回想録その一
カラスの鳴き声で目が覚めたことに、透はほっとしていた。勤め に出る車の音に眠りから覚ましてすぐに自責の念を感じることも なかったし、登校する小学生の甲高い、男の子と女の子と似たよ うなその声は、透の気持ちを暗くした。仕事をしていない自分の 立場がそうさせるのは分かっていたが。時計はちょうど9時だっ た。いつもおなじ時間に目が覚める、会社に行くわけでもないの に、その時間、会社にいく時間、学校に登校する時間を少し、過 ぎた時間に目が覚めた。「朝はちゃんと起きないとだめ」と母親 になんども注意されたのが頭にあり、ほんの少しの朝寝坊で目を 覚めますことで、少しは自分は納得させることができた。 階下 に両親のいる気配がないのを確かめてから、透は静かに自分の部 屋を出て下に下りた。毎朝、母親が朝食は用意してくれているの だ。50を過ぎた自分が、もう80歳近い母親の作った朝食を、両親 のいない好きを盗み取るようにしてする、食事だった。仕事にい くとしても、後ろめたさを感じるだろうにと、透は思った。もし、 食事中に両親と顔を合わせてしまったらと想像するだけでも、気 分が悪くなるのに、空腹の身体にはご飯が美味しく感じられるの は、どうしようもなかった。それがまた、悔しい感じだった。「自 分の食べるものを自分で得ることができないのは、虫けらと同じ だ」そんなお前に生意気をいう資格はないんだという、ノーベル 賞作家の本の紹介の文を思い出した。親子で言い争いをしたとき の言葉なのだろう。透も、父親に、「生意気な意見はちゃんと仕 事をしたからにしろ」と言われると、もうなにも反論できなくなっ た。その通りだと黙るしかなかった。「働かないで飯だけ食べる のは虫けら以下だぞ」と言われているような気持ちがして、急い で透は食事を平らげた。自分のなかでも、「ちゃと働いて食べる ご飯は、本当に美味しいのに」ともうひとりの自分が自分を責め ていた。それが分かっているのに、しかし、どうしても朝が起き られない、仕事に行くのに恐怖近いものを感じている自分がいた。 ほんとうに、甘い人間だなと思いながら、急いで、食器を洗い、 透は自分の部屋にと戻った。 「家にいた高校生までは、真面目だったのにね」というのが、 職に就かなくなってからの、母親の口癖になった。どうして息子 が就職しないのか、分からなかったのだろう。父親は怒るだけだっ たが、母親はそう問いかけてくるだけだったが、透には、それも 自分に都合のいい言い逃れのようにしか聞こえてこなかった。結 局、みんな自分の都合のよい考えしか取り入れることはできない のかもしれない。そして、大勢の人に都合のよい、利益になる考 えが社会で正しい考えになるのもかもしれない。透にしても、朝、 いつまでも起きてこない息子に対して、「この子はきっと、心に 辛いものを抱えているのだろう」と心配をした石川啄木の母のよ うに、自分の母親もあってくれたらの願っていたのだから、おな じことだ。そうして、そんなときに、透の中のもうひとりの自分 が、社会の正義を持った自分が、そういうのを甘えというんだよ と、あざ笑ってきた。それを透はもちろん、黙って聞いているし かなかった。それがどう考えても正しい考えなのだから仕方がな い。そうして、自分はどうしても、ぴんと来ないのだから仕方が ない。考えると自分のなにか悪いのか分からなくなる瞬間だった。 数学の問題のように、正解がただ一つ存在するわけでいないと わかったのは、透にとってもっとずっと後のことだった。自分の 部屋にもどると、階下にして、両親がいつ現れるかもしれないと、 神経をとがらせてぴりぴりした状態から抜け出すことができた。 やはり、自分の部屋は、そこに一人でいることは透にとりひどく 心地よいものだった。暖かな空気に包まれているような気持ちに なった。廻りに他人を感じないというのは、とても穏やかな気持 ちになれた。まだ、透が中学生だった頃の、学校での休み時間の 苦痛と授業中なると楽になる気持ちを思い出していた。 休み時間、どのようまーに友達と、いやクラスの人と話したら いいのか、どんな話題ならすんなりと話の輪に溶け込めるのか、 透は最後まで分からなかった。いつも、相手の答えを用意しての 会話はひどく疲れるものだった。一人で教科書を開いているか、 昼休みなら図書室に行って数学者の電気でも読んでいるかしかな かった。自分の意見が考えが、その頃の透には、なにか何か、全 て、他人とは違うような、正直に言っても受け入れらなれないよ うな恐怖と戸惑いから、抜け出すことが出来なかった。