「醒睡笑」とは、後の咄本や、落語に、影響を与えた。例えば、初代露の五郎兵衛による「軽口露がはなし」(一六九一年、元禄四年)に記載された八八話中、二八話が「醒睡笑」に由来する話である。策伝が、近世落語の祖である、と言われる所以である。現代でも「醒睡笑」に由来する「子ほめ」を始めとする、複数の落とし話が演じられる。又、小辺路、大辺路の名前の歴史や「瀬田の唐橋」に関する格言「急がば回れ」の由来等について、現代では歴史的な資料としても利用されている。 日本文化を特徴的に示す概念として、「和(わ)」という言葉が頻繁に用いられる。例えば、和語、和文、和歌、等がある。「和」は、古くから、日本を示す言葉である、とされており、外国に於ける事物、事柄、とは、対象的に使用されている、と考えられる。例えば、大和言葉、大和魂、大和撫子、大和絵、等がある。これ等の、所謂、要素とは、上記した「醒睡笑」、「仮名草子」、の内容に於いても、著者、携わった人々、が、日本人である、という事実を前提に踏まえた上で、上記した、所謂、「和」という概念から人々が生む、とする要素は、その内容に於いて使用されている、考える事が出来るように思われる。現代人が(例えば私が)、上記の内容に対して、このように見解が求める事が出来る、とする概独自により、確立された事実が在る、とする以上、「醒睡笑」、「仮名草子」、等が発生した時点から、それ等の、所謂、現代に於いて認識する処の、歴史的産物、について、考察を図る人々の概念とは、変容が認められず、云わば、不変のものである、とする見解を見付ける事が出来るものである、と考える事が出来て、その「歴史的産物」が、人々に与えるその影響、特徴について考察するその思惑、というものとは、過去から現代に掛けて、不変のものである、と出来る、とする。 醒睡笑に於いては、自然そのもの、又、人が自然に笑う事が出来る題材、を用いて、「可笑味」について表現しているものと考える。「自然」とは、人の手を加えないありのままの様子、無理が無い様子、一人手にそう成る様子、等として挙げられる為に、「自然が展開する内容の内に可笑味を見付ける」、「人が、無理もなく笑う事が出来る」等という内容が、「可笑味」を見付ける際の人の感情に対して、影響を与える事が出来る、と言えるものとして、それ等の内容が、人が「可笑味」を見付ける際の注意を、云わば、修正して払わせて、人は「可笑味」を理解する、という次第である。「なゆでこの世がねつする」(「醒睡笑」巻之三『不文字』より)に於ける「可笑味」とは、三人による会話に於いて、「なゆ」、「じゆしん」、等という、片言(言葉の一部分の意味)が二つ言われて、和語(「なゆ」)と漢語(「じゆしん」)として比較した場合に、「漢語が読める事が知識人としての条件」である、とした上で、漢語を言った一人の方を、和語を言ったもう一人の方よりも、立場が上である、として、和語(「なゆ」)を言ったもう一人の人物評価としては、「愚昧(愚かで物の道理が分らない事)」、「高慢(うぬぼれて人を侮る様子)」、等という、人の思惑による価値観を押し付けた上で決定したもの、として知られる。これは、人の「無知」「愚昧(又は、勉学環境に不自由していた生活歴による)無学」等について、他人が評価した事による「可笑味」という内容に成る事が考えられるものであるが、評価の対象となる、どの理由について考察しても、「笑わせる為に用意したその評価の対象ではない」と成る事が言えるものである、と考えられる為に、笑いを誘う為の個人的な意図が無い事が分り、わざとらしさが無い「自然の笑い」と考えられる、と私は思うのである。