弐-14
洗面所は大浴場の向かいだった。
扉が開けられた瞬間、広い屋敷のような家だからきっと洗面所も……と少し身構えたのだけれど、中の様子を見て少し拍子抜けした。
いたって一般的な洗面所だった。
大きな鏡があって、流しがあって、水道口近くにはハンドソープが置かれている。
周りは涼香が手入れをしているのか、白い床には髪の毛一本落ちていなかった。
洗面所の隅にはドラム式の洗濯機が置いてある。
「ここの洗面所は共用なんです。個人の洗面台は個室にそれぞれありますが、まだ君の部屋が用意できていないのでここで我慢してください」
あたしの表情を読み取ったらしい清才様は、申し訳なさげにそんなことを言った。
「とんでもないです! わたし、こういうところの方がかえって落ち着くと言うかなんというか!」
ぶんぶんと両手を振って弁解のようなことをする。
でも、実際、本当のことなのだ。
あたしは、昔から貴族が暮らすような広いお屋敷は落ち着かなかった。
だから、こういった生活感のある一般的な空間が好きなのである。
しかし清才様はそんなことなんてどうでもいいようで、それよりもぶんぶんと手を振るあたしの動作に興味を示していた。
まるで小動物の行動を観察するかのような好奇の眼差しで眺め続け、更にこの後の反応を待ち構えている。
「あのぅ……」
気まずくなって手の動きを止めて声を掛ける。
申し訳ないけれど、恥ずかしさが勝って清才様の期待にそうことはできそうもない。
けれど、清才様はまたあの素敵な笑みを浮かべて、
「すみません、あまりにも可愛らしかったので」
と、冗談を口にする。
あたしはそれ以上何も言えなくなった。
思うに、自分らしくいることって結構恥ずかしいかもしれない。
清才様が戸棚を開けると、ストック用らしき歯磨き粉や整髪料などが所狭しと並べられていた。
それも、規則正しくきちんと種類ごとに分けられていて、とても分かりやすい。
家の片づけ方を見る限り、涼香は相当几帳面なようだ。
自分で言うのもあれだけど、あたしなら絶対にこんな綺麗に整理整頓しない。
「歯ブラシは、客人用の物が確かこの棚に……あ、ありましたよ」
清才様は新品のピンクの歯ブラシをあたしに渡してくれる。
浴衣とかもそうだけど、客人用ってことはここには色んな人が来たりするのかな。
「トイレはこの隣にあります。居間はここを右に折れて三番目の部屋です」
「分かりました」
「何かあったら、呼んで下さい」
「はい、ありがとうございます」
あたしは清才様が出て行くのを確認してから、清才様にお願いするべきことを頭の中で整理する。
なんとか、パパたちを助けてもらわないと。
清才様に出会った時から、会話をしていても時折そのことが頭を過っていた。
あたしがするべきことは、清才様との再会を喜ぶよりも先にパパたちの救出を依頼することだ。
分かっていても、あまりに嬉しくてついつい清才様に飛びついてしまいたくなってしまう。
あたしは冷水で顔を洗い、気合を入れるために自分の両頬をぺちんと叩いた。
一通り支度を済ませて、今度は真っ直ぐ居間に向かう。
と、この部屋はさっきの洗面所とは違い、物凄く広い上に豪奢な洋間だった。
天井には小さいながら二つのシャンデリアがぶら下がり、クリスタルがきらきらと光を浴びて輝く。
高級感のあるソファの隣にはこれまた高そうな壺が飾り棚の上にそびえ立っていた。
隣の和室と繋がっていて、そこにはまだ炬燵が置いてあった。
和室から見える飾り棚にもお皿が数枚並べられている。
誰の趣味か分からないけれど、素人のあたしでさえこれら家具のセンスの良さを痛感させられる。
「遅い。早く座れ、餓死する」
あまりの豪奢さに圧巻していると、洋間のアンティーク調の椅子に腰かけた薙斗に睨まれる。
今日は軍服ではなく、背広を着ていた。
これから出勤なんだろうけど、涼香の和服に清才様の着流し、あたしの浴衣という中で一人だけ背広を着てる薙斗は非常に浮いてるように見える。
「さ、琴音ちゃん、こっちに座って」
涼香はあたしを清才様の隣に座らせ、ご飯をよそってくれる。
食卓には味噌汁に焼き鮭に肉じゃがが並ぶ。
洋間でこの朝食はいささかアンバランスだったが、あたしにとってはこの上なく嬉しい。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
涼香の声に合わせて、あたしは肉じゃがに箸を伸ばした。
「それ、昨日作った余りなんだけど、口に合うかしら」
涼香が心配そうに尋ねて来る。
「うんっ……」
あたしも、本当だったら昨日肉じゃがを作ってたんだ。
パパの好きな肉じゃが。
またこうやって、パパと静と食卓を囲うことはできるのかな。
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