そして、土曜日が来た。この日、裕也の自宅に綾奈が来ることになっている。裕也は朝からそわそわしていた。今までも家に遊びに来ていたがその時と今では状況が違う。 「落ち着け、落ち着け、自分。」 裕也はお茶の用意をして綾奈が来るのを待った。一人の健全な男。そこに愛する女性が尋ねてくるとなれば平常心を保つのは至難の業だ。 しかし、今の裕也には綾奈が欲しいという欲望だけでなく綾奈を救いたいという気持ちもある。むしろそれで溢れている。綾奈が自分を脳梗塞から救ってくれたように今度は自分が綾奈を救う。そういう心持で綾奈を出迎えている。 ピンポーン。 玄関のインターホーンが鳴った。 「来た!」 裕也は跳ねるように玄関へと走っていく。ドアを開けるとそこには優しげな笑みを浮かべる綾奈がいた。裕也はそんな綾奈を見てますます救いたいと思う。 「どうぞ。」 「おじゃまします。」 綾奈は何度も上がったことがある家だからたいして緊張もなく靴を脱いだ。裕也の覚悟をまだ知らない。 「コーヒーがいい?お茶がいい?」 裕也が聞くと綾奈は慌てて裕也の傍に立ち 「私が淹れるよ?裕也は座っていて!」 綾奈は有無も言わせない雰囲気で台所に立った。これではどちらがお客様が分からない。綾奈は食器がある所もお茶がある所も知っているからてきぱきと動いている。 「じゃあ、お茶で。」 裕也の立場が逆転してしまった。借りてきた猫のように大人しくなってしまった裕也。綾奈を救うタイミングを逃しそうで焦った。 「どうぞ。」 「ありがとう。」 淹れたてのお茶の香りが裕也の心を鎮める。一口飲んでそれはもっと顕著になった。綾奈もソファーに座りお茶をすすり始めた。 「美味しいな。」 「うん、美味しいね。」 穏やかな時間が流れる。 「ところで今日の体調はどう?大丈夫?」 「それなら大丈夫だよ。退院してからも具合は良い。早期発見だったから後遺症もないし本当に綾奈のおかげだ。」 「そんなこと・・・。」 綾奈は謙遜したがとても嬉しそうだ、安堵しているようにも見える。裕也は綾奈の表情を見て思う。 あの時あんなに綾奈が必死だったのは自分と真二さんの姿を重ね合わせただからだろう。真二さんが倒れた時のこと思い出してあんなに一生懸命に病院に行けと訴えてきたのだ。それを思うと切なくなってどうしても綾奈を救いたいと思った。過去の痛みから解放してあげたいと心から思った。そのためには生半可な覚悟では駄目だ。荒治療になることも覚悟しなければ。 これから自分が言うことは綾奈にとっては苦痛になるだろう。最悪の場合、綾奈はもう自分とは会わない、別れると言い出すかもしれない。 それでも引き返すわけにはいかなかった。今、綾奈を解放してあげなければ二人とも前に進めないのだ。例えこれから先の綾奈の人生に自分がいなくても綾奈が前を向いて歩いていってくれるならそれでいい。裕也は壮絶な覚悟を決めた。 静かに切り出す。 「綾奈に聞きたいことがあるんだけど・・・。」 「聞きたいこと?」 綾奈がきょとんとして見つめてくる。裕也は一瞬ためらったがすぐに心の中で自分の頬を叩いた。 「海を見に行った帰り、僕がめまいを起こした時、綾奈は必死で病院に行けと言ってくれた。めまいは疲れからくることもあるしわりと放置しがちな人は多い、僕も現にそうしようとしたし。でも綾奈はそれでは駄目だと必死で訴えてくれた。それは真二さんのことがあったからなんだろう?」 「・・・!!」 綾奈は突然切り出された話題に動揺する。なぜ今そんなことを聞いてくるのか。無事だったんだからそれでいいじゃない。綾奈は狼狽しながらも話題を逸らそうと辺りを見渡した。何かないかなと視線を動かす。ピアノが目に入った。 「それより裕也。ピアノって調律が大変よね?どうしているの?」 しかし裕也は綾奈の思惑には乗らなかった。真摯なまなざしで綾奈を見つめる。綾奈はたまらなくなって視線を逸らす。 「綾奈。聞かせて欲しいだ。」 裕也は真剣だ。 「なぜあんなに必死だったのかどうしても気になるんだ。」 「・・・。」 裕也は真剣な表情で自分を見つめてくる。綾奈は戸惑いながらも視線を返せば裕也は静かに頷いた。 「今までは綾奈が言いたくなければそれでもいいと思っていたんだ。でもあの必死な綾奈を見て過去に一体何があったんだろうかどうしても気になってしまって。」 「だからそれは真二のようにはなって欲しくないから。それはもう裕也も分かっているんでしょう?だったらそれでいいじゃないの。」 「確かにそれは分かっている。でも綾奈が頑なに幸せになろうとしないのは真二さんを失った悲しみからとか忘れられないからという理由だけではないんだろう?」 「!!」 「以前綾奈は言っていたよな?私には真二に対して罪悪感があるって。あれはどういう意味なんだ?