20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:回想録 作者:あきら

第2回   その二
回想録そのニ


 仕事が済んでからだったので、競馬は三レースしかできなかった。
しかも、初めての掛けごとだったので、最初は慎重に掛けたのに外
れると、元を取り返そうとして、透はその日の稼いだ分と同じ額を
失うことになってしまった。高揚感は競馬場の門を入るまでだった
なと思いながら、家の帰ると、ずいぶんと遅かったなという風に父
親は透を横目で見たが、何も言わなかった。その代わりに、母親が
初日のバイトをどうだった、大変総会、続けられそうかいと、うる
さいハエのように、追ってもまとわりつくような雰囲気なのを、透
はそこから逃れるようにして、部屋に掛け込んでいった。競馬をし
てきたという罪悪感からからではなかった。母親から逃れようとし
ている自分への嫌悪感から、ちゃんと返事をしてあげて、安心させ
てあげればいいのにと、十代の前半の反抗期の中学生でもないのに
と思いながらも、気持ちがそれを許せないのだ。ちゃんと頭では理
解できているのに、気持ちが違う方向を向いていた。我侭な思いだっ
たが、それくらい察してくれよと透は母親に思った。だか、やはり、
同時に、そんな甘えだ自分に嫌悪感を感じて、透は勢い欲扉をパタ
ンと、まとわりつく母親を遮断するように、大きな音を立てて締め
た。やはり、それも自分の思いを分かって欲しいという思いからで、
ふとんの身体を投げ出してしまうと、ちゃんと言葉にしていえない
自分を今度は責めた。
 翌日も、休憩時間に競馬新聞の男は同じようにその日の予想をし
ていた。「昨日は、行ったのかい」予想に迷っているのか、透に声
を掛けてきた。はい、行きましたよと透は、にこりと笑って、答え
ていた。「儲かったかい」また、新聞に目を落としながら、関係の
ないことのように聞いてきた。「全て外してしまった」と透は楽し
そうに話していた。そんなことを全く関心のないようにして聞いて
いるので、透はひどく気持ちが楽になっていたのだ。相手が自分の
ことを眼中にないと感じられて、透の方も相手を何か自分の空想の
中でのように感じることができた。そして、昨日と同じようにその
男の持った競馬新聞の向こうにひとりで同じ場所に座っているあの
男を見た。それが透には自分のように思えてしまった。
 仕事から帰ると、母親が前日と同じように、「透、仕事はどうだっ
たかい」と心配そうに尋ねてきた。単調な商品整理の仕事をどうだっ
たかいと尋ねられても、応えようがなかったが、その表情がとても
年をとったように見えて、それさえも透には自分の責任のように感
じていた。
 3日目ともなると、仕事の同僚たちも、透の雰囲気を察するのか、
どこに居ても透はひとりでぽんつんといるようになった。休憩時間
が嫌いだという気持ちがまた、芽生えてきた。競馬の話やオートバ
イに夢中になっている様子や今夜、海釣り行かないかという話し声
も、透には遠くのほうの影のように、興味のない響きだけが聞こえ
た。その様子を離したととしても、母親にも退屈なことだろうし、
透自身にもそんなことを話しても仕方がないのは分かっていた。い
つものように父親も黙って、透の帰ってきたのを見ているだけだっ
たので、透のをウも、その今で雑誌を読んでいる姿を見るだけだっ
た。きっと、その単調な仕事をの先つつけてもどうするんだと思っ
ているだけだろうと、何よりも透自身がそう思ってしまうのだから、
もっともなことだ。全て、母親や父親の気持ちの奥は手に取るよう
に分かると思いながらも、透にはそれは全て、透が自分で作り上げ
てしまって、その中に入ってしまっているだけなんでしゃないかと
いう思いになってきた。年を取った母親の姿は、実際にそうなのか
もしれないが、同時に透が自分用に用意したもののようにも思えて
くる。皆、楽しそうにその仕事をしているのだから、自分もそうし
なくてはと思いながらも、窓もない大きな倉庫の室内での作業は興
味を持てるものではなかった。忙しさにただ、時間だけが過ぎてい
く感じだったが、開けっ放しの扉から見えるよく晴れ空を見ると、
ここでなく、外の日光の中にいたいと思ってしまった。そんな事を
思う自分を我侭だとは、透も思ったが、そんな事に心が向いてしま
