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作品名:回想録 作者:あきら

第3回   その三
回想録その三


 しばらく、透のことなど目もくれなかった競馬新聞の男がその
日は、いやに親近感のある表情でにこにこと近づいてきた。いつも
独りでいる透に話しかけてやるとでもいうような雰囲気だった。何
と透が思った通り、また、お金を貸してくれという話だった。透が
貸すのを渋っていると、威圧するような表情になり、「何も返さな
いと言っている訳じゃないし、この前のお金と合わせて全額を返す
から、ちょっと貸してくれる」といつまでもしつこく透の前から離
離れる様子もなかった。「でも、僕もあまりお金ないんですよ。今
「いくらくらいなら、あるんだい」と透の顔を覗き込んできた。その
あまりにも近くに来た顔から逃れるように、からだを反らしながら、
どういう神経がそんなに近くまで他人に顔を近づけることができる
のだろうと、不思議に思いながら、見ていた。「五千円くらならあ
るんだろう」その目はもう借りられるのを確信している、透を飲み
込んでいるような目つきだった。そう思っと瞬間、もうお金を貸す
ことになるんだと、なにか防波堤を超えてしまったように、一気に
理不尽だと思いながらも、その坂道をすべり落ちる、ふんわりと身
体が宙に浮くような気分が心地よくて、「ほんと、もうこれで終わ
ですよ」と自分の思いを隠すように、嫌な顔を作りながら、透は受
け入れていた。透には、きっと、またこの男は、金を借りにくるだ
ろうという予感があったが、言われたとおりに、五千円を渡してい
た。もっと貸してあげたら気持ちを抑えているのに、男は、受け取
るとすぐに、「ありがとう、必ず返すからな」ともう用済みのよう
にすぐに、行ってしまった。話からけれて、嬉しかったのかな、少
なくとも、あの競馬男は、そんなこちらの気持ちを読み取っていた
のなかと透は思った。そして、また独りで休憩時間を過ごすことに
になると、そんな自分に苦笑するしかなかった。
しばらく、熊さんを見かけなかったが、その競馬新聞男も、オートバイの
二人組も、何もその話はしてこなかった。透もだれにも聞かなかった
のだが、パートのおばさん達が、熊さんが入院をしていて、どうも、
病状がよくないみたいなことを話しているの、帰りのタイムカードを押す
ときに、盗み聞きをした。結局、仕事場では、透が話し相手になる人は、
だれもいないのだ。それを分かっていて、近づいてくるのがあの競馬新聞
の男だった。金を貸して貸してほしいと思う時だけ、愛想よく近づいてく
るということだった。独りでいるのは寂しいよな、金を借りるのでも話か
けてやるだけでもましだろうという表情をしていた。透の方でも、その歪
んだ関係を容認するように、何度か断った後に、それでもしつこく頼みに
くると、なんだかんだと理由をつけて、数千円ずつ、貸してやるようになっ
た。恥ずかしくもなく、毎回、借金を頼みに来るその自分のみじめな姿を
相手に思い知らせてやりたい、楽しみがあったが、その競馬新聞の男の方
では、そのくらいの神経もないみたいだった。そうすると、透は自分に対
して、こんな馬鹿を演じいるのも、退屈よりはいいかなと思うようにもなっ
た。誰も、借金を頼みにくる男も、それを受け入れている馬鹿な透のことも
見ていても見ないふりだった。むしろ、陽気にふるまう分、競馬男とは、
話をしているという感じだった。どうせ、いてもいなくとも、同じように
自分は見られているんだろうと透は思った。熊さんのことを聞いても、
病気は重いみたいだよ、食道がんでひどく進んだ状態で、食事もののどを通らな
いらしいと、情報は教えてくれた。つまらない関係だったが、休み時間を独りで、
どう過ごしていいのかとみじめな気持ちでいるよりはいいかなという気持ちだっ
た。退屈な時間を少なくともその男は、一時、引き裂いてくれた。
進むは肌の白い、その肉が透けて見えるような鼻筋に皮膚が載っているような
顔だった。神経質な印象だったが、彫の深い奥にある目は、最初、怖い感じ
がした。その彼が、急に「君も知っているかもしれないけど、僕、精神科に
入院していたことがあるんだ」甲高い、思ったよりずっと穏やかな声でそう
