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作品名:睦子のマニュアル 作者:松韻萬里

第1回   第一章 会社ではこう呼ぶ
 居酒屋の扉をガラガラと開け、冴えない二人組が入ってゆく。奥には既に仲間の一人が到着しており、夏だというのに熱燗の日本酒を抱えチビチビやっている。

「睦子さん、ご希望通り若い男の子連れてきたよ。」
 睦子と呼ばれた女性はチラリと男の顔を見たものの、それ以上の興味は示さなかった。
「山野祐太さん。週に三回うちの倉庫でアルバイトしてくれてる。」
 田中やす子が祐太を紹介する。
「こちらは、佐藤睦子さん。今は文具会社の倉庫にいるけど、その前は私たちのパーツセンターで働いていた。私の前任者、大先輩です。」
 今度は祐太に睦子を紹介する。三人の務める流通センターは東京ドーム4個分のスペースを有する広大な施設。沢山の企業が倉庫を置いており、睦子の会社は文房具、祐太とやす子の会社は機械部品を扱っている。

「おはようございます。三年前、おたくのパーツセンターをクビになった佐藤睦子です。」
 パーツセンターは大手機械メーカーの直営倉庫、全世界の工場で稼働する機械の補修部品が置かれていた。24時間年中無休だから、真夜中でも挨拶は「おはようございます」。
 それにしても「クビになった」とは穏やかでない。冗談とも思えない程声も暗い。

「やだ、そんな風に言わない約束でしょ。睦子さんは皆から尊敬される優秀なパツシェなんだから。」
「パツシェ?」
「ああ私達の業界用語。パーツに詳しい人に敬意を表してそう言うんです。ネジのことなら睦子さんが一番、設計部の人が習いにくるくらい凄かった。」
「でもそれがクビになった理由よ。今じゃ鉛筆にやたら詳しいけどね。」
 睦子が吐き捨てるようにいう。

 トガッタ雰囲気を感じた祐太が話題を変える。
「ところで、会社では「田中さん」とか「佐藤さん」・・・苗字に「さん」を付けて呼ぶんですね。」
 ボケをかましたつもりでもなく、フリーターを長くやっている祐太には不思議に思えていたたこと。慇懃無礼、丁寧過ぎるのだ。

 祐太の疑問に応じてくれたのは意外にも睦子だった。
「「さん」と決めている会社が多いようだネ。「睦ちゃん」「ヤッさん」なんて呼び方は親しげだけどシマラナイ。会社は仲良しサークルじゃないからね。・・・それに今は何かとウルサイのよ。パワハラとか男女差別の問題なんかがあって。」
「女性社員を呼ぶのに「田中君」「佐藤君」はないし、かといって「睦子」「やす子」もね。昔は、名前でなく「そこの女の子」とか「お嬢さん」なんて言ったみたいだけど最低だよ。」
 やす子が追加し、睦子は頼まれもしないのに更に深いところに入って行く。

「苗字に「さん」を付けて呼ぶのは、役職者に対しても同じだよ。○○課長とか××部長じゃなくて、○○さん××さん。誰もが「さん」だからフランクかな。センター長、部長、本部長附、室長、研究主幹・・・もともと誰が偉いのか分かりにくいから「いっそ「さん」に統一しちまえ」って事になったんだろうね。」
「でも私らヒラの方から偉い人に向かって○○「さん」とは言わないですよね。やっぱり○○「課長」とか単に「課長」。「課長」が「部長」に昇進した時なんか言い間違えないように細心の注意が必要だったりして。」
 とても深いやす子のコメント、勤務経験の浅い祐太の理解を遥かに超えていた。

「実に難解です。役職の上下に関係なく○○さんと呼びあうことなっていても、ヒラは役職者に○○課長とか呼ぶ習慣なんですか。・・・ところで仲間ウチでは、「睦子さん」とか「やす子」と呼んでますよね?」
「それは女どうしでの話しだよ。やす子さん、やす子、ヤッチン、女の間では決まりがない。だけど一旦決まるとそれで固定されるんだ。睦子は「睦子さん」で、やす子は「やす子(呼び捨て)」。絶対ブレない。・・・でも男はどんな時でも「さん」だよ。」
 ブラックな印象とは裏腹に、睦子はよく喋りしかも丁寧だった。その理由は後でわかるのだが。