大人しく しているか、他人から距離をとっているかしか、通るにはとって の安心はなかった。友達、親友、へー、何それ?という感じだっ た。負担になる相手にそんな思いを持てるはずがないと思いなが ら、中学時代をすごしていいた。 卒業の日に、クラスの男子か ら言われたことを透ははっきりと覚えていた。クラス委員をする ような真面目で、勉強もそこそこに出来る、中学生にしては眉間 の幅の狭い、大人のような顔をした彼だった。四角い箱を思わせ る、頑丈そうな顔で、分厚い唇から、彼は言った。「石塚はけし て、他の人をある程度の郷里から内に入れないよな」真面目だけ で、頭の固い相手だと思っていたのに、ふいにそんな思いよらな いことを言うので、なかなか鋭い観察眼があったんだなと驚いた のをはっきりと覚えていた。いや、他のクラスの人もはっきりと 言葉にしなくとも、それをわざわざ言葉にして確認する手間など をかけなくても、そんな必要が、何もそんなことにエネルギーを かける必要が、透のためにだ、クラスのほかの人になどある必要 がなかっただろう。ただ、透の雰囲気は中学生らしい感じ取って いたのかもしれない。 同じような経験は、今度は高校時代にも あった。また、三年生の時、大学受験を控えた秋の文化祭の前だっ たので、三年生のもう学校も終わりの頃になると、透もある程度 安心して心の中を剥き出しにする瞬間があったのかもしれない。 これもまた、真面目そうな級長の男子だった。中学の時の少し鈍 そうな感じの彼ではなく、何ごとも鋭いことをいうので、その時 は言葉そのものには驚かなかったのだが、「お前は、クラスの一 員とは思わないから」とクラス委員長は真剣な表情で言ってきた のだ。クラス全員の思いを背負っているようなその表情には、滑 稽に近いものを透は感じてしまったが、文化祭のクラスの出し物 を準備するのに、透一人だけが、放課後に帰ってしまうのことに を責めて、そういったのだ。「受験の方がクラスの文化祭よりも 大切だろう」と思ったが、話しても分かる相手でもないし、言い 合いになるのも嫌だったので、透は笑っていた。その後で、彼が 何と反応をしたのかは、徹は今では全く覚えていなかったが、「ク ラスの一員とは思わないから」と言われたのが、何か、「石塚は ある程度の距離以内には近づけないと」という言葉は居ているよ うに感じて、同じようなことを言うなと感じたので、覚えていた のだろう。こちらも思わないんだからしょうがないやと透は思っ た。まあ、それをいにちに言葉にしてくれて、はっきりと突きつ けてくれると、自分の位置がはっきりして、それもありがたいな という思いだった。休み時間の違和感に、少しは居場所が見つかっ たような気分だった。受験勉強もあるし、そんなことをあれこれ と考える時間はないと透は思って、それ以上は考えなかったのだ が。二階の自分の部屋に戻り、朝のふとんに再び入ると、同窓会 の連絡が一度も来ないのもこれなら当然だなと透は、力なく笑っ た。 お昼過ぎに、階下に降りていくと、嫌な気配がして、父親も偶 然にも透とおなじように台所に来ていた。 たので、父親と鉢合わ せになった。すぐに、消えて行ってしまったのだから、おなじよ うに気まずい思いを感じたのだろう。口げんかをしたのは、つい 数日前だった。「夢を持てるような仕事をしたいんだ」と、父親 に叱責をされて、透は応えてしまった。口に出してからまずいと 思ったが、「誰もそんな仕事には就いていなんだ」「みんな、我 慢をして仕事をしているんだ」「叱れたり、つらかったりする代 わりに給料は貰っているんだぞ」と立て続けに言われてしまい、 もう反論も、透にはできなかった。どんなに口論しても、立場上、 透に分がないのは分かっていた。ただ、はいと言えない、なにか が透のなかにあった。それが、全部、自分の責任、自分のせいだ とも思えなかっただけだ。また、違う日に、母親に「このままよ りも、暫くボランティアでも、してみようかな」と言った事もあっ た。「ボランティアなんていうのは、仕事を退職した人がするも のだよ」「若いうちは、自分で食べられるように働きなさい」と 言われて、やはり、透には反論もできなかった。その通りだと思 うのに、透のなかの何かが、それに踏み切れなくて、頭の中の理 解と心の中の反応が違うのだった。なぜ、自分だけそうなってし まうのか、分からなくて、ただ、自分が何を言っても間違ってい るのは、透にもわかった。