う自分が嫌にもなった。ご飯は、と聞いてくる母親に、食べてきた
と嘘を言うと、透は自分の部屋に行くしかなかった。その四角い部
屋がこんな夜の時間でも、昼の光のかすかな青色に満ちた空間だっ
たらいいのになと透は思った。昼間、倉庫の中から見た外の世界は、
それほど眩しかったのだ。扉を開けて、その何に入りたいと思った。
もちろん、部屋はいつもの部屋なのだが、そこが外への扉だったら
いいなのと透は思った。
 その日は、前日の配送分にミスがあり、そのやり直しと当日分の
量が多く、透は定時をずっと過ぎた残業になってしまった。慣れて
きた頃なので、気の弛みが出たのかなと後悔していると、あの男の
自分と似た雰囲気が近づいてくるのが分かり、透は身構えた。何か
話しかけてくるのが、その距離から分かった。どんどん近づいて来
るのが分かるのに、何も言わなかった。自分と同じ雰囲気がまとわ
り付いてくるのに、余計警戒をした。何をしゃべろうかと、自分の
中で躊躇しているのを相手の中に感じ取って、透は自分の嫌な自分
と同じだと思った。”君は残業なんだね"思ったより優しい声だった。
でも、俺の方は自分のミスが重なって遅くなっているんだから、単
に量が多いのとは違うよ、透は黙って相手を見た。いつも休憩時間
の一人で、ぼんやりとしている表情とは、それは違っていた。透を
見ると、にこりと相手の表情が弛んだ。それがまさに、自分のする
のと同じだと思い、透は視線を外した。僕ももう少しだからという
相手も通るから顔を背けてしまった。すっと、友達になろうなとい
う粘りつくような空気が去っていった。もっと嫌味のあるしゃべり
方をするのかと思ったと透はもう一度振り返った。自分の嫌う自分
と重なるような感じがしたので、通るもほっとしていた。他人がそ
んなに、僕に近づいてくるなんてと、透はほっとして思った。そん
なに近づいて来るのは恐怖だよと。早く残りの仕事を終わらせてし
まわなくてはと、安心した透は仕分けをまた、始めた。 休憩時間
に、あの男はいつものように一人でぽつりと座っていたのに、急に
透の方へと歩いてきた。"昨日は、遅くまで大変だったよね"と仲間
のように言われるかと警戒すると、「また、練炭自殺だった」と手
に持った新聞を透に差し出した。社会面の一番下の段、ほんの十数
行に、男女三人のその記事はあった。へえーと言いながら、透はそ
の男の顔を初めて正面から見た。自分がそこに映っているんじゃな
いのかと確かめたくて、透はじっとその男を見たのだ。記事は山の
展望台の駐車場に、軽自動車が止められたままになっており、その
車内で男性二人、45 歳と22歳、女性一人、28歳が死んでいたとい
うものだった。車内に練炭があり、窓が目張りしてあったというこ
とだったが、書いてあるのはそれだけだった。徹にも、何度か読ん
だことののある自殺するためたけに知り合った男女の自殺だろうと
はすぐに分かった。インターネットを使うやつだろうと透はその男
に話しかけていた。「そうだよ、見知らぬ同士が自殺するたろだろ
に出合ったんだろう」変わった心中だなと透は思った。何も思いを
同じくしない男女がそれもニ対一で、もちろんそんなのは少しも関
係ないことだろうが、一人一人が別々にする心中なんてと思った。
次の世界なんて、信じない心中なのだろうか、「最初のうちは、そ
んな心中も大きな記事になったのにね」ともう一度、透はその男の
顔を驚いたように正面から見た。確かに、死ぬために出会ったはず
なのに、やはりどこまで、それぞれ一人だけ、相手のことなど何も
知らないのだろう、そんな集団自殺は大きく取り上げられていた気
がする。「人数が三人だからじゃないのかな」俺が読んだ時には、
五、六人が一度に同じような方法で自殺していたから、「違うよ」
みんな、そんな話は詳しくなんて知りたくないんだよ。ただそれだ
けだよ、そう言って、通るが返した新聞を受け取ると、日の当る彼
の特等席のコンクリートの階段へと戻っていった。そうかもしれな
いと透も主q。負け犬みたいにして死んでいく人の話をそう何回も
誰も聞きたくないものな。そいつらと自分たちが違う人間であると
確認できれば、彼らの自殺にいたる原因が自分たちをも冒して来る
ことがないと安心できけば、それ以上の情報は必要ないものな、一
人でぽつりと座っているその男の姿が晴れた日の明るさの中で、今
