回想録その七 進むや高志のことが思い出になってから、30年以上が経ってし まった。恥ずかしいことに何事もなかったように時間だけが過 ぎ、透の周りにいる身近な人は、今、目の前に意識もなくベッ ドに横になっている母親だけになっていた。よく、お前がもっ としっかりしてくれたらと愚痴をこぼされたその口は、もう言 はなかった。その中でも、結婚くらいはちゃんと出来ると思っ ていたのにという愚痴には、何度耳をふさぎたかったことか、 その言葉をいう母親を憎んだが、もうその心配もなく、素直に 母親思いの息子の姿で、そのそばにいることができた。進むや 高志が憎んだものを、確かにある若い一時期、透も共有してい つつがなく過ごしたいと言う甘い蜜のような願望を、ただそれ だけを怠惰に舐め続けてきたと思うと、やはり、そこには恥ず かしさしかなかった。そして、あの輝くような一瞬、一瞬がそ の一時期が、もう人生も最終局面に入ってきた透には、この頃、 取り戻したい青春の日々のように思い出されるのだった。年老 いた母親に、若かりし日々、そう母親も今の自分よりも若かっ たはずだ、それを思い出しながら透は問いかけていた。「母さ ん、なぜ、家にいつもひとりでいた僕を大人しい良い子と勘違 いをしてしまったんだい」「どうして、友達一人も家に呼ばな かった僕を変だと気付かなかったんだい」意識もなく、寝た切 りの母親の姿に、当時の姿が重なり、吐き気を催すような当時 の記憶が鮮明に蘇ってきた。「母さん、それはそうあって欲し という単なる自分の願望だけを見ていたんじゃないのかい」激 しい苦悩も伴ったが、透自身ももう一度、あの二十代に戻って ここから突きぬけたいと願った。まだ、あの時にやり残したこ とがあるのだ、孤独の中で見えない敵を打ち破りたいという願 いが蘇ってきた。それを僕は進むや高志に託したのだ。その成 し得なかった願望にもう一度、身を託してみたい気持ちになっ ていた。ねえ、母さん、でもきっと誰も悪くはなかったんだよ ね、なぜ二人がその実行までに至らなかったのか、その無念の 思いがもう一度、強く透の心に蘇ったきた。母親の皺の多い顔 がその時、二十歳代にみた若い肌になった。三十年の時を経て、 あの時の高志のすすけの気持ちがはっきりと思い出された。こ の三十年間、何を自分はのんごりと過ごしてきたんだろうと、 未来に残された時がんが少なくなった今、その重しが外された ように浮かんできた。未来と過去を天秤にかけて、透の中で過 去の比重の方が大きくなっていたのだ。未来を犠牲にすること への怖れが薄くなっていた。いつまで中途半端に時を過ごして いるんだという自分を責める気持ちの方が強くなっていた。そ れが、自分の人生の使命なのかもしれないと思うと、誇らしい ような興奮を一人、透は覚えた。意識のない、その開いた口の 奥に真っ赤な舌と白い歯を覗かせている母親に向かって、その 若いははおやに向かって、「僕のためになら死んでくれるよね」 と透は問いかけていた。二十歳代の僕は、高志や進むの無念さ を悔しがったはずなのに、その後、30年近くも無意味に、それ に対して何もせずに過ごしてしまったと思うと、もう一度、そ の時に戻れるのを透は嬉しくさえ思った。結局、その無念さを 思いながらも、一生懸命に生きることもせず、死ぬ勇気もなく 無駄に過ごしてしまったんだ。自分の敵は親だと思うという、 進むの言葉を、代わりに実行する機会が今こそ着たんだと、口 を開いたままの母親を意識のないその顔を見て感じた。「透が それで満足ならそうしておくれ、お母さんは死んでもそれで満 足だからね」と透の心の中の母親は、確かにそう囁いている。 お前のためになるのなから、お前がそれで思いを遂げれるのな ら、苦しみから逃れられるのなら、それでいいよ。どうぞ、母 さんを殺しておくれ、その顔は確かにそう言っていた。母さん、 と呟きながら、喜びで透の顔か歪んだ。その時だった。母親の 母親の子供を思う愛情の深さに、親の子供の対する想いの偉大 さに打ちのめされるような気持ちになったのだ。そして、やは りそれを経験できた幸せは母親の方だけなんだと思った。きっ と、人生の一番大きな役割は子供を産み育てることで、それに 勝るものはないんだと思うと、透は静かにその結論に達した。 その機会の訪れることのなかった僕には確かにそれを実行して もいいんだと。その権利を報いの代償として手に入れたんだと。 美しい柔らかなその首筋を見た。焼身や殴打ではなく、もちろ ん、傷をつけるのでもなく、そっとその首元に手を添えて、両 手で締め上げようと。きっと、母さんは透にされるのなら嬉し いと言ってくれるはずた。そんな確信があった。首筋に手を触 れた時、ふと、それでも母さんも喜んで受け入れてくれる行為 なのに、満たされなかった人生のために、自分の血筋を途絶え させようといる誇り高い行為なのに、それでも、僕は捕まるの だろうか、法に触れるのだろうかという疑問が脳裏をかすめた。 そして、興奮の後の長い辛い時間のことを、透は不覚にも考え てしまった。