「むくりこくりの卵」(醒睡笑、巻之五「人はそだち」より)に於ける「可笑味」とは、これも人の「愚昧」を笑うものであるが、その笑いの題材として、「饅頭を『天人の卵』や『むくりこくり(化け物の意味)の卵』等、現実には存在しない物を想定して不思議がったり、怖がったりする様子が笑われる」と在る様に、(論題二に於いても述べるものであるが)「無形の対象」を、「可笑味」について引き出す為の要素として扱う背景が在ると考える事が出来て、所謂、「化け物」、「妖怪」、等という物とは、実体が無い為に、過去に於いても、現在に於いても、人は、それ等(「化け物」「妖怪」等の意味)の存在について、想像する事により、生み出す事が出来る、とする事が出来る為に、現在に於いて、それ等について考察した場合に、それ等とは、「人を懲らしめる為に存在させられた」、「『人を取って食う』等の表現とは、或る事をしてはいけない、という教訓の為に存在させられた」等という、人の想像により表現された「架空の生き物」とした上で在る、と、私は、経験による知識と、想像により、知る。それ等について想う際に、「怖い物」としての認識は在るが、「可笑味」を引き出す要素を有する対象とは成らない、という思いに達する事になり、「可笑味」と、それ等が発揮する内容は、別々に在る物、と成る訳である。従って、過去に於いても、「可笑味」とそれ等が発揮する内容は、別々の物である、と主張する。「なゆでこの世がねつする」(「醒睡笑」巻之三『不文字』より)の内容に於いて上記した様に、人が、自然に、習得した「生活歴による知識」、「人の状態」、等という無形のものは、それ等の存在と、「無形」である処に於いて、形態は同様と成り、形態が同様で在る為に、共通する処が在るのではないか、と考えた上で、例えば、その共通点とは、無形の物に対して、人が想像する際に、その「想像」に達する発想の在り方が同様、又は、不変である、といえるのではないか。自然に対して、「可笑味」を、模造して、抽象する事を図る等、独特の手法を以て、当時の人達は、そうした共通点などに対する思考を含めた思惑を持ち、「可笑味」という「出来事」の対象を、見付けようとしていたのではないか、と私は考える。自然そのものが生む「笑い」と、人が自然に笑う事が出来る展開について、上記の方法を以て、包括的に捉えた上で、客観的に見た「笑い」を、「可笑味」としていると考えられる。「熱い風呂には香の物」(「醒睡笑」巻之二『うつけ』より)、「すさまじき物は藪くすし」(「醒睡笑」巻之四『唯あり』より)、等による、「可笑味」を引き出す表現方法に於いても、「飯の湯と風呂の湯を冷ます方法を混同した愚かさが、笑いの対象である」や、「医者に対して人が思う『エリートによる医学の世界の成立』等の、常識的な概念に対する「藪医者」の奮起による挑戦が、結果的に、「藪医者」自身の墓穴を掘る事に成る」、等という内容に於いて、習慣や、「自分が藪医者で在る為に、結果的に、患者が来なくなる」等という、自然に於ける展開、について、客観的な視点を以て、その要素を構築してゆく背景を知る。前者に於いて言えば、「習慣」というものは、期間を掛けて、人が習得する言動である、として考えれば、例えば、習慣として習得したその言動を、自分は自然に行っている、と当人が気付いた際に、当人は、それが「自然な行為」であると認識する為に、その言動は自然の内に在る、と、看做す可能性が在るとする事が出来るとして、当人が、その通りに認識すれば、その言動は当人にとって、自然である、とする事が出来るのである。又、本来の意味として、「習慣」とは、「人を笑わせる為に習得するもの」として考慮する事は、無理が生じる、として、「習慣」は、云わば、「笑いの種」とは成らない、という理由により、「人を笑わせる為の要素」というものが、この作品に於ける内容には認められない、と成り、自然による展開の中で、「可笑味」を求める為の趣向を講じた姿勢が在る、として、この作品に於ける「可笑味」には、自然が為した素描が窺える、とする事が出来るのである。後者に於いては、「患者が来なくなる」という内容について、例えば、藪医者による治療が招いた理不尽な災難、又は、自業自得の災難、が災いして、「藪医者」と患者はその様な状態と成った、とする事が出来るとした上で、「患者が来なくなった」その理由とは、医者が藪医者である、という、自然により与えられた(自前の)能力不足による悲惨、が在ると言えるように思う。