回想録その四
その日を境にして、透は休憩時間が苦痛ではなくなった。進むがやっ てくるのは、毎日ではなかったが、独りきりでいるのが苦痛ではなかっ たし、学校でなら授業に、職場なら仕事の時間に早く戻ってくれない 願う気持ちもなくなっていた。競馬新聞と話したいとも思わなかった し、ましてや、オートバイの話題に付き合いたいとも思わなかった。 いつもの同じ場所に、腰を下ろして、つまらなくれば、空を見上げて 透は休憩時間を過ごしたのだが、それを少しもみじめだと思わない ですんだ。中学のときも、高校のときも、そして、職場でも、あいつ 変わっているな言われるのが嫌だったのに、それが気にならなくなっ たのだ。いつでも、他人との距離感がつかめなくて苦痛で、悩んで いたのに、他人が近づいてくる気配に透自身、自分でも異常だと 思うくらいに、敏感だったのに、今はそれも気にならなくなった。嫌 だったら、独りでいればいいのだから、気が楽になった。 仕事は、いつまでも単調な同じような作業の連続だったが、それも そんなものかと思えるようになってした。父親からは、家に帰ると いつまでもバイトみたいな仕事を続けているんだという目が見られて いるは分かっていたし、母親からも毎日心配そうに仕事の様子を 聞かれるのも、あまり神経質に反応しないですむようになっていた。 進むを知って、始めて透は、おなじ思いを持つ他人の存在に心を休め 気持ちになっていた。一人ではないんだと思うと、なにか、陽だまりに 中にいるような心地よさを、透は感じていた。 そんな時だったので、進むがもう一人友人を紹介したいと行った時も、 透は素直に受け入れることができた。今度の休日に三人で会わないかい と、いつものように、おどおどした様に言うのに、透はすぐに、いいよ と同意をしていた。思えば、休日に、外で他の人と会うなんて随分と 久しぶりのことなと透は思った。神経質な自分を直して、もっと強く なりたいといつも、思っていたが、透にはどうしてもそれを治す方法が 分からなくて、いつも外にでるのが面倒になっていた。ましてや、友人と会 うなんて始めてのことかもしれないと思った。 当日に、透は地下鉄の階段を上がると、時間より早く到着してしまった ので、待ち合わせの時計店の前を、何度も何度も、行ったり来たりを繰 り返していた。透も進むも自分の住んでいる場所で会うのは躊躇してので、 その友人のところで会おうという話になった。それに、都心の人の多い 場所は、かえって安心な気持ちもしたのだ。落ち着かない気持ちで、店 内の時計を眺めては、また、歩き出し、戻ってくるというのを繰り返し いると、ふいに、肩を叩かれた。驚いて振り向くと、進むともう一人、 固太りの体型をした大柄の男性が立っていた。進むは、いつもよりも ずっと柔和な、優しそうな笑顔だった。友人というのは、黒ぶちの度 の強い眼鏡をかけ、その白眼が嫌に目だつ、少し飛び出た目をしていた。 ひどい近眼なのだろう、厚い眼鏡のなかのその目を覗き込むと、透は 少し、目眩がしそうになった。黙っていても、なにか見えないものと 戦っているような剣のようなものが、その表情にあった。 「これらが、友達の高志くんだよ」と、嬉しそうに進むはその男を 紹介した。透が会釈をすると、高志の方でも、表情を変えずに会釈を 返してきた。なにかを警戒しているようでもあり、同時に強い、 嫌、強すぎる意思のようなものがその顔には浮かんでいた。 大通りを横に入り、5,6分も歩くと、一際大きな、まわりを塀で被われ 家が、高志の家だった。旧家なのだろう、大きな庭の木が外からでも何 も見えた。その古い大きな家で育った高志が、進むと同じように精神病 入院をしていたと思うと、透は言いようもない暗い気持ちになった。高 志の部屋は、大きな庭のなにか立てられていた、平屋だったから、高志 の家と言った方がいいかもしれない、「ここが、僕の部屋だよ」と高志 は照れているのか、つっけんどんにそう言って、二人を招き入れた。驚 いたことに、中はほとんど箱型、立方体の形をして、まわりが薄い緑の 幕がかかっているように感じがした。天井も床も、そして壁もおなじ薄 い緑色だったので、厚みのあるその色の空間のように感じられたのかも しれない。家具は、部屋の隅に、几帳面にちょうど挟まるように、机と 椅子があるだけだった。