あれは私が30代に入ってまもなくの頃だった。 その頃の私と言えば生きる事への絶望と思い通りにならない日々を嘆き悲しむばかりで人生において一番辛い時だった。 そんなある日、たまらなく海を見に行きたくなった。昔の有名な歌にもあったように人は悲しくなると海を見つめにいきたくなるものだ。波の音、潮の香り、手を伸ばせば届きそうで、でも絶対に届かない水平線、そのどれもが人の心を慰める。 まだ夏を迎え入れる準備も始めていない3月。私は電車を乗り継いで一人で海に出掛けた。 平日の昼間ということもあり浜辺にはほとんど人影はなかった。遠くに白いラブラドールを散歩させにきたであろう家族連れが一組いるだけだ。 私はざくざくと砂浜を踏み鳴らし波打ち際へと吸い寄せられるように向かった。波しぶきが潮風に乗って舞い、意図してかしないでか私の頬にかかる。潮の香りがこの身に染みこんできて胸中のわだかまりを溶かしてくれる。 波音は私の嗚咽を隠してくれた。私にとってこの海はありがたかった。 しばらく浜辺に立ちすくみ海の子守唄に身を委ねている内に沈んでいた私が嘘のようにどんどん浮上していく。癒されることの喜びを体中に充填していたその時だ。 「海を見に来たんですか?」 それはあまりに突然だった。なんの前触れもなくすぐそばで声がしたのだ。男の人の声だ。 私はとてもびっくりして思わず声のする方に振り返った。 男性が一人、すぐそばに立っていたのだ。 私はかなり焦った。焦ったというより恐怖を感じた。だってなんの気配もなくいきなり降ってわいたように人がすぐ隣にいるなんて・・・。 私はあまりに突然のことに戦きながらも相手に動揺しているところを悟られてはいけないと思い、平静さを保ちながら 「はい。」と一言答えた。 その男性はやせ形の体躯で背はそんなに高くなく私より少し大きいくらい。くせ毛のある黒髪で年は40代後半から50代半ばといったところだ。 なぜそんな細かいところまでいまだに覚えているかというと、その後の出来事があまりに印象的だったからだ。
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