ちゃんと、働いていない大人が何を言っ ても、受け入れられないのは分かっていた。父親は定年までおな じ職場を勤め上げ、まわりからも真面目意図筋と見られているの に、母親も子供思いのに優しい母親と思われているのに、どうし て、自分の素直に気持ちがそれと違う方向に向いてしまうのかが 分からなかった。小さい頃から、「甘えて育てられたせいだろう か」「過保護に育てられた性だろう」子供の頃は、友達と喧嘩も しない、親にも口答えしない、いい子と言われたのに、なんとは、 透は自分以外のところに、原因を見つけたかったが、やはり、大 人になってそんなことをいうのは甘いんだと、透自身のなかでも うひとりの透がそう批難してきた。そして、もうひとり透がそれ を分かっていても、やれないんだと相手を批難していた。 「仕 事を探しいるのか」透の中の父親がう話しかけてきた。「今探し ているんだけど」と少しでも、いい自分でいたいと思う返事をし た。「やりたい仕事はあるんだけど」父親は黙って聞いていた。 それを否定しているのは透には、読み取れた。「そんな夢みたい なことを言っている資格は、自分にはないのは分かっているんだ けど」湯飲みで台所の角に擦れて、キィーンと金属的な乾いた音 を立てて透は現実に戻った。急いで、水を飲むとまた、自分の部 屋にと駆け上がった。自分の息子なんだから、父親にも母親にも、 他人がいう批判とはちがうことを言って欲しかったのだ。立場が 違えば判断も違っていいと、自分の方にいて欲しかったのだ。部 屋の扉を締めると、両親への説明のしようのない嫌な感情が薄れ ていくのがわかった。そんなことを言うなんて、自分の方が甘え ているんだと冷静に考える余裕ができた。そして、どうして自分 の心だけ、こんなに曲がっているかと嫌になった。 次の日、し かし、透は職業安定所に仕事を見つけにいった。そして、商品の 配送の手配を倉庫でする仕事を見つけてきたのだが、家に戻って も、黙ったまま自分の部屋に急いだ。どうせ、そんなアルバイト みたいな仕事では満足してもらえないのは、分かっていたし、ぶっ きら棒に、「そうか」と返事をされるのは分かっていた。表情を あまり変えずにいう、そんな顔は見たくなかったのだ。「アルバ イトだけど、仕事を見つけてきたよ」自分の部屋に戻ると、透は 父親に話しかけた。昨日、言われたことを素直に自分が聞いてし まったのが、少し恥ずかしくもあったが、少しは安心してもらえ たのかなと自分で気持ちが楽になった。「30過ぎてこの先はどう するつもりなんだ」ずっと後にもそう言われたが、安心てもらえ るとやはり、嬉しかった。「そんなアルバイトをいくらしても、 何年続けても結婚もできないだろう」と突き放すような口調で、 父親は続けた。もう透にはそれが自分の言葉だと、自分でも聞き たくない心の中の言葉だと分かっていた。そう思うと、なにか素 直に、ちゃんと心配されているのが分かると嬉しかった。自分が 職安に行ったことの成果のように聞こえた。そうなんだけど、今 はやはりそれにしようと思う。20代と透が答えていた。母親は、 兄弟喧嘩しないいい子供だったのに、どこで間違ったのかねと力 なく、笑っていた。優しかったけど、きっと意気地なしだったん だね、透には母親に返事をする言葉が見つからなかった。きっと 自分もおなじ立場ならそう思うだろうと思うと心の中の母親には すまない気持ちでいっぱいになった。「子供の頃から良い子だっ たのに、どこで違ってしまったのかね」ともう一度母親は言うと、 沈んだ表情で溜まりこんでしまった。父親は無表情に、「その仕 事をつづけてもどうしようもないだろう」と繰り替していた。透 は、何もしゃべらずにに自分の部屋に戻ってしまってよかったと 思った。 母親はどうして、友達とも兄弟とも喧嘩をしない良い子だと思っ たのだろう。高校を卒業して、自分の手元にいるまではちゃんと していたと思ったのだろう。大学のために東京に来てから、おか しくなったと思ったのだろう。今、思い返してみると、もう中学 のとき、高校のときから、今の自分のようになる兆しがあったと、 50過ぎの透は思うのに。どうして、なんでも言うことを聞く良い 子だと思ったのだろう。教師にも親にも可愛がられる良い子だと 思ったのだろう。友達を一度も家に呼んだこともなかったし、友 達の家に泊まったこともなかったし、友達も泊まりに来た事はな かったし、友達の愚痴も言わなかったし、それでやはり、原因な のだろうか。もしかしたら、透は今思うことがある。