机には赤いつぼみの椿が一輪挿しにして載って いた。そこがいつもの高志の場所なのが、庭に面した、縦長に切り取ら れた、二枚の窓、長方形のそれが外の光を注ぎ込んでいるのを背に、少 しふんずり返る様にして、椅子に座った。進むも、やはりそこがいつも の彼の場所なので、高志の足もとに、庭の緑を写す窓に、頭を押し付け るようにして、床に腰を降ろし、膝を抱えていた。透はというと、反対 側の壁に、二人から距離を置くようにして、からだを預けて座った。 「高志くんはね」と、柔らかい日差しのなかで、緑が眩しく見える中で 進むは、首をゆっくりと振るように動かしながら、説明をした、「僕が 入院していたときに、知り合った親友なんだよ」親友という言葉を軽々 しく言うのを聞いて、透は違和感を少し覚えたが、進むは職場で見るの とは違い、とても落ち着いて、ここに入るのが気に入っているのは分かっ た。穏やかな、優しい笑みを浮かべながらつづけ、「僕が入院していた のは、きっと、誰かがしゃべっているよね」と透を覗きこんだ。そこは 精神病院なんだけどねとまるでそのことを自慢でもするように、そして、 それに対する透の反応を楽しむようにして、話かけた。そんな場所とは 関係なく、僕はやっと心を開いて話せる友達ができて、よかったと今、 思ってるんだ。そして、もちろん、君ともそうなりたいよと、進むが 言いだしそうで、透はちょっと距離をおいた。「僕は入院をしていた のは」と、高志が意外に甲高い、細い声で話しだした。「いじめにあっ たのが、原因なんだよ、中2の頃だから、もう15,6年も前のことになる けど、そこから、俺の人生は狂い始めたんだ」度の強い眼鏡の奥の目は 穏やかな眼差しに見えたが、そんな重要なことを淡々と言い出した様子 に透は、なぜか、生身ではない、人形かなにかがしゃべりだしたような 感じがした。「きっと、俺をいじめた相手は、もうとっくに忘れている だろうけど、僕にはどうしてもそれか頭から離れないんだ。いつまでも、 そんなことをクヨクヨしている性格だから、いじめられるんだよと、あ いつらはそれを知ったらいうだろうけど、今も、そのときの瞬間、瞬間 が自分の思いと関係なしに、フラッシュバックみたいにして、光ながら 現れるんだと。それは、自分でもどうしようもなんだよ」普段の生活で もふっと、それが頭に入り込んでくるんだ。進むは、その横で黙って、 その話を聞いている。なにか、透には、高志がほかの人がいるのを忘れ てしまって、独りごとを言いだしているようにも感じられた。もう、あ んなに前のことなのに、それで夜、目が覚めてしまうこどだってあるん だから。透は、新聞で読んだ、復讐のために爆弾を作ろうとして、自宅 を誤爆してしまった男のことを思い出していた。彼もいつか、我慢できな くなって、なにか行動を起こすのだろうかと、透を見た。「でも、怒りを ぶつける相手がはっきりとしているのは、まだいいよ」聞き取れないくら の声で、ぼそりと進むがそう言った。そうかもしれないと、透は、つづき を待った。「僕も入院していたときに、どうしてこんなことになってしまっ たんろうと、よく考えていたんだ。でもどうしても答えは見つからないま まなんだ。誰が夜くとこうなったんたろうと思っても、それが思い当たら ないんだ」そうするとやはり、自分自身が悪くて、そうでなくても、自分 が原因でこうなったんじゃないかとしか思えなくなるんだ。時々、頬を 小刻みに指で掻くような仕草をしながら、そう続けた。どうして、自分 が悪いのかなんて、はっはりしないので、考えは堂々巡りをして、結局 はそこに、行きつくしかないんでだ。自分に責任があるんじゃないのか なって、もちろん、そんなこと、これっぽっちも認めたくは、僕もない んだよ、透もおなじだった、今の自分の状況の原因を考えると、頭が混 乱してくるばかりだった。結局は自分に帰ってくるというのが、とうし ても納得できなくと、認めたくないのだ。両膝を抱えたまま、静かにそ ういう、進むは、薄い緑色の部屋のなかで、その中に吸い込まれたまま 静止しているように見えた。それは、違うんだよと、慰めてあげたい気 持ちだったが、透にもどう説明していいのかわからなかった。