「アルク・・・。」 ティアの心細い声がドアの向こうから聞こえてくる。アルクは今すぐドアを開けて思いっきりティアを抱きしめたい衝動に駆られた。 しかしそれをぐっとこらえる。今さらどんな顔してティアに向き合えばいいのか分からないからだ。アルクは自己嫌悪に陥っていた。 「俺はなぜあんな馬鹿なことを・・・。」 頭を抱えながら後悔している。自分だけのものにしたくてあんなに強引にティアの唇を奪ってみた。 それでもティアの心は手に入らない。それどころかティアを困らせることしか出来なかった。自分を突き放した時のティアの辛そうな顔が脳裏から離れない。 「結局俺の独りよがりだったわけか・・・。」 自嘲気味に呟いた。 5年間一つ屋根の下に暮らし、常に一緒にいた。でもそれは恋人同士ではなくあくまでも魔術師と騎士として行動を共にしていただけだと思い知らされた。 ティアは一個人の幸せよりもたくさんの人々の為に生きようとしている。何がそこまでティアを突き動かすのかは分からないがティアが決して手放そうとしない使命の前では自分はあまりにちっぽけな存在なのだと今更ながら思い知った。 愛し合って両性体でなくなったら魔力を失うと思い込んで恋愛をすることさえ拒むティア。そこにはアルクも立ち入れない聖域なのだ。 ティアはあまりに清廉潔白でとても強固な意志を持つ。そんなティアのことを疎ましく思いいっそ無理やり汚してしてしまおうと思いさっきのような無謀な行動に出た。 だがそれは浅はかなことだったと猛烈に反省している。ティアの尊厳を踏みにじり己の欲望を満たしたいがためにあのようなことをした。これではティアの魂も汚しているのと同じだ。きっとティアの傍にいればこれからもこんなことをしてしまうだろう。 ティアを欲しがる気持ちは自分では止められないのだ。 もうこれ以上ティアの傍にはいられないと思った。いる資格がないと思った。 「もうティアを傷つけたくない。」 アルクは決心した。
そのまま夜が更けていき容赦なく朝日が地平線から上る。ティアは泣き疲れてテーブルに突っ伏したまま朝を迎えた。 そこにアルクがやって来た。アルクもまた一睡も出来ずにいたらしく瞼を腫らしている。ティアはアルクが来たことに気づいて顔を上げた。 「アルク・・・。」 しかしアルクは沈痛な面持ちでティアを見つめているだけ。ティアの心に不安が沸き上がる。これからアルクが口にしようとしている言葉が怖くて耳を塞ぎたい気持ちになった。 「ティア、俺はソダムに行くことにしたよ。」 ティアは衝撃を受けて顔をこわばらせた。でも「行かないで」とも「そばにいて欲しい」とも言い出せない。自分には使命がある。何よりもアルクにはアルクの人生がある。ここに縛り付けてアルクを飛べない鳥にするわけにはいかないのだ。 ティアはズキズキと痛む心を必死で宥めながら声を震わせ 「そう・・・。」 その一言を言うのが精いっぱいだった。 アルクはこれで一縷の望みも絶たれたという絶望を感じたがそれでかえって吹っ切れた。 踵を返し自分の部屋に戻った。荷造りをする為だ。アルクの背中を見守るティアの視界が涙で滲んだ。 太陽はすっかり空に昇り白い雲が輝いている。鳥は大空を自由に行きかい、風は自由気ままに吹いていく。何もかもが清々しく美しい風景。この世界に悲しみというものなんて存在しないのではないかという錯覚に陥るほどだ。 しかしこの世界には確かに悲しみは存在する。 時計の針は留まることもなく刻み続け、半日が過ぎて行った。 パタン・・・。 アルクのカバンの蓋が閉まる音だ。ティアはその音を耳にした瞬間胸を抉られた。 行かないで!! 喉元まで込みあがって来た言葉。それをティアは必死で飲み込む。 「じゃあ、行くよ。ティア、元気でな。」 アルクは言葉少なに別れの挨拶をする。その瞳には涙はない。もうすべてを諦めたのだろう。ティアにはアルクを引き留める術がなかった。 「・・・アルクも元気でね・・・。」 精一杯の笑顔を作りアルクを見送ろうとするがどうにもぎこちない。アルクは最後に何か言いたそうにしたがやめた。 アルクは鞄と魔剣を持つと玄関に向かった。5年間一緒に暮らしたこの家ともおさらばだ。もう二度とここに帰ってくることはないだろう。そう思うと胸が張り裂けそうになったが行くしかない。アルクは一度もティアを振り返らずに家から去って行った。玄関の扉が閉まった瞬間、ティアはその場に崩れ落ち、次の朝まで泣き続けた。
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