扇風機が明後日の方向を見て羽を回している。 綾奈の部屋にはクーラーがないから辺りの気温は夏の思いのままだ。 うだるような暑さの中、綾奈は扇風機を自分の方向に向けようとは思わなかった。そんな気力がなかったからだ。 ただひたすらあの日のことを思い出していた。 2003年のあの日を境に綾奈の人生は全く別の物になってしまった。あの日より前の自分と、あの日からの自分。あの日からの自分には後悔と罪悪感しかなかった。 綾奈にはどうしても忘れられない言葉がある。 「あれ、どうしたんだろう。」 昔愛した人の言葉だった。
2013年夏。芹沢綾奈は34歳の誕生日を迎えたこの日、いつものように会社にいた。小さな商社に勤めている。この会社に来てもう5年だ。ここに親しい友人はいない。業務上の事務的なやりとりだけが午前8時半から午後5時までの綾奈のすべてだった。 綾奈は給湯室に向かった。喉が渇いたからだ。あと少しで給湯室という時、中から声が聞こえてきた。同僚の声だ。 「ねえ、どうする?今夜の飲み会、やっぱり芹沢さん誘う?」 「えー誘わないでいいよ。どうせ誘ったって来やしないんだから。」 これは桜井と品川の声だ。するとそれに続くように男性の米田の声も聞こえてきた。 「そうだよな。今まで何回か誘ったけど全部断られたじゃん。誘ったって来ないさ。」 「そうよね。なんかさぁ、芹沢さんって私たちとの間に壁を作っているよね。勝手に入ってこないでください!みたいな。」 「あぁあるある。他人を寄せ付けない雰囲気だよね。」 「それ分かるな。別にお高くとまっているわけじゃないんだけどとっつきにくいよな。せっかくの美人なのに。」 「あー。米田君って芹沢さんみたいのが好みなんだ?」 桜井のからかうような声が聞こえてくる。すると米田は焦ったように 「違うよ!俺はあういう暗い女は好きじゃない。もっとこう、きゃきゃ明るい子がいいよ。」 「あ、もしかして私みたいな?」 「ありえん。」 品川の陽気なアピールに米田は即答した。 「あ、ひど〜い。」 ひど〜い。と言いながらその口調は実に楽しそうで会話は弾んでいるようだった。 綾奈は壁越しにそれを聞いて小さくため息をついた。給湯室に入りにくくなったなぁ・・・。 気まずくなった綾奈は仕方なしに自分のデスクに戻った。例え自分の居場所に戻っても心ここにあらずのまま時間だけが過ぎていく。そしていつものように時計の針は17時を指した。 「お先に失礼します。」 綾奈は挨拶をしてタイムカードを押した。足早に会社を出る。 軽自動車のハンドルを握り帰り道を辿った。車の運転は好きだった。余計なことを何にも考えないで運転に集中できる。 自宅に到着。築二十年の一戸建てだ。綾奈はここで家族4人で暮らしている。父親は電気技師、母は近くのスーパーマーケットでパートをしている。綾奈には妹もいて名前は多華子という。綾奈とは7歳離れている。近所でも仲が良い姉妹と評判で綾奈もそれを自負している。 綾奈は以前は一人暮らししていたが5年前にこの実家に戻ってきた。転職した今の会社に通勤するのに都合が良かったからだ。 『芹沢』流暢に書かれた表札を抜け、こじんまりした小さな庭を通り玄関のドアを開けた。 「ただいま。」 「おかえりー。」 すぐに家族の声が返ってくる。なんでもないことだけどなんだかほっとする瞬間だ。 綾奈は上着を脱ぎながら居間に入った。父親と母親と多華子がいた。三人は綾奈の顔を見てニヤニヤしている。それがちょっと不気味に思えた綾奈は 「何よ。私の顔になにかついている?」 「そうじゃないのよ。実はね。」 母親は待ってましたとばかりにテーブルの上にあった写真を綾奈に見せてきた。 「なにこの人?」 綾奈は見覚えのない男性の写真をまじまじと眺めた。正直あまり冴えない感じのルックスだ。 「実はね、母さんが勤めているスーパーの常連のお客さんの息子さんが40歳になるんだけど独身でね、お嫁さんを探しているのよ。奥手でなかなか女の人に声をかけられないんだって。でも誠実そうな良い人なのよ。女慣れしていないから浮気の心配もないだろうし。」 「それって・・・。」 「ちょっと会ってみない?」 母が意気揚々と話す。綾奈は呆れた。 「会わない。そういうの興味ないから。」 「綾奈!」 「その話は終わり。相手には悪いけど断って。」 綾奈は取りつく島もない。きっぱり言い切って台所に向かった。水をごくごくと飲み干す。それを見ていた父と母は目を合わせて肩をすぼめた。 「綾奈。」 今度は父親の番が来たらしい。 「父さんも母さんもいつまでも生きているわけではない。そろそろ孫の顔をみせてくれないか。」 綾奈の胸がチクッと痛んだ。