高志も、 同じ姿勢のまま、なにかを怒ったように視線を宙に預けて座っていた。 正方形のその部屋で、三人とも言葉を発しないままでした。細長に、2 枚の窓から見える、空はとても綺麗な青空で、外でこの時期にしては 穏やかな天候なのが知れた。でも、自分の性にばかりしてはいけない んだよ。人間は、自分の生き方をすべて、自分で決められるほど、立 派でも、ないし、聡明でもないよ。透は、ここから出て、外の新鮮な 空気を吸いたいと思った。良いときにみんな、口を揃えて言うじゃな ないか、周りの人、皆に感謝したいですって、自分を支えてくれた、 両親、家族に感謝したいですって、それで、反対の悪くなったら、全 て自分の責任ですっていうのは、ちょっと変だよ。「ちょっと、僕、 飲み物でも買ってくるね」、二人から、ここから逃れたくて、透は そう言った。進むも高志も、黙ったままで、もうなにか、人間でな く、仏像みたいにそこに座っているだけのように見えた。部屋を出 るとき、透は、自分の敵はなんだろうと、分からない不安から逃れそ うと焦っていたのか、あまりのも性急に善悪の判断なしにそれは、浮 かんできた。「それは両親なんだよ」、その意味を、頭でひとつ、ひ とつ考えるのを無意識に嫌ったのか、その思いを振り払うように、透 は大きくひとつ、深呼吸をした。外の空気は思ったより、ずっと冷た かった。 その日も、いつもより遅い帰宅だったのに、母親は夕食を作って、待っ ていてくれた。いつもと違い、明るく接することができたのは、透に秘密 があったからかもしれない。そのために、素直に、美味しかったと返事を することもできた。「お友達はいい人かい、仲良くやれそうかい」と珍し く、もしかしたら、始めてかもしれない、友達と会いにいくと出かけて いった、透に、嬉しいそうに聞いてきた。透も慎重に、母親が期待する 言葉を選んだあげた、そのくらいはしても、今日は、透の心も少しも、 疲れを感じることはなかった。「うん、職場の人とその友達だけど、 二人ともいい人よ。その友達は、旧家らしくて、大きな家に住んで いる、育ちもいいみたい」と、高志のことも、正しく紹介することも できた。周りの人から見たら、彼はそう見えるのだろうから、それで 十分なんだ、母親が安心しているのを見て、透の方も満足して、自分 の部屋に戻ることができた。 その時の母親の表情を見て、素直に喜びを伝えるのも、悪くないんだ と、気持ちのいいものだと思ったのを、透は覚えている。もうその時 から30年以上が経ち、今はほとんど一日中を寝て過ごす母親の顔を 見ていると、もっと喜ばせて上げたほうが、自分でも後悔しないで すんだのにとも思えた。しかし、その当時は、自分のつまづきの原 因を、見つけるのに夢中だったのだ。それも、自分以外のにものに 求めないと、安心できない気持ちでいっぱいだった。今でも、透は その頃の自分は間違っていかなった思うのだが、ただ、自分の中の 相反する感情をどう扱っていいのがわからなかったので。今なら、 じつは、複雑に見える親への感情も、実はおなじ根っこから来てい るのだと思えたが、それに気が付いたのは、まだ、ずっと後だった。 三人で会った、翌日も透は出勤日で、配送センターにいた。いつもの 商品の入った段ボールや床に置かれたままの靴、照明の暗い室内の トタン屋根、そして、ペンキを塗りたくったままの壁と、いつもの 眺めに、透はひどく心が落ち着いた。職場の雰囲気をそんな風に感 じたことは、一度もなかったが、高志の部屋の、薄い緑一色の四角 い空間に比べると、ここに生気というか、人の息遣いみたいのがあっ た。そこに、戻ってこれたことに透は安心したのだ。それなのに、 休憩時間には、透の方から進むに、いつもの場所にそのコンクリー トの階段に腰掛けているほうに歩み寄っていた。 進むの姿は、そのときの仏像と感じだ姿から、ちゃんと生身の姿に 戻っていた。いつもと変わらないジーパンを履いた進むは、最初の 時とおなじ、かすかな笑みを口元に浮かべた。あの部屋の進むと ほんとうに同じ進むなのかと思うくらいに、その雰囲気は違って いて。身体の輪郭が、まわりの部屋のなかに溶け出しそうだった に今は、ちゃんと、自分と外側と区切るように、姿を際立たせて 見えた。 「高志さんって、結構芯が強そうに見えるね」と怖わい部分があ ると言う代わりに、透はそう切り出した。