回想録その六 父が倒れた翌日、透は職場で、明日、家に来ないかいと進むか ら声を掛けられた。高志との時に、家に近くでは嫌だからと言っ ていたので、奇異にも感じたが、いいよと軽く同意をしていた。 待ち合わせは、夜も遅くで、ひと目に着かない時間帯なら、い、 いのだろうと思いながら、案内されるまま透は付いていった。 到着した進むの家は、予想外に大きな、周りに高いコンクリー トの塀を廻らせた三階建の建物だった。外からはバルコニーが 見えるその家に、「ここだよ」と急に無愛想な口調になり、進 むは招き入れた。それが、何か照れ隠しの様に聞こえ、「君の お父さんって、何をしているの」という問いを透は口の中に飲 み込んだ。周りに家を見下ろすように建ったその家の、三階部 分に進むの部屋があった。やはり、家具のない殺風景な部屋だっ たが、アイボリーホワイトの壁とおなじ色の絨毯の上に、四角に いテーブルがあり、そこに花が活けてあった。進むが自分で活、 けたという花だけが、鮮やかな色を放っていた。淡いクリーム とピンク、それに濃い光るような紫の薔薇だった。高志のとき と同じように透は、窓と反対側に壁に背中を押しつけるように して腰を降ろした。進むも、高志の場所、机の家に座って向き 合う姿勢だった。その向こうに庭があるのだろう窓は夜の暗さ を写す鏡のように見える。透にはそこにいる進むが高志と重なっ て見えた。その柔らかな白い頬を膨らませながら、「以前、僕、 もし、自分が不幸だとしても、それを引き受けることで、その 分を他の誰かが幸運になっているなら、自分の不幸も無駄では ない気持ちがするって言ったよね、それで全体として調和が取 れているのなら、自分も一員として役に立ってるわけだし、幸 せだって」、いつものように、その声は静かで優しいように透 は感じた。自分自身に報いが来なくても、自分自身がいること が何かに役割を果たしていると思うと嬉しかったんで、でもね、 やっぱり、どうしてもそれだけじゃ、悔しいんだ。心が狭いの かもしれないけど、自分にも少しは幸せが来てほしいって」そっ と顔を上げると、少し声を潜めて、進むは続けた。「下の階に 僕の両親が寝いてるんだけど、時々、二人を殺してしまいたい って思う時があるんだ」、驚いてその顔を見ると視線を外して しまった。弱々しい笑みをその白い顔に浮かべながら、「自分 が死んで、心中でもやはり殺人になるのかな」と続けた。そん な自分を止めて欲しいのかなという思いで、透は進むを見た。 思案気に、同時に、故意的にも見えたが、頬杖を突くようにし て「やはり、今の自分があるのは、親のせいなんじゃないかっ て、偏屈かもしれないけど思えてしまうんだ」、別に育てられ 方がどうのというんじゃないけど、全て遺伝なんじゃないかなっ て、それを自分だけで背負うのは、辛いんだよ、まあ、何を言っ ても、僕の我儘なんでろうけどね」落ち着いた言い方の中に、 悔しさと諦めが入り混じっていた。「だけと、僕にはそれしか 思い当たらないんだよ」と言いながら、もう一度顔をあげて、 透の方をまっすぐにみた。頭が悪いからそれ以上はわからない よ、その顔はやはり、分かってほしいと助けを求めているよう でもあり、実行は出来ないだろうと思わせるものだった。進む が自分のの敵は両親なんだよと。言っていたのを思い出した。 理由を自分なりに見つけても解決策はないだろう、留めてくれ 願いながらの願望のようにしか聞こえなかった。「罪を犯すな。 んて損だよ」とそれを押して上げるように言ったとき、透は同 じようなことを高志にも言った行ったことを思い出した。そし て、後でそれをひどく後悔したことが頭に蘇った。「世間では、 僕の考えなんて通用しないことは分かってるんだ。甘いし、馬 鹿だ、もっと社会経験を積めよと言われるのは、言われなくて も分かってるんだ。でも、頭では理解してるのに思いは違って しまうんだよ」それをちゃんと抑えられないのが気持ちが甘い ってことだろうけど、やっぱり、そんな考えはいけないことだ よね、「それは分からないよ、どうしても抑えらないなら、実 行してみる価値があるんじゃない」、今度は進の方が驚いたよ うに、透を見つめた。思い留まるように言われるのをその目は 期待していたのかもしれない。投げやりにならないように、ゆっ、 くりと、ひとつひとつを大切に話した。「いいんじゃない、そ れしかなないのなら」今度は進むは自分でそれを否定した。「で も、そうしたらどんな理由があっても、捕まるよ。誰も僕の到 達した考えなんて、聞かないよ」、進むの気持ちを確かめるよ うにして、見つけていた表情を緩めながら「それが正しいこと なら、いいんじゃない」何もしないで病院に入って行った高志 の無念さを思って、高志はそう続けた。「考え抜いた結論が、 周りの正義と違いをみても、いいんじゃない。それが自分の正 しいことだと思えば」、口に出しいてみると、やはり、透にも、 その思いが、相手に届くという確信は持てなかった。何も考え ない人に、関心もなく、そんなの無駄だと思う人に、思いを届 けるのはできないだろうとやはり、思えてきた。やはり、進む も同じなじように無駄になるのかと思うとそれも嫌だった。病 院に入られてしまい、安心だと思われるのは嫌だった。「でも、 刑務所に入られたら後悔すると思うよ。一時の感情で実行して しまったら、一生後悔すると思うんだよ、きっと、その何十倍 も、何百倍も僕、後で苦しむよ」、テーブルの花の色が進むの 頬に映り、優しい膨らみを見せていた。