今日は朝から薄曇り。気温はより一層下がって寒さが身に染みる。裕也は担当医師と看護師にお礼を述べて病室を後にした。体調は良い、左腕の痺れもごくわずか。これならひとまず大丈夫だろうと安心する。タクシーはすでに病院の玄関前に到着していた。裕也はそれに乗った。 自宅の前の道に辿り着く。自分の家に帰るのは6日ぶりだ。裕也は久しぶりに自宅の玄関のドアを開けた。慣れ親しんでいる家の香りが懐かしい。 「ただいま。」 誰もいない部屋に入った。6日前に家を出た時のままだ。家を出る時に水を一杯飲んだからその時の空のコップが流し台にぽつんと置かれている。裕也はピアノの元に歩み寄る。使い古されたピアノは主人の留守中を一人で守り続けていた。 「ごめんな。」 裕也はそっとピアノを撫でた。心なしかピアノも微笑んでいる気がする。裕也は鞄から医師から渡された薬を取り出した。暫くはこれを飲まなければならない。でもまさか自分が脳梗塞になるなんて思いもしなかった。ある日突然、想像もしてなかったことが起こるのが人生だ。 それから裕也は自分の食生活に気を遣い、野菜を中心にした食事を摂るようになった。夜更かしもやめた。左腕の痺れは日を追うごとに薄れ今はもうほとんど感じない。 仕事にも復帰した。 綾奈の方もつつがなく仕事をこなし無事定時を迎え、おもむろに立ち上がった。 「お疲れ様でした。お先に失礼します。」 綾奈は挨拶をし、ロッカールームに行く準備を始めた。 「お疲れさま。」 米田が声を掛けてきた。綾奈は笑顔で「お疲れ様でした。」と会釈をし、その場から離れた。タイムカードを押し去っていく綾奈の後姿を見送った桜井が慌てて米田の所に来る。 「ねぇ、ここ最近の芹沢さんってちょっと明るくなったと思わない?」 「そうか?よく分からんけど。」 「分からないの?鈍感ね。芹沢さん明るくなったよ。」 そこへ品川もやってきて話の輪に加わる。 「それは私も思った。もしかして男出来たんじゃない?」 「男?芹沢さんに?そうか?」 「これだから男って鈍いのよね。」 品川が呆れたように言えば米田は少しムっとした。 「悪かったな、鈍くて。というか芹沢の交友関係に興味ねぇわ。」 「またそういう。米田って本当冷たい。」 「本当、米田ってそういうところあるよね。」 桜井が抗議をし、それに品川も同調して米田を責める。 「あー悪かったな、冷たくて。そんなことよりそろそろ帰ろうぜ。今日は残業ゼロデーだ。」 「そうね。」 桜井と品川はあっけなく米田の提案に乗り、次々とタイムカードを押した。 「ねぇ、今日は飲みに行く?」 桜井が早速飲みに誘った。 「賛成――!米田は?」 「あ?俺?今日はパス。観たいテレビがあるんでね。」 米田が断ったのを見て品川は内心がっかりしたがすぐに立ち直り 「じゃあ女子会だ!」 「よし行こう女子会〜。」 浮かれる品川と桜井の背中に米田は半ば呆れ気味に声を投げかける 「本当、お前らってどんな時も元気だよな。地球が明日終わるって日が来ても自分たちには関係ないって感じだな、感心するわ。」 米田の嫌味もお構いなしに桜井と品川は笑いながら居酒屋が立ち並ぶ繁華街へと消えて行った。
自宅に到着した綾奈は早速携帯電話を取り出した。裕也の体調を聞くためだ。裕也が退院してから電話を掛け体調を聞くのが日課だ。多華子は電話を手にした綾奈をいち早く見つけた。 「あ、お姉ちゃんお帰り〜。」 「ただいま。あれ、今日は帰り早かったのね。」 多華子の方がいつも帰宅が遅いので今日は珍しい。 「うん。会社から今日は残業するなと言われた。」 「そう・・・どこも同じね・・・。それはともかく。」 綾奈は会話を続けながらも電話をかけることに気を取られている。 「そういえばタカッチと今日会社でばったり会ったよ。」 裕也の名前を耳にした綾奈の興味は多華子へと瞬間移動した。 「どうだった?体調良さそうだった!?」 「大丈夫みたい。前と全然変わらない。僕は大丈夫だとお姉ちゃんに伝えてくれと言われたよ。」 「あ、そうなの?良かった。」 綾奈は心底ほっとしたようだ。 「でもお姉ちゃんは心配だよね?タカッチは一人暮らしだし。」 多華子は意味ありげにニヤリと笑いながら言った。 「そうね・・・。」 綾奈はしみじみと答えた。確かにいくら軽度の脳梗塞だったとはいえ家に一人でいさせるのは不安だった。 「今度の土曜に様子を見に行く約束はしているわ。」 「そういうことじゃなくて・・・。お姉ちゃん、タカッチと一緒に暮らしたら?」 「そうね・・・って、えっ!?」 一瞬同意しかけたが慌てて聞き返した。 「それって同棲しろということ!?」 「なにもそんなに驚くことはないじゃないの。真二さんとも昔同棲していたんだし。」 「それはそうだけど・・・。」 綾奈は顔を赤らめた。裕也と同棲・・・。想像すると恥ずかしくなってくる。 「そんな顔を赤らめるような歳でもないでしょ。生娘でもあるまいし。」 「うるさいわねー。余計なお世話よ。」 まったく多華子は一言多い。でも多華子のこの遠慮のなさが綾奈には救いだ。 綾奈と裕也の付き合いが続いていると知った時の芹沢家といったらもうお祭り騒ぎだ。一度は諦めていたから喜びはひとしおだ。てっきり裕也とは別れたと思い込んでいたところへ綾奈が裕也を家に連れてきたから父も母も多華子も腰を抜かすぐらい驚いた。 「お・・・お・・・お姉ちゃん?」 「綾奈!本当か!?」 「夢じゃないわよね??」 家族全員が目を丸くしていた。次の瞬間に湧き上がる喜び。その後の芹沢家のお祝いムードは想像に難くない。綾奈はその時のことを思い出す度笑みがこぼれる。 しかしすぐに多華子も父も母も喜びを露わにすることを控えた。もちろんとても嬉しい、だがありあまる喜びを前面に押し出すと綾奈にとってプレッシャーになると反省したのだ。家族は静かに見守ることにした。 綾奈は裕也に電話をした。昨日と変わらず元気だ。そのことに例えようのない安堵感を覚える。
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