固太りの印象の、色黒 の顔のなかで、その白眼がいやに目立つのを思い出していた。そ う見えたのは、そのやや飛び出た眼球のためだったかもしれない。 進むは独特の優しい笑顔になったが、間にも答えなかった。「な にの仕事をしているの」と聞くと、秘密を打ち明けるときの相手 の反応を見逃さないようにするみたいに、透の顔を正面から覗き 込み、「仕事はしてないんだ。あの大きな屋敷で、昼間は、他人 に見えないように一日、床にからだを伏せて過ごしているって、 ことだよ。あんな高い塀とそれに敷地には大きな木も何本もある のに、彼が言うには、窓から入る他人の視線から逃れるために、 そうしてるんだということなんだ。」あの部屋の壁についた、細 長に二枚の窓を透は思い出した。そうして、自分が昼間、ここに いるのを気づかれないようにしているんだ、「じゃ、アルバイト みたいのもしてないんだ」透は、自分の好奇心を気取られない ように、わざと驚いた様子でそう聞いた。進むも、今度はおなじ ように、小さく頷いただけだった。「自分でも言っているように、 彼、対人恐怖症がひどいらしいよ」そう言われても、ピンとこな かったが、ちょっと意外で透は警戒を解いていた。「父親に、あ の離れを立ててもらい、自分の部屋にあった、机や椅子、本棚な ど、それに、ベッドも置いたまま、あの部屋に移ってしまったん だ」心配した、父親が見に来ると、ここには霊がいるから、そこ から中には入らない方が良いよなんて、言いだすようになって、 両親も子供の以上に気が付いたみたいなんです。「それは、退院 したあとだけど、机と椅子は、あっただろう、それだけでも、少 しは生活に戻る意志のある印だと思うよ」視線を透から離してし まい、座ったまま進むは、空を見上げたいた。その姿には透には あの部屋で高志と二人でなんでいた姿にだぶった。それでね「昼 間は、あそこで隠れていて、夜に散歩とかに出かけるそうだよ」 優しい声はそのままで、進むは続けてた。「自分がこうなったの 中学時代のいじめが原因だからだと、いつも言っているよ」自分 では気にしないようにしていても、フラッシュバックのようにそ のときのことが脳裏に浮かんでくるんだと言っていたのを、透は 思い出した。「それで、夜になると、やっと周りを気にせずに、 動けるんだろうね」 昼休みが終わるまでに、まだ、時間があるのに、透は戻ろうとし た。その話を聞いていると、いたたまれない気持ちになり、耐えき れなくなりそうだった。黙って離れていこうとする透に、進むは 一瞬、喜びで頬を緩めそうになったが、すぐに、そんな感情を露 わにしたのを恥じるように、「そうなんだよ」といつもの静かな 口調で話した。その顔は一人に戻ったことに、安心したような表 情に戻っていた。一日中、床に寝そべって昼間を過しているのか と、心の中でそれが反響して、透には、午後の仕事は長く感じられ そうだと思った。 高志の家に行ってから、母親の作っておいてくれる食事を透は素 直食べれるようになった。20歳も半ばを過ぎてまだ、アルバイト のような仕事しかしていない、後ろめたさが少し和らいだせいか もしれない。仕事をしているだけ、一人前ではないけれども、ま しかなと思うと、不機嫌な態度を取らなくても、接することがで きたのだ。今はもう、寝たきりの状態の母親を見ていると、その 頃のやり場のない不満を上手く処理できなかった自分を、やはり 少しは悔いる気持ちにもなった。まだ、その当時母親も自分より も若かっただろうに、思いだすと、自宅の庭に鶏小屋をつくり、 卵を取り出していた。少しでも、家計を助けようとしたのか、 姑の都合、少しでもよい嫁の姿を見せようとしてのか、透は いつも、その小屋の鶏糞の処理を黙々としている姿をみて、 もっと綺麗な仕事をすればいいのにと無責任に思ったものだっ た。今思うと、けして、好んでしていたことではなかったの かもしれない。舅も姑もある家庭に嫁いだ母親の懸命な頑張 りだっただろうが、それが報われたかなと思ってしまう。す ると、やはり、まともに職にも就くことが一度もなく、その 当然の結果としての結婚もできなかった自分のせいだと透は 自分を責めるしかなかった。