透は自分があまりにも 真剣に見つめているのに、気づいて恥ずかしそうに首を振って いた。「もし、一人だけで正しいと思ったことが全く無視をさ れても、それが二人になったら少しは誰かに響くかもしれない。 そして、それが半分以上の意見なら、もう立派な正義なんだよ」 四角いその部屋の中で、進むの頬だけが優しい球形を写しだし ていた。「何もしなかったら、やはり、それだけの思いしかな かった人ってことになるよ、自分の主張をしない人は、それだ けの存在ってことだよ」「だけど、親を殺しても馬鹿なやつと 思われるだけだよ、きっと」、そう言うと、今日初めて、進む は笑顔を見せた。弱々しく見えたその顔は、ふっきれたように 生気を帯びて着た。やっぱり、それでも捕まるのなら意味ない よ、自分の思いが誰にも決して伝わらないという確認のように その表情は見えて、透はそこから目を反らした。それは寂しす、 ぎる笑顔だった。「本当にそれで、大丈夫なの」という問いか を通るは飲み込んでしまった。黙っていたら、今のままで良し そってことだよ、と励ます言葉も言えなくなってしまった。 「頭ではちゃんと分かってるんだけど、でも心が違うことを望 んでしまうんだ。性格ってことなんだろうけど、そんなことを やっぱり、我儘だと言われるのは分かってるけど、頭では理解 できるんだけど」進むは、急に立ち上がった。予想してなかっ たために、一瞬、進むをそれに身構えてしまった。くるりと背 中を向けて、夜の窓の鏡に姿を映しながら、「でも、実際に両 親の顔を見ると、また、憎しみがからだの奥からにじみ出で来 てしまうんだ、それを、僕、抑えるのが精いっぱいで、いつ爆 発するのだろう怖いときがあるんです、自分でも抑えきれない 感情に襲われるんですよね。自分でも頭で理解していることな のに、心が違う反応をしてしまい、そう思う自分を責めて、ま た苦しいんです、ほんと我儘ですよね」窓に映る自分の姿に視 線を送りながらそう話す姿は、丁寧過ぎる言葉づかいになり、 進むがひとりで自分に向けて喋っているように見えた。「それ を抑える自信がないんです」大丈夫だよ、自分がその視界から 残っているのか分からなくと、進むの中に、もう透がいない様 にも思えて、そう言うのを言葉にするのを躊躇ってしまった。 今度は、ちゃんと声に出して励まそうと反対側の壁に力を入れ て、背中で押そうとしたとき、窓のなかの柔らかな頬の進むが、 あの黒い眼鏡の、度の強いレンズから異様に突き出た眼球を太、 い眉、精悍な顔つきに奥で、神経質に光らせている高志に重なっ た。進むの中に高志がいるように、透には見えたので。いつも 怯えと怒りを含んだ顔をしている高志だった。「大丈夫だよ、 自分が一番信じる道を選べはいいんだよ」、やっと出会えた二 人が遠くに行ってしまうような気持がして、覚悟を決めて透も そう言った。他人の考えはどうでも、そればから気にしてなく ても、自分で一番正しい信じることをやっていけどは、いいん だよ。それが全てだと思う」悔いの残らないようにだけはして 欲しいと透は思った。優しい白い頬のなかに表れた、その精悍 な浅黒い肌、ふたりはいつもの表情を重ねていたが、もうそれ に返事は返さなかった。外に出ると、まだ太陽が頭上にいるの に、その明るさに透は驚いた。部屋を出る前に二人が浮かべた 表情が満足のそれだと透は思いたかった。真昼の青空が頭上一 綿に広がっていて、透はそれが球面の広がりにとなるように、 精一杯の想像力を働かせた。 次の日から、休憩時間になっても進むの姿をいつもの場所に見 つけるこはできなくなった。透は高志の時と同じように、新聞 を隅から隅まで見たが、やはり何も出ていなかった。進むの思 いもなかったことになってしまったんだと思うと事件が起きな たことを安心する想いよりもやはり、悔しさの方が先に立った。 職場は進むがいなくとも何も変わらなかったし、透も与えられ た仕事をする、それだけだった。昼休みにもは、定位置の階段 に腰を降ろして、何もやらなかったのなら、やはり両親に入院 させられてしまったのかなと考えながら、遠くからいつも彼が いた場所を眺めながら過ごした。午後の仕事に戻ろうとする時 だった。バイク好きの二人組のそばを通った時に、偶然、進む のことが耳に入ってきた。また、休日のツーリングの話でもし ているのだろうと思ったのだが、「あいつ、自殺したんだって な」という言葉が透に聞こえてきた。「暗いやつだったからな」 という返事を、二人には気づかれないようにと、歩くのは止め ないで、盗み聞きをした。それが、進むのことだと透にはびん ときた。弱いんだよな、何の楽しみもないみたいなやつだった し、それだけ言うともう話題は変わっていた。死んだだと思う とやはり、それも無駄な死のように透は感じた。それじゃ、何 もなかったのと同じじゃないかと進むの無力さを詰りたい思い ていると、「久しぶりに競馬でもならないか、春の重賞の季節 だぞ」と、あの競馬男の顔が透の前に現れた。今週は天皇賞っ てやつだ。新緑の美しい京都競馬場が舞台だし、というその顔 は幸せに染まっていた。あそこに座っていた進むは自分の幻だっ たのだろうかと思いながら、当たらないからいいですよと透は 寂しく笑った。当たらなくたっていいじゃないか、外で観てた ら気持ちいいぞ、そんなんじゃ、進むみたいになっちゃうぞ、 黙っていたはずなのに、そんな声が心の中に聞こえてきた。
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