「お姉ちゃん。もう真二さんのことは忘れなよ。お姉ちゃんがいつまでもそうやって立ち止まっていることを真二さんは望んでいないよ。」 多華子の力強い、芯の通った声が響いた。多華子の突然の忠告に綾奈が驚いて振り向けば。 「お姉ちゃんだって本当は分かっているんでしょう?このままではいけないということを。」 多華子が確信めいたような表情で続けた。それが綾奈をイラつかせた。綾奈だってこのままではいけないことは分かっている、分かっているけれどどうしようも出来ないのだ。 「私のことは放っておいてって何度も言っているでしょう!私の気持ちなんて多華子には分からないんだから!!」 「分からないよ!!」 「!」 多華子は切れたのか厳しい表情で返してくる。凄んでいるといってもいい。妹に凄まれて、はい、分かりましたと納得するような綾奈ではないが、多華子のなんとかしたいという思いが伝わってきて正直嬉しくなった。そしてそんな妹の思いに応えられない自分が情けなくなってくる。 ここまで自分のことを思ってくれているのに。そう思うと申し訳ない気持ちもこみあげてくる。妹にまでこんな心配させているんだ、それなのに・・・。 「お姉ちゃんの気持ちは分からないよ。もう10年も経つのにまだ昔の恋人のことを引きずっているなんて。漫画家の蛭なんとかなんて奥さんに先立たれてから2年で再婚だよ?お姉ちゃんもたくましく生きた方がいいよ。」 蛭なんとかって確か奇妙なヘタウマ漫画を描く人だよなぁ、なんでいきなりそのチョイス?綾奈はぼんやりと思い起こして少しおかしな気分になった。 「あのヘタウマ漫画家と比べないでくれる?」 「ヘタウマはヘタウマなりの味があるのよ。それに他にもいるよ?えっと・・・えっと・・・。」 多華子は他にも名前を出そうとしているが思いつかないらしい。だがその気持ちが綾奈には嬉しかった。 「もう忘れなよ、お姉ちゃん・・・。」 突然、真面目になった多華子の声が綾奈の耳に届いた。縋るような声。綾奈の心が軋んだ。 綾奈は苦痛に顔を歪める。そして絞り出すように 「忘れられないだけならまだマシなのよ・・・。」 「えっ?」 綾奈の答えに多華子は戸惑った。 「忘れられないだけならまだまし。いつか忘れられる日がくるから。でもそんなんじゃないの。私には・・・。」 「私には?」 綾奈はいっそここでこの胸の内にあるわだかまりを、泥を全部吐き出してしまおうかと思った。そうしたらどんなに楽になるだろう。10年の月日が経ってもいまだに家族にさえ言っていないこと。 ・・・だけど・・・。 それを言ってどうなるというのだろう。 綾奈は告白してしまい衝動を無理矢理ぐっと飲み込んだ。そしてただ一言 「私には幸せになる資格がないから。」 綾奈はこう言うのが精いっぱいだった。声が震えているのが自分にも分かった。 「お姉ちゃん、10年前に真二さんとなにがあったの?」 多華子は姉がなにか重大な秘密を抱えているのではないかと思えてきて不安げに尋ねた。 「他の人にとっては、なんだそんなことと思うようなことよ。でも私にとっては一生償っても償いきれないものなの。」 綾奈はもはや苦痛を隠そうともせずに顔を歪めながら答えた。 多華子はどうにも腑に落ちなくてなんとか聞き出そうと綾奈に縋るが 「ごめん、多華子。もうこれ以上は何も聞かないで。」 綾奈は一方的に会話のシャッターを閉じた。いきなり下ろされたこのシャッターをもう一度上げることは出来ない。綾奈の表情を見て多華子にはそれが理解できた。 今の綾奈はすべてを拒絶している。 「分かった。でもいつか話したくなったら話してね。」 多華子は一言そう言い残し部屋から立ち去った。その寂しげな後ろ姿を見た時に綾奈の胸は罪悪感でいっぱいになった。 「ごめんね、多華子。」 綾奈は妹の期待に応えてあげられない自分に嫌気がさして思わず写真立てを伏せた。変わらなければいけない、真二もきっとそう思っているだろう、それは分かっているのだ。でもそれならどうするべきなのか、それが分からないのだ。すべては自分の心がけ次第だというのに。
リリリリリ・・・ン。 目覚まし時計のベルが鳴った。朝の五時だ。目を覚ました綾奈は布団の中から手を伸ばしベルを止めた。カーテンの隙間から差し込む光は弱い。綾奈はおもむろにベッドから起き上りカーテンを開けた。 雨が降っている。昨夜遅くから降り始めた雨はいまだやまないみたいだ。通勤時間の雨はうっとおしいことこの上ないが幸いにも今日は休日だから関係ない。雨の日は少々気がめいることもあるが雨は雨でまた良いものだ。雨音という天然のオルゴールを聞いていると心が落ち着くこともある。 綾奈は室内着に着替え一階へと降りて行った。ちなみに綾奈は休日も平日と同じ時間に目覚ましを鳴らす。どうしてかというと休日だからといって遅くまで寝てだらだら過ごすのが嫌だからだ。
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