日は透には、眩しく見えた。
 そういう人と自分が別の世界にいるんだと確認できれば、もうそ
れ以上は知る必要もないのだ。彼らは向こう側にいて、自分たちは
こちらの世界にいるののなら、それは何も問題はないのだ。その間
に深い溝があれば、自分たちまで、彼らの影響されることはないの
だから。やはり、あの男は自分なのかもしれないと透は思った。そ
して、もっと話してもいいかなと透は初めて、他人にそんな感情を
持った。その時には、透は同じが側にいる人間を見つけたからそう
思えたのだと勘違いをしたが、実は違う側にいる人たちへの思いの
方が、憎しみの方が主だったのだ。
「あの男には注意したほうがいいよ」いつもの場所にその男が戻っ
てしまうと、競馬新聞の男がやけに真剣な表情で近づいてきた。「あ
いつね」とわざと小声になり、「少し前まで精神病院に入ってたみ
たいだからさ」何の病気かなど詳しいことは言わなかったが、そん
な男の話を聞いたら大変なことになるみたいな口振りだった。自分
の親切に満足したのか、男はひどく晴れやかな顔で、そんなやつを
まともに相手にしたら、大変なことだろうとでも、言いたいのだろ
う。それだけ言うと、自分はまた、今夜の競馬の予想をするのか、
いつもの場所に腰を下ろして、新聞を広げていた。きっと、どんな
病気だったかまでは知らないのだろうなと透はその姿を見て思った
が、やはり、警戒したほうがいいのかもしれないという気持ちに自
然になったった少し、気味の悪さを透も感じていた。
 その日は、透はまっすぐに家に帰ると、父親はいつものように黙っ
ていたが、その方が透にとっても、気持ちが楽だった。母親はいつ
ものように今日の仕事の様子をいろいろと尋ねてきた。何も特別な
ことはなかったが、不思議にその日は、透は、饒舌に母親に返事を
した。何か気分が高揚しているのを感じていた。 いつものように、
透は仕事を終えるとまっきくに家に帰った。母親がこれも同じよう
にその日の仕事の様子を聞いてきたので、代わりが無かったと透は
短く返事をした。父親とも同じように短くあいさつを交わしただけ
だった。母親の話は透が耳を傾けてくるのが嬉しいのか、次々に続
いている。透は兄弟げんかもしたことのない本当に大人しい子供だっ
たよねと、いつしか、話はまた昔の透の子供のころのことになって
いた。お手伝いもしてくれたし優しい子だったよ、自分がその時の
母親の年齢である今だったに、もっと素直にその話に耳を傾けれる
ことができたのかもしれないが、その当時は、そんな褒め言葉が、
そのかわいい子供の頃に比べて、どうして大きくなった今は、ダメ
なんだろうといいう嘆きに聞こえてしまい、どうしようもなくその
言葉が不快で仕方がなかった。友達ともけんかをしなかったし、優
しい子供だったよ、母親が見ているのが、今の自分なのか、子供時
代の自分なのか通るにも分からなくなってくる。でも、友達の家に
泊まりに言ったことも、友達を家に呼んだりもしなかったのに、そ
れも大人しい、早く家に帰ってくるいい子に映ったのだろうか。そ
うすると、今は、仕事を終えるとまっすぐに家に帰ってくるいい子
なのだろうか。間違いなく、その点では透はよい子で、そして、正
社員でなれないでいる今の子供とも落差を、きっと、どう埋め合わ
せていいか、母親は理解できないのだろう。 そういう意味では、
やはり、自分は親不孝なのだろうと、今になると、透も客観的に自
分を見ることができた。それは、もう50歳も過ぎ、60を意識するよ
うになり、どう言われても先行きが自分でも分かっていたからだ。
初めての仕事、そのアルバイトに通い始めた頃は、まだ、努力すれ
ばいくらでも変われるのに、それを怠っていると批難されているよ
うに、子供の頃を褒められても、感じられて仕方がなった。母親の
話の腰を折って、自分の部屋に入りたかったが、よい子供時代の記
憶を大切に仕舞っておきたい母親の思いを別に、無下に否定するこ
ともないと、自分がちょっと。聞いているのを我慢すればいいだけ
じゃないのかとも思った。夕食の支度をしてくれて、ご飯と味噌汁
をしろ得てくれる姿を見ていると、自分が少し我慢すれば、それが
親孝行になるののなら、それでもいいかなとも思った。ご飯を、は
いと手渡ししてくれるのを、透は黙って受け取った。そう思っても、