「あッ、「鈴木さん」のご到着ですよ。」
 やす子が、扉の前でキョロキョロしている「鈴木さん」に手を振る。
「やあ、遅れてごめん。出掛けに本社から電話が入ったもんで。」
 白髪混じりの紳士が近づいてきた。
「セ、センター長ッ」
 祐太が叫ぶ。

「ああ、山野さん、センター長は止めて下さい。鈴木さんでいいですから。」
「ほらね!」
 女二人が勝ち誇ったようにいう。
「何のコト?」
 いぶかしげに尋ねるセンター長にやす子が今迄のやり取りを説明する。


「確かに会社では「さん」を使うことが多いようですね。そういえば、「日本語の「さん」はとても便利だ」と聞いたことがあります。英語ではミスター、ミス、ミセス、ドクター、サーと区分が多いけど、日本語はすべて「さん」でいいのですから。」
 センター長は、アメリカ、イギリス、シンガポールの現地法人で働いた経験があるという。もの凄い経歴に関わらずさりげない話ぶりは、自慢する程のことでもないかららしい。

「そして中国では相手を敬い「○○先生」といいます。」
 睦子が付け加える。
「ええ、私もそう呼ばれたことがあります。悪い気分はしませんでしたね。でも日本では料理家から美容師まで、みな先生ですから・・・」

「ミスとミセスはミズという便利な言葉で括れますよね。でも、ドクターやサーを間違えてミスターと呼ぶと大変失礼になるとか。」
 再び睦子が知識をひけらかす。そういえば映画で、ハリソン・フォード扮する考古学者のインディー・ジョーンズがミスターと呼ばれた時、ドクターと言い直してみせるシーンがあった。
「そうなんですよ。ドクターかどうか分からない時には徹底的に調べたもんです。ドクターって日本ではお医者様。でも海外では大学の博士号持った人がドクターなんです。高学歴の社会なんでしょうか、とにかくドクターと呼ばれる人達が普通の会社にもゴロゴロいました。」

「今はインターネットで簡単に検索できますけどね。」
 学術的な用途はインターネットの起源、博士号を持った人ともなると著筆論文が何本もヒットしてくる。
「それに欧米でも名刺交換が一般的になりましたから、最近は簡単。名刺に「Dr.○○」とデカデカ書いてあってね。」

 さらにやす子が続ける。
「ドクターとは違いますが、「作家○○」とか「フラワーコーディネーター××」とか職業を名前の前に書き加える人も多いですよね。」
「日本では会社や大学など所属する組織が大事だから 組織+役職+氏名 のセットが一般的。その書式にあわせ自営業の人は 職業+氏名 となる。・・・「アイドル□□」、「○○県公認キャラクター**」なんてのもあるみたいですよ。実際に見たことはないけれど。」
「センター長が行かれる銀座のクラブでは、フチを丸めた小さなやつだったりして。」


 フリーターの祐太にはどうでもいい話。でも、多くの人が集まる会社にはそれなりの仕組みがあるようだ。
「社内の会話って、思ったより敬語が多く丁寧なんですね」
 祐太の関心はやはりこの一点。
 
 センター長が答えてくれる。
「ああそう思われますか。でもこれが普通なのかも知れません。フランクに見えるアメリカ人だってビジネスの世界では丁寧な言葉を使います。「ハァイ」とか「ヘェイ、ジョーン」なんて学生向けの教材にありそうな言い回しはなかったですョ。」
 センター長が言うには、「あなたは少年ですか?はい私は少年です」「これはペンです」「私はこれができます」と同じぐらい「ハァイ」「ヘェイ」は奇異に感じると言う。


「そういえば山野さんってはじめの頃言葉が汚かった。「おやっさん」「おら知らねえ」「バッカじゃね」。「僕がおっしゃった」「田中さん粗茶をサンキューっす」、敬語もメチャクチャでした。」
 やす子の話にドキッとする祐太。フリーターになる前は農家の三男坊、家族や友人に囲まれ農作物や乳牛・鶏が相手だったから、丁寧語や敬語に縁がなかったのだ。


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