自分は小さ い頃、小学生のころの環境にぴったりの性格だったんじゃないか と。人生で最も幸福な時期というのが、自分の場合は少し早く来 たのかもしれないと。その頃は、確かに自分の思いの通りに振舞っ ていると、周りからも可愛がられた幸せな時期だった気持ちがす る。そうすると、大切に育てたのに、親元を離れたら道を外れて しまったという嘆きも、当然なのかもしれません。後に、なって 母親は、「若い頃に少しやんちゃやぐれている位の方か大人になっ てしっかりするんだろうね」と言ったことがあるが、そう思うの も当然なのかもしれない。実際にそれを聞いたときには、はやく 分かってくれよと反発もしたが、やはり、自分の中に原因があっ たかもしれない。でも、それを分かったのは今になってからだし、 治し方は今も分からないままだ。 アルバイトの仕事は商品の整 理だったので、単調な仕事だったがここで、また透は失敗を極端 に恐れてしまい、もっとてきぱきと動けよと注意された。すると、 余計に叱られてはいけないと思い、神経が張り付いて、動作がぎ こちなくなった。しょうがないと思ったのか、その日はそれ以上、 注意を受けることはなかったが、透はその単調な作業でも、ひど い疲れを感じてしまった。思えば、透は幼い頃から、小学生の頃 から叱られることのほとんどない良い子だったが、こんな心理状 態で、親や先生に接していたのかなとと思った。 昼食後の休憩 時間に、また、あの嫌な休憩時間だったが、一人で座り込んでい ると「まったくこんなことをいつまでも覚えているなんて、おか しいよな」と哀れむような口調でしゃべっているのが聞こえた。 小太りで筋肉質な、意志の強そうな顔をした、三十代くらいの男 性が、相手に新聞記事を見せていた。あしは、二十八歳の男性が、 透より少し年上だったが、中学時代にいじめられた同級生に仕返 しをしようとして、自宅で爆弾を作っている時に、それが爆発し、 自分が大怪我を負ったというものだった。そんなことをいつまで も根に持つ性格だから、いつめられんだよなとでもいいたそうな 口調だった。その新聞相手に相手に差し出すと、もう関心なさそ うに、その二人はバイクの話をし始めていた。 いじめる方はす ぐに忘れても、いじめられるほうは、ずっと長く覚えているもの なのにと透はそれを聞いていた。でも、そんなことを誰かに言っ ても無駄なことはわかっていたし、自分も以前の弱さを克服しな ければ、駄目なんだということは分かっていた。しっかりしなく ては、その生地に自分を重ね合わせて考えながらも、でも、やは り、小学校から中学、高校と皆と同じようにやってきて、そこで 躓いてしまった人間は、また、普通に他人と同じようにやるのは、 今度は、2倍も3倍も労力を必要とするのに、当事者でそんなこと には気付かないよなと思った。そして、また、そんなことで嘆い ている自分を仕方ないやだと透は思った。 休憩時間に競馬新聞 を見て、熱心に研究している人もいた。その向こうに透と同じよ うにして、ぽつんと時間を持て余したように、腰を降ろしている 人もいた。透と同じくらいの年齢だろうか、二十歳も前半くらい のはずなのに、他人を避けるようにしているその雰囲気が、自分 を連想されて、思わず透はその男から目を背けた。自分とおなじ ようなものを持った人がいるというのは、透には嫌なことだった。 何か自分を見ているようで、そこから逃れたいと思っているもの を間の前に突き出されたうなき持ちになり、そこから離れたい気 持ちになった。「きっと、自分もあいつと同じように他人から見 られているのだろうな」と透が思った時、その男が何か同類の生 き物の臭いでもかぎつけたようにして、目を合わせてきたので、 徹は不自然にならないように同じ姿勢を取り続けた。爆弾を誤爆 させてしまった男の記事が気のなるのはと、徹は思った。きっと、 自分がその男性と同じものを見つけ出しているからに違いないと、 そんな自分を嫌だと思うと、休憩時間が余計に苦痛になった。「よ し、今夜のこのレースにするか」と競馬新聞を見ていた五十近い だろうと年の男が膝を打って立ち上がった。「今夜、競馬に行く のですか」と透は自分でも驚くようにはっきりと男性に尋ねてい た。「そうさ、お前も言ってみるといいよ。楽しいぞ」やせ過ぎ で、荒れた肌をしたその男性は、からからと笑い声を上げながら 答えた。そうか、競馬にでも言ってみようか、今日のバイト分を 一度に使ってしまったら、それも楽しいだろうなと、初めて自分 から話しかけられた満足感と高揚感から透はそう思った。