やはり、今の自分は親不孝でしかないのじゃないかと思うと、情け
なさとやり場のない怒りがわき怒ってきた。
 その日は、競馬新聞の男がにこにこしながら近づいて来た。どう
だい慣れてきたかいと透に声を掛けてくれたと思うと、昨日は、全
レース負けちゃってなと真顔になった。それは大変でしたねと当た
り障りのない返答で受け流そうとすると、透にも愛想よく聞き返す
のはよくないと分かった。「給料日までは、まだ日があるだろう」
と単刀直入に切り出してきた。少しでいいから、貸してくれないか
という借金の話だった。「僕もあまりないんですよ」というのに、
そんなにやや苦なくてもいいからさと何度も言われて、透は、「じ
ゃ、ごれだけですよ」と財布にある5千円札を渡した。また、にこ
にこした表情に戻り、ありがとうと受け取るとすぐに、元の場所に
帰って行き、新聞を広げ初めていた。怖いくらいのその前の表情と
ずいぶんと違うんだなと思いながらも、徹は離れて行ってくれたの
に安心した。
 透の方は、まっすぐに家に変えると、いつものように母親は今日
は変わったことはなかったかいと心配の言葉をかけてくれた。これ
もいつもと同じように、何もないと短く透は返事をした。その当時
に、心配されるのが何であんなに嫌だったんだろうと、透は今にな
ると、ベットにほとんど一日中眠ったようにしている母親を見なが
ら思った。二十代の半ば近くになっても、まだ、反抗期だったのだ
ろうと思った。「お金はあるのかい」と言われても、「付き合って
いる女性はいないのかい」と聞かれても、嫌だった。本当に大人し
いいい子だったのにねと言われると、ちゃんと反抗期もないのを、
逆に心配しなかったのかと、それが今のようになってしまった原因
なんじゃないかとさえ思うようになっその時期、その時期のことを
ちゃんと経験していればと思いながらも、もう年老いた母親を見る
と反発を感じなかった。なぜなのだろう、もう、どんな言葉も自分
を責めたりしないからな、母親を見た。自分の身に降りかかってく
ることのない言葉だったら、全て、容認できるのかなと思いながら、
もし、死んでしまった後なら、きっと、きっと自分に都合のよい思
い出だけが残るのだろうなと、不謹慎な思いが心に浮かんだ。もう
目の前の母親は、透に対して一言も発しないのだから、どんな言葉
も透の負担になることはなかった。あんなに嫌だった言葉も過去の
ことになると、バラ色の言葉に見えた。自分の影響下にある言葉と
いうのは、随分と楽なものたなと透は思った。そして、それも我侭
な考えだなと自分を責めた。「透は本当に反抗期もないいい子だっ
たんだよ、周りの子とは違っているないつも思っていたのよ」と、
透は自分で作った母親の言葉を心の中で、反芻していた。
 お金を貸してしまうと、しばらくは、あの男は透のところへ寄っ
て来なくなった。透の方でも、給料日まで日数があったし、また、
お金を貸してくれといわれても嫌なので、どこか、それでいいと思
う所があった。休憩時間はまた、一人で階段に腰かけて過す時間に
なった。仕事にも慣れてきたのか、透はまっすぐに家に帰っても両
親と接するのが苦痛でなくなったし、母親の方も、あれこれと1日
の様子を仔細に聞かなくなった。自然とそうなったのだろうし、透
にとっても、それは都合のよいことでまっすぐに自分の部屋に入っ
ていった。
給料日が過ぎてもその競馬男はお金を返すとは言ってこなかったし、
休憩時間にいつものように1人で透が階段に腰掛けながらその男を
見ても、何か不快なものでも見るように、相手は嫌な顔をして顔を
背けてしまった。まるで、透の方が何か悪いことでもしているかの
ように露骨に不機嫌な表情になり、視界から外れるとこに行ってし
まうのだが、怒ったように透を睨みつけきた。まるで自分の方がお
金を借りている相手みたいだなと透は思ったが、新たに借金を頼ま
れるより、そんな時だけはっきりと愛想の良い顔をするのだろうか
ら、好都合だとも思えた。配送の品物の整理は、単調だったが、た
だ黙々とやればいいのだし、慣れてくると苦にもならなくなった。
威圧するような表情を見せるようになったてあの男のことを除けば、
それ程、悪い職場もないと思えてきた。だんだんと睨みつけるよう
になきつい目付きになった男の顔が急に脳裏に浮かぶことがあり、
