泣くことができない夜に / 飛べない勇気
1 「みんなを大切にしよう」。言ったのは誰だったか。遠出英孝(とおで ひでたか)は帰りの車の中で考える。婚約者の親に挨拶を済ませ、自分の家と向かう途中である。滅私奉公。まわりの人の幸せが自分の生きる糧。みんなが嬉しいと自分も嬉しい。……誰だろう、そんなありがたく、崇高で、迷惑な考えを押し付けたのは。答えのでないまま、レールに沿って少しずつハンドルを着る。バックミラーにうつる灯りが少しずつ遠ざかる。英孝の頭に、日中のことが少しずつ思い出される。
2 英孝が大学でそのサークルに入るきっかけは、勧誘のビラをもらってからだった。「歌うのは好きかい? 」。A4の紙を4つ切りにした大きさの紙には、そう書いてある。行書体で大きく、ど真ん中に。けれど英孝の興味を引いたのはその部分じゃなくて、下のふちに書いてある、誰かがいたずらで書いたような、申し訳程度の大きさで書いてある「じゃあ泣くのは? 」という一文だった。
歌うのは好きかい。 じゃあ泣くのは?
英孝にとってなんとなくそれが皮肉のような気がして……泣くのも歌うのも変わらないだろ。何をかっこつけてるんだ。そう言われたような気がした。その日の午後英孝は入部届けを済ませるけれど、結局卒業する間際まで誰がその一文を付け足したのか、分からずじまいなのだった。 びゅるりと季節はずれの北風が吹いて、持っているビラをカサカサと鳴らしていく。英孝はまだ新しいコートの襟を合わせる。心中に合ったのは期待か、それとも心細さだったろうか。
3 わりかし器用なほうだったから、英孝はそつなく楽器を演奏することができた。最初はギターを買って、次にベースを習い、最終的にボーカルに落ち着いた。けたたましい音を出す同期といっしょになって、喉が枯れるまで声を出して発散するのは、代え難い楽しみである。音と自分が1つになって、溶け合っている。みんなが汗だくになって、まるで1つの生き物のようになる。その時、自分は世界と分かり会えた気がして、……世界を許して優しい気持ちになったような気がして、母性を持って自分を見る。けれど演奏が終わると、すべて元通り。自分は何も持たない。疲れきった体で、ビールを飲む。アルコールが自分をゆるませ、思考はにぶくなっていく。結局自分が誰なのかわからなくなるまで飲む。少しずつ、境目が曖昧になる。それは自分と他人、正気と狂気の線引きだった。煽られるままに英孝は一人の同期と関係を持った。
4 ラジオの音量を上げる。車はトンネルの中に入る。トンネルの中を照らす灯りが、高速で後ろへと流れていく。子供のころはまるで宇宙にいるようだと感じた。父親の運転する車の中で、ワクワクしながら外を見ていた。……自分で運転するようになってからは、その気持ちは失われてしまった。自分が変わってしまったのだろうか。あんな風にいつでも楽しむことができれば。できない。もう子供じゃないんだ。じゃあ大人なのか? それもきっと。繰り返す自問自答に、答えはでない。自分は灰色だ。そしてそれをきっと「大人になった」と評する人間が居るのだろう。「自分は大人だ」と自称する人間が居ないだけで。
揺れる車内で酔った嫁は口を滑らせた。私、あの時好きな人が居たの。あの時? 聞いても彼女はくすんだ笑顔で首をふるだけ。小学生、中学生、高校生。あるいは大学生。もしかしたら、自分と関係を持ったあの夜。まだ自分に手綱をつけることができなかった時期。わけが分からず、善悪も好悪もなく、ただフラフラと周りの空気に流された時。彼女も同じだと思っていた。けれど違っていた? 答えはない。助手席で眠る彼女の顔を見る。求めてる答えはない。一言でいいのに。
高校生の時に憧れていたミュージシャンだった。朝から晩まで同じ曲を聴いていた。飽きなかった。自分の空っぽだった内側に、何かを満たしてくれているような気がした。彼は「もうだめだ」という弱気を、「まだダメじゃない」とまるで手品のように歌にした。英孝は励まされて、自分にも価値があると錯覚して、とにかく感謝していた。 のちにテレビ番組に出たそのアーティストは、ボソリボソリと彼ら特有のしゃべりかたでインタビューに答えていた。「応援するきなんて、全然」「僕だって弱っていた」「あれはただの弱音なんです」。今ならその気持ちがよくわかる。「ただの弱音」。 「みんなを大切にしよう」。そんなものは。けれど憧れの人が言った言葉は、ただの弱音でも自分たちを勇気づけてしまう。知りたくなかったと片側がいい、そんなもんだと誰かが答える。中心にいる英孝は、アクセルを踏み込んでそれに答える。「しょうがない」。諦めるのだけは、上手になった。
このまま順調に行けば、24時を回る前に家につくだろう。時間は過ぎていく。このままずっと深夜の高速道路を走っていたい。どこにもつかず、何も見えず。ただ景色が流れていくだけで。必要なものはすべてあるような気がした。気がしたんだ。 胸にこみ上げる思いを、英孝はなんと表現したらいいか分からなかった。少し考えて、自分は悲しんでいるのだと気がついた。けれど涙は出なかった。目はカサカサに乾いている。代わりに顔の右側がゆがんだだけだ。「しょうがない」と自分に言い聞かせる。そんなことばかりが上手になった。自分の気持ちの行き場を知らない。自分のことだってよくわからないのに。教えて欲しい。でも、しょうがないんだ。人生のスピードは上がっていく。景色は流れていく。過去の記憶も思い出も、気がついた時には背中のはるか彼方。ポツリと粒のような明かりにしか見えない。帰りたい。帰れない。戻りたい。戻れない。ああ、ただ教えて欲しいだけなのに。ウロウロしてオロオロして、迷って回って這いつくばって、たどりついたのが自分自身。けれどたどりつけない自分自身。自分は間違っていたのだろうか?
英孝は目の前の暗闇に向かって、アクセルを踏み込んだ。
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