父と母の願いは痛い程分かっている。孫の顔を見せたいのは綾奈だって同じだ。それでも・・・。 「ごめん・・・。」 綾奈は一言謝って逃げるように自分の部屋へと続く階段を駆け上がった。 居間に残された父と母は小さくため息をつく。 「あの子ったらまだ真二さんのことを忘れられないのね。」 「真二君が亡くなってからもう10年か・・・。綾奈にとってはまだ10年なんだろう。」 多華子もなんとも寂しい気持ちになって姉のいる部屋の方を見上げた。 「お姉ちゃん、この先も一生独りで生きていくつもりなのかな。」 多華子がぼそっと呟いた。 「あの子には幸せになって欲しいんだけどねぇ。人生は上手くいかないわね。」 母親も悲しげに言った。家族全員の気持ちがどんよりと暗く沈んでいく。 「多華子、お前は早くお婿さん見つけろよ。ダンプに轢かれても死なないような頑丈な奴をな。」 父が気持ちを取り直して今度は多華子に注文をつけてきた。多華子はやぶへびやぶへびと言わんばかりに 「ダンプに轢かれてもも死なないってどんな人間よ。アメコミに出てくるような人?」 多華子が言い返せば父親は首をかしげ 「母さん、アメコミってなんだ?」 「さぁ、三つ編みの今風な言い方なんじゃないの?」 それは編み込み!多華子は心の中でツッコんだ。父と母はまだアメコミとはなんぞやという談義を交わしている。 そんな二人の様子を見て多華子はぷっと吹いた。 「ちょっとお姉ちゃんの様子見てくる。」 多華子はそういうと階段を昇って行った。 一方、綾奈はというと自分の部屋に入った途端、それまで張り詰めていた気持ちが一気に崩壊した。ベッドの上になだれ込むようにして崩れる。枕に顔を押し当てながら声を潜めて泣いた。 会社では付き合いの悪い人と言われ、家族には過去のことで心配をかけ、自分でもどうしていいか分からなかった。 忘れろと言われても忘れられるわけないのだ。前向きに生きろと言われてもどうしていいのか分からない。途方に暮れる心。虚ろな目で机の上に目をやれば目に入る写真立て。 「真二・・・。」 綾奈はむくりと起き上って写真に手を伸ばした。この写真は真二とディズニーランドに行った時の写真だ。楽しそうな、幸せそうな満面の笑顔の二人。何年も色あせない笑顔がそこにはあった。 思えば真二と過ごした日々は幸せと驚きの連続だった。真二と初めて会ったのは高校二年生の春。通学路で偶然落としたバスの定期を拾って呼び止めてくれたのが真二だった。お互い一目ぼれだったのかもしれない。二人が仲良くなるのに時間はかからなかった。二人とも若かったし、当時は夢見る少女で偶然の出会いに運命的なものを感じていた。 恋に恋する、なんともつかみどころがないふわりとしたものが本物の確かな愛に変わったのは結婚を意識し始めた頃からだった。 大学を卒業した日に真二からプロポーズを受けた。今の時代、二十台前半で結婚を意識するのは早いと思われがちだが二人には関係なかった。それだけお互いがお互いの人生に短期間で深く食い込んでいったのだ。 真二のささいな表情の波の上、小舟に乗った綾奈はくるくると翻弄される日々。真二が笑えば綾奈も笑い、真二が泣けば綾奈も泣いた。就職したてで何もかも上手くいかない真二が自己嫌悪で嵐のように荒れれば、荒れると言っても暴力をふるうということは一切なかったが、綾奈も共に大きく揺れた。揺れながら必死で真二を励ました。真二もそんな綾奈の姿を見て共に人生を歩んでいくのは綾奈しかいないと思ったのであろう。 綾奈もまた同じだった。綾奈も慣れない社会人生活に四苦八苦した。あがいてもがいて。そんな時にいつも綾奈の傍にいて支え続けたのは真二だった。結婚を意識するのに時間はかからなかった。 入籍する日を二人で決め、結婚式場も予約して、ウエディングドレスまで仕立てて、さぁ、これから二人の新たな人生が始まるという時に・・・。 「真二・・・。」 胸を掻きむしりたくなるような衝動に駆られ綾奈は思わずうずくまった。 その時だ。 トントン。 部屋のドアを叩く音がした。 「お姉ちゃん、ちょっといい?」 多華子だった。 「どうぞ。」 綾奈はなんの感情も込めずに中へ入るように促した。 多華子が中に入る。綾奈は多華子の方を見ようともせず、真二の写真を見つめている。そんな綾奈を見て多華子は胸を痛めた。そして迷った。言おうとしていることを言わずにここは立ち去るべきか・・・。しかし多華子は思い直した。ここで言わなかったら誰が言う。家族だからこそ憎まれ役をかってでも綾奈を立ち直らせるべきだと。
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