として雨外套の内に持ち、その「片腕」と共に帰宅するという内容とは、「『片腕』を『娘からもぎ取り、喜々としている』という内容により、「切断された人体の一部を持ち帰る事により、(もぎ取った主が)満足している」という内容を示す為の形容であるとして、残虐的な行為として採る事が出来ると考えられて、その「残虐性」は、「私」の視覚による反射的な衝動が「私」の欲望に対して刺激的であり、その様な過度な行動を採らせたとする上で、「視覚」による外力的な刺激が「私」に「残虐性」を憶えさせた事により、その様な「過度な行動」を採らせたと解釈出来る、と考える。

 現象学について記された著書の内容に於いて、「見えないものは別の意味でもやはり見えないものである。意味の出現を可能にしている(後略)」という内容が在り、人にとって見えない対象物には、その人が或る意味付けをする事により想像が生れて、その見えないものとは、その人に対して、「想像」という形で見えるものになる、と考える事が出来るのではないか。例えば、妄想がその内容に適合する、と思われる。
 この「片腕」が「私」にとって、「理想の娘」として存在し得るものであるとすれば、それは妄想による産物と成り、「私」は「娘」と「私」との間に、その「理想の娘」を作成して、その「作成した娘」を、まるで「娘」を見ているように見ている、と解釈する訳である。詰り、「作成した娘」とは、「私」の想像が生んだ妄想により形容された存在であり、現実に存在する「娘」ではないとして、「私」はその妄想の内に在る「作成した娘」としか意識を交わす事が出来ない、という現実があり、「娘」とは、依然として「私」にとって、未知の世界に在る存在、という結果に成る訳である。

 「愛」というものについて記したダンテ著の作品がある。「愛と雅心は一つなり。美はやがて賢しき女によりて現れ、目をいたく悦ばしむれば、心には悦ばすもの求むる願い生じ、愛の霊を呼び醒すに至る」という内容とは、「愛」とは、愛する者を見る事により、心の中に私的欲求(このソネット本文の注釈によれば、「一求心」と記述している)を生む契機と成るものであり、又、人の心の内で芽生えるものであり、雅心(言動を落ち着かせる心)とは切り離せないものである、としている。
 「娘の片腕を抱きしめた」という表現とは、「私」の「娘」に対する、云わば、愛情を示したものである、と解釈出来るように考えられて、同時に、「娘」ではなく「片腕」を抱きしめた、という形容により、「私」にとって、どれ程に愛情が増したとしても、「娘」を抱きしめる事は出来ない、とする、現実に於ける、「私」の「娘」に対する「諦め」が表現されているように考える。


(※引用資料は改めて記す)


■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 321