なぜ、この行為の罰として、捕まらなくてならな ければならないのか、社会の安全のためならば、僕は血を分け た母親をそうしたいのてに、他に人には関心もないのに。僕は 母と子の世界を完結させたいだけど、外の世界には害を及ぼそ うとは少しも思わないのに、あれほど自分達には関係のないと いう態度を取ってきたのに、どうして親子の幸せの、もしくは その後始末の行為を罰しようとするのか、あなたたちとは関係 のない世界なのに。きっと、自分たちの身にもそんなことが起っ たらと貧しい想像をするのが嫌なのだろう。でも、あなたたち は他人の立場はみないのだから、安全ですよ。逮捕されること、 刑務所の生活を思い、躊躇してしまう自分を情けない思いで、 透は感じていた。結婚も出来ず子供も持てずその上、何一つ実 行できない意気地なしのままで終わるのという反発で、勇気を 振り絞って、母親の首を両手で絞めようと力を入れた。その意 識のない顔は透の望みが叶うのなら、それで母さんは幸せだよ と語りかけているように見えた。お前が意気地なしでいるのか ら逃れるためなら、母さんはその手助けになるよ、そのための 実行ならば母さんは本望だよ、透にその唇が開いたままのそれ が最後まで母親の慈愛に満ちた顔で語りかけるのを聞いた。そ の顔は感情を持たない、その顔は今の自分をそのまま受け入れ てくれている。そう、もう透の意気地なさを責めたりはしない 顔だった。それが透には最高に美しい母親の顔に見えた。だが、 その柔らかな首筋を押した瞬間、母親はまた八十歳を過ぎた、 干からびた肌の現実の母親に戻っていた。冷たいその肌が透を 現実に、そして、母親を現実に戻した。 老いたその首すがに触れながら、透は高志が進むがなぜ行動を 起こせなかったのか分かったような気持ちがした。萎えて行く 興奮の中で、僕の行動は決して他人とは交わらないという思い が強くなっていた。そればかりか、都合のよい解釈の中に上手 に取り込まれてしまうと思うと、その貪欲に自分たちの利益に 奉仕するように曲げられて解釈され、その安全のために奉仕す る行動に変えられてしまうと思うと、いよいよ気持ちが冷めて きた。どんな行動も社会の安全という視点からのもに、解釈が 変えられてしまうのだろう、死にかけた母親を殺してしまった 我儘や奴、五十歳を過ぎて愚かな独身男と曲解されて、上手た に処理されてしまうのを嫌だと思ったのだ。自分達の都合のよ、 いように解釈をされて、安全を脅かさないものとして処理され て、それで終わだろうと思うと、そんな安全に手助けをするだ けなら、何もしないでおこうと思った。母親のその表情はそれ でも、意志を持たないその顔は、変わらずに穏やかに見え、透 の全てを受け入れてくれるように見えた。何を実行しても無駄 だよ伝わらないものとする思いを、透がそう思うのなら、母さ んも一緒だよと言ってくれていた。その年老いた母の顔を、透、 は初めてわだかまりをなく見ることができた。 この頃、透は朝目が覚めると、耳鳴りで現実に戻った。それは 夏の盛りのうるさいほどの程の蝉の鳴き声の時もあるし、寄せ ては返す、小刻みに震えるような波の音の時もあった。それを 聞きながら眠りから覚めていくのを、現実にあるものだけを耳 は聞いているんじゃないと思うと、なぜか穏やかな気持ちになっ た。実際にあるものだけを僕は認識しているわけじゃないんだ、 きっと、僕にとっての一番の安全保障は思考を止めてしまうこ となんだと思うと安心をした。それは確かに透にとり、悪いこ とではなかった。母親がいなくなり、父親がいなくなり、そし て、もうずっと前にことになるが、自分の前からいなくなった に高志と進むのことを思うと、透にとって現実はもうそれほど、 の重みを持ってはいなかった。1人で生きて行くために、周り に神経をとがられている思考を停止してしまうか、それで孤独、 や不安から逃れるか、もしくは、所詮は思考は自己の安全保障 のための装置だと割り切って、それを超えるものを想定してし まうのも悪くないと思うと、心に余裕が生まれた。落ち着いて 考えれば、片足をしか現実に踏み入れいないというのも、その 不安定さを、羽の生えた天使のような自由なのかもしれないと 思うことができた。生きている実感が薄れると、逆にもう少し 生き続けてもいいかなと透は思った。悩みが減るのなら、それ でいいと思えた。透は時々、高志の膨らみをもった立方体の部 屋を思い浮かべていた。進むの部屋を出た時の球形に輝いた空 を、その青空を思い出していた。現実感を薄めるのはやはり、 悪いことではないんだ。思考に自分の安全保障のためという限 界があるのなら、むしろ当然のことなのだろう。その気持ちの よい青空の下で、透は大きく両手を挙げて背伸びをした。こん な日は人に出会わない川沿いを散歩でもて来ようと思った。そ して、外の世界がちゃんと自分を裏切っていなことを願った。
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