責めることで、ただ、免罪符に なるのだけは嫌だとも思うと、どうして、悔いている気持ち を軽くしたらいいのか分からなくなる。今は、もう答えてく れない母親に、「ほんとうに、幸せだったのか、自分を産ん だような人生でよかったのか」と聞きたくなったが、口を半 分開けたまま、眠っているばかりだった。もちろん、透は同 意して欲しかった。辛いこともあったけれども、姑との人間関 係や父親に殴れたりもあったけど、やはり、母さんは幸せな 人生だったよと言ってほしかったけれども、それもまた、透 の今までのことを帳消しにしたいという都合のよい願望のよ うにも思えて仕方なかった。あの頃、20代のころの、透の 苛立ちを分かって口実にして、自分が楽になりたいだけなの かもしれない。高志の部屋を出るときに、あの時に思った、 「自分の敵は親なんだけという思いにも、悲しい表情を浮か べたり、怒ったりせずに、にっことしていいんだよと受け入 れてくれる母親を透はそこに見たいと思った。自分の前で もう、すべて、思うようにしてくれる母親を見たいと思った。 いつも、家族の誰よりも早く起きて、働いても結局それは、 報われなかった。暑い時期に精いっぱいに汗を流して働いて もやはり、それは報われなかった、家族の中で一番我慢を 重ねても、愚痴ひとついわなくても、その身体にしまって も報われなかった。それでも、20代のころに自分の味方に 母親はなってくれたらと透は思いたかった。やはり、それ は自分の責任ではなかったんだ。 けっして料理は得意ではなかったが、畑仕事なのでの力仕 事は黙々とつづけたその手は、節くれだった太い指をして いた。「料理はあまり、上手ではなかったね」と骨太の頑 丈そうな手を見ながら、透は話しかけた。学校に持ってい くお弁当は、いつもおなじようなおかずにたくさんのご飯 で、昼食にその弁当のふたを開けるのが外し買ったよ、と たいてい、ご飯の上にたっぷりと醤油をつけた海苔が、一 面に乗っていて、端のほうに、卵焼きやウインナーが、小 さく置かれていた。そして、母親の好きな、漬けものが、 キュウリだったり、沢庵だっりが必ず、付けてあるものだっ た。「でも、今だったら、きっと、美味しくそれを食べら たと思うよ」ともう一度、透は母親に話しかけた。口を開け まま、眠り続ける母親に、もう一緒に食事をすることもな いと思うと、食べものをその中に押し込んでやりたい気持 ちになった。素直でなくて、一緒の食事もほとんどしなかっ たけれど、母さんたくさん食べてねと、口いっぱいに押し 込みたい衝動に襲われた。いいことを少しは、いてあげる よと、もう返事をしない、母親の口に、美味しく食べらる よと押し込みたかった。一緒に楽しく食事をいなくても、 後ろめたさを感じることはないんだと、透は思った。美味 しいよと言わなくても、もう自分自身を非難しなくても、 いいんだと思った。成功してなくても、もう非難もされな いし、嘆かれることもないと思うと、そのなにも言わない 母親が自分を受け入れてくれているような気持ちになった。 自分がしっかりとしていないせいで、母親を不幸にしてい ると自分を責める必要もなかった。自分が立派な息子にな れなかったから、母親を苦しめていると、自分を責める必 要もなかった。黙ったままの母親を前にすると、もう透は すべての自責の念から、自分を苦しめたその思いから、自 由でいることができた。透は、その口を開けたままの母親 に優しく、語りかけた。 「もう、家の家系もこれで、終われるね、もう、苦しまな なくて、いいんだよね」と、20歳のころの、思いの結果が これだったのかと、思うと、少し透にもやりきれなさが残っ たが、それ以上に、自由に感じのほうが強かった。「もし、 お母さんが、ちがう人と結婚するちがう人生を歩んでくれ ていたら」透は、その口を閉じてあげようとも、思ったが、 なぜか、その肌に触れるのをためらった。「苦しいばかり 連続でない、自分の好きなことを選んでしてくれていたら、 きっと、もっと僕も幸せだったよ」と優しく語りかけた。 そうしたら、僕もちがう人生を歩めたねと、いうと、透は、 こんなに母親思いに自分になれたことに、独りで満足をし ていた。
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