真二さんとの間に何があったんだ!?」 知られたくない領域に容赦なく踏み込もうとする裕也。綾奈の体を駆け巡る焦燥感。どうしてこの人はそんなことまで知りたがるのだろうか、好きだからといって何もかも知る必要があるのだろうか。第一、数か月前、真二のことを忘れられる日がくるまでゆっくりと待つと言ってくれたではないか。 綾奈の焦りの中に徐々に苛立ちが入り混じってくる。好きあっているからって全てをさらけ出す必要はないじゃないかという苛立ち。 しかしそんなのは綾奈の詭弁だった。本当は裕也にあの日のことを知られるのがたまらなく嫌なのだ。罪悪感の正体を知られることを恐れている。 「もうその話はやめて!!」 綾奈は声を荒げた。しかし裕也は一歩も引かない。綾奈の肩を掴んで説得する。 「綾奈はいつまでそうやって過去から逃げ続けるつもりなんだ!!」 裕也の厳しい眼差しが綾奈を貫く。それが余計に綾奈の心を荒らす。 「あなたに何が分かるというの!?何も知らないくせに勝手な事言わないで!!」 綾奈の怒りは爆発した。自分の中の泥を全て吐き出すように。 「あぁ、僕は何も知らないよ。綾奈が何も話してくれないんだ。知りようがないじゃないか!」 裕也は裕也で綾奈の怒りを受け止めながらも強い口調で言い返す。 「あなたは知らなくてもいいわよ!!分かってもらいたいとも思わない!!私のことは放っておいて!!」 感情をむき出しにする綾奈。初めて映画を見に行った後のあの時の綾奈もそうだったがやはり綾奈にはどうしても触れられたくない古傷があるのだと裕也は確信した。裕也は綾奈が本音をぶつけてきて本当のことを告白してくれるのをひたすら待った。覚悟を決めた表情で綾奈と向き合う。 「綾奈はそうやっていつまでも一人で悩んで一人で抱え込んで自分の殻に閉じこもっているだけだ。君はそれでいいかもしれない。それが楽だろうから。」 「!!」 裕也の言葉に綾奈は憤慨する。なんでこんなことを言われなければならないのか! 綾奈が怒りで震えていると裕也は静かにため息をつき 「君はそれでいいかもしれないけど周りの人間はそんな君を見てどんなに苦しんでいるか綾奈は想像したことがあるのか?」 綾奈は悔しくて口を噤んだ。裕也に言われなくてもそんなこと十分に分かっていることだ。 「綾奈の家族、友達、綾奈のことを大切に思う人たちが苦しんでいる綾奈の姿を見てなんとも思わないと思っているのか?」 裕也の諭すような真摯な声が部屋中に響く。 「そんなこと分かっているわ。」 綾奈は裕也から容赦ないことを言われ続け胸の中はぐつぐつと沸騰している。出会ってからの裕也は映画館の帰りのあの時を除いていつも綾奈を傷つけまいとして労わる言葉だけを口にしてきた。 しかし今は違う。まるで容赦がない。 家族や友人が自分のことを心配しているのは分かっている。このままではいけないと頭では分かっている。でも心がいうことをきかないのだ。 そしていつしかそんな綾奈を見てきた家族や友人は何も言わなくなった。 しかし今、誰もが口を噤んでいたことを遠慮なく自分にぶつけてくる人が目の前にいる。久しく忘れていた衝撃。 「綾奈は過去ばかりに囚われて前へ進もうとしない。周りの人たちはそんな綾奈を見て気に病んで。でも君はそのことを知りながらも前へ進もうとしない。今の状況に甘えているんだ。」 裕也の遠慮のない言葉に綾奈はとうとう切れた。 甘えている!? 次の瞬間、乾いた音が部屋中に響いた。後には頬を赤くした裕也と、怒りで右の手のひらを震わせている綾奈がいた。 「何も知らないくせに勝手なこと言わないでよ!!」 綾奈は怒りで頬を紅潮させながら必死で裕也に抵抗した。しかしその瞳からは涙が溢れている。裕也はただ綾奈を真剣な眼差しで見つめるばかりだった。 「私がこの先一生孤独なまま野垂れ死にしようがあなたには関係ないでしょう!?・・・なんなのよ・・・これ!!・・・一体なんなんのよ・・・!。私がどう生きようとどう死のうと関係ないのよ。誰も私のことなんて分からないんだから・・・。」 胸の奥から言葉を絞り出す綾奈。これが綾奈の本当の姿、嘘偽りない本当の。 「・・・。」 裕也はただ優しく見守るだけだった。そしてひたすら綾奈の次の言葉を待った。 「私はこの世で一番最低で卑怯な人間なのよ。本当に最低な・・・!!」 そう呟くと綾奈は膝から崩れ落ちた。裕也が慌ててその体を支える。裕也の腕の中で震え泣き続ける綾奈。 「教えてくれないか?一体何があったのか?」 子供をあやす母親のような包容力溢れる裕也の眼差しに促されるように綾奈は決心し、やがてぽつぽつと語りだした。 十年前のあの日のことを。
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