「藪医者」自身の能力不足が祟り、本来、医者が、知識として習得しなければならない糧を、習得する事が出来なかった、という、云わば、意図的に期したのではない「笑い」の構築が窺える訳であり、医者と成る筈の人が「藪医者」と成った事で、治療を任せる事が出来る筈の医者に、その「自然による災難」が効果を発揮する形で、医者の質に変容が生れ、患者は医者に対して、医者の本業である「治療」に対して、不安を覚える様に成った、という処に「可笑味」が在ると考えられる。これ等の内容については、「可笑味」を意図的に引き出す要素が認められず、常に、人が自然に則した事実と、又形容とを、持ち、持たされて、述べられているように思える。「一旗揚げようとして田舎から出て来た」という内容に、「藪医者」と成る以前のその医者の、真摯な姿勢、又向上心、が認められるものであり、自然の内で図られたその様な態度、姿勢により、尊敬される医者に成る事を試みた医者が、「藪医者」に成る事により失敗に終わった、とする、云わば、悲劇が、「可笑味」を終着点にして表現されているように思える。その「悲劇」を「可笑味」の題材としているのであるとすれば、「藪医者」の、その「真摯な態度」と、「人を笑わせる為の意図」というものとは、相反するものと成り、「意図的な可笑味」については、より、表現していない、という結末を迎えるものであると考える。 現代に於ける、所謂、「お笑い」と比較すれば、現代に通用する「お笑い」とは、例えば、「お笑い」(可笑味)を引き出す為の環境設定として、セット、が使用される事があり、人に、より理解し易い作品とする為に、「お笑い」(可笑味)を引き出す為の、様々な工夫が為される事実が、在るように思う。例えば、以前に流行した、「とんねるずのみなさんのおかげです」という番組内容の一つに、「仮面ノリダ‐」という作品が在り、そのコンセプトとしては、恐らく、「お笑い」(可笑味)を引き出す為であろうが、仮面ライダーのコスチュームを着た上で、顔だけは丸出しにした状態で、又更に、その顔に化粧を施す事により、常識的に考えた上で、見た人に対して、「変」という印象を与えるものであったように思われた。仮面ライダーは、本来、仮面に顔を隠して、その正体に未知性を保たせる事により、常人ではない、超人としてのニュアンスを含ませるものである、とされている(「特撮ヒーロー〜仮面ライダー〜」《東映》より)のにも関わらずに、顔を出している、というその形容は、わざとそのようにして「可笑味」を引き出す事に努力をした、その証拠として見て採れるものである。又、顔に化粧を施す、等は、見る人に対して、その化粧の効用による「可笑味」を以て、引き出す事に挑戦している、という事実が窺われて、正に、「可笑味」を引き出す為の手段として工夫されたものである、と言えるのではないか。それ等の一連の、云わば、企画番組として盛り上げる為の作業は、明確に、「醒睡笑」による「可笑味」の表現方法とは異質のものである、とする事が出来るように思う。結論としては、人が行う様々な言動による、日常的な展開に於いて、客観的な立場から見た見解による「可笑味」の引き出し、又、人から見た自然そのものに対する思索、思惑、に於いて、「可笑味」という対象を模索する、或いは抽象を試みた手段を用いた上で、「可笑味」と出来る内容について画策し、構築する、等の手法を以て表現したものが「醒睡笑」による「可笑味」であり、人の為に、工夫を凝らした上で、主観を以て「可笑味」を引き出す為の手段の補強、又その表現に於けるバリエーション、等について構想を練る、といった策略のようなものが存在するアプローチにより表現したものが、現代における「可笑味」である、と言えるように思う。
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