そう言 いながら、その男のポケットの破れかかったジーンズ姿を見つめ ていた。 仕事は単調なものだった。伝票どおりに商品をそろえ るのだが、それでも透は極端に間違いを恐れてしまい、進み方の 遅いのを最初、叱られたりした。神経を使いすぎて、それでまた、 注意を受けた。小学生からずっと、ほとんど叱られたことのない 極端に叱られるのが嫌だった。きっと、叱られるのを避けたいた めに、良い子をしていたのかなとも思えるほどだった。そして、 昼食のあとはまたあの休憩時間だった。ひとりで倉庫の階段に座っ て過した。すると、「こんな昔のことをいつもまでも、覚えてい るなんて、まったくおかしいよな」という声が聞こえてきた。あ ざ笑うようにして、透より少し年上のふたりが新聞記事を見てい た。それは、35歳になる男が、中学のときにいじめられた同級生 への仕返しに、自宅で爆発物を作ろうとして、誤って爆破させて しまっというものだ。「こんなのをいつまでも根に持っているか ら、いしめられるんだよ」とひとりが訳知り顔に話している。「馬 鹿なやつだよな」というと、もう興味がないというふうにもう一 人は、目をそらしてしまった。そして、二人は楽しいそうにバイ クの話を始めだした。苛めるほうはすぐに、忘れてしまっても、 苛められたほうはずっと覚えているものだと、それを聞きながら 透は思った。そして、最初の職場のいじめを思い出した。大学を 卒業しての最初の職場だったが、挨拶をしても先輩社員から無視 される、机の上にゴミがおかれていたり、いいものを上げるから と小さくなった鉛筆を何本も机に置かれるようにもなった。「う れしいだろう」と言われると、にこにこして、頷くしか透には対 処の仕方がなかった。「職場は学校とは違うんだからな」という のはよく言われた。どう言う意味だったのか、最後までわからな かったが、先生みたいな上の人はいないんだから、自分の身は自 分で守れということだったのかもしれない。良い子にしていれば いいと思うのは間違いだという意味だったのかもしれない。毎日、 職場に行くのは辛かったが、やはり、職場にはいくものだと透も 思っていた。周りの同僚も誰も助けてくれなかったが、それもきっ と自分の態度が悪いからだとばかり思った。中学のときも、高校 のときも、仲間には入れのは苦手だったから、職場に来たら、こ うされるのかなと思った。同期からは、「学校での苛めはあるけ ど、会社に入ってまで苛められるのは珍しいよな」と言われた。 それもみんな、あの中学や高校での出来事からして、自分のせい だと思っていたのだ。もう過去のことなのに、今でも透はときど き、その時のことを思い出した。苛めていたほうは忘れているか もしれないが、苛められたほうは忘れないものだ。思い出そうと しなくても、ふと、その時の一場面が脳裏に浮かんでくるんだ。 まだ、20代のそのとき、透はその男の気持ちがより強く分かった。 テーブルの無造作におかれた新聞を見ると、その男は死にはしな かったが重症とあった。確かに自宅で爆発物を作ろうとして自分 で被害にあうなんて、滑稽に見えるのかなと床に落ちてしまった 新聞を見て、透も思った。でも、それでも気持ちが晴れることは ないからなと、ふただび、膝を抱えて座り込みながら思った。 また、競馬新聞を見て予想に熱中している人もいた。その向こ うにぽつんと時間を持て余したように、ひとりで座っている人が いた。年も透とおなじくらいだろうか、他の人を避けるようにし ている雰囲気がなにか自分を連想させると思い、思わず透は目を 反らした。自分を見ているようで嫌だったのだ。そこから逃げた いと思っている自分を目の前に突きつけられた気持ちになり、そ こから離れたいと思った。「きっと、自分もあのように他の人が 見ると見えるのだろうな」と思うと、なにかおなじ臭いのような ものを透はそこに感じ、嫌だったのだ。「よし、今日の勝負レー スはこれだな」と予想をしていた、男が急に明るい声を出して立 ち上がった。もう50近い、髪も服装も気にしていない風の男だっ たが、「今夜は競馬ですか」と自分でも驚くほどのはっきりとし た声で、透は尋ねていた。乱れた長めの髪を揺らして、男が振り 返った。「一儲けしてくるよ」と荒れた肌の顔が笑っていた。そ うか、競馬でその日のバイト代をパット使ってしまうのも楽しい かもしれないなと、羨ましそうに透はその笑顔を見つめた。
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