進むが言ってきたのは、透がだいぶ、独りだけの休憩時間にも慣れてきた頃
だった。この仕事も長く続かないかもしれないと、気の弱そうに行った後で
彼はそう言ったのだ。君は慣れてきたかいと、聞かれているのに、透にはそ
う聞こえたかもしれない。休憩時間に、バイクの話で盛り上がるよりも、競馬
男に、話しかけられるよりも、透にとって、そんな話題のほうがずっと楽だっ
た。「ときどき、僕、すごく精神的に辛くなる時があるんだ」視線をずらす
用にして言う進むに、透のほうがなにか安心感を覚えた。顔をあげてこちらを
見た進むを見ていると、透も自分と話しているような錯覚に陥り、こんな話題
でも、休憩時間が楽になるのを感じた。「単調な仕事なのにね」それに、責任
もないし、透の顔を見ると、進むは照れ隠しのように笑い顔になった。頬のあ
たりをしきりに指で書く仕草をしながら、それは仕事のせいじゃなくと、自分
が悪いんだよと言っているようだった。「なにが辛いの」、答えを聞き出そう
と透は静かに話しかけたが、ほかのだれと話すよりも透も楽な気持ちになって
いた。
「俺、対人恐怖症がひどくて、どこの職場でも長続きしないだよ」答えは、
わかっているような気持がした。進むとそのあと、視線を急に下に、落とした
かと思うと、激しい吃音で、ななな、痙攣のように、おなじことをつづけだし、
透を驚かせた。唇を震わせながら、なにかを懸命に吐き出そうする様子が、痛
々しく見える。それは、自分にはわからない心境なのかもしれないと、じっと
進むを見つけてしまったが、まずいと思い、その視線を外した。咳き込むよう
な、心に滞っていた思いを吐き出すようなその音の連続のあと、「どうしても、
こんな人とありま接しない、一人でする仕事でも、すぐにとても疲れてしまう
んだ」また、進むは黙ってしまった。その顔から血の気が引いたように、感情
を打ち消してしまったように変わっていた。顔の肉を透かしていたその赤みが
なくなっていた。少し、気持ちを落ち着かせるように、時間をおいてから、
恥ずかしさを打ち消すようにして、今度はまっすぐに進むは透を見て行った。
「実は俺、デイサービスみたいなのも、退院したあとにしてみたんだ。でも、
やっぱり、俺には合わないんだよ」否定ばかりの言葉か、つぎつきに続いて
その口からは出てきた。人と付き合いために、少しでも、慣れようと思って
ね、でも、俺にはああいうのは、無理だよ、少し、落ちつついてきたのか、
口調がしっかりとしてきた。俺とどうしてここで、こんなことをしているんだ
ろうと思っちゃってね。俺は、ちゃんとしているのに、どうしてここいう
ことろにいるんだろうと思うと、もう行くのが嫌になってしまったんでだ」
透はなにも口に出せなかった。大変だったろうとは思うけど、どう言って
いいのかわからなかったと同時に、まだ、自分のほうが恵まれていると安心
感が湧いてきて、それを知られまいとする気持ちでいっぱいになっていた。
作業場の時計を見ると、もう休憩時間も終わりに近くなっていた。そんなに
もう時間が過ぎたのかと意外に思っていると、「でもね」と進むも気が付
いたらしくて、仕事をする顔に戻っていた。「僕は、自分のダメさ加減と
いうか、その分が誰か他の人のいい部分になっているんだと思うと、自分が
他のひとのダメな部分を引き受けていると思うと、それはそれでいいのか
なぁとも思うんだよ。僕がダメな部分を引き受けたおがけで、だれかが
良い部分を多く受け取れるなら、そんな自分も無駄じゃなかったんだと
思う得るだろう」そう思いたんいんだよ。俺も、社会の一員で、表に
でない氷山の水中の部分でも、社会に、皆の一員で役に立っているって
ね、照れたように、そう思えたら嬉しいじゃない、と、一瞬だけ、進む
は明るく笑った。次に、それはまた、いつもの、まわりを警戒したような
無表情に変わっていた。自分のような存在でも、無駄ではないとそうする
と思えるんだよか、透は、わざとその言葉を口に出しながら、進むの後ろ
姿を追っていた。そう思いたい気持ちは、わからないわけでもないけど、
誰にも理解されないだろうなと、思いながら、さい、自分も午後の仕事を
しなくては思った。とても、早い休憩時間で、あっという間に過ぎていた。


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