私はなんともいえない居心地の悪さを感じた。一刻も早くこの場から離れたいと思った。 もう少し海に癒されていたかったけどこの男性と二人きりでこのまま過ごすことに少なからず不安を感じていた。 「もうそろそろ行かないと。」 私は時計を見ながら帰る時間だという芝居を打った。男性は別段引き留めもせず柔和な笑顔で「そう。」と頷いただけだ。 その執着心のなさ、優しげな笑みでこっちがかえって拍子抜けするぐらいだ。いや何かを期待していたわけではなく、男性の思惑が雲をつかむようにあやふやな感じだ。 しかしそのことにいつまでも囚われているわけにもいかない。私は男性に軽く会釈をしその場から立ち去ることにした。 来た道を引き返すだけの単純作業だがその実、焦っていた。砂浜に足を取られ思うように前に進めない。だがやはり浜辺に一人でいるであろう男性のことが気に掛かった。 あの人一体なんだったんだろう・・・。 どうしようもなく気にかかったがあくまで自然な呈を装って振り返ってみた。 「えっ・・・」 男性はいない。誰もいないのだ。 さきほどまで喋っていた場所に誰もいない。私がその場を去ってから振り返るまでに二、三分ぐらいしか経っていないのにそこには誰もいない。ご存知の通り、浜辺はだだっ広い上にこの上なく見通しもいい。誰かが走っていたり歩いていたりしたら必ずそれが見えるはずだ。 それになのに男性の姿はなく、例の家族づれがもっと遠くに見えるだけ。 まさか幽霊・・・?気になるあの言葉といい、煙のように消えた姿といい。私は呆気にとられてその場に立ち止まった。もしかして幽霊としゃべったの? いやいや幽霊と喋るなんてありえない。 幽霊にしては会話はちゃんと成り立っていたし言葉もはっきりしていた。質感も生きている人間そのものでとてもイメージで聞く幽霊には思えない。 なんとも不思議な出来事に出会ったのにその時の私は自分でも不思議なくらいに落ち着いていた。 振り返った時に男性がいないのを知った時は確かにぞっとした。でもそれだけだった。なぜなら理解出来ない不思議なことってもっと怖いものだと思っていた。理解出来ないことはもっと震え上がるほどものだと思っていた。 しかし実際目の前にしたのは運、不運をありのままに受け入れ、誰かを恨んだりするでもなく。 まるでよその誰かの身の上に起こったものを俯瞰からみているかのような眼差し。 すべてを覚悟して時の行くまま身を任せているかのような川の流れに似たその姿。 私はその男性の潔い表情と言葉を心に焼き付けたまま再び電車を乗り継いでようやく家路についた。
あれから10年以上経ったけれども今でも確信が持てない。あれは幽霊だったのかそれとも生きている人間が冗談で「この海で死んだ。」と言ってみただけなのか あるいはただの私の聞き間違いで死んだのは俺ではく知り合いか誰かだったのか。 そして振り返った時にすでにその人はいなかったのもただの見間違いか、その人が恐ろしく駆け足が早いだけだったのか、今でもその謎は解けない。 何度思い起こしてみたも単なる私の聞き間違いだったのか実際にあの人が言ったことなのかあやふやなままだけど もし仮にあの人がこの世の人でなかったとしたらあの時あの人が見せた「死をありのままに受け入れること。」の偉大さは忘れてはならないと思う。 誰を恨むでもなく、何かを悔やむでもなく、川の流れに逆らうでもなく 遠い空からこの世で精いっぱいに生きている人をただ静かに見守っている、そんな優しき存在であれたら。
うーん、でもやっぱり私の聞き間違いかもしれないな・・・。
おわり
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