「おかえり。」 綾奈が出迎える。 「今日は残業だったの?」 「うん。もう大変だった。営業第二課がクライアントを怒らせちゃってさ。うちらの課がそのフォローに駆けずりまわっていたわ。」 多華子はやれやれと椅子に座った。 「それはご苦労様。」 綾奈は労った。 「ところで多華子、夕飯は?まだ食べてないでしょ?」 「外で済ませてきた。課長がおごってくれたよ。お疲れさんということで。」 「あ、そうなんだ。」 綾奈は安堵し、読みかけの小説に視線を落としすぐに没頭しはじめた。そんな綾奈の姿を見て多華子はここのところずっと不思議に思っていたことを聞いてみることにした。 「ねぇ、お姉ちゃん。」 「なに?」 綾奈は多華子に目もくれず返事をした。 「そろそろ旅行の準備しなくていいの?」 多華子の問いに綾奈はハッと顔を上げる。 「明後日からグアムでしょ?それなのになんにも準備していないからちょっと心配になってさ。お姉ちゃんは私と違っていつも二週間も前から念入りに準備始めるじゃない?いつもなら今頃スーツケースの中は完璧に揃っているよね。」 それなのに今回に限ってスーツケースは押入れにしまわれたまま。それがずっと多華子は気になっていたのだ。しかし綾奈はなんだそんなことという顔をした。 「多華子はいつも旅行の前日になって慌てて準備始めるものね。それであれがない、これがないと大騒ぎして。」 綾奈はクスっと笑いながら答えた。 「私のことはいいから。準備しないの?」 「あぁ、それならいいのよ。旅行キャンセルしたから。」 綾奈はさらっと答えた。しかし多華子は驚いて目を皿のように丸くしている。 「ちょっと、そんなの聞いてないよ!」 多華子が詰め寄った。 「あら、まだ言ってなかったっけ?」 綾奈はしれっと答えたが本当は言ってなかったのではない、言いたくなかったのだ。 「キャンセルってどうして!?いつキャンセルしたの!?」 「そんな驚かないでよ。いつだっていいじゃないの。」 「なんで!?」 「・・・旅行に行きたくなくなったからよ。」 綾奈は適当に説明した。しかし多華子は納得がいかない。 「そんなの嘘よ。だってあんなに旅行に行けるの楽しみにしていたじゃない。急に行きたくなくなったとか信じられないよ。」 多華子は食い下がってくる。綾奈は面倒くさいなと思った。 「なによ。お土産買ってきて欲しかったの?あてが外れた?」 綾奈がちょっといじわるに言うと多華子は図星だったのか頬を膨らませた。 綾奈は思わず苦笑いをした。そして仕方ないから本当のことを言う事にした。 「実は由美に急用が出来て旅行にいけなくなったのよ。他の友達誘うにしてもなにせ急でしょ?だからキャンセルしたのよ。」 「でもお姉ちゃんだったら一人でも行ったでしょう?今までそうして来たし。」 多華子の言う通りだった。綾奈は一人で旅行するのは苦ではないのだ。むしろ一人が良かった。誰に気を遣うことなく自分の思い通りに行動出来るからだ。 いや、正直なことを言えば家族以外の人間と一緒にどこかへ出かけるのは精神的に疲弊してしまう。気疲れして観光どころではなくなってせっかくの旅行も苦い思い出になってしまう。会社の同僚との飲み会さえ断っているのだから旅行なんてもってのほかだ。ただ親友の由美だけは例外で一緒にいても気疲れしない数少ない人間の内の一人だったが。 綾奈が他人と関わることにこうも億劫になってしまったのは真二を失ってしまってからだ。それまでは他の人たちと同様に友人や会社の同僚たちと共に楽しい時を過ごせていたのに。 多華子は納得出来ないらしくまじまじと綾奈の顔を覗き込んでくる。綾奈は仕方なしに由美に言ったことと同じ言葉を繰り返した。 「私も最近仕事が立て込んできて旅行どころではなくなったのよ。今日同僚のフォローで駆けずり回っていた多華子なら分かるでしょう」 「うん、まぁね・・・。」 多華子は先ほどまでの慌ただしさを思い出してどうやら納得したらしい。それを見届けた綾奈はまた小説の世界に舞い戻った。 だが多華子は尚もじっ・・・と綾奈を見つめている。そしてなにごとかを思案している。やがてなにやら覚悟したのか大きく一つ深呼吸をし 「お姉ちゃん。」 綾奈は呼ばれて振り返った。そこにいたのはひどく真剣な表情をしている多華子だった。ただならぬ雰囲気を漂わせている。綾奈は何ごとかと思った。あまり良い事じゃなさそうな気がして身構える。 「なによ多華子。そんな怖い顔して。」 「会って欲しい人がいるの。」 「え?」 「お姉ちゃんに会わせたい人がいるの。紹介したい人がいるの。」 綾奈はまたか・・・・と思った。そしてうんざりした。今までいろんな人から男性を紹介したいと言われてきた。その度に断って来たのに。 「だからそういうのいいって言っているでしょ。興味ないから。」 綾奈は全身から拒絶のオーラを醸し出している。しかし多華子は食い下がった。 「一度だけでもいいのよ。一度会ってくれればそれで。それで相手は気が済むんだから。」 綾奈はそれを聞いて不信感が湧いた。 「一度会うだけで気が済むってどういうことよ。」 「その人、お姉ちゃんに一度会ってみたいと言っているの。それでお姉ちゃんがその人のことを気に入らなかったらそれっきりでいいと相手は言っているから。一目見るだけでもいいんだってさ。」 なんともこちらにとって都合のいい話だと思った。気に入らなかったらそれでいいって。第一、一目見るだけでいいなんてまるで私が珍種の動物みたいじゃないか。 綾奈はいぶかしげに多華子を見る。綾奈の顔に刻まれているいかにもな不信感。それはもっともな話だった。芸能人じゃあるまいし一目見るだけでもいいなんて・・・。多華子は綾奈の気持ちを察して慌てて言い訳を始める。
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