透にも苦痛だったが、それもよくあることだと思えるようになった。
6月になり、仕事を終えて外に出てもまだ明るくて、夕日の透きと
おるように光を見ると、その中を自転車に乗り走っていると、気分
も楽になった。まだ、夕日の中に昼間の青色を残している空を見な
がら、透は家に帰ることができた。 結局また、休憩時間は一人き
りになってしまったと透は思った。中学時代もそうだったし、高校
のときもそうだった。そして、今思うと、あの二十代の職場でもそ
うだったが、その後もずっとそうだったと分かった。もう中学の13,4
歳のときに、そのときはその先の未来はどのようにも変化するもの
と思っていたが、もう型は出来上がっていたんだと、やはり50歳を
過ぎた透には理解できた。未来はいくらでも変わるものではなくと、
未来はすでにその時に見通せて、今に思えばだか、すでに出来上がっ
ていたんだ。そのくらい人間の根本は変わらないものなんだ。透は
やはり、いつも一人で座っているもう一人の男が今はなぜかとても
気に買った。自分と同じ雰囲気のその男を見ると、ずっと毛嫌いし
てきたのだが、今日は何か話しかけてもいいかなと思った。親近感
とは違うが、透にはその男がもう一人の自分のように感じられた。
同じ気持ちをもった自分なら楽に心のうちを話せるかなと思った。
その時、急に誰かに肩を叩かれた。
 「どうだい、仕事は慣れたかい」この職場で、一番の年代だと思
われる熊さんとみんなが読んでいる人だった。小太りで、短く刈っ
た髪の毛には半分以上白髪交じりだったが、笑うと目元に人の良さ
がでる人だった。普段は、きつい表情で黙々と作業を続ける人だっ
たが、笑うとそれが一変した。透も最初のころ、一度、手際の悪さ
を叱られたことがあったが、その後は口を聞いたこともなかったの
で、驚いた。「いつもまっすぐに帰ってるようだが、今日はちょっ
と家に寄らないかい」と言ってくれた。よほど嬉しかったのか、透
は「はい」と何も考えないで返事をしていた。相手の意図を忖度し
ないで返事をしてしまうのは、透には珍しいことだったが、不思議
といつものようにその自分の行動に後悔を感じなかった。
 その日の夜はずいぶんと家に帰るのが遅くなってしまったが、母
親はまだ心配して起きていてくれた。父親はさすがにすでに寝てい
たが、家では酒を飲む人がいないので、何か赤ら顔をして帰るのが
悪いような悪いような気持ちがして、「遅くなったんだね」という
母親の言葉に透は無愛想にうなづくだけだった。軽い罪悪感のよう
なものを感じ、急いで自分の部屋に入ろうとしながら、「今日はも
う寝るから」とだけ、透は母親に告げた。黙ったままにしているの
も、それも嫌だったのだ。
 熊さんの部屋は職場からそれほど離れていなかったが、外向きの
大きな窓ガラスは一部割れていて、ガムテープは取られていたし、
天井にもいくつもひびが見えた。そんな古し4階建てのアパートだっ
た。しかし、部屋は綺麗に整頓されていて、とても五十過ぎの、も
う六十近くになる独り身の部屋には見えなかった。中央に畳みに座っ
て使う、足の短いテーブルが置いてあり、その向こうとこちらに座
布団があった。似合わないような綺麗な花模様のあるテーブルクロ
スがかけてある、赤い小さな花が緑の葉と茎の模様になかでよく映
えた。「こんなところでも俺には一番の所だ」と言いなが、一升瓶
のそのままからお酒をコップに注いでくれた。スパゲティーでも作
るからと、昔、板前をしていたことやその時の部屋は天井に穴があ
り、夜寝ていると星が見えたんだぞと自慢でもするように話してく
れた。透の今の年齢とそれほど地ガス無いはずなのに、とても楽し
そうに見えるのが不思議だった。今の透とおなじ独身なのに、「今
が一番幸せだ」と言うのを聞くと、自分と全く反対だなと思えてし
ます。自分のほうがずっといい家に住み、両親の元で楽に暮らして
いるのに、不満を持ってしまうのが、それが苦労が足りないという
ことなのだろうと、自分を責めるしか透にはできなかった。あまり
お酒は強いほうではなかったが、そのテーブルの上にある日本酒の
コップをぐっと飲み干して、「仕事の終わった後のお酒は、おいし
いですね」と透は、明るく笑うしかなかった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 34